とけなかった魔法

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とけなかった魔法

カーテンの隙間から忍び込む朝日を恨めしそうに見つめながら、私はベッドの中から腕だけを伸ばして、サイドテーブルに置いてあるスマホを手に取った。 布団の中でボタンを押して、眩しささえ感じる明るいディスプレイを覗き込む。 「……5時半か」 もうすこしで起きる時間だ。 普段は6時に起きて、7時には家を出る。 始業時間は9時だけど、その30分前にはオフィスに到着して簡単な掃除を済ませる。 そして、静かにコーヒーを飲むのが日課だ。 でも今朝は眠くてもう少し寝ていたかった。 だって、全然眠れてない。 それもこれも、全部辻村さんのせいだ。 私は額に手を当てて、ごしごしとこすった。 ファーストキスだったのに。 「もう、最低」 起きる気力もなくて、しばらくゴロゴロとしていたけれど、不意に昨日作って置いてきた契約書のことを思い出した。 何度も見直しをしたけれど、なにせ急いで作ったものだ。 王子が出勤する前にもう一度見直した方がいいかもしれない。 「起きよう」 私は自分に言い聞かせるようにして、ベッドから起き上がりバスルームへ向かった。 くたびれたパイル地のヘアターバンで髪の毛をまとめ上げると顔を洗い、歯を磨く。 それからメイクを始めた。 タオルで拭いた顔に化粧水と乳液を塗り込んだら、下地のクリームを全体に広げる。 標準色のパウダーファンデーションをチョコチョコとつけたら後は眉を少しだけ描き足してリップグロスを唇にのせた。 いつもより丁寧に仕上げては見たものの、結局いつもと変わり映えしない顔が出来上がった。 昨日の辻村さんが施してくれたような透明感のある肌とは程遠い。 「いつもと同じだ」 見よう見まねで簡単に出来るものならもうとっくにそうしている。 中高と校則が厳しくて、ようやく自由になったのは短大に入ってから。 かわいくなりたいと思ってそれなりの努力はしたけど、結局上手くいかなかったんだもの。 小さなため息を吐いて、ターバンを外す。 いつもより軽くなった髪は、ブラシを通すだけですんなりとまとまった。 「あんな人でも、やっぱりプロなんだ」 でも所詮、あんな人だ。 もう会いたくないのに、私は借りたジャケットを返し忘れてしまったのだ。 皮のジャケットは高価だと聞いたことがある。 返さないわけにはいかないだろう。 私は着替えを済ませると、取りあえずそのジャケットを紙袋に入れた。 それからテレビを付けて朝のニュースを聞き流しながら、簡単な朝食を作る。 まずは食パンをオーブントースターに入れて、焼き上がるまでの間にベーコンをフライパンにしいて卵を落とした。 出来上がったそれをパンと一緒にお皿にのせると冷蔵庫から取り出したヨーグルトと野菜ジュースと共にテーブルに並べた。 「いただきます」 手を合わせてまだ湯気の立ち上るベーコンエッグをトーストの上にのせてかぶりつく。 人生最悪の朝。それでもお腹は減るようだ。 すべて平らげると最後に野菜ジュースを飲み干した。 食器を洗い終えて、リビングに戻ってくるとハンガーにかけてあるネイビーのカーディガンを羽織る。 それからカバンを肩にかけ、紙袋を拾い上げた。 「さ、そろそろ行こうかな」 テレビの電源を切ろうとボタンに手を伸ばした時。 『Congratulation‼』 ハイテンションの声が、スピーカーを揺らした。 『今日の1位はてんびん座のあなた』 「……私だ」 占いはあまり信じない方。 普段ならそのまま電源を切っていたはずだ。 けれど今日に限って、まるで呼びかけられているような感じがしたから。 『恋愛運が急上昇、運命の王子様と急接近』 私はその画面を食い入るように見つめていた。 「……結局、いつもと変わらない時間になっちゃったな」 早目に出社するつもりだったのに、電車が遅延していつもとほぼ同じ時間に出社した私。 オフィスのドアを開けたらすでに王子の姿があった。 ライトグレーのスーツを身に纏ってデスクの椅子に座り、私が仕上げて置いておいた契約書に目を通している。 他の社員がいないのをいいことに、私は少し離れた距離から、王子のことをじっと見つめた。 差し込んだ朝日が、柔らかな髪をはちみつ色に染めていて、シャンと伸びた背中は真っ直ぐで美しい。 絵になる人って、本当にいるのだと甘いため息を吐いた。 それから私は王子に近づいて、後ろから声を掛ける。 「おはようございます、小野原さん」 すると王子はゆっくりと顔を上げ、振り返った。 それから同時に小さく首を傾げる。 「おはようございます……あれ、なんか雰囲気がいつもと違う気がする。何だろう」 何だろうと言われたら、どこか変な所があるのだろうかと急に不安になってしまう。 王子は私を見つめていたかと思うと、やがて分かったとばかりに頷く。 「ああ、髪形だ」 私はそういわれて自分の髪に触れた。 「これ……ですか」 「そう。切ったんだね。そっちの方が、いいよ」 そっちの方が、いい……って。 嘘みたい。 私今、王子に褒められてる。 今日の夜、辻村さんが切った私の髪の毛は、ほんの少しのはず。 だから、気付いてもらえるなんて思わなかった。 思わず頬が緩んでしまいそうになるのを必死でこらえる。 そんな私に王子はいった。 「それと、契約書は全部確認させてもらったから」 「……あ、はい。どうでした?」 「問題ないよ、完璧だった。いつもありがとう、大西さん」 王子が最後に口にしたのは、私の名前。 呼んでもらったのは、これが初めてかもしれない。 すごく嬉しい。 王子の甘い声を鼓膜の奥でリピートさせながら喜びをかみしめていると、王子は机の上の書類をまとめてカバンにしまって立ち上がった。 「それじゃあ、行ってきます」 すれ違いざまに王子は私の肩を叩いた。 その瞬間、今朝の星占いを思い出す。 恋愛運急上昇。 運命の王子様と急接近。 そしてこうも言っていた。 素敵に変身すれば、あなたの恋は必ず実を結ぶでしょうって。
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