黄金の月

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 喉の奥がヒリヒリ痛む。ううん、痛むのは喉だけじゃない。冷えてあかぎれになった指先も、もう感覚のない爪先も、いつから空腹を訴え続けているのか分からないおなかも、身体中どこもかしこも痛かった。  だけど、彼女は今すぐにでも笑いたい気分だった。  火照った頬はすぐに吹雪いた風に熱を奪われていくのに、これでもかこれでもか、と内側から熱が続いている。  息を吸い込む。冷えすぎた空気が喉を通って肺まで痛めようとするけれど、それすら心地良い。  素敵な夜だ。誰も受け入れない冷たい空気と、張り詰めた夜の色。そしてそれらを見下ろす大きな月。  高揚する気持ちを小さな身体いっぱいに抱いて、彼女は走る。  走る。走る。走る。  走り続ける。  だってようやく、抜け出せたんだ。あの子供だけの監獄を。  彼女がずっと過ごしていたその場所は、シェルターと呼ばれていた。知能の高い子供たちだけが、ここに匿われているのよ、と、シスターは言った。外はとても、酷いところだから、と。  実際シェルターの外は酷い有様だった。生命が長く生きられる場所ではない。ところどころには、集落を作って生き延びている人間もいるらしいけれど、それは死と隣り合わせの場所だ。  まぁ、そうしたのは、遠い昔の人間なのだけれど。  除染はまだ終わっていない。だからこうして外を走るだけで、きっと一秒一秒、一歩一歩、命は削られている。知ったことか。だって、気持ちいい。だって、気持ちいい!  はぁ、はぁ、と、息をあげながら、彼女は膝に手をついて足を止めた。  心臓がばくばくと音をたてている。頭の天辺へ、指先へ、どんどん血を送っている。  生きている。生きている。強く感じる。  シェルターは安全だけれど、でも、どうしても外に出たかった。そう言葉にするたびに、シスターにはとがめられたし、仲間には奇人扱いされたけれど。  顔を上げる。  冷たい風が癖のある髪を梳いていく。  死に損ねた惑星は、遠い昔の文明を思わせる建物に溢れている。  朽ち果てた建物は時折風に煽られて崩れるのか、煙と音が遠くから聞こえてくる。  シェルターからどれくらい離れただろう。  汚れた世界なのに、空は、ただただ、美しい。  両手を広げて空に顔を向ける。  生きている。生きている!  月明かりの冴え冴えとした白が眩しい。わぁ、と大きな叫び声をあげそうになった瞬間、背中にごつりと硬いものが当たった。 「おっと、動くなよ、お嬢ちゃん」  低く太い声。シェルターでは聞き覚えのないその響きに、少女はきょとんと目を瞬いた。  動くな、と言われても。 「どうして?」 「あん? 動けばてめぇは一発であの世行きだぞ、嬢ちゃん」 「あの世。聞いたことあるよ! そういう信仰があるって。あなたはそれを信じているの?」 「はぁ? いや、そうじゃなくてな。あー、くそ。ガキがひとりで何してんだって話だよ。持っているもの全部置け」 「いいけど、そしたら動くことになっちゃわない?」 「……いいから」  クソ、と、低く呟かれる。口癖らしい。彼女は小さく首を捻ってから、ポケットに入っていたIDカードを地面に落とした。カツ、と小さな音がする。 「これだけ」 「は?」  動くなよ、とまた言うと、背後の気配がしゃがむ。カードを拾い上げたようで、小さくうめき声が上がった。 「シェルターの子供……?」 「うん。元、ね。逃げて来ちゃったから」  もう振り向いてもいい? と聞くと、ため息が聞こえた。ため息だけで返事はなかったが、ないなら別にいいだろう、と判断して、振り返る。  鮮やかな月が、あった。  声から想像していたとおりの、大きな体躯を持つ中年の男。だけれど、その片方の瞳には、鮮やかな黄金の月がはまっている。反対の瞳は、真夜中の色。 「きれい」  思わず言葉が零れた。月明かりに照らされて、瞳の中の月がきらきらと輝いている。 「義眼だよ」  知らないうちの伸ばしかけていた手を振り払われる。  男の口から、ため息と共に白い息が落ちた。夜空に溶けて、魔法みたいに消える。 「何も持ってねぇシェルターのガキなんて、殺ったところで旨みががねぇな。じゃあな」  ひらりと手を振って男が身を翻す。  月光の中、錆びた世界を歩き出すその腕を、彼女はとっさに掴んでいた。 「……あん?」 「おじさんは!」  声を張り上げる。そうしないと、どうしてだか、月に攫われそうに思えたから。 「何をしているの? こんなところで」 「てめぇにゃ」 「私は!」  言葉を重ねる。行かないで、の代わりに。どうしても、引き止めたくて。その黄金の月を、もう一度正面から見たくて。 「世界で一番綺麗な、死に場所を探している!」  その言葉にどんな力が合ったのかなんて、彼女には分からない。  けれど、男はもう一度彼女を見てくれた。黄金の月が、静謐な真夜中が、細くなる。  くくく、と低い声で笑われた。大きな肩が上下している。 「妙なガキだな」 「おじさんは」 「俺は」  ぽん、と、頭に手を乗せられた。そんなことは、シスターだってしなかったのに。 「――世界で一番大切な宝を、探している」  その言葉を聞いた瞬間、彼女は確信した。  これはきっと、運命だ。  この月夜に黄金の月と出逢ったのは、きっと、世界をひっくり返す、運命なんだと。  
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