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前編
仕事帰りに空を見上げると、赤い月が見えた。
大気の影響だと聞いたことがあるけれど、赤い月はなんだか不気味に見えてしまう。ビルの陰からは得体の知れないものが出てきそうな気がするし、街行く人々は皆悪人に見えてくる。
——今日は早く帰って寝よう……。
そう思いながら街中を歩いていると、ふと知っている顔を見つけた。
1ヶ月前から僕の友人と付き合っている女性だ。数日前に紹介してもらったばかりなので顔を覚えていたが、その時の印象とは随分と違っている。
この間は確か、白いトップスに黒のロングスカートで、大人しそうなイメージがあった。しかし今日は、太ももまで見えるような短い丈の、赤いワンピースを着ている。化粧も濃くて、派手な印象だ。
——人違い……。ってわけじゃないよなぁ……。
僕はもう一度その女性の顔をじっと見つめた。やはり、友人の彼女だ。
しかも彼女は、僕の友人のマサキではなく、銀髪の派手な男性と腕を組んでいる。状況が理解できなかった僕は、道路の反対側にいるマサキの彼女を見つめたままで、立ち尽くした。
2人は身体を密着させていて、かなり親密な関係に見える。
——浮気……ってことかな……?
しばらくすると彼女は銀髪の男性と別れ、携帯電話で誰かと話し始めた。浮気相手と会った後に、マサキと会おうとしているのだろうか。もしそうだとしたら、とんでもない女だ。
気になった僕は見つからないように道路を渡り、街路樹の後ろに身を隠した。
「えぇ〜。今日もダメなの? ご飯を食べに連れて行ってくれるって言ったのに。お金を自由に使わせてくれないような奥さんなら、早く別れた方がいいんじゃない?」
マサキの彼女は面倒くさそうにそう言い放ち、赤いハイヒールを履いた足で、ガードレールを蹴った。
——うわぁ……。この間とは別人じゃないか。もしかして、二重人格なのか? それに、奥さんってことは、電話の相手はマサキじゃなくて、別の既婚者だよな……。
もしかしたら別れたのかも知れないと思った僕は、ポケットから携帯電話を取り出して、マサキに電話をかけた。しかし——
「出ないな……。いつもなら、仕事は終わっている時間なのに……」
マサキの会社は残業ができないので、僕よりも早く家に帰っているはずだ。今日は用事でもあったのだろうか。
——まぁ、急がなくてもいいか。電話があったことに気付けば、かけ直してくるかも知れないし。
僕が歩き出そうとすると後ろから、ガン! と大きな音が聞こえた。先程マサキの彼女がガードレールを蹴ったのと、同じ音だ。僕は街路樹に隠れながら、そっと覗いた。
するとまた、ガン! と音が響いた。やはり彼女がガードレールを蹴っている。
「怖……。マサキって、こんな人と付き合ってたんだ……」
これ以上は関わらない方がいいと思った僕は、歩き出した。今見たことをマサキに話して、彼女はやめておいた方がいい、と伝えよう。そう考えながら歩いていると——。
「すみません」
と、誰かに左腕を掴まれた。その声は、知っている声だ。
僕は思わず息を呑んだ。
ゆっくりと左を向くと、マサキの彼女が僕の腕を掴んでいる。
「マサキくんのお友達ですよね。たしか、ソウタさん? この間紹介してもらったんですけど、覚えてます? マサキくんの彼女のミサです」
「あぁ……覚えてますけど……」
「よかったぁ、覚えてくれていて。……ここで、何をしていたんですか?」
ミサは満面の笑みを浮かべて言う。
「別に何も……。仕事が終わって、家に帰るところだけど……」
僕が言うとミサは、ふうん、と鼻を鳴らした。
「ずっと、見ていたんじゃないですか?」
「何を……?」
「私のことをですよ。偶然、木の後ろにいたなんて、おかしいでしょう?」
——歩き出した時に、見られたのか。まずいな……。
「……会社から電話がかかってきて、少し話をしていただけだよ」
嘘をついた僕が思わず目を逸らすと、ミサは僕の左腕を掴んでいる手に、ぐっと力を入れた。女性にしては力が強い。血管が圧迫されているのか、手の先に血液が溜まっているのが分かる。
「本当に? マサキくんに電話をかけたんじゃないですかぁ?」
ミサは笑顔のままで首を傾げて、僕の顔を覗き込む。その顔に、なぜだか全身の毛が逆立った。
「違うよ! ちょっと、用事があるから!」
僕はミサの手を振り払って、走り出した。
「なんだよ、あの子! 言われたくないんだったら、浮気なんかしなければいいのに!」
電車に乗るために駅へ着くと、構内は人で溢れ返っていた。スーツ姿の会社員が携帯電話の画面を見ながら歩いていたり、制服を着た学生が集まって大きな声で話をしている。いつもなら煩わしいと思ってしまうが、人が大勢いることに、安心感を覚えた。
——マサキから、連絡は……。
僕は携帯電話の画面を見たが、まだ何の連絡もないようだ。早く話したいことがある時に限って、連絡がとれないなんて——。
「ねぇ」
後ろから女性の声が聞こえた。
僕が勢いよく振り返ると、そこには笑顔のミサが立っている。
彼女の姿が目に入った瞬間、心臓の鼓動が大きく早くなり、上手く呼吸ができなくなった。
ミサは10センチ以上ありそうなヒールを履いているのに、僕と同じ速さで走ってきたことになる。しかも僕は息苦しさを感じているのに、彼女は全く息が乱れていない。
「まだ話は終わっていないのに、逃げないでくださいよ。私、思い通りにならないと、イライラしちゃうんですよね」
言葉が出てこない僕を尻目に、ミサは話を続けた。
「マサキくんに、私が他の男の人といたって言おうとしているんでしょう? そういうことをされると、困るんですよねぇ。私の計画が狂っちゃうじゃないですか」
ミサは笑顔なのに、目は笑っていないような気がした。まるでナイフの刃先を向けられているような恐怖が僕を襲う。肌がジリジリとした痛みを感じて、浅い呼吸しかできない。
ついさっきまでは友人の彼女という認識だった女性が、得体の知れない不気味な何かに見えてくる。
耐えられなくなった僕は、ミサとは反対側へ向きを変えて、走り出した。
「鬼ごっこが好きなんですねぇー」
後ろの方からミサの声が聞こえる。
色んな人にぶつかりながら走る僕を、周囲の人たちが見ているのが分かったが、構わずに走った。
『怖い』ただそれだけしか考えられなかった——。
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