【真鍮とアイオライト】14th 君が綺麗と云う満月の夜のあれこれ

2/6
前へ
/6ページ
次へ
 遅番業務が終わったのはいつもと同じ午後8時15分。数名の仲間と閉館業務を終わらせて、終礼をして、着替えをして、ロッカーを出たのが8時20分。スマートフォンを取り出して確認すると、鈴から3件のLINEの着信。  おつかれさまです。  と、最近使い始めたコノハズクのスタンプ。寝ているのか起きているのか分からない表情がどこか鈴を思わせて可愛かった。  明日、時間があったら図書館に顔出します。  明後日。楽しみです。  付き合う前とあまり変わらない飾り気のない鈴のメッセージ。相変わらずの敬語。  変わったのは以前より頻繁に図書館に顔を出してくれること。時間が合えば会いたいと言ってくれるようになったこと。  今日も月が綺麗ですね。  それから、少し控え目だけれど気持ちを隠さずに伝えてくれること。  どんな顔でこのメッセージを打っているのか考えると、ぎゅ。と、心臓を掴まれたような、わあ。と、声を上げたいような、ちょっと鼻の奥がつんとするような気持ちになる。つまりは、きゅんきゅんさせられっぱなしな菫だ。  今日は、満月の夜。天気もいい。だから、きっと月は綺麗だろう。いや。たとえ雨が降っていても月は綺麗なのだ。月でなくてもいい。さあ。と、吹く風の頬を撫でるのが心地いいとか。廂から落ちる雫の音が澄んで聞こえるとか。曇った空に街の明かりが反射して仄かに光っているとか。わずかな自然や風景の揺らぎや表情の美しさを伝えたい人がいることをこの国は恋と言う。  つまりは、鈴は恋をしているのだ。  そして、菫も。  ぎゅ。と、スマートフォンを握る。返事は月を見てからにしよう。と、思う。鈴の感じたものを菫もちゃんと感じたい。それから、今日はどうしても伝えたい言葉があった。  トートバッグの中に入れてある大事なもの。ちら。と、確認する。家に忘れてはいけないと何度も確認した。今もちゃんとそれはそこにある。 「急ごう」  どきどき。と、鼓動が早くなる。楽しみな気持ちと、少しの不安。気持ちが逸る。  だから、何も確認することなく、菫はいつも通りにうち鍵を回して、その金属製の取っ手に手をかけた。  市民センター職員通用口のガラス扉。白い金属の枠にガラスで外が見えるようになっている。外側からはセキュリティカードで開錠する扉は内側から開けるときには膝くらいの位置にあるサムターンを回して開錠する。そんな何の変哲もない扉の先に、異世界が広がっていたのだ。 「は?」  松葉が散り敷いた感触が靴底から足裏に伝わる。市民センター職員通用口前の石畳とは違う柔らかな感触。周りには松の幹が群生している。  ばたん。  と、扉の重さの割には少し控え目な音がして、背後で扉が閉まった。閉まった音で、こんな経験したことある。と、思う。思ってから、しまった。と、思うけれど後の祭りだ。振り返ると当然のように扉は消えていた。 「……ああ」  菫は思わず呻いた。呻かずにはいられなかった。  今日は菫にとっては大切な日だった。心に決めていたことがあった。  それなのに、また、ろくでもないことに巻き込まれたらしい。 「勘弁しろよ」  呟いて、あたりを見回す。そこで、菫ははっとした。 「あれ?」  以前、こんなことがあったときには、どこまでも続く松林の中にいた。奥がかすんで見えないほど先までそれは続いていた。  けれど、今日は違う。少し先に信号機と思しき赤い光が見える。木々の隙間から民家らしき影も見える。その前をヘッドライトが横切った。  松林はおそらく幅が100mほど。長さは暗くてよく見えないが相当の長さがありそうだが、その先にちらちらと明かりが見えていた。 「なんか……ちがう?」  そのとき。ふと、視界の端、見覚えがあるものが掠めた。もふさ。と、したもの。誘うように木々の間に消える。 「……マジか」  あの日。あのもふさ。を、追ってついた先に社があった。そこに入らなかったのは偶然(?)だったけれど、入らなくてよかったと、後で思った。入ったら戻れなくなると、確信めいた思いがあった。だから、きっと、この誘いに乗ってはいけない。  菫は思う。  きっと、今度は、本当に、戻れなくなる。 「……とにかく。道路に出よう」  あのもふさ。が、何を伝えたいのか、興味がないわけではないけれど、そちらに行く気は菫にはなかった。  今日はだめだ。今日は菫にとっては特別な日なのだ。1か月以上前から計画していた大切な日。なのに人手が足りなくて、休みを取ることができなかった。その上遅番シフトになってしまったから、菫は焦っていた。これ以上遅くなるわけにはいかない。  だから、今日は。今日だけは、他のことに構っているわけにはいかなかった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加