私の部屋で殺されたのは

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     私は都会で生まれ育ち、若い頃はそれを快適に感じていた。しかし歳をとると、色々と心境も変化するのだろう。郊外のマンションに越してきて、今ではこの暮らしがすっかり気に入っていた。  私のような独り者には、少し広すぎるマンションかもしれない。若い夫婦だったり、犬や猫を飼っていたりする住民も多いようだ。  すぐ近くに緑あふれる公園があるのも、お気に入りポイントの一つ。野球のグラウンドやペットを遊ばせるスペースなど、色々と設備も充実している公園だ。  部屋のベランダから眺めていると、公園で遊ぶ者たちの様子が手に取るように見える距離だった。もちろん、ただ見ているだけでなく、私自身その公園で散歩することも多く……。  朝は真っ青だった空に、小さな丸い雲が浮かび始める。ただし、うろこ雲というほどではないので、天候が悪くなる兆しではないのだろう。  そんな感じの午後だった。公園のベンチに座り、元気よく遊ぶ子供たちを眺めていた時だ。 「こんにちは。こちら、座っても構わないかしら?」  いきなり声をかけてきたのは、優しそうな笑顔の老婦人だった。  そのまま葬式にも出られそうな、真っ黒な服を着ている。近所の人かもしれないが、私の方では見覚えのない顔だった。  公園のベンチは二人か三人、詰めれば四人でも座れるサイズだ。しかし他に()いているベンチもあるのだから、わざわざ私のところに座る必要もないだろうに……。  そう思いながらも、愛想笑いを浮かべて「どうぞ」と返す。すぐさま彼女は、私の隣に腰を下ろした。 「どっこいしょ」  小さな呟きは、無意識のうちに出たのだろう。続いて彼女は、こちらに顔を向けて、話しかけてくる。 「あなた、あのマンションの305号室の(かた)よね。ベランダから公園見てるのが、ここからよく見えるもの」  自分で思っていた以上に、ベランダに出て公園を眺める姿は目立っていたらしい。こちらは意識していなくても、私の姿を何度も見かけた老婦人の方では、顔見知りのつもりなのだろう。  心の中で少し納得していると、彼女は驚くべき言葉を口にした。 「私も昔、あのマンションに住んでいたのですよ。305号室であの子が殺された当時、その隣の306号室に」 「えっ、殺人事件……?」  思わず聞き返してしまう。  現在自分が住んでいる部屋で過去に人が殺されたなんて、考えただけでもゾッとする。そもそも事故物件ならば入居時に告知義務があるはずだが、そんな話は聞かされていなかった。  とはいえ、そうした告知義務というものは一般的に、直後の入居者だけが対象のようだ。この老婦人の口ぶりからして、かなり昔の事件みたいだから、既に告知が必要な期間も終わっていたのだろう。  理屈としては納得できるとしても、気分の良い話ではなく、私は老婦人に先を促す。 「何があったのか、詳しく教えてもらえますか?」 「事件当時は、確か3歳だったかしら。よく鳴く子だったわ」  ゆっくりと頷きながら、彼女は語り始めた。 「305号室で暮らしていたのは、子供に恵まれない中年夫婦でね。殺された子は、生後3ヶ月くらいで貰われてきた子だったのよ。でも二人からは愛されて、実の子のように育てられたの」  遠い目で語る老婦人。隣人だっただけに、305号室の家庭環境もそれなりに把握していたらしい。 「夫婦は共働きだったけど、奥さんは小説家だったみたい。だから家で出来る仕事でね。でも、出版社の人との打ち合わせなのかしら? 奥さんが家を()ける時も結構あって……。あの日も旦那さんが会社へ行った後、あの子一人を残して、奥さんも出かけてしまったのよ」  老婦人の表情が険しくなり、まるで見てきたかのような口調で続ける。 「そして、帰ってきたら……。あの子が死んでいたの! 首筋を包丁で刺されて! カーペットを血で真っ赤に染めて!」 「元々台所にあった包丁ですか? だとしたら殺されたのではなく、子供が危険性を知らずにおもちゃにしてしまい、事故が起きたとも考えられますね」  誰でも外出の際は鍵を掛けるものだ。施錠された305号室に犯人が忍び込んだ可能性よりも、そんな『犯人』は最初から存在しないと考えた方が、筋が通るのではないだろうか。  しかし老婦人は大きく首を横に振り、私の説を却下した。 「それはありえないわ。あの子が自分で包丁を持つことは出来ないって。警察も一応、捜査してくれたけど、そういう結論になったみたい。あの子は殺されたって」 「それで、結局どうなったのです? きちんと犯人は捕まったのですか?」  もはや一足飛びに、最終的な結末だけ尋ねてみたのだが……。  彼女は肯定も否定も示さず、代わりに別の言葉を口にする。 「私も怖くなって、事件の後すぐに引っ越してしまったの。私が話せるのは、ここまでよ。ごめんなさいね」  素直に受け取るならば「引っ越してしまったから、その後の経緯は知らない」という意味だろう。しかし少し違うニュアンスに聞こえる発言だった。  しばしの沈黙の後。 「私から話題に出しておいて何だけど……。もう私も、あの事件のことは忘れたいわ」  そう言いながら立ち上がり、彼女は去っていくのだった。  老婦人が私に話しかけてから立ち去るまで、全部で5分もかかっていない。しかしこの短い間に、私は事件の真相を察していた。  ヒントとなったのは彼女の態度だ。言葉の端々にも、それらしきニュアンスは感じられたが……。  何よりも明らかだったのは、彼女の視線だった。事件について語り始めてから、老婦人は一度も私の方を見ようとせず、公園で遊ぶ者たちをずっと目で追っていたのだ。  犬と一緒の者ばかりを、憎々しげな目つきで。  彼女は『殺人事件』という言葉を一言も口にしなかった。  被害者についても『あの子』という言い方だけ。ペットの犬や猫に対しても使われる呼称だった。『あの子』が犬であるならば『自分で包丁を持つことは出来ない』と判断されたのも当然だろう。  先ほどの憎悪の視線からもわかるように、おそらく彼女は、よほど犬が嫌いな人間に違いない。ましてや問題の犬は『よく鳴く子』だったのだから、それを鬱陶しく思う気持ちは人一倍であり……。  飼い主が二人とも留守の間に、これ幸いと305号室に侵入。部屋にあった包丁で、刺し殺してしまったのだ。 『私も怖くなって、事件の後すぐに引っ越して』というのも、犯人だから逃げ出したに過ぎない。その後きちんと逮捕されて罪を償ったのか、あるいは逃げ切ったのか、どちらにせよ『あの事件のことは忘れたい』と思う気持ちは本音なのだろう。  そんな彼女が、わざわざ私に話しかけて、事件について告げた理由。それは少し想像しにくいが……。  もしかすると、あれは一種の警告だったのだろうか。「いくらペット可のマンションでも犬嫌いの住民はいるから、お前も犬は飼わない方がいいぞ」みたいな。  部屋に戻ってから、改めてベランダに出てみた。  今さら確認するまでもなく、両隣の部屋――304号室および306号室――とは仕切り板で区切られた構造であり、その隔板には「非常の際には蹴破って隣戸へ避難できます」と書かれている。  ただし304号室側と306号室側とでは仕切り板の色が若干異なっており、前々から少し気になっていた。306号室側の板は304号室側ほど黄ばんでおらず、いくらか設置時期が新しいように感じられたのだ。  初めて見た時は不思議に思ったけれど、あの老婦人の話を聞いた今となっては、その疑問も解消している。306号室に住んでいた彼女が『非常の際』でもないのに仕切りを破って305号室に侵入。事件の後、マンションの管理会社が、隔板そのものを新しく変えたのだろう。  隣室に忍び込んで、そこの飼い犬を殺す。私から見れば、なんとも非情な大罪にしか思えないが……。あの老婦人にとっては、うるさい犬を排除する絶好の機会という意味で、それこそ『非常の際』だったのかもしれない。 (「私の部屋で殺されたのは」完)    
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