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「それとも言ってしまえばよかったかな。
僕は凪紗が好きで、好きで。だから患者と
して僕のところに来て欲しくないんだって」
「ダメよ、そんなこと言っちゃ!」
「だろう?だから誤魔化したんだ。森里
さんはちょっと口が軽いところがあるから、
僕たちの関係が微妙な時に変な噂を立てら
れたくなかった。でもまさか、君があの場
にいたとはね」
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりは
なかったんだけど……」
言って肩を竦めた凪紗に、嘉一がこつん
と額を合わせる。温かな息がかかり、凪紗
の鼓動が信じられないほど早なる。
「好きだよ、凪紗。好きと言えないまま、
君に触れるのが辛かった」
その言葉に涙を零し、凪紗は頷く。
遠い昔も、彼はこんな風に気持ちを伝え
てくれたのだ。その時も、凪紗は涙したの
だけど。三十年の時を経て再び重なり合っ
たいまの想いはそれよりも深く、なのに、
すぐに「好き」と口にすることが出来ない。
「あのね、嘉一」
「ん?」
額を重ねたまま囁くように言った凪紗に、
やはり嘉一の声はやさしい。
「もしね、時間を巻き戻すことが出来た
としても、わたしはきっと別れた夫と結婚
すると思うの。だってそうしないと、息子
がこの世に生まれて来られないと思うから」
何を馬鹿なことを言っているのかと、彼
は呆れるだろうか?そう思った凪紗の頬に
嘉一の唇が触れる。チクチクと、あの頃は
なかった感触に目を細めながら凪紗は言葉
を紡いだ。
「それでもいいかな。わたしが一番大事
なのは息子で、息子に何かあれば、この前
みたいにあなたを放って駆け付けてしまう。
そんなわたしでも、好きでいてくれる?」
あなたは一番じゃない。
好きだと告げてくれた彼に、こんなこと
を言う自分は頭が可笑しいのかも知れない。
それでも、訊かずにはいられなかった。
嘉一のことを大事に想っているからこそ、
母親である『いまの自分』を、知っていて
欲しかった。
頬に触れていた唇が、ゆっくりと離れる。
間近で凪紗を見つめる眼差しは、愛しさ
にやさしく揺れている。
「僕は息子さんを愛する、いまの凪紗が
好きなんだ。だから、凪紗と同じくらい僕
も息子さんを大事にしたいと思う。通り過
ぎた人生があるから、いまの僕たちが出会
えた。そうだろう?」
いったい、何を心配していたのだろう。
嘉一はすべてをわかったうえで、好きだ
と言ってくれていた。そのことに気付き、
凪紗は頷く。そしてようやく、想いを口に
した。
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