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「実は、この秋で引っ越そうと思うんです」
その言葉は唐突だった。
最近、ようやくのど越しが楽しめるようになってきていた蕎麦をすする私に向かって、男はひどく落ち着いた面持ちでそう告げた。
「またいきなりですね、どうしてまた」
「娘が……嫁ぐことになりまして」
「へぇそりゃ! めでたいですな」
茶をすすりながら娘の方を見る。テレはない。恥じらいもない。彼女もまた穏やかな顔で、こちらに微笑みを向けていた。
「旦那には世話になりやした。本当に。何度も何度も助けていただいた。本当に、なんといっていいか」
「いやいや、どうせやることなんて無かったですから。寧ろ楽しかったですよ、おかげでよい人生の語り草ができました」
「それはそれは、本当に。ありがとうございます」
深々と男は頭を下げてくる。どうやら本当に別れのようらしい。
「最後だ、思いっきりおいしいの持ってきますよ。祝いましょう」
「いやいや、大丈夫ですよ。こちらから行きますもんで」
「……コッチ?、コッチは、来ねぇ方がいいんじゃないですかね」
「なぁに気にせんでください。こう見えて、元はシチーボーイですから」
「ええ、うちだってシチーガールですよ」
「ハハハ、3万人風情が何言ってら」
「なんですと!」
「こいつめ、」
「ハハハ、」
その日は月が上を通って、そのあともしばらく笑っていた。
『酒だけ、旦那の好きな奴用意しといてくだせぇ、あとはこっちがいきますもんで』
その日の晩酌の最後の言葉を、へべれけな意識の中、私は夜道一人、反芻しながら帰路に就いた。
「ま、どのみち、あの道以外は独りだけどな」
ぽそり、つぶやいた。
もう誰もいなくなった。この満月が照らす焼野原に向かって。
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