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──細くほそい、金色の弓。矢をつがえて放てば地面に大穴を開ける巨大な弓。柔らかい丸みを帯びるまで頭上から俺達を狙っているのは、天使か、悪魔か。
俺は秋風の吹く夜道を急ぎ足で帰りながら、そんな取り留めのないことを考えていた。今日はとことんツイていない一日だったからそんな現実逃避に走ることで帰路につく心を少しでも躍らせようと試みていたのだ。帰ったところで出迎えてくれる人も居ない、一人の部屋で寝付くまでの酒を楽しみにするワケなのだが。
──こんな時ばかりは伴侶の居る数少ない自分の友人たちが羨ましくなる。しばらく会っていない顔ぶればかりだが、みんな元気にしているのだろうか。いつかは機会を設けて集まりたいものだ。
「うおっ、……さっみぃ……!!」
短く刈った襟足を撫でる風が一段と冷たい。危機の迫った亀よろしく首を窄めて歩いてみるが、虚しい努力に終わりそうだ。俺の首筋はいま風邪を引くかもしれないという危機に瀕しているというのに。
早く帰る。帰って風呂に入って酒を飲む。
──……そのとき。すれ違う人影と、とん、と。肩がぶつかった。謝ろうとそちらに視線を向けたところで、あまり目付きが良くないと自覚している双眸がゆっくりと見開かれる。
「──」
「──」
どくり。
──心臓を射抜かれた心地とは今の俺のようなことを言うのだろうか。脈が速くなり、指先が熱を帯びているのがありありと自覚出来る。
ぶつかった相手は少年とも少女ともつかない、中性的な顔立ちをした若者だった。柔い茶に染めた細い髪がかすかな月明かりを受けて煌めいている。こちらと同じく真ん丸に見開かれた瞳には、ぶつかられたことに関する不快さよりもそれを上回って余りある名状しがたい『驚き』に満ち溢れていた。
「悪りぃ、こっちの不注意だ。怪我はしてないか?」
「いや、あの、えっと」
浅く頭を下げつつ自らの非礼を詫びると、若者は狼狽えた声で応える。穏やかな声は困惑の色を帯びていたが、やがて、不可解な言葉を紡いだ。
「──……あなたには、俺が見えるんですか?」
「は?」
困惑しながらも、律儀に、真剣に問うた若者に俺は呆けた声を返す。見えるもなにも若者は俺の目の前に居て、肩がぶつかったから肉体もあって、会話が通じるから声も聞こえる。──まさか自分が幽霊だとでも言うのだろうか?いや、そんな、まさか。あり得るはずがない。
「どういうことだよ」
こちらの問いかけに、若者はゆっくりと語り始める。
いわく、ある時を境に大学の同輩やバイト先の友人、アパートの住人などに挨拶をしても返してくれなくなったのだという。最初は悪戯だと思って若者も気にしていなかったが、そこで話は終わらない。
彼は多様な集まりにも呼ばれなくなり、やがてあらゆる名簿からも自分の名前が消え、暮らしていたアパートの部屋もいつの間にか空き部屋になってしまったらしい。それでこの辺りをさまよっていたと言うのだ。──にわかには信じがたい話だ。なぜなら確かに彼は今ここに居る、今のとんでもない話を聞いた上でその事実を聞いたら俺まで混乱の渦に巻き込まれてしまいそうだ。
……話しているさなかに、ぽろ、と。若者の頬に涙が伝う。
「──」
俺は思わず言葉を失った。無理もない、そんな状況に置かれた挙句に頼れる相手もいないのなら不安になるのは当たり前だ。ともすれば気が触れてしまうかもしれない状況だ。きっと見ず知らずの自分に助けを求めるくらいには追い詰められていたのだろう。
「……大丈夫だ、ひとまず俺の家に来いよ」
「でも、ご迷惑になるんじゃ……」
「気にすんな。俺以外には誰も居ないし」
気負わせぬように屈託なく笑ってみせると、若者の口元も優しく綻んだ。驚いた顔か泣いた顔しか見ていなかったので笑みを浮かべた姿を見るのはほっとする。
「で、君、名前は?」
「あ、名乗るのが遅くなってすみません。
俺の名前は──」
──名前を聞いた瞬間、笑みを象った自分の唇が引き攣るのを感じた。
どくり、どく、どく。
先ほどとは違う意味合いで、心臓が早鐘を打つ。
若者の名前は、
学生時代に俺を虐めていた相手と、同じ名前だった。
……天使か悪魔か知らないけれど、こんな出会いを仕向けるなんて。つくづく今日の俺はツイてない。
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