恩犬ゴン

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 ゴンと出会ってから五年が過ぎた。  母さんは昼も夜も仕事をがんばってくれて、ぼくに教育を受けさせてくれた。  無事に高校へ進学し、ぼくは勉強に明け暮れた。ぼくは大学に行きたかった。  母さんが洗い物をしている。蛇口からちょろちょろと出る水がお皿を流してシンクに落ちる。水受けかごに収まるお皿がカチカチと音を鳴らす。ぼくはこの音を聞きながら勉強するのが好きだった。 「お風呂、お湯足さなくてもじゅうぶんあるからね」  風呂上がりの母さんが薄く作った麦茶をコップに注いだ。母さんが風呂に入っていると、身体を流す音はわずかしか聞こえない。きっと頭も身体も一緒に洗って流している。ぼくが同じようにすると、母さんはいちどだけぼくを注意した。 「ちゃんと頭流してから身体洗いなさいよ。将来ハゲるわよ」  母さんは、ぼくにだけは節約をさせたくないと思ってくれていた。おそらくゴンを飼えなかったぼくの落ち込みようを母さんはずっと後悔しているようだった。  ぼくが大学を目指すのは、母さんをホッとさせたいという想いがあったからだ。それと、もうひとつの理由があった。  流しの音を聞きながら、ぼくは毎日勉強した。こくりこくり眠気と戦いながら、母さんが作る夜食をありがたくいただきながら、ついにぼくは大学に合格した。  大学の単位をつつがなく取得し、あっという間に就職活動の時期がやってきた。  みんなが面接の対策に励むなか、ぼくは借りていた面接対策の参考書をぱたりと閉じた。対策なんかより、正直な想いのほうが良いと思った。  名は誰でも知っているその会社の面接では、たくさんの学生が待合室に待機していた。ぶつぶつと予行練習している人もちらほらと見てとれた。 「押本誠と申します。よろしくお願いいたします」  促されて席につくと、面接官はにこやかに質問をしてくれた。 「では、志望動機を伺ってよろしいですか?」  ぼくは自分なりに感じた魅力を語った。 「それと、もうひとつ理由があります」  面接官は「ほう」と相づちを打ってくれた。 「犬を、飼いたいのです。大人になって犬を飼える生活をしたいと幼い頃から望んでいました。いやらしい動機と思われるかもしれません。ですが、魅力的なお仕事と、犬を飼えるだろうなという暮らしができる経済性。その両面から御社を志望させていただきました」  面接官は眼鏡を軽く上げ、「ふふ、いいと思いますよ。立派な志望動機です」と笑ってくれた。  後日、ぼくはその会社から採用通知をいただいた。  ぼくにとっての恩人は母さんで、恩犬という言葉があるならゴンになる。
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