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「月には何かが住んでると思う?」
酒精をたっぷりと蓄えた水面にまあるい月が浮かぶ。全ての人間の醜さを許さずただしんと浮かぶ黄金色は、冷たい光でもって私を見つめていた。──仮定の話。仮定の話だが、月に何かが住んでいるのだとしたら、その生き物はきっとヒトの醜さを許さない公正さと冷たさを伴っているのだろう。人ならざるものは雲の上か、月に住んでいると相場が決まっている。探せば鏡の奥にも、地の底にも居るだろう。
「今のところ月に生き物が居るとは思えないが」
私は思考の一端を舌先に乗せる。音にならずに喉の奥で消えた諸々の感情を目の前の彼女に伝えたところで詮無きことだ。彼女は空想や夢想が趣味の私とは異なり徹底した現実主義者だ、噛んで含めるように諭されるのが目に見えている。
「じゃあ、次の質問だよ」
「月は涙を流すと思う?」
──ここでようやっと、私は彼女の眼を見た。今日の彼女は明らかに様子がおかしい。普段ならばこんな浮ついた問い掛けはしてこない。月夜の酒盛りに気分が上がっているのかとも思ったが、色素の薄い睫毛に縁取られた眼には、無機質で温度のないふたつの月が煌々と輝いていた。
「あり得ないだろう」
私は酒精と手を取り合って踊っている最中に、冷たい手で肩を掴まれた感覚を憶えた。その手や指は氷のように冷たいのに、責めるように、縋るように私の肩を掴んでいる気がする。
「あり得ないよねえ。月が泣くなんてさ」
その言葉には揶揄というよりも、確認の意味が込められていた。……そうして彼女は、ぽつりぽつりと語り始める。彼女が幼い頃、夜もとっぷりと更けた時間帯に部屋から窓の外を眺めていたら、真っ白な翼の生えた美しい青年と出会ったらしい。
その青年は整った顔貌にそぐわず、笑わず、喋らず、ただ彼女の頭を優しく撫で続けていた。寝付けずに一人で外を眺めていた彼女は、翌朝にはいつの間にかベッドで寝てしまっていたのだという。
他人が聞いたら荒唐無稽としか思えない話だったが、私はすっかりその話の虜になっていた。気付けば酒も、進んでいた気がする。
「その彼に会ったら、君は何を言いたいんだ」
酒精に踊らされていたこともあり、熱を帯びた好奇心に駆られるまま私は問うた──彼女は瞬きを繰り返して黙り込みゆっくりと頭を垂れる。物事を深く考える時に耳元のピアスへと触れるのはいつもの癖だ。
「また会えるとしたら、か……」
彼女はどこか、覇気の無い声で呟く。それに私は思わず眉を顰めて怪訝そうな顔をした。酒の肴としての話題に出すくらいには会いたいと願っているのだろうに、なぜそんな声を出すのか。曇った声色の理由が分からず私は短く問い掛けた。
「──なあ」
「……例えば」
「──……?」
彼女の声は微かに震えている。
「……この人に会えたら自分の全部を投げ出してもいいと思える人と会ったとして、
その出会いに二度目が有ったら君はどうする?」
──……突然の問い掛け。困惑しながらも私が応じようと口を開けば、音が形となる前に再び彼女の声が被せられた。角の取れたまろい声は静かだが確かな怯えに浸され、耳に優しく柔らかいそれは私の脳髄の奥深くへと流し込まれていく。
「もし、全部を投げ出してでも会いたいことを伝えて、それを聞き届けられて、
──いつかまた必ず会いに来ると言われたら、
君はどうする?」
「私は、」
……意識の奥底。氷のような冷たい手が、肩から首筋へ滑る。そうして私の首を、少しずつ、少しずつ──……、
「君は、」
「私は、」
私は、君は、私は、私は、君は、私は───
囁くような音の群れ。
それは静かな、確かな、小さな恐慌。
ふたつの月から、透明な雫がいくつも落ちる。
月が、泣いている。月が泣いている。
……ああ、綺麗だ。
「わたしはまだ、いきたくない。
きみと、きみと──……、」
──私の記憶は、その光景を最後に途切れている。
『迎えに来たよ、今度は離さない』
『ずっと一緒に居よう』
『永遠の中で、君は生き続けるんだ』
『時間にも囚われず、ずっと美しいまま』
消えゆく意識の端で、小さな声が聞こえた気がした。
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