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魔法使いと契約
夕方。サチさんは打ち合わせが長引いたとかで戻ってこなかった。
こんな時に限って、急な書類作成の仕事が舞い込むんだからついてない。
もしかしたら今日の運勢は、恋愛運以外はあまりよくなかったのかもしれないな……なんて苦笑いする。
2時間半ほど残業して、私は会社を出た。
右手には皮のジャケットが入った紙袋を下げ、重い足取りでブランへと向かう。
昼休みに読んだ雑誌で確認したら、定休日は月曜で平日の営業時間は午前10時から午後9時までだった。
現在の時刻は午後8時。
ということは、今はまだ営業中のはず。
店の前まで着くと門は開かれていて、店の入り口までのアプローチは美しくライトアップされている。
私は店のドアの前までいって立ち止まり、しばらく店内の様子を伺っていた。
借りたものを返すだけ。
そう思ってここまで来たのだけれど、やっぱり辻村さんには会いたくなくて。
でもやっぱり返さないとだめだよね。
というのを頭の中で繰り返し考えている。
やがてカチャリと店のドアが開く音がして、私は慌てて植込みのかげに身を隠した。
……ほんとなにしてんの、私。こんなことしてたら、また不審者に間違われちゃうよ。
心の中でそう嘆きながら小さなため息を吐く。
「ありがとうございました。また、お待ちしてます」
店の人に見送られて出てきたお客さんをやり過ごしてから、私は意を決して店のドアを開いた。
「いらっしゃいませ、こんばんは」
店の中に一歩足を踏み入れると、受け付けのカウンター越しに人懐っこい笑顔を向けられて固まる。
雑誌で見た子だなとは思ったけれど、それを話題に出す余裕なんてない。
「ご予約は……いただいてなかったですよね。お待ち頂いてしまうかも知れませんがよろしいですか?」
予約表らしきものを確認しながら、その人は私の言葉を待っている。
「いえ、髪を切りたいわけじゃなくて……あの。私、辻村さんに用事があってですね」
すると受付のスタッフさんは少し驚いたような顔をした。
「え?あ……はい、辻村ですね。申し訳ございません、ただいまご予約のお客様がいらっしゃいますので、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
待てと言われれば、待つしかないのだろう。
私は取りあえず頷いてみる。
「……は、はあ」
「恐れ入ります。それで、本日はどのようになさいますか?」
「いえ、そうじゃなくてですね。渡したいものがあって伺ったんです」
私は手にしていた紙袋を胸の位置まで持ち上げた。
ふとみると、葉っぱが張り付いていて、土で汚れている。
なんだか、怪しいものが入っていそうな雰囲気。
それを目にした瞬間、彼女の笑顔が引きつった。
「……申し訳ございませんが、どちらの辻村でしょうか?」
「ええと、私が会いたいのは……あれ?下の名前なんだっけ……」
会いに来たのに名前を知らないなんておかしな話だろう。受付のスタッフさんは訝しげな顔で私をみる。
「遥香?」
まるで私を助けるかのように割って入った声。
ゆっくりと振り返ると、そこには辻村さんがいて。
「なんだ、仕事終わったのか?」
「は、はい」
「そっか、おつかれ」
そういいながら私の頭をポンと叩く。その様子を見ていたスタッフさんはようやく安心したように表情を緩めた。
「ジロウさんのお知合いだったんですか」
「ジロウ……さん?」
ジロウさんって、辻村さんのことだろうか。
そう思って辻村さんの顔を見上げると、オレのコトだよ、とでも言うように自分で自分を指さした。
「うん、そう。それでさ、里奈ちゃん。こいつそこのソファーに案内してお茶出してあげて。よろしくね」
「分かりました」
里奈と呼ばれた受付の人は、若干不服そうに頷いてみせる。
「悪いな、遥香。オレまだ仕事中だからそこで待っててくれる?」
「でも、私」
「いいから、大人しく待ってろ」
そういうや否や、辻村さんは私にくるりと背を向けて、お客さんの所へと走って行ってしまった。
ジャケット返したら帰るつもりだったのに、これじゃしばらくの間は帰れそうにない。
里奈さんに案内され白いレザーのソファーに身を沈めると、出されたコーヒーを啜りながら、お客さんの髪を切る辻村さんのことを眺めていた。
「……なんだ、ちゃんとお客さん入ってるじゃん。それに全然、仏頂面じゃない。笑ってる」
昨日私には見せなかった顔だ。
見ている私が恥ずかしくなるほど、甘いほほ笑み。
辻村さんが何か言うたびに、お客さんはとても嬉しそうに頷いたりしている。
まるで、恋してるみたいに。
それに、傍目に見ていてもお客さんがどんどんかわいくなっていくのが分かる。
やっぱり、辻村さんはすごい。
人のこと不審者呼ばわりして、脅して、最後にはファーストキス奪っちゃうようなろくでなしだけど。
私も変えてもらいたい、あんなふうにもっと素敵に。
王子が……小野原さんが私のこと、好きになってくれるように。
お客さんの対応を終えた辻村さんが私の所へやってきたのは、それから程なくして。
「お待たせ、遥香。ちゃんと待ってるなんていい子だ」
「だって、辻村さんが待ってろっていうから……だから」
「へえ、なんか今日はすごく素直だな。正直もう来ないかと思ってたから、ここへ来たこと自体が意外だったんだけど。もしかして、オレに惚れちゃった?」
そういいながら、ソファーに座る私の目線に合わせる様に屈む。
辻村さんとの距離がぐっと縮まって鼓動が勝手に走り出す。
「違います、そうじゃなくて」
私はとっさに目をそらすと、持っていた紙袋から皮のジャケットを取り出した。
「これを返さなきゃと思って。それと……あの」
「……うん」
「私、辻村さんの練習台になってもいいです。髪切ってもらって、会社の人にいいねって言ってもらえてうれしくて、だからもっと変わりたくて……」
「うん、それで?」
「私にまた、魔法をかけてください」
辻村さんは一瞬だけ驚いたような顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「もちろん、いいぜ! お前の魔法使いになってやる」
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