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「なに、泣きそうな顔してるの? 言いたいことがあるなら、言いなさいよ!」
僕の前に、仁王立ちをしている彼女。腰に手を当てて、僕の顔を見下すように見ている。
「・・・・・・」
そっちが悪いんだろ? 何回も浮気して。
「あんたのそういう所、本当に嫌い」
「・・・・・・」
僕だって、僕だって・・・・・・。
「どうして、何も言わないのよ」
彼女はいつものように、軽蔑するような目線を僕に向けてくる。
あぁ、どうして僕は、何も言えなくなってしまうんだ・・・・・・本当に、情けない男だ。
「・・・・・・出て行く」
それだけ言うと、枕だけ持って、彼女と暮らしていた部屋を飛びだした。僕は自分の枕じゃないと眠れない。
歩きだした夜空の中に、彼女との思い出が星屑に混じってキラキラしている。
“あの頃は幸せだった”
“あの頃は楽しかった”
“彼女のことが大好きだった――”
好きだから、見返りを求めた。でもそれが、彼女には重すぎたらしい。どうして、好きな気持ちって、重みが違うのだろう。好きな方が、いつだって、苦しい思いをしてしまう。
やがて、彼女は僕の愛の比重にたえられなくなり、浮気をするようになった。僕は彼女を苦しませないようにと、自分の気持ちを、思っていることを言わなくなってしまった。
そして、彼女はまた浮気を繰りかえす。自分の気持ちを言えない僕は、もっともっと苦しくなる。そんなのの繰りかえし、積み重ねが僕たちの間にひずみを作ってしまい・・・・・・さっきの出来事を作ってしまったのだ。
男女問題とは、本当に厄介だ。
黒いアスファルトを蹴りあげる足は、重りをひきずっているかのように重たい。彼女との生活から逃げ出して来たのに、なぜ、こんなにも重たいのか?
その理由も、行く当ても分からないまま・・・・・・頭上に散らばった思い出だけを描きながら、僕はただ、歩きつづける。枕を抱え、足枷をひきずりながら。
「この枕、洗うか」
確かこの辺りに、新しくできたコインランドリーがあったはず。しばらく歩くと、明かりをまとった建物が見えてきた。コンクリート打ちっぱなしの壁で囲われた建物。ガラス窓から、たくさんの円い窓が見える。噂のコインランドリーに着いたらしい。
枕を抱えたいい年頃の男が、夜に枕を洗いに来るなんて・・・・・・きっと変に思うだろう。キョロキョロと挙動不審になりながら、コインランドリーに入る。よしっ、誰もいないようだ。
「というか、枕ってこのまま洗えるんかな」
そんなことを考えながら、洗濯機の前で立ち尽くしていると、ドアが開く音がして振りかえる。その光景を見て、ギョッとした。
突如入ってきたのは、もこもこの毛並みをした犬。カフェオレ色をしたトイプードルだ。そいつは、コインランドリーに入ってくると、身体がグン! と大きくなった。
人間と同じように二足歩行し、自らの背中に手を伸ばす。すると、纏っていた毛皮が裂けていき、肌色の背中があらわになってくる。手足、頭と順に毛皮を脱いでいき、丸裸になった犬。そいつは脱ぎさった茶色の毛皮を、洗濯機の中に放りこんでボタンを押した。ぐるんぐるん、と回りだす洗濯機。
肌色のか細い丸裸の犬は、本棚から本を持ってくると椅子に腰をかける。その一部始終を見ていた僕は、呆気にとられて開いた口が塞がらない。
こちらに背中を向けている犬。人間犬というべきか? その肌色の皮膚は、ぶつぶつの毛穴が丸見えで、まさしく、毛皮を剥がされた鳥肌みたいだ。
夢か何かか? 今日は相当なショックな出来事があったんだ。だから、きっと、夢か幻想に違いない。
枕を抱えたまま、犬が座っている正面まで回り、手の甲で目をゴシゴシこすった。そして、“どうか、いませんように”とゆっくり目蓋を開ける。
肌色の人間犬が、眼前に映りこむ。
やっぱり、いる。
僕の様子を見ておかしいと思ったのか、人間犬は本をパタンと閉じると、こっちをギッと睨みつけてくる。
「あんた、誰?」
「・・・・・・」
この人間犬、しゃべることもできるのか?
「毛皮を着ていないから、人間か?」
「・・・・・・毛皮」
なんて、着ているわけないだろ? 犬じゃないんだから!
人間犬は立ち上がると、不思議そうに僕の背中の方に回ってきて、そのまま再び、元の椅子に腰をかけた。
「あんた、重い毛皮を着ているみたいだな」
「えっ? 毛皮なんて着ていない」
「まぁ、まぁ、とりあえず座って。話をしようじゃないか」
意味が分からないまま、僕はとりあえず、椅子に腰をかけた。人間犬の向こう側。彼が着ていた茶色の毛皮は、洗濯機の中を楽しそうに踊っている。この人間犬が脱いだもこもこの毛皮が、水の中を回っている。
「あ、あの毛皮、気になる? 毎日汚れるんだよね。飼い主、毎日洗ってくれないから、こうやって時々、洗いに来てるんだ」
「へ、へぇー・・・・・・」
君は飼い犬なんだね。
「俺のことはいいから。君のことを話そう。どうして、そんなに重そうな毛皮を着ているんだ?」
「あの、僕は人間なので、毛皮は着ていないです。あなたみたいに、背中にファスナーがあるわけではないし」
僕は自分の背中を、指さしてみせた。
「はははっ! 知ってます。重い毛皮をかぶったみたいに、本当の自分を隠している、と言う意味です」
「へっ?」
コロコロした犬の目が、僕の心を見透かしているようでドキッとした。
“言いたいことがあるなら、言いなさいよ!”
彼女の言葉が、脳裏をめぐる。図星だった。彼女に嫌われたくなくて、僕はいつからか、本当の自分を隠すようになってしまったんだ。浮気を繰りかえす彼女に、何も言えなくなってしまった。そりゃあ、彼女も調子にのるわけだ。
「何があったかは知らないが、毛皮を脱ぐと楽になれる。俺もなかなか大変なんです」
「はぁ・・・・・・」
「毎日のご主人さまの機嫌とり。“かわいい”犬として居続けるための努力とか」
「そうですか・・・・・・犬もいろいろ大変なんですね・・・・・・」
「まぁ、ご主人さまが大好きだから、毎日がんばれるんですけどね」
「はぁ・・・・・・」
目の前の人間犬は、照れくさそうにはにかむ。この鳥肌状態では想像ができないが、このお店に入ってきた時の、あのかわいいトイプードル。あの愛くるしい姿のままで、きっと全力で、飼い主を愛しているのだろう。僕は僕のそのまんまの姿で、彼女を愛せていたのだろうか。
「俺は人間が羨ましい。大好きな人に大好きって、言葉で伝えられるから」
「僕たちが羨ましい?」
「もし、人間の言葉がしゃべられたら、ご主人さまに自分の愛を伝えられる。そうしたら、人間とも、もっと深い関係になれると思う。だから、俺は人間が羨ましい」
「自分の愛を、伝える?」
「そう、自分の気持ちをしまい込まなくていい。こんなこと言って嫌われるとか、苦しめるとか、そんな毛皮を着ていたら自分が苦しいだけ。そんなの脱ぎすてて、本当の自分で勝負するんだ。丸裸の自分で。それで嫌われたのなら、その人とは縁がなかったのだ。次へ行けばいい」
「本当の自分で勝負・・・・・・」
「そうだ」
「まだ、間に合うかな」
「あぁ、まだ間に合う。ここで、その毛皮を脱ぎすてていけ」
そう言った彼は、なぜかとても、かっこ良く見えた。
「ありがとう、犬」
僕は椅子から、スッと立ちあがった。
ここに毛皮を脱ぎすてて、彼女に会いに行こう。嫌われてもいい。本当の丸裸の自分で、彼女に気持ちを伝えるんだ。
「あ、待って。俺も途中まで一緒に行こう」
人間犬は洗濯機から自分の毛皮を取り出すと、着ぐるみを着るように頭と手足をとおした。
「ちょっと、ファスナー手伝って」
背中を向けてきたので、皮膚をはさまないようにファスナーを上げるのを手伝った。
すると、そいつの身体はみるみるうちに小さくなる。あっという間に、元のトイプードルの姿に戻ってしまった。
ドアに向かっていくトイプードルに続いて、僕もコインランドリーを出て行く。
星明かりの下、一匹の犬と、枕を抱えた一人の男が夜道を走っている。世にも不思議な光景であった。
交差点にさしかかると、犬はタッタッタッと横断歩道を渡って行ってしまった。小さなトイプードルは振りかえる。
“がんばれよ”
そう聞こえた気がした。
飼い主の元へ帰って行く楽しそうな背中にむけ、僕は声を張りあげる。
「ありがとう!」
そして、彼女のアパートに向かって、軽くなった足でかけ出していく。
もう、足枷はない。重い毛皮も脱ぎすてたから、心はスッキリとしている。
さぁ、丸裸の自分で、彼女に勝負をするんだ。結果はどうなってもいい。
きっと、これから、後悔ない人生を送れるに違いない――そんなことを思った、夜のコインランドリーでのお話。
end
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