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「さむぅ」
コートを引っ掛けてくるべきだった。
ゴミ袋を手にエントランスを出た凪紗は、
途端に後悔する。暖冬とは言え朝晩の冷え
込みは厳しく、着古したキュロットのスウ
ェットにレッグウォーマーという出で立ち
ではさすがに寒い。ひやりとした風に首を
竦め、足早にゴミ置き場に向かおうとした、
その時だった。
足元に薄墨色の人影が伸びて見えた。
凪紗ははっと息を呑み、顔を上げる。
顔を上げれば目の前に嘉一が立っている。
「……嘉一」
驚き過ぎて、思わずそう呼んでしまった
凪紗に、嘉一は白い息を吐きながら言った。
「どうして予約キャンセルしたの?」
一週間ぶりに聞く彼の声は低く、僅かに
震えている。もしかして、怒っているのだ
ろうか?彼からすっと目を逸らし、凪紗は
ぎこちなく笑った。
「もう痛くないから、行かなくても大丈
夫だと思って」
「本当にそれだけ?」
「それだけ、って?」
「他に僕を避ける理由があるんじゃない
かと思って。メッセージ送っても返事くれ
ないし」
「っ、それはあの」
しまった。嘉一のメッセージに気付いて
いたことを暗に認めてしまった。そう思い
つつ眉を顰めた凪紗の頬に氷のように冷た
い手が伸ばされる。すっかり体温を失くし
た手に、そしてその手で両頬を包む嘉一に、
凪紗はどさっとゴミ袋を落とした。
「や、つめたっ、なんで」
こんなに冷たいのだろう?
その理由を考えかけた凪紗の耳に切なげ
な声が響く。
「本当のこと言って、凪紗。せっかく君
に会えたのに、このまま手放すなんて」
そこで言葉を詰まらせた嘉一に、凪紗は
どくりと心臓が跳ねる。
いま、確かに『凪紗』と呼ばれた。
彼の口から聞くのは三十年ぶりだけれど。
間近で自分を見つめる眼差しも、名前を
呼ぶ声も、あの頃と何ひとつ変わってはい
ない。凪紗は冷え切った嘉一の手を温める
ように両手を重ね、途切れ途切れに言った。
「聞こえてしまったの、あなたの声が。
『治療が終われば、もう会うこともない』、
『彼女はただの患者だから』って、あなた
がそう言ってて。だからわたし……」
口にした瞬間、嘉一の目がこれ以上ない
ほど見開かれる。
「もしかして、カーテンの向こうに?」
その問いに凪紗が頷くと、嘉一は緩やか
に首を振った。そして、凪紗を抱き締める。
抱き締める腕の強さに凪紗の視界が霞む。
「院の経営者である僕が患者に恋してる
なんて、言えるわけないだろ?そんなこと
が噂になれば、接骨院の信用問題に関わる。
あの時、実は欲情しながら凪紗に触れてた
なんてバレたら、それこそ犯罪者だ」
自虐的にそう言って笑みを零した嘉一に、
凪紗は絶句する。
恋してるという言葉よりも衝撃的なその
ひと言。実は欲情してたって、ええっ!?
何をどう訊けばいいかわからず目を瞬い
ていると、嘉一は抱き締めていた腕を緩め、
凪紗の目を覗いた。
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