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そんなこんなで、異世界で、男としての第二の人生が始まり、行く宛の無いトーマはそのまま白髪の美女の元で共に暮らす運びとなった。
最初こそ怒りもあったが、勝手に喚んだことを謝り、住む場所を提供し、この世界の一般常識を教えてくれる、ちょっと強引で抜けている白髪の美女との自由気ままな生活はわりと楽しかった。
職場と自宅を往復する生活よりも、比べ物にならないぐらい充実している毎日を送れば、自然と怒りも沈静化するものだろう。むしろ、変わったと言えば一人称程度で、事情を知る者以外と会った際も、悲しいかな他はほとんど変えずとも男して通ったのだ。身長と服装だけでこんなにも偽れるものなのか、ト-マの女子力が低かったのかはあえて言及せずにしておこう。
元の世界に関しての不安が無いわけでない。自分がどのような扱いになっているのか、時間経過は一緒なのか、戻った場合はどのタイミングになるのか、分からないことだらけではあるが、役目を終えればきちんと戻れるという事実はそれだけで心強いものである。気を揉んでも仕方ない、なるようになるでしょうという持ち前の楽観的なポジティブ思考で、悩むことはやめた。
◆
生活に慣れてくると、トーマは炊事掃除洗濯等の家事全般を受持つようになった。決して料理が上手いわけでも掃除洗濯が趣味というわけでもないが、腐海の住人と自分を比べれば、この分担になるのは自然の流れだ。転がり込んでいる手前、トーマも何か手伝いたいと希望もありすぐに分担が決まったのだが、その行動に気をよくした白髪の美女は、家事のお礼とトーマに魔法を教えると言い出した。
最初こそお礼などいらないと断ったトーマだったが、魔法には興味があり、出来ることならば使ってみたいと思うのはオタクの性で。興味津々のトーマの前で可愛い弟子が欲しいなぁ、と呟けば、後はちょろいものだった。そして、これを境に、トーマは白髪の美女を師匠と呼ぶようになった。
魔法に関しては、チートだった。
白髪の美女改め師匠ほどまでは及ばないが、初めて使用した魔法から無詠唱。攻撃系はあまり得意ではなかったが、それでも上位の威力。無詠唱が可能な魔法使いなどこの世に数える程度しかおらず、その者たちは総じて魔導師と呼ばれている。お前は魔導師を名乗っても良いレベルだろうと、師匠のお墨付きを頂くほどだった。
底無しの魔力と天性の才能は、忘れかけていた厨二心をくすぐってくる。もしかしたら右目が疼いたり、左手に封じられし力が暴走し始めたりしないだろうか等と、本気で心配しかけた頃、トーマを苦しめる事態が発覚した。魔法の精度を上げるために、呪文を用いての練習を始めようと開いた簡単な教本。わくわくして覗き込んだトーマは固まった。字が、読めなかったのだ。
「だから、違うと言っておろうに!」
「もー無理ですって、師匠! ぱぱっと魔法でどうにかならないんですかぁ……」
「甘えるな馬鹿者!」
トーマは、ぐったりと本の上へと倒れ込んだ。教本から簡単な絵本へチェンジした本には、ファンシーなイラストが描かれている。おそらく聖女関係のものなのだろうが、その内容は全く分らない。倒れ込んだトーマの頭を、向かいに座っていた師匠は持っていたペンで叩いて上げさせた。
「大体、なんで話すことはできるのに、読むことはできないんですかー」
「そんなもの、私が聞きた……いや、待て、忘れていた……」
「なんです……?」
「私が今話しているのは異世界の言葉だ……お前の言語に合わせて話しておったのだった」
「……今、なんと……」
「お前、こちらの言語はすべて分からないんじゃないのか?」
「まさか……ちょっと、こっちの言葉で話してみてください」
『いや、私としたことがうっかりしておった。おまえが魔力のレベルが高すぎるから、魔法にばかり力が入ってしまったではないか。おい、トーマ、聞いておるのか?』
流暢な言葉で話始める師匠に、みるみるトーマの顔色が悪くなっていく。
「はは……師匠、外人サンみたいっすねー……」
トーマにとって、辛く厳しい日々の始まりだった。
ザっと土埃が音を立てて舞い上がる。今まで師匠の家とその周辺のみが生活のスペースだったトーマが今立っているのは、その小屋から30分程下ったところにある麓の小さな村。この世界に来て初めて師匠以外が居る空間で、初めて師匠以外の人間が往来する道に立っているが、それを楽しむ余裕などトーマには全く無かった。
小さな村では客人など珍しく、しかもその客人が紺色のロングジャケットの着た男と、グレーのマントを纏ってはいるが、その下は踊り子のような白髪の女が連れ立って歩いていたならばそりゃあ目立つに決まっている。師匠は目立つことに慣れているのか、視線を気にせずに受け流しているが、普段のトーマだったら耐え切れない状況だっただろう。
そう、普段ならばこんなに複数の視線を向けられること自体が無いので、落ち着かないのだが、今はそれどころではなかった。ブツブツと練習した言葉を繰り返し呟いている姿には、必死さが滲みだしている。これからトーマに待ち受けているのは、初めてのおつかいミッションとなるのだ。
「よし、あそこのパン屋に入れ」
顎で少し先に見えている一軒の店を指した師匠に、トーマは生唾をゴクリと飲みながら頷いた。煙突からは煙が上がっているので、今正に作業中なのだろう……入り口の小さな木の看板にはパン屋と確かに表記されている。看板の文字は読める。大丈夫だ。
この数か月、血の滲むような、血が噴き出すような努力を重ね、やっとここまでこられた。後は、師匠以外の一般人と会話し、きちんと通じればこの短くて長かった地獄も終焉を迎える。
ふうと深呼吸をすると、トーマは指示されたパン屋へと一歩一歩と歩みを進めた。店前までくると木の扉を引く。カランと鈴の音が店内に響き、その音に反応してカウンターで作業をしていた女の子は顔をあげた。
「いらっしゃいませ……」
いつものように決まり文句を口にしたが、最後の方は声にならなかったかもしれない。途中で途切れてしまった呼びかけを気にする余裕も無く、少女は頬を赤く染め、たった今入ってきた人物を見つめた。
店先には、今まで見たことも無い、紺色のロングジャケットに、黒いリボンを首に巻いている人物が立っていた。肩に届かない程度まで伸びた黒髪に、黒の瞳。優しげな雰囲気を漂わせている男性客……トーマが、店内を見渡した後に、カウンターに立ち尽くしていた少女を見つめていた。
「こんにちは」
「は、はい! こんにちは!」
トーマがにこりと微笑みながら声を掛ければ、少女はぴしっと背を伸ばし挨拶を返す。そんな彼女の反応に、トーマは一瞬動きを止めた。微笑みは崩れてはいないものの、一気に背中へ冷や汗が流れるのを感じる。固まってしまったトーマを見た少女も、同様に動きを止めた。
(やばい……反応おかしいけど……ちゃんと通じてるよね……?)
(やだ……緊張しすぎて反応おかしかったかな……変に思われていないかしら……?)
お互いがすれ違う微妙な空気間。だが、二人とも心の中で必死に考えているので、店内はただ沈黙だけが続いている。傍から見れば、黙って見詰め合ったまま固まっている二人という異様な光景である。そんな光景が続いたのは数秒で、先に我に返ったのはトーマだった。なんとしてでもこのおつかいをクリアし、長かった地獄を終わらせたい一心で、自分を奮立たせるとゆっくりとカウンターへと足を進める。そんな心中等微塵も感じさせず、柔らかい雰囲気を纏ったままだが。
「食パンを2斤頂きたいんですが、お願いできますか?」
もう一度にこり。人当たりの良い日本人の通常装備である笑顔を浮かべる。この際、食パンなんて単語が通じるかとか気にしていられない。師匠には普通に通じていたが、あの人は規格外なので、一般常識については少々危ない所があるのだ。
不安を感じながらも注文をしれば、声をかけられた少女はハっと我に返ったと思うと、耳まで赤くしながらかしこまりました! と頷き、トーマの隣にあった備え付けられている商品棚へと駆け寄り、一番上へと腕を伸ばした。棚の上には切られていない食パンが数個乗っている籠が乗っている。どうやら食パンで通じるらしい。ほっとしならが少女の後姿を見守ったのだが、彼女の身長では棚が高すぎるようで、背伸びをしてギリギリ届くかといった具合だ。今度は籠を落とさないかとハラハラして見守ると、覚束ない足元ながらやっと籠に触ることに成功する。ぷるぷると震えながらも籠を引っ張り出したのも束の間、指先だけで支えていた籠は一定の位置まで引っ張り出てくると、今度はバランスを崩し少女目掛けて落下してきたのだ。
「きゃっ」
自分の上に降ってくるであろう衝撃に備え、少女は目を固く閉じた。普段は台を使って取っているのだが、どうもトーマを前にして緊張のあまり台を使うまで頭が回らなかった。その為、目の前で商品をひっくり返すという粗相をしてしまうとは……恥ずかしさで泣きそうになりながらも衝撃を待っていたのだが、一向にそれは訪れない。それどころか、
「っと、大丈夫?」
降ってきたのは、真後ろからの聞き覚えのない声。その声に恐る恐る目を開き振り返れば、視界の端で黒髪が揺れた。さらに上へと視線を上げていくと、先ほどまで見つめていたトーマの顔がそこにあった。棚とトーマに挟まれた少女は、想像以上に近い距離へ息を止める。真上へ落下する直前に籠を受け止めていてくれたのだと理解はしているのだけれど、緊張で1ミリも動けずにいた。
それを、困惑しているのだと判断したトーマは、ごめん近かったねと謝りながら一歩後ろへと下がる。二人の間に距離が生まれた所で、今度は大丈夫? と顔の前で手を振ってやれば、やっと彼女はすみません! と反応を返してくれた。
「いいえ。間一髪、間に合って良かったよ」
「あ、あの、有難うございます……!」
「ううん、怪我は無い?」
「はい……!! あ、えっと、食パンでしたよね……何枚切りに致しますか?」
「うーん……じゃあ8枚で」
「かしこまりました!」
勢いよく頭を下げると、少女はトーマが持っていた籠を奪うようにして両手で抱え、奥へ駆け込んで行った。途中何かに滑ったのかガシャンと言う音と悲鳴が聞こえる。大丈夫なのか心配になって彼女が消えていった奥へ視線を向けていると、数分もせずに紙袋を抱え戻ってきた。
「お待たせ致しました!」
カウンターへ紙袋を置いた彼女へ、ポケットから取り出した代金を渡す。それから紙袋を受け取って、袋の中へ視線を向けたトーマは首を傾げた。量が多いような気がして少女へと視線を向ければ、彼女ははにかむ。
「先程助けて頂いたお礼に、おまけとして半斤入れておきました」
「え……?! さっきのは、そんなつもりじゃ……」
「いえ、ほんの気持ちですので」
貰っても良いのか迷った表情を浮かべていたトーマへ、少女は受け取ってください、と声をかけてくる。明らかな熱がこもる瞳を向けてくる彼女に、これを無碍にするは悪いと判断したトーマは、小さく頷いた。
「……それじゃあ、遠慮なく。有り難う御座います。えっと君は……」
「ニーナです…!」
「有り難う、ニーナ。俺はトーマ。きっとこれからお世話になると思うので、よろしくね」
「はい!」
嬉しそうに微笑む彼女にトーマも微笑み返すと、店先まで見送りに出てきた。有難うございました、と頭を下げるニーナに頷いたトーマは、彼女の頭へ視線を止めた。頭を上げた彼女が不思議そうにトーマを見上げるが、それには答えずにトーマはニーナの頭へと手を伸ばす。
「え……」
さらりと前髪を梳くようにするトーマに、ニーナは固まる。そんな彼女の目の前に、パン屑をつかんだ指を差し出した。
「ついてたよ」
パラリと屑を落とせば、頬を真っ赤にしてあわあわとしだす。彼女の反応に小さく笑うと、またねと声をかけてから店を出た。扉が閉まる直前に、トーマは振り返り手を振った。パタンと扉が閉まっても、ニーナはその場から動けずにいた。
「トーマ、さん……」
自分の前髪を指で触れると、一瞬だけ触れたトーマの指の熱を思い出して……思わずニヤけてしまう顔を、ニーナは両手で覆い隠すとその場に座り込んでしまった。
店内で浮かべていた優しげな笑みを剥がすと、トーマは辺りをキョロキョロと見渡した。ちょっとしたアクシデントのお陰で、緊張はほぐれなんとも自然な会話をすることに成功できた。付け焼刃だが、自分は中々の習得具合だったようだ。それが嬉しくて、早く師匠へ報告がしたくて……店の直ぐ側で腕組み寄りかかりながら待っていた師匠を見つければ、彼女の元へと勢いよく駆け出す。
「師匠~!」
嬉しそうに手を振って駆け寄る姿はさながら犬のようだ。先ほどのイケメン具合をぶち壊すには十分すぎる。そんな忠犬なトーマに対して、師匠は大層人の悪い笑いを返してやった。
「師匠!! 俺の言葉通じたよ! 買い物できた!!」
見て見て! と抱えていた袋を師匠へ渡す。頬を赤くしてテンション高い様子は、どう見ても尻尾を振っているようにしか見えない。押し付けられた紙袋を受け取り、中身を確認すると、師匠はニタニタと笑う。
「ああ、しっかりと窓から中を見させてもらったぞ。ついでにいたいけな少女をたぶらかしてくるとは……隅に置けぬな」
肘でぐりぐりとつつかれながらも、トーマの初めてのおつかいミッションはこれにて終了となった。
言語が全く分からないと判明した時は流石に途方に暮れたが、こうやって日常会話が成立するほど話せるようになったのは、ひとえに師匠のお陰だ。例え、どんなに厳しくても、本当厳しくても、いっそ殺してくれと思うほど厳しくても、ここまでやってこれて良かった。
出来れば、もう一生遠慮したいが。
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