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後編
駅の裏口から10分ほど走った頃。僕はふと立ち止まった。
——このまま家へ帰ったら、あいつに僕の家がバレるんじゃないか……?
自分より小さくて力も弱いはずの女の子に、なぜこんなにも恐怖を感じるのだろうか。理由は分からないが、身体の震えが止まらない。
僕はとりあえず息を整えようと深呼吸をした。その時——。
カッ カッ カッ と、細くて固いものを打ち付けるような音が響いた。
その音が聞こえた瞬間、ミサのハイヒールが僕の脳裏に浮かんだ。細いヒールで、つま先が尖った、真っ赤なハイヒールだ。
「うそ、だろ……」
僕はまた走り出したが、足がもつれて上手く走れない。いつまで逃げ回ればいいのだろうか。どこへ行けばいいのだろうか。
——そうだ……。マサキの家へ行けばいいんだ。あいつは浮気をしているのをマサキに知られたくないんだから、マサキの家に逃げ込めばいい……!
それに僕の家まで走るより、マサキの家の方が近い。ここからなら10分くらいで行けるはずだ。
僕は大通りから住宅街の方へ入った。
真っ直ぐに走るより、迷路のような住宅街の中をジグザクに走った方が、ミサを引き離せるのではないかと思ったのだ。それに、今日の月は明るくないので、僕の姿も見え難いはずだ。
僕は走りながら、ミサのハイヒールの音が聞こえないことに安堵していた。はっ、はっ、はっ、と自分の苦しげな呼吸音だけが、静かな住宅街の中に響く。
僕の足が限界を迎えた頃、やっとマサキが住んでいるアパートに着いた。
何とか2階まで上り部屋の前へ行くと、電気がついている。
——なんだ、帰ってるじゃないか。
僕は呼吸を整えながら、チャイムを鳴らした。
——早く、早く!
心の中で叫びながら待っていたが、マサキは出てこない。僕はもう一度、チャイムを鳴らした。その時——。
遠くから、カッ、カッ、カッ、という音がしていることに気付いた。おそらくミサだろう。
「もう……何なんだよぉ……」
吐き出すように呟いた声が震えた。
ドアノブをガチャガチャと乱暴に回してみたが、鍵が閉まっている。思い切り引っ張ってみても、やはり開かない。
その間にも、ハイヒールを履いて歩く音はどんどん近付いてくる。
僕は横へ移動して、窓へ手をかけた。鍵が閉まっているが、構わずに揺らす。
前にマサキが、部屋の窓を揺らしていると鍵が開いた、と話していたのを思い出したのだ。防犯上はよくないが、まさか役に立つ日がくるとは思わなかった。
そして何度も窓を揺らしていると、ガリッと音がして、窓が開いた。
「良かった……!」
僕は急いで窓から部屋の中に入り、鍵を閉める。これでミサは入ってくることができない。そう思ったら、全身の力が抜けた。
「マサキ?」
僕は靴を脱いで、部屋の中を見まわした。
しかし、そこにマサキの姿はない。電気はついているのに、トイレや風呂場にもいなかった。電気をつけたままで、出かけているのだろうか。
僕はもう一度、マサキに電話をかけた。
すると——どこかでブブブ、と固いものが振動する音が聞こえる。携帯電話をマナーモードにしている時の音だと思った僕は、部屋の隅に散らばった漫画を退かした。
「あっ……」
漫画の下には、携帯電話がある。部屋の中に携帯電話を置いたままで出掛けているようだ。おそらく漫画の下敷きになっていたので、見つけることができなかったのだろう。
「何やってるんだよ、こんな時に……!」
僕がマサキの携帯電話を拾い上げると、カッ、カッ、カッ、と足音が近付いてきた。ミサがアパートの2階に上がってきたようだ。ハイヒールで歩く音は段々とゆっくりになり、部屋の前で止まった。
僕は立ち上がってドアを見つめた。鍵が閉まっていると分かっていても、やはり身構えてしまう。
——大丈夫。静かにしていれば、気付かれないはずだ。
そう自分に言い聞かせて、呼吸を落ち着かせる。
それにしても、なぜミサはマサキの家へ来たのだろうか。僕は行き先がバレないように、住宅街の中をめちゃくちゃに走り回ったのだ。その間は、ミサが付いて来ているようには思えなかった。
——まさか、僕がここへ来ると予想していたのか……?
ゴリゴリ、と小さな音が聞こえた——。
すぐにそれが、鍵を差し込んだ音だと分かった。ミサは、合鍵を持っていたのだ。
「嘘だろ……!」
僕はベランダへ向かって走った。2階からなら、僕でも飛び降りることができる。
急いで靴を履いて、ベランダへ出るための掃き出し窓を引いた。勢いよくバン! と窓が開いた瞬間。
ギャア! ギャア! ギャア! ギャア!
数え切れないほどの黒い影が、ベランダから飛び立った。
「うわあぁあ!!」
赤い月が浮かぶ空に、数十羽のカラスが舞う。もし地獄というものが本当にあるのなら、こんな光景だろうか、と思った。
——なんで、ベランダにカラスが……。
僕はベランダに目をやった。
カラスがいなくなったベランダは、夥しい数のハエが飛び回り、吐き気を催すような異臭が立ち込めている。何かが腐っているようだ。
僕は口元に腕を当てて息を止めた。
ハエを追い払いながらよく見ると、ベランダにはボロボロになった黒いビニールが散らばっていた。
白や茶色の物体が転がっていて、赤茶色の液体が流れ出ている。生ゴミを入れたビニール袋だったようだ。破れているのは、おそらくカラスがつついたからなのだろう。
なぜマサキは、大量の生ごみをベランダに放置していたのだろうか。彼は几帳面な性格なので、そんなことをするとは思えないし、ひとり暮らしの家の生ごみにしては、量が多すぎる。
ふと、一番端にあったビニール袋が目に入った。その袋だけは、まだ形を保っているが中身が見えている。
——なんだ? あれ……。
目を凝らした瞬間、僕は息を呑んだ。
黒いビニール袋の裂け目から——腕が見える。
指は折れ曲がり、茶色く斑斑らになった手は、マネキンではないような気がした。
不格好にゴツゴツしている手。あれは人間の、男の手だ——。
僕はやっと、自分が思い違いをしていることに気が付いた。
ミサは、色んな男と遊んでいるのを、告げ口されたくなかったのではない。
マサキがいなくなったことを、気付かれたくなかったのだ。
——やっぱり、早く帰ればよかった……。
キィ……と、扉が開く音が聞こえた。
「楽しいねぇ。鬼ごっこ♡」
〈了〉
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