君と、最期の散歩道を。

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 彼女はまず、当日の散歩ルートを案内させた。  それはつまり、初対面の女の子に実家が割れるということだが、現住所もすでに見抜かれているし、まあいいや。  僕の実家は、アパートから二駅離れたところだ。実家といっても、東京から引っ越してきて日が浅い。大学にも通える立地ながら、将来に向けての一人暮らしという僕の頼みを両親が尊重してくれたのだ。それでもタロの散歩は諦められず、毎朝早起きして自転車を飛ばしていた。  電車を降り、駅を出て歩く。 「そうでしたか、東京出身。私は京都生まれの京都育ちのはんなり京女です。家業柄、できるだけ標準的な敬語を話すようにしていますが」  京都出身という言葉は疑わなかった。見事な標準語発音だが、先ほど彼女は「一回生」と言ったのだ。大学一年生のことを「一回生」というのは関西特有だ。 「……ところで、タロちゃんは、どんな子だったんですか?」 「そうだな……利口なヤツだったよ。でも近所の犬とはすごい勢いでじゃれるから、おとなしいとは言えないな。しかもこればかりは止めても聞かなかった」 「メリハリのあるじゃじゃ馬ちゃんですね。しかし元気なのは大変結構」  その言葉に違和感を覚える。  それを解こうかと考えていると、曲がり角の先、一軒家が見えてきた。 「あれですか」 「ああ。家を出ると、まずこちら側に歩いてくるんだ」  緩い上り坂の先にあるのが僕の実家だ。そこから小さな公園の前を通過してこの場所を通る。そうして駅方面へ向かい、途中で脇道にそれる。  そのルートを辿りながら、僕は脇の草むらに落ちてないかと注意深く歩いた。が、太宰は地面を見ながらも、すたすたと歩を進めている。本当にちゃんと探してくれているのだろうか。 「で、ここで右に曲がる。よくここのおじさんに挨拶して……」  曲がり角にある、酒屋の前で立ち止まった時、引き戸が開いた。主人のおじさんだ。彼も早起きで、散歩の時間帯は打ち水をしている。 「おお、この時間に珍しいな。うん? 隣は彼女さんか?」 「い、いえ。同じ大学の同級生で」 「初めまして」  にこ、と微笑む太宰は、どこか愛嬌を振りまくのに慣れているような雰囲気だ。  おじさんも「初めまして」と太宰に倣い、「べっぴんさんやないか、隅に置かれへんな」と僕をからかう。 「最近、朝は見かけへんな。チワワのお嬢と仲のいいわんぱく坊主はどうしたん?」 「ああ……それが……」  僕はことの経緯を話した。つらい出来事は誰かに話すと楽になるなんて、世迷言だと思っていたが、どうやら本当らしい。まるで、口にするたびに棘が風化して丸くなっていくかのようで、けれどそれと引き換えに、何か大切な感覚を失っていくような気もして、複雑な気持ちになった。  おじさんは「なんやて、あのやんちゃ小僧が……」と眉を八の字にして聞いていた。念のため、名札のことも訊いてみたが、知らないという。  他の人にも訊いてみるな、と手を振ってくれるおじさんに一礼して、僕と太宰は再び歩き出した。  その後は、歩道のない車道の端を進み、中間地点である自販機を通り過ぎて同じ距離歩き、緩いカーブを曲がって社宅の駐車場裏を回り込めば、さっきとは逆方向から僕の家に着く。  この季節、庭は花々で華やかに彩られる。けれど、隅の空っぽの犬小屋が、景色から色を奪う。 「あの日も帰宅してすぐ、そこのロープに首輪を繋ごうとして、そこで名札がないことに気づいたんだ」  庭の敷居をまたぐ太宰に僕は言った。 「あれは迷子札だったから、その紛失には相当な懸念を抱いた。だから慌てて探しに行ったんだ」  何かの拍子に迷子になって戻れなくなくなってはいけない。その一心だった。  結果、二度と戻ってこなくなるような事態を招くとは予想だにできず。 「慌てたせいで、首輪とロープの接続が甘いままだったらしい。……発見したのは母でね。すぐそこの車道だった」  目に浮かぶようだ。僕を追おうとして、普段は(しがらみ)になるロープが簡単に外れて、喜び勇んで道路に飛び出して。  そして。 「……僕の、せいなんだ。落ち着いてやれば造作もなかったのに。たった一秒あればちゃんと繋いでやれたのに。たった一秒違っても、どうせ名札は見つからなかったのに。たった一秒の判断でこんな……」  どうしてだろう。  つらい出来事は誰かに話せば楽になることを、ついさっき体感したばかりだったのに。  この話だって、母に、父に、何度も泣きながら話したのに。  何度目と知れず口にした罪悪感の棘は、風化するどころか、どんどん鋭く、深く、僕の中に突き刺さっていく。  この先、僕はずっと呪うのだろう。たった一瞬の判断を。たった一秒の手抜かりを。綻びから布を裂くがごとく、先の永い未来を変えてしまった自分自身を――。 「……運命の分かれ道など、そんなものです」  振り返る。太宰は同情の色も、憐憫の色もない、無色透明な芯が通った揺るぎない瞳で僕を見つめていた。 「故意・過失、一瞬・長期、そんなものに比例して起こるわけじゃないんですよ、悲劇は。意図しない一瞬のミスが悲劇に繋がらないなら、この世の自動車事故は半分以下でしょうね」  ふ、と小さくため息をついて、太宰はゆるゆると首を振った。 「だから一瞬一秒の過失でも、失うときは失うんです。自分を責めてはいけません。もし今もどこかでタロちゃんがあなたを見守っていたら、愛するご主人が苛まれているのを見て、快く思いますか?」  僕は返事をしなかった。タロが僕を今も見守っているなんて、そんなわけがないし、だったら僕がどれだけ自分を責めようが自由だ。  だが、反駁はしなかった。否定するには、彼女の言葉は正しすぎる気がした。 「可愛がっていたんでしょう。だからわざわざ毎朝帰ってきていた」 「……ああ」  ぐず、と少しだけ鼻を鳴らして、僕は答えた。 「こんな夏の暑い日も」 「そうだよ」 「水分補給をさせてあげるのも忘れなかったでしょう。自販機もあったことですし」 「もちろんだ。でも、自販機じゃなくて水筒を……」  そう、あの日も……。 「待てよ」  今まで気にも留めていなかったが、思い出したことがあった。  記憶と言葉を整理してから、僕は太宰を見つめ返した。 「確かに普段、水筒からタロに水を飲ませてやっていた。だけど、あの日は水筒を忘れたんだ」 「ふむ。それで」 「だからあの日だけ自販機を使った。その時……僕は小銭をばらまいたんだ」  そのうちの一つは自販機の下に潜り込んでしまって、嫌々ながら陰に手を伸ばしたのだった。 「拾い終わって顔を上げたら、タロが水のボトルをくわえようと取り出し口に顔を突っ込んでて」 「ほう、つまり」  急いで引っぺがして、誰かに見られていたらきまり悪いので、そそくさとその場を去った。  もしあの時、取り出し口に引っかけて落ちたとすれば。 「……あの自販機の、中に」 「脈ありですね。行ってみましょう」  にっ、と太宰が笑った。微笑といえる程度だったが、そこに彼女の喜びが垣間見えて、胸のあたりにささやかな温度を感じた。
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