藍空追走

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 窓枠に切り取られた濃い藍色の夜空には、いくつかの明るい光点を従えた月が浮かんでいた。何ムーンだったか忘れてしまったけれど、まん丸の満月だ。その満月を背に、見知らぬ男が一人佇んでいる。  私は慌てて、ドア付近にある照明のスイッチに手をのばした。カチ、という感触の直後に、天井のシーリングライトが満月よりも耿々と輝く。 「あ……あな、た……」  立っていたのはやはり全く見知らぬ男だった。背は高く細身で黒髪、上は黒いシャツ、下は黒いパンツ、革靴まで黒くて、陰気な殺し屋みたいだ。雑に伸ばしっぱなしの、ボサボサとしか言えないようなもっさりした髪型が、さらに陰気さを極立てる。何せ前髪が長くて顔がよく見えないのだ。こちらを向いているから、見られているとわかるのだけれど。 「だ、誰……?」  男は答えず、そのまま自身の足元に視線を落としたようだった。 「拓己くん……?」  男の足元で仰向けに横たわっているのは私の恋人。黒い男か、その向こうの天井を見上げているようにも見える彼は、自身から溢れた赤黒い液体に塗れていた。天井の光が目を突き刺しただろうに、瞬きひとつしない。身じろぎひとつしない。吐息のひとつも、こぼさない。誰が見てもきっと一目でわかるだろう。死んでいる。 「どうして……」  ついさっきまで、私は拓己くんとこの部屋で一緒にいたのだ。  拓己くんとは付き合い始めて一年になる。相原拓己くん。私よりふたつ年上の公務員で、超が付くほどのお人好しだ。一年前――今と同じ夏の終わり頃、路上で困っていたおばあさんを助けている拓己くんを見かけた。私は一目で恋に落ちた。二十四年の人生で、三度目の恋だった。  自分でも押しが強い自覚はある。猛アピールの末、私は彼の押しかけ彼女になった。  そんな私にも拓己くんは優しかった。彼を知る人が百人いれば百人全員、彼を善人だと言うだろう。もちろん私もそのうちの一人になる自信がある。今までの人生で一番大好きな人だ。  その拓己くんが今、見知らぬ黒い男の足元で絶命している。  私が浴室へ立ったほんの二十分ほどの間に、この黒い男は私と拓己くんを引き裂いたのだ。 「…………」 「こ、来ないで」  黒い男が、無言でこちらに一歩踏み出した。拓己くんと血だまりを避けて、革靴がごつんとフローリングを鳴らす。 ごつん、ごつん。 ゆっくりと近づいてくる音に合わせて、私もぺた、ぺた、と後ずさった。 この男に近づいたら危険だ。 うろうろと泳ぐわたしの目と、横たわる拓己くんの目が合った。背すじをゾクゾクと何かが駆け上がっていく。 気付いたら、私はくるりと体を翻して、転げるように部屋を逃げ出したのだった。 ぬるい風が吹いていった。夏も終わりに近づいて、いくらか涼しくなっているはずなのに、絶賛汗が吹き出し中の私には、あまり涼しさを感じられない。 すれ違ったスーツ姿の男性が、不審なものを見るような目つきで私を見ていた。それも仕方ないかもしれない。着ているのは上下とも部屋着、それも拓己くんから借りた大きめのTシャツとハーフパンツなのに、履いているのはヒールの高いサンダルという出で立ちの女が、汗だくで歩いているのだから。 かろうじて、玄関に出しっぱなしだった自分のサンダルを持って出てきたけれど、それ以外はスマートフォンすら持っていない。 部屋から――あの黒い男から逃げ出したのはいいものの、私は荷物の一切をあの部屋に置いてきてしまった。 「追いかけてきて……ない、よね?」  私の問いに答えてくれる人は誰もいなかったけれど、振り返ってもさっきすれ違ったスーツの男性しか人影はない。それでも、突然暗闇から黒い手が伸びてきそうで、私は街灯で浮かび上がった夜道を足早に歩いた。立ち止まったら終わりのような、そんな焦燥感に追いかけられていた。 「家に帰って……あ、鍵がない」  心臓の音がうるさくて、考えが纏まらない。 「えっと、えっと……」  コツコツと響いて反響するヒールの音が、焦りを余計に募らせる。 「そうだ……警察……」 こんな大事なことになぜすぐ思い至らなかったのか、と自分の頬を軽く張る。気を取り直して、最寄りの交番がどこだったか、深呼吸しながら記憶を手繰った。 「うそ」  思わず出てしまった声を押し戻すように、両手で自分の口を覆った。住宅街の只中、赤色灯がきらめく建物のすぐ脇。夜の闇に溶け込むように、あの男が立っている。  たしかに、途中ちょっと道を間違えたりしたけれど、まさか追い越されていたなんて。そして何より―― 「私を……追いかけて来てる、の……?」  まさか、そんな、でも、やっぱり。  きっとあの男は私を追ってきている。 「なんで私が」  大好きな恋人と一緒にいただけなのに。  部屋を逃げ出すときに見た拓己くんは、私の目と脳に焼き付いている。じわりと熱くなった目をぎゅっと瞑って、ぶんぶんと頭を振った。  履いていたサンダルを脱ぎ、姿勢を低くしてそっとその場を離れる。 「絶対に捕まるもんか」  記憶の中の拓己くんが、『美樹ならやれるよ』って笑ってくれた気がした。  足が痛かった。サンダルを脱いで裸足でしばらく歩いたけれど、舗装されたアルファルトにも小石は意外と転がっていた。暗い中何度も小石を踏んづけて、仕方ないからサンダルを履いた。音が気になってヒールを折れるか試してみたけれど、意外と頑丈で手が痛くなっただけだった。 「どうにかして家に帰ろう。タクシーつかまえて、家に帰ったら払えるって言えば、乗せてくれるかも」  管理人室に行けばマスターキーがあるはずだ。きっとうまくいく。いざとなったら泣き落とせばいい。  ところが、私の意気込みを笑い飛ばすかのように、タクシーはあっさりとつかまった。 「すみません、家の前で待っていただければ必ずお支払いしますので」 「いいよいいよ。そんなナリの美人さんをほっとくわけにもいかないでしょう」 「あ、ありがとうございます」  ルームミラー越しにちらりとこちらを見た運転手のおじさんに、軽く会釈する。おじさんの中でどんなストーリーが組みあがったのか、私を見る目は同情的だった。  タクシーの中ならば、黒い男に遭遇することはない。そう思うと、体からふっと力が抜けた。あんなに暑くて汗が噴き出していたのに、いつの間にか指先が冷たくなっていた。  あの黒い男は、何者なのだろう。  車に揺られ急激に押し寄せてきた疲労感をおいやるべく、私はゆっくりと目を閉じた。今日の出来事が、あの黒い男が、ただの夢だったら良かったのに。「着いたら起こしますから」と言ったおじさんの声が、どこか遠くで鳴るラジオのようだった。 「お客さん、着きましたよ。この辺で大丈夫ですか?」 「っ!?」  一瞬うとうとしただけだと思ったのに、運転手さんの声につられて外を見ると、確かに私の住むマンション近くだった。 「あ……えと、もう一つ先の角を右に」 「はいはい」  寝ぼけながらも道順を伝えると、おじさんはそのとおりにタクシーを走らせる。メーターは夜間の割増もあって、映画三本分くらいの料金になっていた。 「あっ!?」 「な、なんだい? どうした?」  私の声に驚いて、おじさんはゆっくりとタクシーを停めた。急ブレーキじゃなかったのは、さすがプロといったところだろうか。  マンションのエントランスが見えてきた時、私は信じられないものを目にしてしまった。  あの黒い男だった。  一体どうやって先回りするというのだろう。私はタクシーで移動してきたのに。それに私の自宅だって。 「そうか、私の荷物……」  拓己くんの家にまるごと忘れてきてしまった私の荷物には、財布が入っているし、その中には免許証や保険証だって入っている。自宅住所を知るのはわけないだろう。そしてあの男が私を追ってきているのは、これで確実になった。 「運転手さん、あそこにいる黒い服の男、私あの男に追われてるんです」 「なんだって? そりゃまた物騒な……」 「それですみません、このままじゃ家に入れないので――」  あの男に対する恐怖はあるけれど、絶対に捕まらないと決めたのだ。脳裏に焼き付いた拓己くんの姿を思い浮かべ、私は拳を握りしめた。  そうっとドアの取っ手を引くと、鍵は掛かっていなかった。ガチャ、と開いたところに静かに体を滑り込ませる。深夜のマンションはひっそりと寝静まっていて、どんな小さな音もマンション中に目覚ましのように響きそうだった。  持っていたサンダルを玄関に置き、玄関脇に備えたスリッパを履く。普段はあまり気にしないのだけれど、さんざん小石を踏んだせいで足の裏に血が滲んでいた。床を汚したくなかった。スリッパは別に捨てればいい。  玄関を入って、すぐ左手の引き戸を開けると浴室がある。一瞬どうしようか迷ったけれど、まずは一番大事なことを確認したかった。  まっすぐ進んでリビングのドアを開けると、窓からの月明かりが仄かに室内を照らしていた。 「ごめんね拓己くん、一人にして。寂しかったでしょう?」  数時間前と同じく、拓己くんは床に横たわっていた。床を濡らしていた血は、乾いてすっかり黒ずんでいる。 「冷たい……」  拓己くんの顔の脇に膝をつき、頬に触れると、ひんやりと冷たくて固かった。ゴムのようになった頬を撫で、虚ろに天井を見上げる目を覗きこむ。私は自分の頬が緩むのを、抑えることが出来なかった。  月明かりで浮かび上がった拓己くんは、今まで見てきた中で一番キレイで素敵だった。  私と拓己くん、二人だけの時間を邪魔された時は、どうしようかと思ったけれど。  今ごろ、あの黒い男は私のマンションで待ち伏せしていることだろう。 「もう少しだけ待っててね、拓己くん。いろいろと片づけをしてくるから」  浴室には、拓己くんの血が付いた私の服が脱ぎ捨てられたままだ。素足で歩いていたから、床もきれいに拭かなくては。  一人目は、川に沈んでしまったせいでキレイに残せなかった。  二人目は、車の速度がありすぎてキレイに残せなかった。  三人目の拓己くんは、こんなにキレイ。  薄く開いた彼の唇に自分の唇を軽く押し当て、立ち上がると、カチッという音と同時に室内が真っ白になった。 「犯人は現場に戻るって、本当だったんだ」  リビングの入り口を、黒い男がふさいでいる。初めて聞いた黒い男の声は、中低音くらいの耳に心地いい声だった。こんな時でなければ、だけど。 「そんな……どうして……」  私のマンションにいたはずなのに。玄関から物音ひとつしなかったはずなのに。  革靴を履いた男の足音なんて、絶対にしなかったのに。 「拓己は僕の大事な友達だったんだ」  長い前髪の奥に、夜空のような濃い藍色の目が悲しそうに揺れていた。男の背後から、何人もの警官が私と拓己くんを引き裂きにやってくる。 「せっかく! 今回はキレイにできたと思ったのに! どうして邪魔するのよぉぉおお!!」  いつの間にか、藍色の目をした黒い男の姿は見えなくなっていた。
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