月の下には非常食

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 その日は月明かりが強く、見事なまでに星の光が薄らいでしまった夜だった。 「みぃ、みぃ」  猫の鳴き声になってしまった呼びかけに、名付けの失敗を思った。  夜になったらいくら月明かりが明るくとも、伸びっぱなしのセイタカアワダチソウの前には無意味で、子供の背丈をゆうに超えた影に遮られて、黒猫の姿は見つからなかった。  次に猫と暮らすときは、黒猫はやめておこう。そう密かに決意をしたとき。 「ミィ」 「みぃ!」  特徴のある鼻にかかった鳴き声は、間違いなくうちの猫のものだった。黒い茂みの中で、金色の瞳だけは火の玉のように爛々と輝いていた。  私が「みぃ、なんでこんなところにいるの! 夜に外出たら探し回らないと駄目でしょ!」と叱っていたら、私のスカートの裾をしきりに噛んで引っ張る。 「なに。これから寝るんだから、服引っ張ったら洗濯しないと駄目なんだけど」 「ミィ」  なにかを訴えているようだった。みぃは頑固者であり、こちらが折れなかったら絶対に言うことを聞いてくれない。私は渋々みぃがときおり振り返る金色の瞳を頼りに、セイタカアワダチソウの茂みを掻き分けて行った。  やがて。生臭いにおいがむわりと広がっていることに気付き、思わず鼻を抑える。 「ちょっと……なに」 「ミィ」  みぃの鳴き声と一緒に、誰かの虫の息が聞こえた。私はとうとうその辺りのセイタカアワダチソウを叩いてへし折ると、茂みの中に誰かが倒れていることに気付いた。  茂みの中でしゃがみ込んだらまず見つからないような華奢で小柄な男の子だった。それに私は息を飲んだ。 「ちょっと……! あなたなにこんなところで……ええっと、救急車? 警察?」  スマホなんて持ってきてない。この辺りに夜間営業の病院はあったか。私がまごまごとしていたら、男の子の手がにゅっと伸びてきて、私の足首を掴んだ。その手は驚くほど冷たい。 「やめて。病院にも警察にも行きたくない」  きっぱりとした拒絶に、私は少しだけほっとした。私だって正直、このふたつに行くのは気が進まないところだったのだから。 「そう。それならいいけど。ならあなた誰よ」 「知らない」 「おうちは?」 「わからない」  やたらときっぱりとした物言いだ。私はとりあえず、男の子に手を差し出した。 「立てる?」  男の子は戸惑った顔でこちらを向いた。月明かりで照らされたその子の顔はやけに白くて、その上驚くほど整っている。私はその子を立たせると、そのまま手を引いて行った。 「私はもね。とりあえずあなたに名前を付けようか」 「ペットじゃないよ」 「名無しの権兵衛でななしとか権兵衛とか付けるのも今風ではないでしょ。とりあえず蔵人」 「……やけに格好いい名前だね」 「そう? 知らない? クロード・モネ。私あの人の絵は結構好きなんだけど」  引く手はやっぱり冷たく、それでいて生臭くなるほど血を流していたにしてはしっかりした足取り。ますますもってこの子は誰なんだろうなあと考えるが。  今時訳ありなんて、息を潜めて必死に隠れないと、SNSですぐ拡散されるんだから、いちいちほじくり返しても仕方ないかと納得した。 ****  私が住んでいるのは、地主が死に、土地を売却するより家を更地にするほうが金がかかるために割に合わないからと浮いてしまっていた屋敷を、格安で買ったところだ。  どれだけ安いかというと、今時の女子高生のひと月分のアルバイト料金で買い叩けたくらいだ。  土地価格が安い分だけ、この土地は訳ありで評判も悪く、私がわざと伸ばしっぱなしはいずりっぱなしにしたツタバラの禍々しい様相で、ますます人を遠巻きにしてしまっていた。  その屋敷に連れて帰ると、案の定蔵人は呆気に取られた顔をしていた。 「……お化け屋敷じゃん」 「そのほうが人間が寄ってこないでしょ。私人間嫌いだし。それじゃ手当てしましょう」 「うん」  私が脱がせようとすると、蔵人は心底嫌がった。無理に脱がせて、とりあえず蒸しタオルで拭いてから薬を塗ってあげようと先にタオルで拭うと、蔵人は過敏に反応する。 「ひゃんっ」 「変な声」 「くすぐったがりなんだよ」 「ふうん」  そんなもんか。傷口は血生臭いからてっきり切り傷だとばかり思ったのに、むしろ火傷のほうが多い。私は手持ちの薬を切り傷の消毒液から炎症止めに切り替えて、丁寧に塗ってやると、やっぱり過敏に反応する。  感度がいいにもほどがある。 「とりあえず、今は下着はないから替えられないけど、服は私の手持ちのものがあるからそれを着て」  量販店の男女両用のスウェットは、Sサイズならば普通に彼にも見合った。  屋敷には部屋がたっぷりあるし、ベッドをひとつ掃除して空けてあげたら、すぐに寝床になってくれた。 「それじゃあ、ここで寝ていいからね」 「うん……もねはどこで寝るの?」 「私は私室」 「……一緒に寝ないの?」  それに私は「あー」と思ったものの、口には出さなかった。 「私、非常食じゃないわ」  そう言ってのけて、最後に「傷が治ったらシャワーはあるから。浴室はあっち」「しばらくうちにいたいんだったら、働かなきゃ駄目よ。小さいからって容赦しないから」とだけ言って、私室に戻った。  私室で私はみぃを抱きかかえて、喉をくすぐってやる。みぃは「ミィ」と暢気に鳴くのに、私はペチコンと頭を抑える。 「変なもん拾ってきちゃってねえ。私、人間嫌いよ? エクソシストとか来たら嫌だわ」  私室の揺り椅子をしばらく揺らしながら、どうしたもんかと考えた。 ****  私室ははっきり言ってごちゃごちゃしている。  古い本の詰まった本棚。木のお守りを窓に何個もぶら下げている。古いものを置いているとどうしても動くたびに埃が舞うけれど、いいこともある。  ベッドの音がしなくても、風の揺れで誰が来ているかがよくわかる。 「だからね、私は非常食じゃないの。あなたなにやって怪我したのよ、インキュバス」 「えー……」  私のベッドに膝を乗せようとしていたのは、やけに通った顔をし、少し背丈が足りなくなったスウェットを着た青年がいた。声は少し低い。 「なんでわかったんだよ」 「あのねえ。血塗れで倒れててあんなに軽症な人間はいないから。しかもあれ、ほとんど火傷というか……聖障でしょ。聖障を負うとなったら悪魔しかいないし、私の寝込みを襲うとなったらインキュバスしかいない。違う?」 「……あんた、何者?」 「本当におこちゃまねえ。体ばっかり大きくって」  私はよいしょと起き上がった。 「黒猫飼って屋敷に立てこもってるのなんて、魔女しかいないじゃない」 「……なんで?」 「人間嫌いだもの。でも私たちも人間の近くにいないと生活できない以上、人間の街にできるだけ人間を寄せ付けないで生活するしかないでしょ」  起き上がって、手始めに蔵人の口の中に私の指を突っ込んだ。それに彼は目を白黒とさせる。  唾液がポタポタ、ポタポタと落ちてくるけれど、気にすることもなく、私は自身の魔力を込めて、彼の喉を指でさする。 「なにやったの。エクソシストにでも怒られる真似したの?」 「べちゅに……ゲホ」  私が魔力を与えたら、さっきよりも顔色がよくなっていた。火傷だって消えているはずだ。  蔵人はベッドに座り込む。 「食事していたら、女子を襲うなって」 「そりゃね。見つからないようにやりなさいよ」 「教会がなかったから大丈夫だと思ったんだよ。甘かった」 「そう」 「……あんた、ここにしばらく置いてくれるみたいだけど、エクソシストから匿ってくれんの?」 「人間の理屈だけに付き合ってたら、私たち生きてけないもんねえ。でも人間がいないと死んじゃうのよね」  私はぺちぺちと蔵人を撫でると、大人しく撫でられていた。どうも彼、本年齢はさっきの子供のほうじゃないかと思えてならない。 「私の使い魔になるんだったら、置いててあげてもいいけど。どうする?」 「……そういえば、あんた何歳だよ」 「黒船の頃にこの国に来たのよね」 「ババアじゃん」 「やかましいわ」  なにかと世の中窮屈で、見つからないように暮らすのもひと苦労だ。  その中で私たちは久々に出会った同業者と、息を潜めて生きてみる。 <了>
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