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「どうも、こんにちは」
遠慮がちに挨拶をすれば、白髪を後ろで
キレイにまとめた品の良い老婦が口元に手
を添え、耳打ちしてくる。
「あのね、院長先生は水曜が往診日なの。
でも、六時くらいに駐車場がある裏口から
戻ってくるわ」
「そうなんですね」
視線を他所に向けたままそう教えてくれ
た老婦に、凪紗は声を潜め、目を見開く。
「院長先生、ハンサムでとてもやさしい
でしょう?だから先生は指名予約でいつも
いっぱいなの。あたしもう十年以上ここに
通ってるんだけど、往診から早めに戻った
時は院長先生がやってくれることがあって。
それで、あえて水曜日を選んでるってわけ」
ふふっ、と目尻にシワを寄せ老婦が凪紗
を覗く。向けられた眼差しはまるで凪紗の
心の内を見透かしているようで。凪紗は膝
の上の紙袋にチラリと目をやって含羞んだ。
「じゃあ水曜は運が良ければ院長先生に
やってもらえる日なんですね」
「そう。でも今日はちょっとタイミング
がズレてしまいそう。きっと次はあたしの
番だわ」
腕時計を見やりながら老婦が肩を竦める。
時刻は五時半を回ったところだ。そして、
施術を終えた男性がカーテンから出てきて
受付で次の予約をしている。
「当てが外れちゃいましたね」
「他の先生方も腕が良くてやさしいから
ぜんぜん不満はないの。だけどね、それを
直接院長先生に渡したかったら施術が終わ
ったあと、ここで待っていれば会えるかも。
ほら、あの衝立の向こうに裏口があるのよ」
老婦が指差す方に目を向ければ、待合室
と通路を隔てるように水色の衝立が配され
ており、その手前に化粧室がある。
「ここに座っていると車のエンジン音が
聞こえるの。だから先生が裏口から入って
来て、カーテンの中に入る前にちょっと声
を掛ければ……」
そうか。
だから、この人はこの場所に座っていた
のかと凪紗は得心する。得意げににっこり
老婦が目を細めるので、凪紗は感謝の意を
込め笑みを返した。
するとさらに、老婦の内緒話が続いた。
「実はここだけの話なんだけど、この院、
来秋には自費診療をメインにした分院が出
来るらしいの」
「分院が。とっても人気があるんですね」
そんなこと、嘉一はひと言も言っていな
かったので凪紗は思いがけず耳にした情報
に驚きを隠せない。
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