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夏に帰省してきた時は地元の友達と予定
がぎっしり入っていて、あまり一緒に過ご
せなかったのだ。だから、史也と水入らず
で過ごせる時間はまるで宝物のようで……。
凪紗は久々に母親業を堪能し、満たされ
た三日間を過ごしたのだった。
東京に戻ってしばらくの間、凪紗は仕事
の締め切りに追われ、髪を振り乱しながら
ひたすらキーボードを叩いていた。
嘉一とは映画をドタキャンして以来、次
の約束をしていなかった。けれど、LINE
でやり取りはしていたし、接骨院の予約を
入れてあるので、その時に約束できればと
思っていた。
そして迎えた予約当日。
凪紗は小さな紙袋を手に、『もとみや接
骨院』へと向かった。
紙袋の中には嘉一が唯一文句を言った、
因縁の『手作りカステラ』が入っている。
が、何度か失敗を繰り返しカステラ作りに
奮闘した結果、自分でもびっくりするほど
しっとりした美味しいカステラが出来上が
ったのだった。
嘉一、喜んでくれるかな?
カステラを作ったと言った瞬間、トラウ
マで顔が引きつりそうな気がするけど。
その顔を想像しながら、凪紗は接骨院の
自動ドアをくぐる。スリッパに履き替えて
受付に診察券を差し出すと、この間と同じ
女性がにこやかな笑みを向けた。
「ご予約の小戸森さんですね。スタッフ
がお声を掛けますので、そちらでお待ちく
ださい」
「はい。あの」
「……?」
「今日も院長先生に施術していただける
んでしょうか?」
前回、帰りがけに予約をした時は日時を
決めただけだった。最初に施術をした人が、
引き続きその患者を担当してくれるものと
勝手に思っていたけれど。凪紗の問い掛け
に手にしている紙袋を一瞥すると、女性は
微苦笑を浮かべる。
「申し訳ありません。本宮は本日往診に
出ておりまして、別のスタッフが施術させ
ていただくことになります」
「……往診ですか。わかりました」
いないと言われてしまえば、それ以上何
も言うことが出来ず、凪紗は待合室を向く。
向いた瞬間、奥のソファーに座っていた
老齢の女性が、ちょいちょいと凪紗を手招
きしているのが目に映った。
もしかしてワタシ?
その仕草に目をぱちくりしながら自分を
指差せば、女性はにっこりと頷いてくれる。
凪紗は他の患者を避けるようにして女性
の元へ進むと、隣に腰を下ろした。
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