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鷹代と過ごす時間は篝にとってかけがえのない時間となった。単なる尊敬と思慕だったはずの感情は日ごとに膨れて、今はもう手が付けられない。
大根を薄い千切りにしていると、背中に視線を感じた。振り返ると、鷹代が赤ペンを手にじっとこちらを見ていた。
包丁を置いて彼に近付くと、採点中の小テストが散らばっているのが見えた。篝はテストからさっと目を背ける。
「あの、先生。どうかしましたか?」
「いや、オマエって意外と可愛い色のエプロンが似合うよな」
可愛い、という言葉に一瞬ドキリとする。だが、すぐに自分を褒めた訳じゃないと冷静さを取り戻す。
「水色は可愛い色なんですか?」
「シャーベットカラーってのか?女子に人気らしいぜ」
揶揄われているのだろうか。篝は唇を尖らせる。
「男の俺が女子向けの色のエプロンを着ているのが面白くて、俺を見ていたんですか?」
「いや、オマエがうちの台所にいるのを、すっかり見慣れちまったなって」
「どういう意味ですか?」
「さあな。さて、飯食う前に採点終わらせちまうかな」
さっきまでリズミカルにまな板を叩いていた包丁が乱れた音を立てる。鷹代の言葉の意味を深く考えてしまう所為だ。
自惚れるな、後で惨めになるだけだ。
動揺を振り払い、篝は料理に集中した。
大根サラダ、豚の生姜焼き、付け合わせのキノコのバターソテー、豆腐とカボチャと白菜の味噌汁を食卓に並べる。
「おー、うまそう。いただきます」
「いただきます」
向かいに座った鷹代が豚肉の生姜焼きを口にいれて、豪快に米をかき込む。美味しそうに目を細める彼に、嬉しくなる。
「オマエ、料理ほんと美味いな」
「喜んでもらえて嬉しいです」
「悪いな、いつも飯作ってもらって」
「気にしないでください。どうせ、家に戻っても一人ですから」
「おふくろさん、調子どうなんだ?」
「悪くはないです。でも、家に戻れるようになるのはいつになるか」
昨日見舞いに行った時、母のエリカは元気だった。ひょっとして退院できるぐらい回復したのだろうかと思って期待したが、医者曰く、今は躁状態だからいいけど、少し前までは酷く落ち込んでいて、症状は改善されていないとのことだった。
「困ってることがあれば言えよ、篝」
「ありがとうございます。でも、特に困ってません。生活費は叔父が十分すぎるぐらいに払ってくれていますから」
「金の心配はしてねえよ。高校生の一人暮らしで困ることなんて、他にいくらでもあるだろ。オマエ、危ないことに首突っ込むしさ。学校での人間関係もいろいろあるだろ」
珍しく憂いを帯びた目で鷹代が遠くを見る。彼は今、何を考えているのだろう。
鷹代が担任の二年六組は比較的、問題は少ないと思う。イジメは目にしないし、不良生徒もいることはいるが、少なくとも教室でトラブルを起こしているのは見ない。
自分が知らないだけで、クラス内でもいろいろと問題が起きているのだろうか。基本的に他人に興味がないタイプだから、見えていないものが多いのかもしれない。
考え込んでいると、不意にチャイムが鳴った。
「俺がでましょうか?」
口にご飯が入っていた鷹代に気遣って申し出たが、鷹代は慌ててご飯を飲み込んで立ち上がった。
「オマエは出なくていい。むしろ、何があってもでてくるなよ」
「どうしてですか?」
「特定の生徒を家に連れ込んでるのがバレたら、まずいだろ」
鷹代がバタバタと玄関に走っていく。鍵を開ける音、次いで甲高い声が聞こえた。
数分後、鷹代は後頭部の髪を掻き毟りながら戻ってきた。苦々しい顔で席に座る。
「誰だったんですか?」
「別に、大した客じゃない」
「もしかして恋人、ですか?俺がいると邪魔ですか?」
「恋人はいねぇよ。それに篝のこと、邪魔なんて思ってないからな」
鷹代の言葉に篝は密かに胸を撫でおろした。
食事が終わると、リビングのソファに移動して、コーヒーを飲みながら二人でテレビを見ていた。
時計の針が九時半を過ぎた所で鷹代が立ち上がる。車のキーを手の中で弄びながら戻ってきた。
「マンションまで送ってやるよ」
「泊まったらだめですか?」
「駄目だ、お泊りは禁止」
我儘を言って嫌われたくない。大人しく車の助手席に座った篝は、ハンドルを握る鷹代の横顔を横目で密かに見詰めた。
いつものやる気のない顔は違う、真剣な顔。他の生徒が知らない、特別な彼の姿。
ゆっくりした速度で走っていた車がマンションの前で停まる。
「ありがとうございました、それじゃあまた」
「おう、学校でな」
窓から出た手がひらひらと揺れて引っ込むと、白いカローラアクシオが走り去る。
車を見送ると、篝は誰もいないマンションの部屋に戻った。
母が日常生活をする能力を失って四年。はじめは叔父が一緒に暮らしてくれていたけれど、篝が高校生になると同時に転勤で単身赴任となった。
一人だと3DKは広すぎる。
静まり返った部屋。静寂も孤独も嫌いじゃないけど、誰かと共に過ごす安らぎを覚えた今は、僅かに苦々しさを覚える。
篝は数日後に迫った合宿に思いを馳せて早々に目を閉じた。
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