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 そんなことって!  のそりと目の前を横切るお爺さんに肩を 竦め、凪紗は彼の姿が消えたカーテンに歩 み寄る。カーテンは人の気配に揺れ、その 前で耳を澄ませば、微かに話し声が漏れ聞 こえた。  「……れさまです。さっき、小戸森さん ……ましたよ。また院長にやってもらいた いと言ってましたけど。彼女、院長に気が あるんじゃないでしょうか?」  「……はないんじゃないかな。同じ施術 者を希望する患者さんは多いし」  カーテンの向こうから自分の名前が聞こ え、凪紗は思わず息を呑む。声の主は嘉一 と、もう一人は受付の女性だろうか?  確か老婦が『森里さん』と、呼んでいた。  立ち聞きしてはいけないと思いながらも、 凪紗はどうにも気になってそこを動けない。  「あの人、院長に何か渡したいものがあ ったみたいで……い紙袋を持ってたんです。 クッキーみたいな甘い匂いがしたし個人的 に院長に渡したい感じだったから、あえて 知らん……ましたけど」  鋭い観察眼に心臓をばくばくさせながら、 凪紗は気恥ずかしさに俯く。そして、彼は 何と答えるだろうかと耳を欹てた。  すると、ふっ、と嘉一が息を漏らす気配 がする。  「もしかしたら、よくある『陽性転移』 かも知れないね」  「患者が医師や施術者に抱く、一時的な 恋愛感情ですか?」  「そう。一時的に恋と錯覚してるだけだ。 僕にとって彼女は患者の一人に過ぎないし、 ……としてのモラルはあるから心配ないよ。 次の診察で治療が終われば、もう顔を合わ せることもないだろう」  嘉一その言葉に凪紗は表情を失う。  いままで温かかったはずの心が、すっ、 と冷えてゆくような感覚に、自嘲の笑みが 零れた。凪紗は力なく項垂れると、逃げる ようにその場を立ち去る。スリッパを脱い で自動ドアをくぐれば、魔法が解けたお姫 様のような心地だった。  摺りガラスのアーケードに覆われた商店 街は明るく、三日後にクリスマスを控えた 街はそこかしこに幸せな空気が漂っている。  その中を、凪紗は紙袋を手にぶらぶらと 歩き始めた。  やっぱり迷惑だった。  彼のやさしさはお客さんを逃さないため の、ただのリップサービスで。  それを勘違いして、院長と患者の一線を 越えようとする自分は彼の目にどう映って いただろう。偶然の再会を運命と勘違いし 接骨院を訪れた元恋人に、彼が向けた笑み はやさしかったように見えたけど。  それも、思い込みだったのかも知れない。  そうであって欲しいという想いが、彼の 表情ひとつに、言葉ひとつに、あるはずの ない『意味』を見つけてしまった。
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