第一章

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第一章

赤いマジックでまた一つカレンダーのバツを増やす。 数年前に叔父の勧めで始めたルーチンワークは、今となっては単なる習慣に過ぎないが、六月になってから少しだけ意味を持っている。 マジックをペン立てに戻すと、水名月篝(みなづきかがり)は制服に着替えて家を出た。  近頃雨ばかり降っている。立ち止まって空を見上げると、重苦しい灰色の雲が垂れこめていた。また今日も雨降りになるだろう。 アイボリーの校舎を見ながら、煉瓦の校門をくぐる。星宮高校は偏差値六十五の進学校で、生徒の数は一学年二百八十人ほどの小ぢんまりした高校だ。  席に着くと窓の外に目を遣る。校門から入ってくる生徒や車を眺めながら、篝はいつも下がりっぱなしの口角を僅かに上げた。 「どうした、イケメン。珍しく笑っちゃって」  いきなり間近で聞こえた声に弾かれるように、声の方に顔を向ける。伏見佐助(ふしみさすけ)がすぐ傍にいた。 こちらを見詰める切れ長の黒目がちな目は、心の中を覗き込もうとしているようだ。篝は意図的にポーカーフェイスを作る。 「佐助、おはよう」 「はよっす、篝。で、なにニヤニヤしてたんだよ」 「別にニヤついていない」 「いいや、ニヤニヤしてたぜ。珍しいな、いいことでもあった?」 「ない」 「ふぅん。じゃあ、恋してるんだな」  蛇の牙のような犬歯を見せた佐助に、篝はピクリと眉を動かす。 「なんでわかったんだ?」 「引っかかるなよ、誘導尋問だっての。お前頭いいくせにチョロいよな。心配だわ。にしてもマジかよ、篝、恋愛に興味ないんじゃなかったっけ?」 「なかった。でも、気付いたら好きになっていた」 「そんな台詞、お前から聞くとはな。マジかよ、大量の女子が泣くわ。お前を惚れさせた罪人は誰だよ?」 「別に誰でもいいだろう。佐助には関係ない」  素っ気なく吐き捨てた篝に佐助が腹を抱えて笑う。 「気になるけど、まあ相手なんて誰でもいいわ。それより、恋でお悩み中という方が放っておけねーな」 「そんなことまでわかるのか?」 「だから、誘導尋問だって。成程、マジで悩んでたのか。よし、ここは朴念仁のお前のために、この佐助様が相談に乗ってやろうじゃねーの」  佐助の黒曜石の瞳に見詰められると、隠しごとなど無駄という気がしてくる。篝は素直に答えた。 「好きになってはいけない人を好きになった」 「ほうほう、恋愛経験ゼロの篝クンが禁断の恋か。そりゃ大変だ。でも、好きになっちまったモンはどうしようもねーよ。あんま相手のこと考え過ぎるとしんどいぞ」 「そうだな」 「なあ、真澄はこのこと知ってるのか?」 「真澄?いや、何も話していない。話した方がいいのか?」 「んー、やめとけ」  意外な答えに篝はアーモンド形の青い瞳を軽く見開いた。 「何故だ?」 「いや、なんつーかさ、あんま信用し過ぎるなよ」  佐助の警告に篝は困惑する。 真澄は幼い頃からの知り合いだ。中学一年生の時に篝が転校するまで一緒の学校に通っており、高校で知り合った佐助より付き合いが長い。 友達が少ない篝にとっては特別な存在で、信頼している。穏やかで落ち着いた性格の彼に危険を感じたことはない。 金髪を揺らして首を傾げる篝に、佐助が曖昧に笑う。 「ほら、あいつけっこうな女タラシじゃん。篝が好きになるくらいだから、お相手は美人なんだろ?盗られちまうぞ」  歯切れがいつもより鈍い。明らかにはぐらかしているようだったが、佐助が気まずそうにしていたので何も聞かなかった。 「まあ、わざわざ真澄に話すことじゃないな」 「そうそ。相談相手は俺だけにしとけって」 「何の相談を佐助だけにしておくんだい?」  頭上から降ってきた声に二人同時に顔を上げると、曽根真澄(そねますみ)が目尻の下がったハニーフェイスに柔和な笑みを浮かべて立っていた。 「冷たいなぁ、僕だけ除け者かい?なんの話をしていたの?」  真澄が一八四センチの長身を曲げて、薄茶の瞳で篝を覗き込む。 「つまらない話だ。真澄が気にすることじゃない。でも、気になるなら教える」 「うん、気になるな」 「真澄は寂しがり屋だなぁ。ロクでもねー話なのに聞きたいのかよ」  茶化した佐助に真澄は穏やかに首を縦に振った。その態度とは裏腹に、刺すように鋭い視線だ。 珍しく怒っている真澄に対して、佐助は平然とした顔で言った。 「真澄も聞いたことがあるだろ?この学校の七不思議」 「七不思議?」 「そ。小学校ではやるような子供じみた怪談。そのなかに六月の悪魔っていうのがあるのは聞いたことがあるか?」 「知らないな。篝なんてそれこそ、そんな低俗な話なんて知らないはずだろう?本当にその話をしていたのかい?」 「いや、六月の悪魔はこれから話すところだったぜ。真澄の言う通り、篝はそういう俗世間の話に興味ねーからな」 「じゃあ、いったい何を?」 「去年の六月、水泳の授業の時に篝のパンツがなくなった話」  佐助の答えに真澄が大きく顔を歪めた。 そんな話はしていなかったが、恋愛話をするのが嫌だったので、篝も佐助に調子を合わせる。 「誰が何の目的で持っていったのか気になったんだ。今更下着の一枚ぐらい気にしてないが、もうすぐ水泳が始まるからなんとなく」 「そういうこと。そんで俺はそれが六月の悪魔の仕業だって結論付けようとしてたところってわけ。な、くだらなかっただろ」  佐助の黒い瞳がじっと真澄を見る。真澄はごく緩いウェーブがかかった薄い茶色の髪を軽く掻きあげて「本当につまらない話だね」と緩やかに笑った。  話している内に教室のざわめきが大きくなり、予鈴が鳴り渡った。佐助と真澄が席に戻っていく。平凡な一日の始まりだ。
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