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夢を見たのは、それから2年後だった。
常用語を使いこなせるようになったトーマは、更に魔術師としての勉強へのめり込む様になった。
念願だった魔導書を読んでみたり、師匠による薬学講座を受けたりと日々内容は違うが、ほとんどは魔術関係である。魔術師とは魔術だけだと思っていたトーマだったので、薬を煎じる事も仕事の一つだと教えられた時には驚いたものだ。
そして今日も家事が終ると、定位置のソファーに座り、のんびりと本を開いた。今では読んでいる本は上級者向けの魔導書である。最初こそ、初心者向けの本を漁っていたのだが、師匠のレベルが高すぎて、基礎的な本は数える程度しかなかったのだ。この家に溢れかえっている本のほとんどが上級者向けの魔導書で、中は習得した常用語ではなく、古代文字で書かれている物も多い。
最初の内は、流石にまた言語を習得する気にはなれなかったために常用語の本を選んでいたが……如何せん暇なのだ。読める本を読みつくしてしまった所で、自然と古代文字の本へも手が伸び……気づくと、独学だが古代文字も読むだけならばできる範疇内に入っていた。そん変わりように一番驚いたのは自分だ。昔は英語すら嫌だったと言うのに……人間、生きていると何が起こるか分からない物だ。
切りが良い所まで読み終え、栞を挟み本をテーブルへと置く。読書を切り上げると、トーマは大きく伸びをした。窓の外の明るさを確認して、そのままソファーへ横になった。洗濯物を取り込むまでには、まだ時間がある。少しだけ……そう決めてから、心地好い暖かさに目を閉じれば、すぐに意識が遠のいていった。
金にも茶にも見える髪を持つ少女が立っている。その後ろ姿をトーマは知っていた。
そして、なぜだか、このまま一人してはいけないとも考えていた。
「アメリア」
自然と口からでた名前。
トーマの呼び掛けに、少女は振り返る。トーマの姿を見つけると、大きな目をさらに大きくして口元を両手でおさえ驚く。だが、それは一瞬で、少女は嬉しそうに微笑んだ。
「トーマさん」
少女に名前を呼ばれ、ひどく穏やかな気分になった。この少女のことを、自分は知っている。それも、かなり近い仲のような気がした。
「王都で、お待ちしています」
少女はそう言うと、深く頭を下げる。十分に下げた後に、戻される頭。そして目が合う。にこりと微笑む彼女の、緑色の瞳がとても綺麗で印象的だった。
そこで、トーマは目を開けた。ぼんやりとしていた意識が覚醒するにつれ、自分が眠っていた事に気づいた。
夢を見ていた……何か、重要な夢を、大切な少女を見た気がする。金にも茶にも見える髪で、緑の瞳を持つ少女。
「あの子……」
「おい、トーマ! 小腹がすかぬか……って、どうした?」
勢いよく部屋の扉を開けた入ってきた師匠は、ぼんやりとしているトーマを見ると、すぐに顔を顰めた。だが、トーマはそんな師匠の反応を気にも留めず、切り替えるよう大きく伸びをしてからソファーから立ち上がった。
「さっき昼食べたばっかりじゃないですかぁ」
呆れながらもキッチンへ向かうトーマの後ろを、師匠はちょこちょことついてくる。
「甘いものは別とよく言うであろう。それより、どうしたのだ、また夢でも見たのか?」
「……ええ、初めてみる女の子が出てきたんですけど、初めてじゃないって言うか……」
「ふむ……その娘は何か言っておったか?」
「名前を呼ばれて、王都で待っているって……」
棚に入れておいたシフォンケーキを取り出すと、切り分けながら話す。皿に盛り付け、渡そうと顔を上げると、師匠は窓の外を眺めていた。
「冬がくるな」
珍しく真剣な声色に、トーマは何も言えず、ただじっと見つめることしか出来なかった。
◆
この世界にも、変化は小さいが四季という物が存在する。大陸的には北に近い所に位置している国、ブリアント。それが、トーマが住んでいる国の名前だった。
常に肌寒い気候だが、春になれば雪が溶け、夏になれば花が咲く。雪に閉ざされ緑少ないかと思われがちだが、以外にも冬でも花を咲かせる植物は多く、その多くは聖女の力によるものだとされていた。聖女の力により国は雪から守られ、木々は枯れることなく年中育つことができると信じられている。この特殊な気候は、こちらで生活をしてきた2年を通して、トーマも肌で感じていた。
が、今年は様子が違った。
明らかに春を迎えても良い時期なのに、雪は溶けず吹雪続けている。普段は咲いている花たちも、この雪には負けてしまい、顔を出すことはなかった。かといって、豪雪地帯のように雪の壁ができる訳でもなく、一定の量以上は積もることはない。
不思議に思い師匠に訪ねると、初代聖女の力で、この国全体が雪に覆われることが無いようになっているらしい。冬でも花が咲く辺りから気づき始めてはいたが、なんてファンタジー。だったら、冬が明けない年も無くしてくれればいいのに……そう愚痴るトーマに、師匠はただ笑うのみだった。
そして、そんな荒れた天候でも、腹は減る。朝食分の皿を洗い終え、昼の献立に悩みながら貯蔵庫の扉を開けたトーマは、目の前に広がるすっからかんな光景にため息をついた。買い貯めていた食料が底をつき始めている。こんな状態では、作れるものと言えば粥ぐらいだろうか……しかし、依然粥を出した時の師匠の不満っぷりはすごかった。彼女は飽きっぽく、一品ものを嫌うのだ。おまけに日用品等の雑貨も底を尽きかけている。今後のことを考えれば、買出しに行くというのが一番妥当な選択だろう。窓の外はいつも通りの吹雪だが、背に腹は代えられない。トーマは村まで降りることを決めた。
「師匠~、買い出し行きましょ」
ひょっこりとキッチンから顔を出せば、師匠はトーマがよく座るソファーに横になっていた。ゴロゴロとしている彼女の服装は、いつも通りの露出狂。こんな吹雪の日でも、自分のスタイルを崩さないことは最早尊敬に値するが、寒くないのかと不思議に思う。
この家に限れば、全体に師匠が魔法を施しており、空調は常に最適なのだが、それはジャケット着用のトーマの服装での話だ。腹出しの師匠は明らかに寒いのではないだろうか。そんなトーマの心配を他所に、師匠はひどく面倒くさそうな表情でごろんと寝返りを打ち、こちらへ背を向けた。
「正気か、トーマ。頑張ってこい」
「もう食料も日用品も残り少ないんです。今回は買い込みますから、流石に1人じゃ量が多すぎですよ!」
「こんな雪の中、私は外に出たくないぞ」
「それは俺も同じです。はい、起きる!」
だらだらとしている師匠の前までやってきて大きく手を叩いてみせるも、やだやだと両手両足をバタバタさせる師匠。全く持って起きる気のない彼女の両腕を掴むと、トーマは遠慮なく引き上げた。軽々と上半身を起き上がらせた師匠が恨めしそうな顔をするが、そんな顔をしてもどうってことはない。
「いいんですか。粥しか作れなくなりますよ」
「いやだ!」
「決まりですね」
即座に首を振った師匠の回答に満足気そうに頷いたトーマは、そそくさと出掛ける準備を始めた。
「悪魔め……!」
部屋を出ていく後ろ姿を睨み付けていた師匠も、最終的には深いため息を吐くと、観念したように立ち上がった。
師匠の家は小高い山の中腹に建っており、買い出しへは山の麓にある小さい村まで行くのが常だ。トーマが初めて彼女以外と会話をした相手であるニーナも、ここの村にあるパン屋の娘だ。雪のせいで歩きにくくなっているためにいつもより長い時間をかけて到着した村には、日用雑貨や食料品の他に、小さい酒場も存在している。家では一切アルコール類を飲まない師匠ではあるが、嫌いと言うわけでもない。そのため、酒場は師匠のお気に入りの店でもあり、ここぞとばかりに飲みためている節もある。村に降りてくると必ず寄る場でもあったため、最早師匠とトーマは常連扱いになっていた。
「せっかくだし、師匠は足りていない雑貨の買い出しをお願いします」
「任せておけ。終わったら酒場に向かうので、そこで落ち合おう」
「またですかー、今度は歩けるぐらいで止めてくださいね」
歩けないほど飲んだ師匠を背負って山道を登ったのは、記憶に新しい。ジト目のトーマをもろともせず、師匠は上機嫌で歩いていく。その方向が、一応雑貨屋の方角へ行っているのを確認できたので、彼女を信じトーマも買い物へと向かった。肉、野菜など種類が僅かではあったが、買い込むことができた。最後の買い物として、パン屋へと入れば、商品棚へはあまり物が置かれてはいない。明らかに少ない品揃えは、雪のせいだろう。
「あら、トーマ君、いらっしゃい!」
「こんにちは」
カランと言う鈴の音に奥から顔を覗かせ、元気な声をかけてきた恰幅の良い女性はニーナの母親だ。ニーナの母親は、トーマの姿を見るととても嬉しそうに笑った。
「久しぶりねぇ。こんな吹雪の中、大変だったでしょうに」
「ええ、億劫で引きこもっていたんですけど、流石に食料も尽きてきたので」
「なるほど。ってことは今日は魔女様も一緒なの?」
「今頃一杯ひっかけているんじゃないですかね」
「あらあら、魔女様も好きだねぇ。それにしても、あの子は何をしているのか……ちょっと、待っていてね」
豪快に笑ってから、ニーナの母親は奥へ向かって声を張り上げた。
「ニーナ! 早く来なさい、ニーナ!」
「あ、忙しいなら……」
「大丈夫よ、気にしないで」
ぱたぱたと手を振るニーナの母親に、思わず圧倒される。ニーナの母親がトーマが訪れた時には必ず娘に相手をさせているのに気付いたのは、贔屓するのが片手で数え切れないぐらいになるかといった頃だった。娘の淡い恋心を後押ししたいのか、トーマが来た時には必ずニーナを呼び出す。
彼女にだって仕事があるのではと心配になるが、大丈夫だと言い切られてしまえばトーマは曖昧に笑うことしか出来ない。トーマは押しには弱いタイプなのだ。そして、今日もすぐに奥の方から足音が聞こえたかと思うと、ニーナが顔を出した。
「もー、何よ母さん! 今忙し、」
腰に巻いてあるエプロンで手を拭きながら出てきたニーナは、トーマを見付けると固まった。
「忙しい時にごめん、ニーナ」
そう声をかけると、固まったニーナの顔がぽん! と赤く染まる。ニーナの母親は笑いながらニーナの背を押せば、強く押されたためにトーマの前まで進み出る形になってしまう。目の前まで来たニーナは、エプロンの裾を握りしめながらトーマを見上げる。そこまで見届ければ、後はよろしくと言い残し奥へと下がって行った。
「こんにちは、ニーナ。ごめんね、忙しかったよね?」
「いえ! 大丈夫です! もうやだ、母さんったら、あれほどトーマさんの時は、ちゃんと言ってって言っているのに……!」
「まあまあ、俺にとってはニーナと合わせてくれる有難い人だから」
恥ずかしそうに小声で文句を言う彼女に、トーマは小さく笑う。パンを作っていたのだろう、頬に白い粉をつけたまま熱っぽい瞳で見上げている、この飾ることの無い姿は、ニーナらしくて好感が持てた。
トーマは、そんなニーナの頬についている粉を指で優しく払ってやった。男としての生活が慣れてきたせいか、どうもニーナが可愛くて仕方なく、たまにこうして構ってやりたくなるのだ。その度にニーナが初々しい反応を返してくれるのが、また可愛かった。
「ひゃう?!」
「ああ、ごめん。でも、頬に粉がついてたよ?」
慌てて両手で頬を押さえるニーナに、トーマはくすくすと笑う。
「大丈夫、俺がとったから」
ぽんぽんと頭を撫でてやると、俯きながら有り難う御座いますと呟いた。本当に可愛い。だが、これ以上やっては苛めすぎだろう。もう一度ニーナの髪の感触を味わうと、撫でていた手を引っ込めた。
「さてと、いつものお願いしても良いかな?」
「っ、はい!」
毎回買うものは同じだ。いつものと注文をすれば、仕事モードへと切り替わったニーナは手際よく用意をしていく。店頭に並んでいるパンを数点袋へ詰めて行き、最後にカットするために奥へと戻る。数分も経たずに戻ってきた彼女だったが、今日は紙袋の中に、更に袋が入っていた。見慣れないそれに首をかしげるトーマに気付き、ニーナは、おまけだと告げる。袋を開ければ、均一にカットされているバケットが入っていた。おまけにしては量の多いそれに慌てて首を振った。
「いや、流石にこんなには……! 代金払うよ」
「母さんが入れてくれたので、大丈夫ですよ」
「でも、」
「貰っておくれよ、トーマ君」
やりとりの声が聞こえたのか、先ほど奥へと下がっていたニーナの母親が顔を出していた。
「この天気だからね、売れ残って廃棄するのも勿体ないんだ」
「そうですよ、買い貯めきたんでしょ?」
中々に痛いところを突かれ、トーマは言葉をつまらす。ニーナとその母親をそれぞれ見てから、すみません、と頭を下げた。代金を払った後、袋を受け取り扉を開けると、雪が吹き付けてきた。
「すごい雪ですね……」
「そうだね、さっきより強くなっているなぁ」
「大丈夫ですか……? 弱くなるまで待ちます?」
「う~ん……俺としてはそうしたいんだけど、早く師匠迎えに行かないと危険な気がしてさ」
「あ……この雪じゃ、魔女様背負うのは辛いですね……」
「だよね、俺もそう思う。それじゃあ、またね、ニーナ」
「はい、有り難う御座いました、トーマさん!」
マントについているフードを被ってから、ニーナへと手を振れば、店先まで出てきた彼女も律儀に手を振り返してくれた。見送られながら吹雪の中へ進みそのまま酒場を目指す。程無くして着いた酒場の扉を開けると、暖かい空気に詰めていた息を吐いた。入り口でフードを降ろし、雪を払っていれば、ウエイトレスの女性が声をかけてきた。
「いらっしゃい、トーマ君。まーたニーナの所ぉ?」
「止めてくださいよ、その言い方。俺はパン買いに行っているだけなのに……」
「はいはい、そうね。お姉さんは早く告白すればいいと思うんだけどなぁ」
「なっ、だ、だから……!」
「うふふ、可愛いわねぇ。魔女様はいつもの席よ」
赤くなるトーマに満足したのか、ウエイトレスの女性はそう告げると仕事へと戻っていく。言われた通り、一番奥の席へ目をやれば、師匠がグラスを煽っているのが見えた。ワインの瓶はまだ1本のようだ。
「げ、やっぱりもう飲んでるのか……」
席まで近付くと、上機嫌な師匠が手を振ってきた。弟子が嫌そうな顔をしているのもお構いなしに、もう1つのグラスへとワインを注ぎだした。
「トーマ、遅かったではないか! ほら、乾杯だ!」
「貴方はまた飲んで……強くないんですから、ちょっとは考えて飲んでくださいよ……」
ため息交じりに向かいの椅子に腰を降ろす。今日は絶対に歩いて帰って貰わなければ困るので、それとなくワインの瓶を自分の方へ寄せると、しっかりと師匠の手綱を握った。
そんな生活を続けて数か月程度経っただろうか。
冬は一向に明けず、毎日のように吹雪いていた。蓄えだけで生活するには、そろそろ厳しくなってくる頃だった。
「吉報だ、聖女が現れたらしい」
イモの皮むきに精をだしていたトーマに、師匠が声をかけてきた。
「聖女……」
一瞬何を言われたのか考えるトーマだったが、口の中でもう一度聖女……と繰り返し呟いてから、本来の自分の役割を思い出して、はっとした。聖女が現れたと言うことは、解除者の仕事が始まると言うことではないか。呑気なトーマに師匠は呆れ気味に溜め息を吐く。
「なんじゃ、忘れておったのか?」
「いや、その……」
「まあ良い。トーマ、明日にでも王都へ向かえ」
「王都?」
「なんだその顔は、夢の内容まで忘れたのか? 聖女に言われたのであろう、王都で待っていると」
師匠の言葉に、トーマは以前見た夢を思い出す。金にも茶にも見える髪をした女の子。あの子が聖女と言うことだろうか。しかし、そう言われればなぜだか納得が出来た。
とうとうその時が来てしまった。先のことを考えれば不安しか浮かばない。なによりも、師匠との気ままなこの生活を気に入っていたせいもあり、別れることが辛かった。そこから先のトーマと言えば、深く考え込み師匠との会話も上の空で、食事が終われば早々に部屋へと引っ込んでしまった。旅立つ準備をしなければ、と思ってはいても体は動かず押し寄せる不安がグルグル頭の中を廻っていく。
解除者としてきちんと役目を果たせるだろうか、聖女はどんな人なのか、そもそも王都へ無事に行くことができるのか、どれぐらいの日数がかかるのか、その間の衣食住はどうするのか……
「あ……明日以降の食事……」
そう言って心配するのは、自分ではなく己の師の食事だった。作る人が居なくなれば、また簡素な食事に戻ってしまうであろう、彼女のことを思い出し、無理やり体を起こす。
少しでも残していってやらなければという思いの元、暗くなったキッチンへ戻り黙々と保管のきく料理を始めれば、少しは気分が紛れてきた。好きだったものを思い出し、ひたすら手を動かし、一折終わった事にはとっくに深夜になってしまっていたが、不思議と満ち足りた気持ちになっていた。
次の日、吹雪はやみ、久しぶりの太陽が出ていた。聖女降臨の恩恵なのだろうか。柄にもないことを考えていると、珍しく朝早くから起きてきた師匠が勢いよくトーマの部屋の扉を開けてきた。だからノックをしろと、と口癖になってしまったセリフを言おうとして、口ごもる。部屋へ入ってきた彼女は、斜め掛けの大きな鞄を手にしていたからだ。
「なんですか、それ……?」
「私のお下がりだ、持っていけ! 必要になるであろう薬草の類も詰めておる」
「あ、有難うございます……」
「さあ、とりあえず朝食だ! 早起きをしたら腹が減っていかん」
眠れなかったのは、彼女も一緒だったようで、ぶっきらぼうに鞄を床へと置き、クマが出来ている目を擦りながら部屋を出ていく。似てしまったなぁと小さく笑うと、トーマも師匠の後を追った。
朝食後、トーマはもらった鞄へと最低限の荷物を詰め込む。元より荷物は少ないため、荷造りなどすぐに終わり、軽く自分の部屋の掃除まで終えれば、昼前には準備完了だ。マントを羽織り、ブローチで止め直してから最後の挨拶をと師匠を探すと、彼女は、トーマのお気に入りのソファーに座って外を眺めていた。
「師匠」
「……終わったか」
ゆっくり立ち上がると、師匠はトーマの前まで歩み寄る。そして、右上でマントを止めているブローチへと手を伸ばした。
「よいか、このブローチがお前の身分を証明するものだ。無くすでないぞ。王都へ着いたらミラージュの遣いだと言え」
「ミラージュの遣いって……?」
「忘れたのか、私の名だろうに」
「え、師匠そんな名前だったの?!」
「なんだ、名乗っておらんかったか?」
「ええ……そうですね……」
師匠との別れにもしかしたら泣いてしまうかも、なんて考えていたトーマだったが、今更に判明した師匠の名前に思わず突っ込む。おかげで、湿っぽい気持ちも大分引っ込んだ。
「旅立つ弟子に、私からの餞別をやろう」
師匠がパチンと指を鳴らす。だが、何も起きない。首を傾げるトーマに、師匠はニタリと笑った。
「上だけは擬似的に男にしてやった。これから人前で脱ぐことも出てくるであろう? いくら貧相だと言っても、さらしなんぞ巻いておったらバレるかもしれないからな」
貧相という言葉には異を唱えたいが、ぐっと堪えるとトーマは自分の胸を触った。小さくはないが、大きくもない胸。さらしの上からでも、自分の片手に収まる程度の微乳の感覚がある。どこを変えたのだと不思議そうに師匠を見た。
「擬似的に、と言ったであろう」
そう言うとマントを開き、ジャケットのボタンをはずす。何をするのかと見ていたトーマのシャツのボタンをはずし始めて、流石にトーマも慌てた。
「ちょ、ちょっと師匠?!」
「大人しくしておれ!」
勢いよくシャツを開くと、そこにはさらしを巻いてある平らな胸があった。微乳なれど、それなりにあった膨らみがまったく無いのである。
「え……」
「所謂幻影だ。見た目しか誤魔化していないので、触れば実際の感触はある。やたらと胸の触り心地が良い男の出来上がりだな」
ニヤリと笑う師匠は、そのまま視線を下へと移す。それにつられるように、トーマも自分のズボンへと目をやった。
「下も男にしてやりたかったのだが、実際形は変えられないので使い物にならん。甲斐性なしと思われかねないのでな、名誉のためにそのままだ」
「そ、それは、どうも有難う……」
とんだ下ネタに引きつった笑いを浮かべる。まあ確かに、イザと言う時に使い物にならないなら、いらないかもしれない……なんて考えたのは秘密だ。
「性転換の薬でも良いが、あれは無理に体を変えるせいで痛みも副作用もひどい。おまけに、一度飲んでしまえば二度は効かん代物だからな」
「戻れなくなるなら、確かにこっちの方がありがたいですね」
トーマは脱がされたシャツを整えると、部屋の入口へと置いていた鞄を肩にかけ、そのまま玄関へと向かう。その後ろを師匠がゆっくりと付いていく。玄関の扉を開ける前に、トーマは振り返り大変世話になった師匠へと顔を向けた。
「俺が居ない間、きちんと片付けてくださいね」
「うむ……善処しよう」
「後、食べ物は小分けにして保存してあります。しばらくは持つと思いますが、少なくなり始めたら、すぐに村へ向かうように」
「お前は心配性だな。私のことより、自分のことを考えろ」
自分より背の高いトーマの頭を乱暴に撫でてやる。驚いた顔をしたトーマだったが、すぐに笑うともっとやって欲しいと無言で頭を下げた。名残惜しいのは師匠も同じようで、気がすむまで無言で乱暴に撫で続ける。それに文句ひとつ言わず付き合ったトーマは、ぐしゃぐしゃになったままの頭でにこりと笑った。
「それじゃあ、いってきます」
「ああ、気をつけろよ」
扉を開くと、明るい陽射しが積もっている雪へと反射していた。まぶしさに目を細めつつ、トーマは一歩を踏み出す。
「トーマ。チャンスは1回だ。勝とうするのではなく、動きを止めることに意識を持っていけ」
突然後ろから声をかけられ、振り返る。しかし、玄関先にはすでに誰の姿もなかった。それでも、トーマは深く頭を下げる。
「ええ、分かりました。それから……今まで、有難うございました。ミラージュ師匠」
トーマは一歩、屋敷より足を踏み出してから玄関を静かに閉めた。
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