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第二章
学校は狭い社会だけど、子供にとって世界のすべてだ。ここで上手くやっていけるかどうかで学生生活が天国か地獄か決まる。
佐野京香(さのきょうか)は鏡の前で髪を入念に梳かしてから家を出た。
学校の下足室に入ると、恐る恐る自分の靴箱の蓋を開ける。特に変わった様子がないことを確認し、胸を撫でおろした。
上履きを取り出して自分の靴箱を閉めると、きょろきょろと辺りを見回す。
誰もいないことを確認してから、三つ隣の列の上から二段目の靴箱に目を遣る。
安曇雪(あずみゆき)という名前が張られた蓋を、震える指で開ける。狭苦しい薄闇の中、鈍く光るものを見つけて背筋が冷たくなる。
同情とそれを上回る安堵。スケープゴートがいるうちは、私は安全だ。真っ先にそう思ったことに自己嫌悪する。
「そこはお前の靴箱じゃないぞ」
背後から聞こえたすき透った低めの声に、京香は細い肩をびくりと跳ねさせる。振り返ると、同じクラスの篝が立っていた。
「み、水名月くんっ。あの、おはよう」
「おはよう、佐野」
京香は忙しなく周囲を見回し、誰もいないことを確認してから篝に向きなおった。
「ち、ちがうの。これは……その、間違っちゃって」
篝の真っ直ぐな視線が怖くて、目を伏せたままモゴモゴと言い訳をする。明らかに苦しい言い訳だけど、篝は興味なさげに「そうか」と言って背を向けた。
颯爽と去っていくすらりとした後ろ姿にじっと見惚れる。
くっきりした二重瞼に目力のあるアーモンド形の青い瞳、すらりとした鼻梁の高くて小さい鼻、上品な小さい口。日米ハーフの篝は綺麗でかっこよくて王子様みたいだ。
背が高くて華奢だけど筋肉もちゃんとついているところも好ましい。
自分のような地味でなんのとりえもない平民が彼に話しかけてもらえるなんて、幸福の極みだ。
よほどの用事がない限り自分から女子に話しかけないクールな篝が京香に話しかけてくれるのには、実は理由がある。
忘れもしない、ゴールデンウィーク明けのことだった。
四月に編成された新たなクラスで、中心人物で構成された花形グループに上手くもぐり込んだ京香は、毎日ストレスを抱えていた。
休日遊びに行く時には、彼女たちに恥をかかさないよう流行のファッションを纏い、あまり興味がないメイクや芸能人の事を研究して話を合わせ、言葉や行動を慎重に選ぶ日々。
そのストレス解消したくて、京香は一人、誰もいない音楽室で大好きなアニソンを歌っていた。
こんな場面を誰かに目撃されたら大変だ。オタク女はどう足掻いても、スクールカーストの上位グループになんていられない。だけど、歌わずにはいられなかった。
ストレスを解消というよりは、本当は誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。声優になるのが、幼い頃からの京香の夢だ。
声が高くて可愛いと評価されているし、歌は得意だ。将来はアイドルのように歌って踊る声優になりたい。
そのことを母に話したら「声優なんてあんたがなれるわけないでしょ、勉強しなさい」と怒られた。
悔しくて、家で自慢の歌声を披露したら鼻で笑われてしまった。それ以来、家では歌えない。
一曲歌い終わると小さな拍手が響いた。その瞬間、大袈裟ではなく心臓が止まった。
自己顕示欲もあるが、それ以上に恥や恐れが強い。アニソンを歌っていたのをクラスメイトに知られたら生きていけない。
誰に聞かれてしまったのだろう。
恐る恐る振り返った京香が見たのは、クールな無表情で拍手をする篝だった。
「お願い、言わないでっ」
顔を見るなり懇願した京香に、篝は不思議そうに首を傾けた。
「とても上手だったのに、何故だ?」
「アニソンを歌っていたのがばれたらダメなの。授業でもないのに学校で歌うこと自体ヘンなことだし、変わり者だと思われちゃう。お願いだから言わないで!」
「わかった、言わない」
「よかった。ご、ごめん。大声出しちゃって。あの、水名月くん、どうして音楽室に?今日は部活のない日なのに。そもそも、水名月くんって部活はいってないよね?」
「ピアノを弾きたくなったんだ」
「ピアノ、弾けるの?」
スポーツも勉強も万能の篝が、芸術方面にも明るいことが意外だった。思わず聞き返すと、柔らかな金髪を揺らして篝が頷く。
「母が教えてくれたんだ。アニメの歌はあまり知らないけど、一曲だけ知っている。もし知っている曲なら、歌ってくれ」
篝が音楽室の扉に鍵をかけて、ピアノの前に座った。
美しい澄んだ音色が教室に響く。知っている歌だったので、恥ずかしかったけど京香は乞われるまま歌った。
いや、歌わされたと言った方が正しいかもしれない。篝の細長い指が奏でる音は感情が豊かで、自然と歌いたくなったのだ。
ピアノを弾き終えると、篝は苦笑いを浮かべた。
「歌うのが好きなら堂々としていればいいと思うが、そういうわけにもいかないか。難しいな、集団生活は」
「そうだよ。水名月くんだって、そういう経験あるでしょ?」
「ない。俺は隠すのも偽るのも苦手なんだ。それに、他人にどう見られるかなんて俺には関係ない。佐助に『お前みたいに図太い奴の方が少ないんだ』と言われた。その通りだと思う。安心しろ、佐野が歌っていたことを喋ったりしない」
「ありがとう」
「たまに誰もいない時に音楽室でピアノを弾いているんだ。お前が歌えそうな曲を練習してみるから、よかったらまた来てくれ」
社交辞令だとしても嬉しいのに、篝は本当に自分が好きだと言った曲を覚えてきて、二人きりの音楽室で弾いてくれた。
音楽室での密会。片手で数えられる回数だったけど、幸せな時間だった。
きっと、篝とこんな風に喋った女子は自分ぐらいだろう。
誰かに自慢したくなるけど、そんなことをしたら確実に破滅が訪れる。
最悪の未来を想像して京香は肩を震わせた。
ささやかな幸福は、自分だけの胸に留めておくのが一番だ。
朝から篝と言葉を交わせるなんて、今日はいい日になりそうだ。
安曇雪の靴箱に潜んだクラスの闇のことなどすっかり忘れて、京香は軽い足取りで教室に向かった。
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