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彼女は私を見ていないが、私を愛している。
私は彼女が視えていても、愛に触れられない。
燃える茶室の中で、私は彼女に身をまかせ、常夏の夜咄(よばなし)に耽った。
雨のしとどに降る庭に、小走りで駆け込む。お天道様が汗ばんでいるような居心地の悪い空気である。青々と苔むした地面。飛び石の傍で、しきりに揺れるシダや熊笹の露を弾きながら、漸く玄関にたどり着く。
「すみません、遅くなりました」
網戸を開け、声を張り上げる。ふぅと息を吐いていると、家の奥から袴の捌ける音とともに
「えらい雨やなァ」
先生が、うなるように現れた。光沢のある薄物を、ふっくらと纏っている。
「ええ、バス全然進まへんくて」
傘を立て、シャツについた露をハンカチで払いながら、苦笑いで見上げると
「かまへん、かまへん」
先生は鷹揚に頷いて、外を見遣る。
「せっかく七夕やいうのになァ。よしよし、はよお上り」
いかめしい白髭の中に気さくな笑みをつくって、踵を返して行ってしまう。慌てて靴を脱いで後を追う。
「夜には止みそうか」
「ええ、たぶん、雲間も見えてましたし」
先生のもとで茶道を習いはじめて、十年ほどになるが、廊下はいつ歩いても、こざっぱりと清められていて気持ちがいい。ひんやりとした空気に触れているうち、気づけば呼吸も落ち着いていた。
水屋の流しに置かれた盥に蓮の葉が挿してある。
「葉蓋ですか」
「七夕やし、ちょうどええやろ。梶の葉ァがあればよかったけど」
「蓮は水の溜まるんが、綺麗で好きです」
「そやな」
にっこり笑うと、先生は茶室に入る。
切箔を散らした、黒塗りの水指の上に、白露のたまった蓮の葉を乗せると、なんとも涼しげである。桶の中には、使い終わった葉が四枚ほど捨てられていた。
「ちょっと前までみんな待っとたんやけどなァ。寂しい稽古やけど、ほな始めよか」
「はい、葉蓋点前、よろしくお願いします」
点前座で居住まいを正し、ふうっと深呼吸をしたとき床の間にあらぬ姿を捉えて、アッと、茶碗をとり落としそうになる。先生は訝しげに、床の間を振り返って、眉を顰める。
「どないしたんや」
人が、と、いいかけて、口を閉じる。先生のすぐ下座に、白練の着物を着た女の人が座った。それに全く気づかないということは、きっと、見えていいものではないのだ。こういう場合、気づいていないふりをした方がいい、と何かで読んだ気がする。
「早う、次、棗やで」
「は、はい」
意識を手元に戻し、棗をとる。
幽霊なのだろうか、はたまた生霊か……恋多き先生のことだから、どこぞの女の人の恨みをかって憑かれている、といっても不思議ではない。この前だって、二人の女性が稽古中に押しかけてきたことがあった。もちろんそれは、生身の人間ではあったが、雷鳴を轟かさんばかりの凄まじい剣幕で、袖を引き合い引き合い、絵に書いたような修羅場であった。我々弟子は縮み上がっていたが、先生は言葉たくみに宥めすかして、なんとか丸く収まったように見えた。
けれども彼女は、そのように先生に固執しているようには見えない。仄暗い床の間の白い夕顔の蕾を、じっと、静かに見つめている。そのほっそりした横顔が、慎ましく優しげで、とても、先生への恨み辛み、といった風を感じない。
きっと生身の人間の方が恐ろしいのだ、と変に合点がいった。と、ぱちりと目が合った。あ、と思ったときにはもう遅い。憑かれるか、喰われるか、と身構えるが、彼女はただ恥じらうように俯いた。頰にはらはらと、横髪がこぼれかかる。ちょうど夕陽に薄雲がさっと重なって、紅色の光が見え隠れする、そんな風情である。ほうっとため息が洩れた。
「なに一息吐いてるんや、清めたらそのまま置かんと」
「す、すみません」
棗を水指の前に置いて、帛紗をさばき直して茶杓をとりつつ、懲りずにまた、ちら、と見てしまう。ふっくらと柔らかな、絹のような人。しっとりとした笑みを浮かべ、吹いてはかき消えてしまいそうな細い体つきをしているが、その黒々とした瞳には、妙な意思を感じる。なにかを訴えるような、熱の込もった眼差し。
──コーン
唐銅の建水に茶碗がぶつかって、耳障りな音が鳴る。
「し、失礼しました」
咳払いしつつ、棗から抹茶を掬って茶碗に入れる。やはり、流れで、ちら。
彼女もほんのりと首をもたげていて、また目が合う。と、ふうわり、夕顔の花がほころんだ。
「柊一くん」
「は、はい」
「なんや、さっきから。気になることがあるんか」
「いえ、その、床の間の……夕顔が、綺麗で」
「あァ、夕顔な」
先生が振り向く。厳しい眼差しがふっと和らいだ。私はほっと息を吐いて、水指から蓮の葉をとり、露をころんと建水に落とす。
──ちら。
雨音を聴いているのだろうか、彼女は心地よげに目をつむっている。長い睫毛が、澄んだ白い肌に映えている。瑞々しい人。
「いま、開いたんか」
「あ、ええ、ちょうど、ふっと咲いたんで、見とれてしまって」
葉をたたみ、建水へ捨てる。
「よう気ィついたなァ」
「はァ、ほんま、たまたま目に入ったんです」
「さよか」
それだけいうと、先生は重々しく居直って、また私の所作をじっと見つめる。
釜がしゅんしゅんと音を鳴らし、湯気がすっと立ちのぼる。薄茶を点てる。
いったい、彼女は先生と、どういう関係なのだろう。どうして、私にしか視えないのだろう。何を思って、今日ここに現れたのだろう。ふつり、ふつり、心が泡立ってくる。
細かな金が瞬く硝子の平茶碗を、先生に出す。
「頂戴します」
一口含んで、先生は眉を顰めた。
「なんや、奔放な味やな、柊一くんらしゅうない」
「奔放……」
「そんなに夕顔が気になるか?」
「いえ、そういうわけでは」
「ふん、まァ、今日は焦ってきはったしな、うん、よろし」
返ってきた茶碗をとりこんで、お湯を注ぎながら、おずおずと尋ねる。
「あの、先生……長年、逢いたいのに逢えへん人とか、いはりますか」
「なんや藪から棒に」
先生は目を丸くして、吹き出した。
「風邪でも引いてんのんちゃうやろな」
「いや、引いてない、と思いますけど、その、七夕やし」
「七夕いうても、浮き足立つ君やないやろ。なんや、おかしいなァ今日の柊一くんは……そやけど、まァおるわ、そういう人は」
「それは、どういう……」
「その前に、稽古終えてしまい」
「あ……」
水屋で片付けをしていると
「柊一くん、ちょっと来てみィ」
茶室から声がかかる。先生は掛け軸を変えているところだった。新しく掛けられたのは、岩清水のような細く繊細な字で
心あてに
それかとぞ見る白露の
光そへたる
夕顔の花
「源氏の……」
「ああ、ようわかったな」
先生は腕組みをしながら、どこかが痛むように目を細めて眺めている。その隣に、彼女はしんみりと、俯きがちに佇む。
「あんまり茶室に恋歌はそぐわんのやけど、折も折やしな」
「さっき、いうてはった逢いたい人の?」
「そうや、ゆうこの字ィや」
「ゆうこ、という方が夕顔の歌を……?」
「そうや、可愛らしいやろ。『源氏物語』のなかでも、夕顔が好きやいうて、よう書いてたわ。名前も、境遇も似てて身に沁みるいうてな」
「境、遇」
「夕顔は源氏と出会う前、頭の中将と関係があったやろ、子どももおって」
「ああ、雨夜の品定めで中将が語る、常夏の女……でしたか。確か、中将の正妻から嫌がらせを受けて、行方をくらまして、五条に身をひそめてたところを」
「源氏に見出されるんやな。乳母の見舞いに来てた源氏が、隣の家の軒先に咲いてる夕顔の花を求めたら、女の方から白い扇を渡される、これにのせてください、いうてなァ、そこに書かれてたんが、この歌やな」
「艶っぽい場面ですね、光るの君かとあて推量に思ってます、なんて女の方から詠みかけるなんて」
「ふん、そうともとれるけど、わしは……頭の中将と間違えて詠んだんやと思うんや。色んなとこ転々としながらも、心のどこかで中将を待っとった、娘の父親として中将を頼りに思うてたんとちゃうやろか。源氏と深い仲になってもな。源氏は夕顔に虜になっててそんなことには気づかんと……あるいは気づいてても手放したくなかった、そんで結局死なしてしまう……わしも、おんなじや」
ため息まじりに項垂れる先生の肩に、彼女は気遣わしげに、手を添える。
「先生……」
「柊一くん、夕顔気に入ったんやったら、持って帰るか?」
「いいん、ですか」
「遠慮しんと持ってかえり。ああでも、彼女には渡さんほうがええで、ちと不吉や」
「は、彼女?」
「なんや好きな子ォでもできたんちゃうんか」
「なっ、違いますよ、あほなこといわんといてください。先生と違います」
「あほなことて、柊一くん、君は恋っちゅうもんを知らんからそんなことがいえんのや。『この人のためやったら死んでもええ!』そういう、沸き立つ感情がないとな、人生面白ないで。ええなァ、ああいう気持ちは、恋をしたもんにしか、わからへん」
「また先生は……舌の根も乾かんうちに」
「それはそれ、これはこれや」
先生のそういう、稽古の厳しさとは裏腹の軟派なところは嫌いではないが、ゆうこさんを想うと今は憎らしい。彼女の優しい手を、とってあげられる人はいないのか。哀切たる顔を、和らげられる人はいないのか。だったら私が、と思い浮かんではかき消す。馬鹿らしい。第一、彼女のことなんてまるで知らないのに、ちょっとした雰囲気に魅了されて手をとりたいなどと、これでは源氏とも、先生とも同じではないか──と、また目が合った。
ゆうこさん、その瞳には、いったい……。
宵空の河原には、雲が流れている。
彼女が、しきりに私を呼んでいる。声は聞こえないが、たしかに薄い唇に私の名をのせて、河向こうから袖を振っている。すでに足が動いていた。白くしなやかな手に導かれるままに、河を渡った。足元が冷たい。
──夕顔の花がしぼんでいる……。
わっと、飛びおきた。花台から水が滴って、布団を濡らしている。花器は動いていないのに、水だけが洩れだしているなんて、ひびでも入っていたのか。寝覚めが悪い。夏だというのに、肌寒い。
炉の季節になった。夏からずっと、蔓に巻きつかれているように、苦しい。ここでゆうこさんを視るたびに、蔓の数がふえてゆくようだ。今日の花は──夕顔? 変だ、冬だというのに。それに、掛け軸は、また夕顔が詠んだ歌である。
光ありと
見し夕顔の上露は
たそがれ時の
そらめなりけり
夕顔が六条御息所の生き霊にとり殺される、あの廃院で詠んだ歌、だったか。
一匹の蜘蛛が、床柱を歩いている。あ、落ちる。と思ったところを、ゆうこさんが掬いあげた。露のこぼれんばかりの流し目で
「なんで、来てくれはらへんのん」
透き通った声に、はっとする。
──暑い。
ストーブの火が消えている。熱の込もった布団をはねのけ、ぼうっとする頭をもたげて、枕元の崩れ乱れた本を積み直す。
夏以来、寝たきりの生活をしている。体が重い。対して心は浮遊しているように軽い。何の病か、締め付けられたように息が苦しい。姿を視ない日が重なるほど、かえっていっそう、彼女は鮮やかに私の中を立ち回った。ついに、声まで。知るはずのない声が、やけに懐かしく思われる。逢いたい。ほんの一目でも。
先生の家は、なぜか門にも玄関の戸にも鍵がかかっていなかった。こんなにも暗いのに、どこにも灯りがついていない。玄関に手をかけたところで
──ボーン
寺の鐘が鳴る。
「よう来てくれはりました」
露地の方から声がして見ると、蝋燭の灯りがゆらめきながら近づいてくる。照らしだされた顔が、ほんのりと咲んでいる。
「ゆうこ、さん」
「まあ、久しぶりのお声、うち、嬉しい」
「私を、待っててくれはったんですか」
「もちろんです、ずっと、ずっと、待ち遠しかった」
枝折戸をあけて、駆け寄ってくる。白い手を私に重ね、そっと引く。
「さあ、夜咄をはじめましょう」
「え? 夜咄? そんな茶事の作法は──」
「なにいうてはんのん、もう、準備できてますし」
「いや、しかもこんな適当な格好や、し……あれ」
いつのまにか、黒の御召を身につけている。私には手が届かないような、光沢ある上品な生地だ。
「わっ」
顔を上げると、露地灯籠が点々と灯っていて、茶室までの石畳をぼんやり照らしている。
「さ、悠一さん、おいでください」
招かれるままについていくが、はた、として
「悠一?」
「ええ、悠一さん」
「あの、私は」
「悠一さん、あなたは悠一さんでしょう?」
吸い込まれそうなほど黒い双眼が、ただ真っ直ぐに、私を見つめていた。
夜咄は夕暮れ時からはじまり、蝋燭の灯りだけを頼りに行われる冬夜の茶事、だと先生に聞いたことがある。茶事のなかでも最も難しい、とこれもまた先生がいっていたが、私はまだ、客の作法も学んでいなかった。けれども、先ほどからなぜか、体の方が知っていて、正客としての文言も、勝手に口からこぼれる。和蝋燭のとろとろとした灯りのもとで、ゆうこさんの流れるような所作にとり込まれそうになる。
「これは……」
手の込んだ懐石に、思わずため息が漏れる。黒い漆器のなかの艶やかな白米、まろやかな白味噌の汁物、向付はとろみのついた南禅寺蒸し。ゆうこさんの他に人の気配もしないのに、どのように準備されているのか、百合根饅頭の葛仕立て、艶やかなぶりの西京焼き、と次々に、湯気立ち、色香装う美しい料理が供される。盃を受け、八寸の雪輪蓮根に口をつける。暗がりに浮かび上がる白い蓮根。ふと、同じような光を感じて床の間に目を遣り、息を呑む、夕子さんがふうわりと咲まう。
「思い出すわァ、あの日もこんな夜やった……悠一さんも夕顔が好きやいうてくれはった日ィは。二人で植えた夕顔ですよ、覚えたはりますか」
「真冬に、夕顔なんて……」
「いややわァ、こんな暑いんやもん、夕顔ぐらい咲きます」
ああそういえば先ほどから妙に暑い。温かい料理のせいかと思っていたが、蒸し暑く、まるで夏である。体が火照ってくる。
「悠一さん、あの子のこと放って、もう帰ってきはらへんかと思うてました」
「あの子?」
「もう、自分の娘のことぐらい忘れんといて? 珠子のことです、私たちの撫子」
彼女の体が赤く、めらめらと照ってくる。結い上げていた黒髪は熱に濡れ、例の瞳でじっと、私を見据えてくる。
「……悠一が、好きですか」
噛みしめるようにいうと、ゆうこさんは瞬きをしては、そっと俯いて、袖で口元を隠す。
「なにを改まって、もう、ずるい。ずっとおらへんかったくせに」
ふっと、一度深く息を吸った。じっとりとした懐かしい夏の匂いを胸に満たす。
「もうどこにも、行かへんから。なァ、ゆうこ」
そう口にすると、ゆうこさんは、ほっと眉を開いて、手をのばしてくる。
「ほんまですよ、悠一さん、今度こそ」
先生、今こそはじめて、恋というものがわかった気がします。
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