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「雪奏さん。いつまで店を開けている気ですか」
「今日は誰か来る気がするんだよ」
そのセリフは昨日も聞いたし、その前も、その前も、その前も聞いた。だがこの楽器店に人影が掠めることはない。少なくとも俺の見える範囲では。
「想太はせっかちだよね、昔から。いつも早く早くーって。気長に待たないと、ここにお客様は来ないよ?」
店主の雪奏さんはニコッと効果音が付きそうな、実に典型的な笑顔を首を傾げつつ見せた。今日も彼はその色白の手で自前のチェロを手入れしている。ドアのガラスから見える店先に目をやると、灰色の雲が空を覆い隠していた。これは雪が降って来そうだ。
俺がこの店で雇われて半年。俺は家なし、金なしの生活をしていたところを雪奏さんに拾われた。それまで俺は何年も街を彷徨い続けていて、余程常識がなかったのか誰に話し掛けても無視され続けていた。よって就職先は見付からず、まともな食事にありつけることも出来なかった。
自分の実家を頼ろうとしたものの、いつの間にか元の家は既に解体されていて居場所を突き止めることも出来ず。絶え間ない絶望感に浸っていたところを声を掛けてきた人がいた。それが雪奏さんだった。
トントン拍子に店員となることが決まり、一時的ではなくこれから先も一緒に暮らすことに決まってしまったが、悪い気はしない。唯一の決まりごとは『俺一人で出掛けないこと』のみ。
何とも簡単な決まりごとだった。子どもじゃあるまいし。
「想太、松脂取って。あとクリーナーも。クリーナーは普通に汚れを綺麗にする用のね」
「これからは自分で取ってくださいよ」
「はいはい。――おっと」
俺は手で物を掴むことがあまり出来ない。握力が弱いとか、手が不自由という訳でもないはずなのに、いつからかこうなってしまった。しっかりと手にクリーナーと松脂を持ったはずがポロッと落としそうになり、すんでのところで雪奏さんの手に受け止められる。カウンターから身を乗り出して渡そうとしたのがいけなかったのだろう。
「危ない危ない。床がベタベタになるところだった。これからは自分でやるようにするよ••••••なるべくね」
「なるべくじゃなくて、いつもやるように心掛けてください」
「分かったよ。想太は昔からしっかり者だもんね。そうだよね、そうだよね」
「••••••••••••」
俺はいつもの定位置になっている、カウンターの近くに置かれた椅子に座り直した。
それにしても、雪奏さんは俺にいつも小言を言われて嫌ではないのだろうか。本人に直接聞いたことはないが、何故か俺に小言を言われると毎度毎度嬉しそうにするのだ。ちなみに俺は小言を言われるのは単純に嫌いである。雪奏さんは何だか変わった人だし、やはり感性も俺とは全く違うのかもしれない。
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