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──掃除時間が終わった教室で、ぼくは席に座って小さくなった消しゴムを眺めていた。
後ろから山下くんの大きな声が聞こえた。
「ほんと。マジで。ヤベーだろ?」
「食い逃げ? そんなのヤバすぎるだろ」
佐々木くんが椅子を揺らしながら、信じられないというように両手を広げていた。
「ほんとだって。俺、手伝ってたからさ。ダーって逃げてくの見えて、父さん追いかけてってさ。父さんに捕まって土下座してた」
「だっせ」
山下くんの家は駅前で居酒屋を営んでいる。
「なんかさ、服きたなくて。ハゲたおっさんでさ。父さん、結局もうやるなよってお金取らずに帰してた」
「みじめだな」
ぼくは身をこわばらせていた。
「押本、聞こえた?」
佐々木くんがぼくに問いかけた。
「う、うん、聞こえた」
「なんか、貧乏って切ないな」
「そだね」
ぼくは苦笑いで椅子を揺らす佐々木くんに答えた。
食い逃げ。ぼくは四回経験したことがある。
遠い町で母さんがごめんと言いながらぼくの左手を引っ張った。その頃のぼくはまだ小さくて、お母さんに急な用事ができたんだと思っていた。だいぶ走ったから疲れたけど、お母さんとかけっこをしているみたいで楽しかった。
それが食い逃げだと知ったのは四回目のときだった。過去の三回と同じくお母さんはぼくの手を強く引いて走った。
「待てっ! 食い逃げだ! 捕まえてくれ!」
後ろからお店の人が怒りながら追いかけてきた。怖かった。
お母さんとぼくの前に男の人が立ちふさがって、お母さんは男の人に腕を捕まれた。勢い余ってぼくは男の人の足にぶつかった。
「ごめん、大丈夫か、ぼく?」
男の人はぼくに謝ってくれたけれど、お母さんを握る手は離さなかった。
「はあ……はあ。ありがとう、お兄さん。こら、いかんぞ食い逃げは」
後ろから追いかけてきた店員さんにお母さんはすみませんすみませんと二回謝った。
「……こんなちっちゃい子つれて……。金が無いなら無いでさ。言ってくれたらよ。逃げるのはだめだ」
店員さんは大きくため息をついて、そう言った。
お母さんは悪いことをしたんだ。はじめてぼくは悪いことをした人を見た。それがお母さんだったのがショックだった。
「わたしが払いますよ。おいくらですか?」
「いえいえ、お兄さん、それはいけない。まあ、はらわた煮えくり返ったけど、こんなちっちゃい子の前で怒れんですよ」
店員さんと男の人がぼくを見た。ぼくはお母さんの姿がないことに気づいた。ふと見ると、お母さんが地べたに伏していた。
「すみませんでした」
お母さんが泣いているのが分かった。
「もういいから。顔を上げなさい。もうやるんじゃないよ」
店員さんに手を添えられ、お母さんは立ち上がった。お母さんはぼくにもごめんねと何度も言って、その日は二人で早く眠りについた。
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