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同期の態度を見ていて、私は急激に恥ずかしくなってきた。
「……あ、それって青梅に行ったときに買った図録だよね」
私は恥かしさを誤魔化すように、同期が手にしている本を指さして言った。
その本は、私たちがゼミに所属したばかりの頃に、ゼミ生の皆で青梅の博物館を訪ねた際に購入したものだ。
皆で金を出しあって購入したため、読みたくなったら誰でも借りられるようにと、研究室の本棚に置いていた。
「そうそう。先輩に車を出してもらって行ったときのやつ」
「たしか博物館に寄った帰りに、河原のキャンプ場でバーベキューしたよね」
「そうそう。あの時はなかなか火を起こせなくて苦労したよな」
「先輩がうちのゼミ生ならこれを使えとか言って、自作の火起こし道具なんて持ってくるからさー」
私と同期は、しばらく青梅での思い出話に花を咲かせた。
「そういやあのとき一緒に行ったあいつ、どうしてうちのゼミをやめて東洋史のゼミに行ったんだっけ?」
楽しい思い出話の最中にされた同期の問いかけに、私はつい渋い顔をして黙りこんでしまった。
その東洋史のゼミに変更したあいつと私は、短い期間ではあったが交際をしていた。
ただそれだけの話なのだが、あいつが元恋人と同じゼミは嫌だと言い出して別れ際に揉めたのだ。
当事者同士の話し合いで済ませればいいことを、あいつが周囲の友人を巻き込んで大騒ぎをした。
結局、あいつが考古学ゼミを出ていくことで落ち着いたが、私にとっては今でも思い出すだけで腹が立ってくる出来事だった。
「そ、そういえばさ。あのとき車を出してくれた先輩って、地元に帰って就職したんだっけ?」
私の表情を見て、同期もそのことを思いだしてくれたらしい。
強引ではあるが、話題を変えてくれた。
私はその気遣いに心の中で感謝をしながら、何事もなかったように会話を続ける。
「……あの先輩ね。大学院は諦めるって言うから残念だなって思っていたけど、ちゃっかり地元の県庁で埋蔵文化財職員だもの。すごいわよね」
「そうそう。しっかりしているよな」
手痛い恋愛や、就職といった気がかりな話題のせいで、私は先ほどまで熱く語っていた気持ちが、すっかり冷め切ってしまった。
同期も私と同じように、進路の件に関しては頭が痛いらしい。手にしていた本を投げ出して、机に突っ伏してしまった。
「あーあ。俺も卒論はそこそこにして、就活に本腰を入れないとやばいよなあ」
「――っえ、アナタは院に進むつもりじゃなかったの?」
てっきり同期は院試を受けるのだと思っていた私は、間抜けな声で尋ねてしまった。
「そりゃ行きたいぜ。だけどさ、俺は奨学金を借りているからな。これ以上は借金を増やせないぜ」
「……そうか、奨学金の返済があるのね」
「いいよな、お前ん家は金持ちだから。どうせ院試を受けるつもりだろ?」
同期の問いかけに、私は曖昧に笑って誤魔化した。
院試を受けるつもりだからこそ、卒論はそこそこになんてことが許されないのだから悩んでいる。
「……青梅の博物館か。また行きたいなあ」
今度は私が進路のことから話を逸らすために、同期が投げ出してしまった本を手に取ってつぶやいた。
「よし、週末に青梅まで行っちゃおうかな」
「はあ? お前は週明けにはまた教授と個人面談だろ。そんな余裕あるのかよ」
私のつぶやきを聞いた同期が顔を上げた。その表情は不機嫌そうに歪んでいる。
「……これを見ていたら、あの頃は楽しかったなと思って……」
一年の頃は、将来のことなんてまったく考えていなかった。
卒業論文や進路で悩むことはなく、目の前のことをただ楽しんでいた。
どうして人は楽しいことだけをして生きていけないのだろう。
楽しいことがあると、それと同じくらい嫌なことがある。
いや、嫌なことは楽しいこと以上にたくさんある。そんな気がするのだから不思議だ。
「いいねえ、金持ちは気持ちに余裕があってさ。俺は今日もこの後バイトだぜ」
「私の人生だってそんなにいいものじゃないよ。ちょっと付き合っただけの男と揉めたりするし」
同期が嫌みったらしく言うので、私はまた曖昧に笑いながら言った。
すると、同期がしまったという顔をする。
「あーえっと、そろそろ行かないとバイトに遅刻する。じゃあな!」
私がじとっとした目で同期を見つめていると、彼はわざとらしくスマホで時間を確認しながら立ち上がった。
「誤魔化すの下手くそか!」
私は慌てて研究室を出て行こうとする同期の背中に向かって、声をかけた。
しかし、同期は振り返ることなく、研究室を飛び出していってしまった。
「……はあ、馬鹿らしい」
静まりかえった研究室の中で、同期に声をかけた姿勢のままでいた私は、なんだか急に寂しくなってしまった。
ため息をついたそのとき、ふと私の頭の中に父の声が響いた。
――考古学なんて意味のない学問だ。無駄なことに時間を使うなら、大学の学費は出さない。
大学で考古学を学びたいと言った私に、父が浴びせた言葉だ。
大学受験のことで揉めて以来、私は今でも父とは折り合いが悪い。盆暮れ正月も、ろくに実家へ帰らない日々が続いている。
「実際のところ、私は恵まれていると思うよ。大学院に行きたいって相談したら、母さんが学費と生活費は心配するなって言ってくれたしね」
母は美術系の大学を出て、デザイナーをしている。
そこそこ稼いでいるらしく、私が希望通りの大学で学ぶことができているのは母のおかげだ。
「……まあ、院へ行きたくても、まずは試験に受からないといけないけどね」
母はいくらでも好きなことを学べばいい、いつかそれを仕事にできたら最高じゃないかと言ってくれる。
それに甘えていると言われてしまえば、否定はしない。
「父さんは早くちゃんとしたところに就職してくれってうるさいんだよね。でも、ちゃんとしたところってどこだろう?」
そんな独り言をつぶやいたとき、机の上に置いていたスマホに通信アプリの通知画面が表示された。
「……やっぱり可愛いなあ」
連絡は母からだった。
母が実家で暮らす愛犬の様子を動画で送ってきたのだ。
帰宅した母のもとへ、茶色いもふもふの毛玉が飛び跳ねながら向かってきている。
悩みなんて吹き飛ぶほどの愛らしさだ。
「やっぱりどんな時代の人だって、家に帰ってきたとき、こんなに愛らしい存在が全力で出迎えてくれたら癒されるはずだよね。狩猟の相棒で、大切な仲間だったのは間違いだろうけど、愛玩犬だって絶対にいたはず!」
私は机の上に置かれた青梅の博物館の本を手に取って頷いた。
「決めた。明日は青梅に行こう! あの頃の純粋な気持ちを取り戻すんだ」
私は自分の鞄に青梅の博物館の本をしまった。
「青梅の博物館を出発地点にして、多摩川を下って河口まで行こうかな。気分転換をしたら、卒論の参考になる新しい発見とかあるかもしれないじゃん!」
同期や父には、お前のその行動は無駄だと言われてしまうだろう。
だが、どんな無駄にだって絶対に価値はある。私はそう確信している。
「私はこれからも無駄に生きていく。だって、こんなにもふもふで可愛い生き物が無駄な存在だなんて思わないもの!」
私はスマホのホーム画面に設定している愛犬の画像を見ながら決意を固めると、研究室を飛び出した。
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