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男の正体
一面銀世界になってしまった野辺山を抜けながら、私たちは黙々と歩いていく。聞きたいことはいろいろあるが、体力を温存する方に体は舵を切っていた。
夜が明け陽がさす頃には、全身のあらゆる筋肉が悲鳴をあげ、いつもとは違う歩き方をして、なんとか普段使っていない筋肉で歩を進めるという、極限状態に陥っていた。
途中途中のチェックポイントでは、チョコレートやクッキー、信州そばなどをいただいた。食べ物がこんなに美味しいと感じられたのは初めてだ。
休んで食事を取れば、回復したような気にはなるのだが。止まってじっとしていた分、動き出すのに気力を使う。潤滑油の切れた機械になった気分だった。
そのまま気を失ってもおかしくないほどボロボロの体を、無理やりに動かす。そして、ただただ目の前のコースに向き合いながら、私はずっと母のことを考えていた。
––––お葬式の時、泣くことができなかった。お母さんが亡くなって「これで自由にお金が使える」「死んでよかった」って喜んでるんじゃないかと思って、自己嫌悪に陥った。親戚たちからは母の金遣いの荒さとか、人付き合いの悪さとかを指摘されて、故人が汚されたような気持ちになって……。
いろいろな人の言葉に汚されて、悪い母親に育てられた可哀想な子というレッテルを貼られて、自分の気持ちが見えなくなっていた。
意識は朦朧としながらも、自分に向き合い続けることで、ようやく悩み続けていた答えを出すことができた。
「私、お母さんがやっぱり好きだった。死んじゃって、悲しかった。たしかにダメな人だったし、迷惑もたくさんかけられたけど。それでも私にとっては、かけがえのない人だった」
気づくとまた、涙の筋が頬を伝っていた。
月夜に流した涙とは違う、心の奥底から流れ出すような涙だった。
「そうさ、お前の心はずっとそう言っている」
ずっと黙っていた男が、そう口を開く。
「あなたは誰なの……? どうして私が考えていることがわかるの?」
「このイベントのコース案内の裏面に、俺たちのことが紹介されてるってんで、面白半分できてみたのさ。本当はこれをもらったらすぐ帰るつもりだったんだが。たまたまあんたの心の叫びを聞いて、ついちょっかいを出しちまった」
私はコース案内を取り出し、裏面を見てみた。そこにはこの地域の観光情報に関する記事が載っており、そのひとつに「長野・山梨の妖怪」というコーナーがあるのが目に留まる。
妖怪「サトリ」、この地域では「オモイ」というらしいが、人の心を読んで、からかうのが趣味だと書いてある。
「まさか、あなたって」
顔を上げた時には、もう男の姿はなかった。
忽然と消えた男の姿に衝撃を受けながらも、間も無くチェックポイントの通過リミット時刻が近づいていることに気づき、私は慌てて歩き始める。
最後は気力との勝負だった。
頭は朦朧とし、軋む全身の筋肉を、最後の力を振り絞って前へ前へと動かす。
ゴール地点の総合体育館に着く頃には、もはや生まれたての子鹿のような状態で、建物の中に入った瞬間その場に崩れ落ちた。
とてつもない解放感とともに、清々しい笑いが漏れる。
––––お母さん、どうか安らかに。
完璧な親などいない。誰しもいいところがあって、悪いところがある。
大事なのは、親という巣を飛び立ったあと、自分がどう生きるかだ。
踏破者の表彰式が終わり、踏み出す私の一歩は、弱々しいが、迷いのない一歩だった。
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