1人が本棚に入れています
本棚に追加
感謝を伝える握手会
私は今、10年ぶりに外の世界の空気を吸っている。
なぜならば、17歳の頃からあることがきっかけで、ずっとひきこもり女だったからだ。そんな私がなぜ、外の世界に飛び出したのかと言うと、1年前に衝撃的な出会いをしたアイドルグループ「Bee 7th」の紫音様の握手会に行くためだ。今まさに、震える体でなんとか現場に到着し、辺りを見回しているのだが、それぞれ7thの服を身につけ、とびきりオシャレをしている女性達で溢れ返っていた。男性の姿もちらほらと見えるが大半は10代から、上は自分の母親くらいまでの幅広い年代の女性達だった。
我ながら、こんな所に来る勇気がよく出たなと思う。一年前は絶対に考えられなかった。なぜならば、私は一年前の今日、まさにこの時間、自ら命を断とうとしていたからだ。もう自分の生きている価値など全くないと感じた。未来に希望も、過去に未練も、何もなくなっていた。首吊り用の布をクローゼットに巻き付け、音を立てては姉に見つかってしまうと思い、何年ぶりかのテレビをつけた時に、流れていた歌声こそが、今この会場にいるかもしれない紫音様の声だったのだ。
私は、その声を聞いて泣いた。わんわん泣いた。子供のように声をあげて泣いた。驚いた姉が慌てて私の部屋に入り、私を抱きしめた。姉がかけてくれた言葉など思い出せないほど私はその歌声が強烈に残っている。
泣きすぎて過呼吸になり、姉に助けられながら気を失うように眠った。
目が覚めた時、自分が生きている事を確認した。
そして、もう一度この歌を聴きたいと思った。
長い間、忘れていた事。そうだ私は音楽が死ぬほど好きだったはずだ。今は歌えなくても聴くことはできる。
そして、死ぬのもいつでもできる。
もう一回、この曲を聞いたら死のう。
もう一回聞いたら…もう一回…。
そう思っているうちに死ぬことも忘れてしまっていた。
私は、紫音様に救われた。
もはや紫音様はただのアイドルグループの一人ではなく、私の命の恩人なのだ。
まわりは、なれなれしく「紫音がぁ〜」とか言っているが、私は最上級の敬意を示して紫音様と呼ばせていただく。いや、もしかしたら紫音様と名前を呼ぶことすらおこがましいかもしれない。
それほどまでに私の中で神のような存在なのだ。
そんな紫音様に、一言お礼を言うべく、ここに意を決して足を運んだ次第だ。
握手会という場を借りて、「この度はありがとうございました」と伝え、手を重ねる事ができれば、もう思い残すことは何もない。死を一度決意した人間は強い。いつだって死ねるのだ。だから思い残す事はしたくない。
心配性の姉はついていくと聞かなかったが、そこは丁重にお断りした。
私と紫音様の空間に1秒たりとも邪魔をされたくない。
私自身も10年ぶりの外界で不安でいっぱいだったが、この現場まで一か月前から何度もGoogleマップでイメトレをした。
そして、全身黒のスーツ。深く被った帽子で万が一誰かに出会っても私だとは気づかないだろう。
そうして無事に、ここまでついた。
なんという達成感。
紫音様のおかげで私は、外の世界へも連れ出していただいたのだ。
目が潤むのを感じる。いや、まだ泣くのは早いぞ私。
泣かずにきちんと感謝の意をのべるのだ。
ーギャアアアアアアアアアアアアアアー
甲高い歓声に足がもつれそうになった。
ついに!ついに紫音様の登場なのか!期待に胸が膨らむとはこういう事なのか。いや、膨らむどころの話ではない。体中が高なる鼓動で風船のように膨らんで飛んでいきそうだ。もしくは、この鼓動の高鳴りで膨らみがはじけそうだった。
「ご来場の皆様、本日は握手会へようこそお越しくださいました。ただいまよりこちらにお並びの方々から順番にご案内致します。また、特別企画といたしまして、入口でお渡しした番号札で今から呼ぶ番号の方々は、スタッフにより握手している姿をチェキにて撮影し、その場でお渡しさせていただきます!」
男性司会者の呼びかけとともにまた会場が大きくざわめいた。
特別企画だと!?紫音様との思い出を写真に残してくれるなんて、これ以上の幸せがあるだろうか。なんとしてもここは選ばれたい。
手持ちの番号札を確認した。
「666」
私は眉をひそめて番号札を見下ろした。
いや、不吉すぎんか。オーメン?いや、しかしパチンコなら大当たりのはずだ。神様、なにとぞなにとぞ、この命を捧げてでもこの特別企画はほしい。
ぎゅうっと番号札を握りしめた。
「それでは、番号お呼びします!!」
「5番、39番、76番、95番、101番・・・」
順々に番号が大きくなっていく。時折聞こえる悲鳴のような甲高い声で聞こえなくなる。ええい、聞こえないではないか。ただでさえ外の空気や音に慣れていないのにめまいが起こりそうになる。
「581番、607番・・」
ードックん。ドックん。ドックん。
体全身で脈を打つ。心臓が飛び出しそうだった。エヴァンゲリオンの初号機にでも乗るような緊張感。
ー逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。
「643番・・」
ードックん。ドックん。ドックん。
「666番」
オーーーーーメン!!!!!!
シャアアアアアアアアアアアア!!!!
「やった。やったやった。」
私は小さな声で呟きガッツポーズをした。
夢なのかこれは。夢か現実か。いやどちらでもいい。もうそんなことはどうでもいいのだ。私は見事、初号機に乗った。チェキという切符を手に入れた。
神様ありがとう。全てが終わったら約束通り命を捧げよう。どうせなら一番幸せな時に旅立ちたい。
「えっ、前の人あたってない??」
後ろの女の子たちがヒソヒソと話し出す。
私はスッと番号札をポケットにいれ、背筋を伸ばし何食わぬ顔をした。
こんなところでいらぬ嫉妬心をもらってはならない。平和で最高のシュチュエーションで紫音様と握手をかわすのだ。
私は女がいかに怖い生き物かを知っている。
目立ってはいけない。「女は多くの物を持てば持つほど人から多くねたまれる。」昔、母がよく言っていた言葉だ。
ースゥー
私は深呼吸をした。さぁ、10年間引きこもり生活をしていた私を連れ出してくれた紫音様に会いに行こう。
「それでは、Bee 7thの登場です!!皆様拍手でお願いいたします!!」
男性の司会者が大きく呼びかけた。大きな会場に一斉に甲高い声が広がる。
後ろの群衆が少しでも前にと押し寄せてきた。
Bee 7thの音楽が鳴り響き、ライトが前方のステージにあてられた。
ギャアアアアアアアアアアアア
今日1番の歓声があがった。期待が膨らむ胸が高鳴るのがわかった。
あぁ!!あれは!!リーダーのシュント!!あぁ!!あれは流星では?!一人一人確認するまもなく、あっという間にBee 7thが登場した。そして、待ちに待った紫音様は、一番最後に現れた。
なんていう感覚だろう。これをどう言葉にしたらいいのだろうか。
自分の死を止めてくれた歌声を持つ人が今同じ空間に存在している。
大きな歓声も司会者が話す声も一瞬聞こえなくなった。
すっと伸びた足、細くてしなやかな腕。色白の顔に柔らかい眼差しの目。耳についたピアス。薄く色っぽい唇。
ミュージックビデオや雑誌で見るよりずっと綺麗で、まるで異世界から来たのではないだろうかと思うほどだった。
会えてうれしいという感覚よりも、私はその美しさとオーラに圧倒されてしまった。
「それでは、握手会はじめます!時間が限られておりますので、スタッフが誘導いたします。ご協力のほどよろしくお願いいたします。」
「紫音」と書いたプレートの列に並ぶ人は、一番多く感じた。紫音様を間近で見て、真っ黒で来た自分が急に恥ずかしくなってきた。周りがこれほどまでにおしゃれをしている意味がわかった。
あんな綺麗な人間を前にして、自分はあまりにも失礼ではないか。
さっきまでの意気込みもなくなっていき、できれば朝起きた所から始めたいと思った。しかし、起きた所から始めたって、10年間引きこもりを続けた自分の外見が変わるわけでもない。
どんどん列が前になるにつれ、逃げ出したくなるような衝動にもかられた。しかしこの列から抜け出す勇気もない。
いや、自分はこれが終わったらもうこの世からいなくなればいい。だから、最後にあの歌声をくれた紫音様にありがとうと言おう。こんな大勢の中の一人なんて絶対覚えてはいない。ましてこんな汚い私など忘れるだろう。
それでいい。私は空気のように消えて行けばいい。長い列に並んでいる間、ずっとそんなことを考えていた。一歩一歩進む度、体全身が鼓動を打っていく。どくんどくんと胸が高鳴り、少し体も震えていた。
列がどんどんと前に進んでいく。こちらからは見えないように白い囲いになっている。スタッフに誘導されて白い囲いの中に入れば紫音様がいる。考えれば考えるほど苦しい気持ちになった。なんなのだこの気持ちは。紫音様の事を考えると、ぎゅうっと胸が苦しくなる。今までとは違うこの感情は。
「番号札ありますか?」
白い囲いの手前に来た時スタッフに呼び止められた。
「あっ」
私は、ポケットに入れた番号札を渡した。
「あっ。チェキプレゼントの方ですね。おめでとうございます。握手されている所を撮影して、お帰りの際渡しますね。」
そう言って可愛らしい女性スタッフは番号札を私に返した。
あぁ、こんな可愛らしい人なら今こんな思いをしなくてすんだのだろうか。
もっと可愛くいたかっただなんて、私にもまだ女性らしい気持ちが残っていたのだな。
色々と考えているとあっという間に、自分の番が近づいてきた。
周りの音が聞こえなくなるほど、自分の鼓動が高なっていった。
手が震える。視野がせまくなる。極度の緊張に倒れそうだった。
「次、入りますねー。」
スタッフが背中を押してくれた。
あぁ、もうだめだ。逃げたい。こんな私を見られるのがはずかしい。
そう思いながら、一歩、白い囲いのブースに足を踏み入れた。
正直、そこからの記憶が曖昧だった。
極度の緊張と、胸の鼓動で、歩くのさえもままならずスタッフの方に押されるようにして進んでいった。ブースに入ると、一般人とは明らかに違うオーラを放っている紫音様が立っていて、優しい笑みでやわらかく包み込むような空気で私を迎えてくれていた。もう何も考えられなかった。何も聞こえなかった
。ただ1歩1歩、歩いいるのが、立っているのがやっとだった。
「今日は、ありがとう」
あぁ、この声をこの耳で生で聞けることができるとは思わなかった。
もうこの声以外、何も聞こえなくなればいいのに。
目の前には、まぎれもなく、私を救ってくれた紫音様が立っていた。
綺麗な色白の顔、長いまつげの柔らかな瞳でまっすぐ私を見ている。
うっすらと笑みをうかべ、私の手を取ってぎゅっと握りしめてくれた。
もう、死んでもいい。
本当にそう思った。今ここで心臓発作が起ころうとも、核爆弾が頭からおちようとも後悔はない。
紫音様の手は白く、この世のものかと思えないほどやわらかく絹のような肌触りの肌であった。
紫音様が私の手を離したその瞬間、
「はい、あちら進んでください。」
スタッフの人が、私の肩をぐいっと押した。
えっえっえっつ?
紫音様を振り返る間もないほど早く、気づいたら私はブースから出ていて、いや出されていて、出口のスタッフのお姉さんがにっこり笑って
「はい、どうぞ。いい写真ですよ。」
とチェキを渡してくれた。
そしてあれよあれよという間に、握手会場を出た。まるで流れ作業だった。
感傷に浸る暇もなく、私は夢の世界から追い出された。一瞬の出来事。まるで本当に夢だったのではないかと思うほどだった。
私は、しばらく会場の外で立ちすくしていた。
なんてなんて・・綺麗な声で・・やわらかい手だったんだろう。
まだ感触が残っている。こんな手に触れたのは初めてだった。あの歌声と同じで包み込まれているような感覚だった。
ありがとうの言葉・・言えなかった。
これが目的だったのに・・。感謝の言葉さえ言えないどころか、逆にありがとうって・・。
私は目がどんどん潤んでいくのがわかった。
そして握りしめたチェキを見た。
そこには、先ほどの綺麗な姿の紫音様と・・
ん??
私は目を疑った。
というか、今までの夢うつつの気分が一気に覚めた。
テキーラを3杯のんだ後、一気に酔いがさめて正気に戻ったような感覚。
え?
誰?これ?
そう、私は夢から覚めるほど驚いた。
美しい紫音様の姿にではない。
その前に写る自分の姿に心底驚いたのだ。
最初のコメントを投稿しよう!