第二章

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人生いつ何が起こるかわからない。平坦な道の隅っこをまっすぐ歩いていたのに、気付けば坂から転げ落ちていたなんてことはよくある。 京香の従兄がそうだ。有名大学を卒業して大手企業に就職したが、半年で会社を辞めて引きこもりになった。 だけどまさか、自分の身にも予期しない不幸が襲い掛かるなんて思っていなかった。 不幸は合宿まで一週間を切った時に突然やってきた。  昼休み、いつものように弁当を持って莉奈の席に近付いた京香は、自分の座る定位置、莉奈の斜め前に風花が陣取っていることに気付いた。 私はどこに座ればいいのだろう? うろうろしている京香を、莉奈達は見ようとしない。 暫く呆然としていたが、このままではいけないと自分の椅子を引っ張って莉奈達の傍に近付く。 「みんな先に食べはじめるなんて、ひどいよ」  引き攣る頬の筋肉を叱咤してなんとか笑みを浮かべながら、弁当箱の入った袋を莉奈の机の隅に置いた。 その瞬間、真理子に刃物のような目で睨まれる。 莉奈の正面に座る真理子が左手で京香の弁当を叩き落した。 がしゃんと音を立てて、弁当が床に転がる。袋に入っていて中身が床にぶちまけられなかったのは不幸中の幸いだ。 だけど、そんなことに安心できるほど京香の心は穏やかではなかった。  困惑した顔で真理子を見ると、真理子は猫目を糸のように細めて、吐き捨てるように言った。 「あのさー、勝手にアタシらの机にお弁当置かないでくんない?ジャマなんですけど」  辛辣な言葉に、脆い硝子の心臓が粉々に砕けた。 「ご、ごめんなさい」  頭を下げて袋を拾い上げると、自分の椅子を放置したまま教室から逃げた。誰も、追いかけてきてくれる人はいなかった。  これまでずっと、最低一人は絶対裏切らない友達を見つけて、上手くやってきた。 中学の時は同じ小学校だった友達や合唱部の仲間。 高校一年生の時は意気投合した同じクラスの安曇と一緒にいた。 それなのに、いきなり一人ぼっちになるなんて。 高校二年、初めて華やかなクラスの中心グループの一員になれたと浮かれて、色々なものを蔑ろにした罰があったのか。 帰宅部なので部活の友達も、別のクラスの友達もいない。逃げ込める場所もない。どこに行けばいいだろう。 困惑したまま、ふらりと屋上に向かった。 屋上なら誰もいないだろうと思ったが、意外にも何人か生徒がいた。みんな、自分の教室が嫌で避難してきた人かもしれない。だったら、自分が一人で入っていっても目立たない。きっと、大丈夫だ。  勇気を出して屋上に入ろうとしたが、だめだった。屋上にいる人がみんな自分を見ている気がした。 クラスに馴染めない、かわいそうな一人ぼっちの子。そんな目で見られているように思えてくる。それは京香にとって酷く苦痛なことだった。  知らない人達の中に安曇を見つける。だけど、彼女の傍にはいけない。 二年になって華やかな莉奈のグループに目が眩んで、自ら彼女の元を離れた。酷いこともした。今更、友達に戻ってくれなんて言えない。 踵を返し、屋上を去った。 中庭や藤棚のベンチなどに足を向けてみたが、どこも人がいた。最終的に辿り着いたのは三階の音楽室近くのトイレだ。 三階には音楽室と図書館と生物室しかないから利用者が少なく、無機質な空気に満ちていた。一番隅の個室に篭り、膝の上で弁当を広げる。 弁当箱の中身はぐちゃぐちゃだった。無惨な姿に鼻の奥がツンとなる。  人生初のトイレ飯は惨めで、美味しくなかった。  時間ギリギリまでトイレで過ごして教室に向かった。五限目の授業に向かう賑やかな生徒達に紛れて教室に戻った京香は、愕然とした。 私の椅子がない。まさか―…  真理子の方を見ると、席が近い彩実とコソコソ何かを話していた。 視線に気付くと、彼女達は会話を中断して、呆然とする京香をちらりと見た。それから含み笑いをして、また話しだす。  椅子を隠された。ショックのあまり眩暈がした。  五限目開始のチャイムが鳴って、数学教師の田辺が入ってくる。 「起立、礼、着席」  学級委員長の最上の号令に合わせて生徒が一斉に席を立って頭を下げ、また席に着く。だけど、京香には座る席がない。  困った顔で立ち尽くす京香を、田辺がじろりと見る。 いかつい中年男の田辺のぎょろ目に睨まれ、京香はびくりと小さく肩を竦めた。 「おい佐野、早く席に着かんか。授業が始められんだろう!」 「あ、あの、でも―…」 「早く座れ!」  椅子がありません。そんなこと言う度胸はなく、空気椅子をする。 周囲の生徒がこちらを見てクスクスと笑い、内緒話をする。 誰も助けてくれない。みんな、飛び火が恐いのだ。  いじめは男子の間にもある。うちのクラスのいじめられっ子は小田和真(おだかずま)と草間秀(くさましゅう)だ。 二人とも眼鏡を掛けていて、いかにもひ弱そうだ。 小田は無駄な知識を多く持っている。雑学をひけらかしたり偉ぶったり、詩や小説を書いていることを自慢したりと素行に問題がある上に、すぐむきになる性格だ。 それが災いして、男子は最上をはじめ、こぞって小田をいじっている。それは一見男子同士のじゃれ合いに見えるが、あれは完全にいじめだ。 草間は篝と並ぶ学年トップクラスの頭脳を持ち、文系クラスに所属しているのに数学が得意だ。無口で陰気な性格のせいで赤塚、岩城、木戸、川瀬の不良グループに嫌われ、よく絡まれている。 教室の外ではよくカツアゲされている。 二人に危害を加えないのは、篝、佐助、真澄だけだ。 不良達が教室で大っぴらに小田や草間を殴ったりカツアゲしたりしないのは、篝に見咎められるのが怖いからだろう。 篝は普段は物静かだが、弱い者いじめを見ると誰が相手でもすぐに飛び出していく。 篝が近くの席だったらよかったのに。 彼は五月に席替えで安曇の隣の席になった時、彼女の椅子がないことに気付いて、助けてあげていた。 その後はぴたりと椅子隠しのいじめがなくなった。  授業開始から十五分。頑張っていたけど、いい加減足が痺れてきた。 教壇に立つ田辺は、相変わらず京香が苦行に耐えていることに気付かない。 彼は授業を進めることにしか興味がなく、生徒には無関心だ。ドラマで見るような熱血先生は少ない。 大抵の教師は生徒のいじめなんて見ていないふりをする。授業が滞りなく進めばそれでいいのだ。  さっきから生徒達の間で手紙が回されている。手紙を読んだ人がちらりとこちらを振り返って、小さく笑う。 きっと私の悪口が書いてあるんだ。胸がムカムカしてくる。  もうだめだ、足が痺れてきた。膝を着いて立膝で授業を聞く。ノートをとるのは無理だけど、さっきよりずっと楽だ。 「おっ、佐野選手、とうとう足を膝に着きましたー。ダウンです、ダウン」 「これはもう、立ち上がれないか?」 「やだぁ、やめてよ。かわいそうじゃん」 「佐野さんけっこう粘ったね」  近くの席の男女が談笑するのが聞こえた。田辺にも聞こえたようで、彼はちらりとこちらに目を向けた。 だが、何も言わずに黒板の数式の説明を再開する。 絶望していると、窓際の前の方の席の篝が振り向いた。 怪訝そうに細い柳眉を寄せてから、手を挙げて立ち上がる。 「先生、すみません」 「どうした水名月、質問か?」 「いえ、佐野の椅子がないです」  篝の発言に教室の空気が変わった。雪の夜のみたいな冷たくシンとした静けさが教室を包む。  京香は生徒達を見回す。彩実や真理子が醜く顔を歪めているのや、赤塚が顔を顰めているの、佐助が目を手で覆っているのが見えた。 田辺も苦々しい顔をしている。 「誰か、佐野の椅子を知らないか?」  田辺の問いに誰も答えない。畳みかけるように田辺が続ける。 「お前達、本当に誰もなにも知らないのか?誰か、答えなさい」  莉奈が手を挙げる。 「あの、先生。みんな、椅子がないことにも気付いていませんでした」  大きな目を潤ませる莉奈に、田辺がやに下がった顔になった。 「そ、そうか。でも、一人ぐらい椅子を見た奴がいるんじゃないのか?」 「アタシら、マジ何も知りませんって。六月の悪魔が出たんじゃないですかぁ?ほら、六番目の七不思議の」 「そうかもしれないっすね!去年も六月にいろいろあったみたいだし」  真理子の意見に面白半分に最上が便乗し、他の生徒もざわつきだす。 田辺は苦虫を嚙み潰したような顔で咳払いをした。 「授業が終わったら皆で探してやれ。とりあえず、今はこの椅子を使いなさい」  教壇の隅に置かれたパイプ椅子を田辺が指さした。 動けずにいる京香の代わりに、篝が椅子を運ぶ。 「大丈夫か、佐野」 「う、うん。大丈夫。ごめんね、水名月くん。ありがとう」 「いや、気にするな」  その後は何事も無く、無事に五限目が終わった。 京香はトイレに行きたかったけど、その隙にパイプ椅子までなくなったら嫌なので、我慢した。最後のホームルームが終わるまでずっと席に張り付いていた。  ホームルーム後、一緒に椅子を探すと言ってくれた篝の申し出を固辞して、京香は一人で椅子を探し回った。 余所のクラスやトイレ、校庭を探したけど見つからない。 もしかしてと思ってゴミ捨て場を訪れると、椅子が焼却炉の前にポツンと置いてあった。  京香が二階の自分のクラスまで椅子を運んでいると、莉奈、真理子、彩実、風花の四人が前からやって来た。 慌てて逃げようとした京香の二の腕を真理子が掴んだ。 「椅子あったのぉ?よかったじゃーん」  少しも悪びれない真理子の態度に腹が立った。それに、こんなことをされる理由がわからないままなのは怖い。勇気を出して、真理子に尋ねる。 「あの、その……。やったの、真理子ちゃんたちだよね。どうして?」 「はあ?なにそれ、見てもないのに犯人扱いかよ、酷くね?ねえ、莉奈」 「まあまあ、真理子。しょうがないよ。酷いことをされたんだもん。誰彼構わず疑っちゃうのもしょうがないよ。でも篝くんが助けてくれたんだし、よかったね」  天真爛漫な笑みを浮かべる莉奈は、本当に何も知らないという顔をしていた。 莉奈はたぶん何も知らない。 彼女は教科書や体操着がなくなって慌てる子を見て、どうしたんだろうと不思議そうにしていたり、かわいそうと同情したりしていた。 その横で、真理子と彩実はいつも笑っている。クラスの女子をいじめているのは真理子や彩実だ。  莉奈に八つ当たりしてもしょうがない。 何も言わずに去ろうとした京香の前に、風花が立ちはだかった。まるで妖怪ぬりかべみたいだ。威圧的で怖い。 「地味でブスのくせに篝クンに色目使わないでよ。アンタなんかが抜け駆けして、篝クンと音楽室で二人きりになったうえに、歌っちゃったりしてさ。しかもアニソン。高貴な篝クンにアニソン弾かせるとか、どうなの?」 「風花の言う通りだわ。アニソン歌手でも目指しているのかしら?高校二年生にもなって、現実を見たらどう?」  彩実の指摘に胸がチクチク痛む。 もうやめて。そう願う京香を嘲笑うように、真理子も嫌味を言う。 「京香ってさぁ、男と喋るときだけ声高くなるし、上目遣いだよねー。男好きすぎじゃん。ぶりっ子して恥ずかしぃ」 「京香、男子と女子で態度を変えるのは私もよくないと思うよ」  心配そうな莉奈の視線が一番痛い。 性別で態度を変えているつもりはない。ただ、男子となんてめったに喋らないから、偶に喋る時につい身構えてしまい、声が震えたりひっくり返ったりするだけだ。  京香は椅子の背を抱き締めるように持ち上げ、廊下を走った。  アニソンを歌っていたことがばれた。篝と二人きりで音楽室にいたことがばれた。それで自分が標的になってしまったのだ。  この先どうすればいいだろう。奈落の底に落ちてしまったような絶望的な気分だった。
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