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第三章
遠ざかっていく港。深い紺色の海にうねる白い波。篝は深く息を吸った。
鼻孔を掠める潮の匂いを孕んだ風が新鮮だ。口の中が少しだけしょっぱい。でも船内よりもデッキの方が心地いい。
「海はいいね。心が穏やかになる気がするんだ」
「真澄でも、心が穏やかじゃない時があるんだな」
「僕はこう見えて、心中穏やかじゃないことが多いんだよ」
「そうなのか?いつも凪いだ海みたいに見えるが」
「それは篝と居るからだよ。中学一年の夏、篝が突然いなくなってしまった時は、本当に寂しかった。あの時は二度と会えなくなるかもと絶望した。でも、再会できて嬉しいよ」
真澄が自分の気持ちを話すなんて珍しい。
篝はじっと真澄のハニーフェイスを観察する。いつもの穏やかな顔に、僅かに興奮が滲んでいた。旅行先だからハイになっているのかもしれない。
欄干に置いた手に、真澄のひんやりした手が重なる。少し驚いたが、振り払わず真澄の好きにさせた。
「なにイチャついてんだよ、イケメンズ」
飄々とした笑みを浮かべて佐助が二人の間に突撃する。勢いよく肩を組まれて、篝は顔を顰めた。
「危ないだろう、佐助」
「ワリーワリー。二人が俺を放置するから、寂しかったんだよ」
「寂しいなんて可笑しなことを言うんだね。彼女をゲットするんだって、君が自分から女の子のところに行ったんじゃないか」
「そうだったな。でもめんどいし、やめた。それに、うちのクラスはカワイイ子は多いけど、俺はビューティ派なんだよ。そんで美しさなら、篝に並ぶヤツはいねーな」
唇の端を吊り上げた佐助を、篝は呆れた顔で見る。
「ふられた言い訳に俺を使うな」
「ふられてねーよ、マジでナンパしなかったんだって。俺、篝と居る方がいいわ」
真澄の目がすっと細くなった。
「佐助は冗談ばかり言うんだね」
「冗談じゃねーって言ったら?」
「冗談だよ、僕にはわかる」
真澄の薄茶色の瞳がじっと佐助を見る。佐助の黒曜石のような瞳が彼を見返し、二人の間にただならぬ空気が流れる。
時々、真澄と佐助は妙な雰囲気になる。喧嘩ではないが、互いに腹の底を探り合っているように見える。二人は相性があまり良くないのだろうか。
無言で見つめ合う二人に、篝は小さく眉根を寄せた。
「オマエら何やってんだ?篝の取り合いか?」
緊張感のない声に、佐助と真澄が振り返る。
半袖のポロシャツに黒いジャージのズボンと、いつもより更にラフな服装の鷹代が笑いながらこちらを見ていた。
「取り合いだなんて、なにを馬鹿なことを言っているんですか」
真澄が冷たい顔で素っ気なく答えるが、鷹代は笑っていた。
「鷹セン、いつも以上にだらしねー服装じゃん。ただの近所のおっさんみてーだな」
「おっさん言うな、伏見。まだ二十五だぞ」
佐助の頭に鷹代がゲンコツを落とす。だが、佐助は素早く拳を躱した。
「当たっとけよ、かわいくねーな」
「すんませんね。でも、これ以上バカになると困るんで」
「馬鹿って自覚があるならもっと勉強しろよ、赤点小僧」
「大丈夫、落第しないように篝が勉強教えてくれるし。なあ、篝」
「泣きついてくるから教えざるを得ないんだろう。俺も、お前はもう少し真面目に授業を受けた方がいいと思うぞ」
「おっ、いいこと言うなー篝。さすが優等生」
鷹代の手が無遠慮に篝の金髪を掻き混ぜる。篝はくすぐったさに目を細めた。
不意に昨日のことを思い出して、頬が熱くなる。
昨日、日曜日で迷惑だろうかと思いながらも篝は鷹代のアパートを訪れた。
駅から歩いている途中で突然雨が降りはじめ、彼のアパートに着く頃には全身濡れ鼠だった。
さすがにこんな格好で部屋に上げてもらうわけにはいかない。
部屋の前まで来たものの、数分悩んだ末に帰ろうと踵を返した篝を、来訪に気付いた鷹代が強引に部屋に招いた。
鷹代は合宿前に風邪を引いたらいけないと、風呂と着替えを貸してくれた。
それ以外は、いつもと変わらない日だった。だけど、その二点が彼の琴線を震わせる要因になったらしい。
鷹代は突然、篝の細い手首を掴んで胸の中に引き寄せた。そして、キスをした。篝にとってはファーストキスだった。
呆然とする篝に鷹代は「悪い」と短く謝った。それきり押し黙ってしまった鷹代に妙に緊張してしまい、篝は急用ができたと彼のアパートを飛び出した。幸い、雨はもう止んでいた。
勢い余って篝が鷹代に好きだと告白した時、彼は高校を卒業する頃にまだ同じ気持ちなら、交際するか考える。
それはまでは、ただの生徒と教師だと言った。それなのに、どういうつもりで彼はキスをしたのだろう。弄ばれているのか。
恋愛経験ゼロの篝には、あの時の鷹代の気持ちなど見当もつかない。
犬を撫でるみたいに頭を撫で回してくる鷹代を、篝は恨めしげな顏で見る。
だけど、鈍い鷹代は篝の視線に気付かない。自ら彼の手を振り払うことができず、大人しく撫でられながら、胸の中の小さな嵐を鎮めようと必死に深い呼吸を繰り返す。
篝が困っていると、真澄が鷹代の手を掴んだ。
「先生、セクハラですよ。篝が困っています」
「えっ、この程度で?しかも男子だぞ」
「性別なんて関係ありませんよ。セクハラが納得できないなら、パワハラって言葉に置き換えましょうか?」
にっこりと笑いながら脅迫する真澄に、鷹代は手をあげた。
「こえーな、今時の高校生。でも、本人が嫌がってなきゃいいだろ。なあ、篝」
「嫌ではないです。子供扱いされている気がしますけど」
篝はジトリとした目を向ける。鷹代が苦笑いをした。
「鷹代せんせーっ」
鼻にかかるような甘ったるい声が鷹代を呼んだ。船内から出てきた莉奈が手を振って駆けてくる。
合宿期間は全員私服だ。莉奈は白地に紺色のラインとスカーフで彩を添えたマリンルックのワンピースで、アイドルみたいに見える。
莉奈は鷹代に走り寄ると、細い腕を彼の筋肉質な腕に絡ませた。
篝は自分の胸元のシャツを握った。
低い身長と華奢な身体に似合わない、豊満な胸が鷹代の腕に押し当てられる。鷹代がやに下がった顔をしなかったのは救いだ。
「あんまくっつくなよ、王島」
「イヤじゃないでしょ、センセ。それに王島じゃなくて、莉奈。名前で呼んで欲しいな」
莉奈の大きな目に上目遣いで見詰められて、鷹代は言葉を詰まらせた。
満更でもないのかもしれない。篝は唇を引き結ぶ。
「中で真理子たちとトランプしてるの。鷹代先生も参加して」
「わかったから、あんまり引っ張るなって」
莉奈が鷹代と腕を組んで船内に向かう。
ぼんやりと後ろ姿を見送る篝の方を、不意に莉奈が振り返った。一瞬、大きな目がナイフのようにキラリと閃いた。
「俺は、王島になにかしただろうか?」
思わず口から零れた疑問に、佐助が片眉を下げる。
「なんで?」
「さっき王島が振り返って、俺を睨んでいた」
「気のせいだろ。オマエと王島とか接点ないじゃん。睨まれたとしたなら、真澄だろ」
「真澄が?何故だ?」
「知らねーのか?昔、莉奈と付き合ってたんだぜ」
「知らなかった」
驚く篝に、真澄が眉を下げる。
「ごめん篝、長く付き合っていたわけじゃないから話さなかったんだ。去年の五月の終わり頃に付き合い始めて、夏休み前には別れたのさ」
「確か真澄からフッたんだろ。恨まれてんじゃねーの?」
茶化す佐助を真澄が温い目で見る。
「それはないね。別れを切り出したら、拍子抜けするくらいあっさり受け入れてくれから」
真澄が息を吐きだして空を見上げる。篝も空を仰いだ。
紺碧の海よりも淡い天色の空が広がっている。昨日まで灰色に時雨れていた空と同じ空とは思えない、美しく明るい青。この辺りだけ梅雨が逃げ出したみたいだ。
船が出港してから一時間、三日月の形の夜泉島(よみじま)が見えてきた。
これから土曜日の昼前までの五泊六日、星宮高校の二年六組の生徒二十八人、担任教諭一名、引率補助教員一名が過ごす場所だ。
緑に彩られた自然豊かで凹凸のある島は、ポツンとホテルが一軒建っている以外はコンビニも飲食店もなく、砲台跡や廃墟しかない無人島だ。島民はホテルのオーナー一人しかいない。
一本の電話線と週に二回だけ物資を運ぶ貨物船を兼ねた旅客船が訪れる以外には、外界となんの繋がりもない厭世的な島ではあるが、昨今の島旅ブームで海遊びを楽しめる七月から九月末と、スキーができる十二月から二月末には一日二便往復船が訪れ、密かな人気を集めている。
「君たち、そろそろ船内に戻ってください。もうすぐ着きます」
銀色のフレームを人差し指で持ち上げながら、引率補助教員のスクールカウンセラー月山玲士(つきやまれいし)が静かに告げた。
「へーい」
雑に返事をする佐助に続いて月山の隣を通り過ぎる時、彼の眼鏡の奥の涼しげな瞳と目があった。篝は反射的に目を逸らす。
月山と深い面識はない。だけど、なんとなく彼が苦手だ。
薄い色素の髪に理知的な整った顔、柔らかな声。月山は穏やかな春の日差しのような男なのだが、いつも涼しげなヘーゼルの瞳のせいか、篝は彼を見ると冷酷で奸智な蛇を彷彿とする。
外見で人を判断してはいけないのは重々承知だが、どうしても月山に対する苦手意識が拭えない。
篝は月山の視線から逃れるように、足早に船内に戻った。
ほどなくして、船が小さな港に乗り入れる。首都圏の星宮高校から北陸新幹線に乗ること約一時間半。そこからバスで三十分走って直江津港に行き、船で一時間以上。長い時間をかけてようやく夜泉島に辿り着いた。
夜泉島は佐渡島と石川県の先端の中間に位置する、徒歩三時間もあれば一周できてしまう小さな島だ。
ホテルのオーナーが、港まで星宮高校の一同を迎えに来ていた。
「辺鄙な島までよくお越しくださいました。私一人ですので粗相もあるでしょうが、よろしくお願いします。夜泉荘のオーナーの影沼と申します」
僅かに唇の端を上げただけの不愛想な表情で、影沼が慇懃に頭を下げる。彼は一七七センチの篝より少し背が低く、がっしりした体躯をしている。年齢は五十代半ばといったところだろうか。
目には光がなく、悟りを開いたような静かな顔立ちだ。
「大勢での参加を受け入れてくれてありがとうございます。オレ達に手伝えることがあればなんでも言って下さい」
鷹代が笑顔で手を差し出した。影沼がおざなりに手を握り返す。
「ありがとうございます。ホテルまでご案内します。この人数ですので徒歩ですが、そんなに遠くないので」
三日月に抱かれたプライベートビーチの白い砂浜に、無数の足跡が刻まれていく。ゴミ一つないビーチはまっさらで美しい。それにとても静かだ。聞こえてくるのは波の音とウミネコの声だけ。
「なんか雰囲気あるよなー。殺人事件とか起きたりしてな」
わくわくした様子で佐助が辺りを見回す。
篝は軽く眉間に皺を寄せた。
「物騒なことを言うな、佐助」
「まあまあ、怒るなよ。うちの学校は六月には悪魔が現れて死亡事故や失せ物が多発するんから、用心した方がいいって話な」
「六月の悪魔は学校の七不思議なんだろう?学校の外には現れないんじゃないのか?」
「篝の言う通りだね」
真澄が篝の言葉に頷くと、佐助は肩を揺らして陽気に笑った。
「わかんねーじゃん。相手は怪異なんだからさ」
六月の悪魔なんて馬鹿馬鹿しい。篝は小さく溜息を洩らした。
砂浜を抜け、森の斜面に作られた遊歩道の階段を登ると、船からは森から突き出した円筒の部分だけがおぼろげに見えていた建物が近付いてきた。
木々の中にひっそりと隠れるように白い壁にオレンジ瓦の建物が佇んでいる。夜泉荘だ。
こうして全貌を見ると、いかにも海のリゾートという風貌の陽気なラテン風の建物だ。なのに、どこか陰惨な気配が纏わりついている。古びているせいだろうか。
野暮ったい名前を裏切る瀟洒なホテルに同級生が盛り上がるなか、篝は一人浮かない顔をしていた。
うすら寒い風がすぐ傍を吹き抜けた気がして、無意識に藤紫のサマーニットから剥き出しの二の腕を擦る。
理由はわからない。漠然と嫌な予感がした。
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