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「おい」
不意に後ろから声をかけられた。その声には何故聞き覚えがあった。しかし、それをどこで聞いたのか思い出せない。
振り返ろうとして、菫は思いとどまる。なんだかこんなことが以前にもあった気がする。そのときは確か不用意に応えて後悔した。だから、今回は慎重に。と、思う。
「無視すんな」
思ってはいたのだ。菫は。けれど、相手はお構いないだった。いきなり肩を掴まれて、引っ張られて、その人物の方を向かされた。
「え?」
そこで、菫は固まった。そこにいたのが、よく見知った相手だったからだ。
同時に背筋を冷たいものが流れる。その人物はそこにいてはいけない人物だった。
「……おれ?」
そこに立っていた人物は、毎日鏡で見ている顔をしていた。つまりは、菫本人だった。
黒いポロシャツに。黒のパンツ。白のトートはいかにも菫が出勤時にしていそうなスタイルだ。
「は? な。何だよ。これ」
思わずその手を払いのけて後ずさる。状況が理解できなかった。何故、自分の前に自分がいるのか。
「ふうん。思ったより普通だね?」
気付くと、いつの間にか、そばにもう一人の人影があった。その顔を見て、さらに菫は凍り付く。その人物も、菫の顔をしていたからだ。ネイビーのポロシャツを着た菫。こちらも、いかにも菫がいつもしていそうな服装をしている。
「……ふん」
一歩、後ずさったまま動けなくなってしまった菫を上から下までじろじろと観察してから、黒いポロシャツの菫は鼻を鳴らした。嘲笑とも侮蔑ともとれる仕草を見れば間違いなく馬鹿にされているとすぐに理解できた。
「……どうしてこんな平凡な人間風情に黒様が……」
菫の顔をしたナニカは呟くように言った。言っている意味がよく分からない。多分、相手も、菫に理解させようとなど思っていない。
「お前。池井菫だな。お前は我らの主の嫁に選ばれた。光栄に思え」
何故か、両手を腰に当てて、ふんぞり返るようにして、菫の顔をしたそいつは菫を指さした。人を指さすなと、言いたいけれど、言っても無駄なような気がして諦める。
代わりにため息を一つ。
「や。そういうの間に合っているんで」
そう答えると、相手は心底驚いたような顔をしていた。
「黒様に選ばれておいて……間に合っているだと?」
こんなふうにほぼ無理矢理連れてい来られて喜んでいると思われるほうが心外だが、それも口にしない。多分分かり合える気がしない。
「黒様の加護があれば何でも望みのままなのだぞ?」
「だから。そういうの間に合ってるって言ってるだろ。そんなことのために俺を呼んだんだったら、帰るから。大体! 俺は暇じゃないわけ。今日は、お前らの都合に付き合ってる暇はないんだよ」
「……お前の大事なものは預かっているんだが」
トートの中からちらりと菫から奪ったものをのぞかせて、菫の顔をした相手は言った。
「お前……あのキツネか? ……ってか、返せよ」
「返してほしく得れば俺と勝負しろ」
菫の怒りを軽くいなすように、ひらひらと手を振って、キツネ(仮)は言った。
「勝負?」
聞き返すと、その口が弓形にしなる。
「そうだ。間に合っているっていうなら、お前にも伴侶となるべき相手がいるんだろう。もし、その相手がお前に化けた俺たちに気付いたらお前の勝ちだ。大事なものは返してやる。けれど、分からなければ、大事なものは返してやってもいいけれど、お前は黒様の嫁になってもらう」
「はあ? ふざけ……」
一瞬まずどこから文句をつけようかと戸惑う。ツッコミどころが多すぎる。
「否も応も聞く気はない」
結局、口をパクパクとしている間に、キツネはぴしゃり。と、菫の返事を遮った。
「それ! 面白い。俺もやる~♪」
ネイビーがくるり。と、指先を振ると、ふわり。と、身体が一瞬軽くなる。そして、次の瞬間、身体は炎に包まれた。
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