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 秋の夜風が現代社会の淀みを脱がせてくれる。少しずつ紅く染まる葉が僕らの荒んだ心にゆとりを与えてくれる。夜空に浮かぶ満月は、この世界に転がっている慈しみを表す光かもしれない。  そんな光を、秋の夜風が吹く街で、紅葉を纏う木々がある街で、この「狼だと言い張る生き物」が『食べてほしい』と言う。 「月を食べるって、どういうこと?」 『そのままの意味だ』 「そんなこと、できるわけがない。君は月の大きさを知らないのかい?」 『だが、私は月が嫌いなのだ』 「知らないよ、そんなこと」  まったく、わがままな生き物だ。僕はうんざりして、苦いため息を吐いた。 「僕は好きだよ、月」 『私は嫌いだ。月が憎い』 「月がいったい、君に何をしたっていうんだい?」  僕は甚だ疑問だった。月ほど無害なものは無いというのに。 『月があると、私は狼であり続けてしまう。だから、月を無くしてほしいんだ。月が無くなれば、私は狼ではなくなる』 「なるほど。それで、狼では無くなると君はいったい何になるの?」 『おそらく、龍になる』 「まさか」 『しかし、ときにこの世は不可思議なことが起こるものである』  そして彼曰く、生まれた頃からどうしてか人間の言葉(日本語だけらしいが)を理解でき、人間の言葉を人間に向けて発信できるらしい。しかし、ほとんどすべての人は自分のことを無視するらしく、まともに取り合ってもらえたのは僕が初めてらしかった。 「でも、人間の言葉を話せる狼が目の前に現れたら、誰でも足を止めて話を聞くと思うけどね」 『私だってそう信じたい。だから私は通りゆく人間に対してずっと訴えてきたんだ。私に気づけと。そして月を食べてほしいと。しかし、誰も私の話を聞くどころか、立ち止まることさえしなかった。まるで、私のことが見えていないようだった』 「見えていない、か」  ここで、僕はずいぶん昔の記憶を思い出した。僕は昔、ショッピングモールで髭の生えた妖精を見たことがある。それから、近所の公園で一つ目の妖怪を見たことがある。川の近くで河童が木の枝を咥えている姿を見たこともある。さすがに龍はお目にかかれていないが、僕は昔から、幻想的な生き物たちと出会う機会が多い。  ということは、彼もきっとその一種なのだろう。 「君は、きっと不思議な生き物なんだよ」 『不思議な生き物?』 「うん。だから、ほとんど誰にも見えないんだ。大概、人間って生き物はね、 可愛い猫ちゃんとかゴミを漁るカラスさんを見ることはできるけれど、アメリカザリガニを食べる河童さんとか、缶蹴りする一つ目の妖怪を見ることはできないんだよ」 『つまり、私もその類に入ると』 「そういうことだろうね」 『しかし、青年には私が見える。そして、私の声が聞こえる』 「僕は昔から特殊な生き物たちの姿を見ることができるらしい。ただ、龍には出会ったことがないけどね」 『そうか』  それから「不思議な生き物」は俯き、しばし考え事をしているようだった。僕は立ち去ることもせず、ただそこに佇んでいた。 『なあ、青年』  ようやくメッセージを送った「不思議な生き物」の視線は、僕の心を縛るようにして留める。 「なんだい?」 『私の願いを聞いてほしいんだ、頼む』 「月を食べるってやつでしょう? 悪いけど、頼まれても無理だよ。そもそも、月なんてどれだけ遠くにあるのか、想像もしたくない」 『私は知っているんだ。月を食べる方法を』  どうやら彼は夢想的な生き物みたいだ。今度は苦笑して、「面白いね」と言った。 「どうやって食べるんだい? ぜひとも教えてくれよ」 『意外と簡単なんだ。だけど、私の手ではできない。やはり、これは人間にしかできないんだ』 「人間にしか?」 『ああ』  僕の吐いた息と、「不思議な夢想者」である彼の呼吸が空気中で混ざり合う。そこで何か、僕らの関係がつながった気がした。 『月を指で摘んで口に入れる。それだけだ』
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