金木犀と金雀枝

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よく、夢の中で橙色の星が瞬く。其れは甘い香りを振り撒いて、僕の視界を奪うのだ。土の香りと、(もみ)の香りと、甘い香りが混ざり合って、記憶があやふやになる。 ――ねぇ、桂花(けいか)。また、此処へ来てね。……ずっと、僕の傍に居てね。桂花―― 桜並木の坂の下、夏はぽつねんと、しかししっかりと咲き誇る、たった一本の向日葵の横を真っ直ぐに突っ切ると、鬱蒼と(もみ)の木が繁る森に入る。其処を更に進めば、繋がるのは開けた場所。 祖母が云うには、昔、子供達の為の広場として使おうと拓いた処らしい。確か、三十年以上も前のこと。だがしかし、中央に堂々と腰を据える金雀枝をどうやっても伐ることが出来なかったらしく、其の計画は流されてしまったそうで。 それなら金雀枝(えにしだ)と共存する道を選べばよかったものを、と云えば、剪定すら赦されなかったのだと、梅を酒に漬け込みながら祖母は答えた。曰く、触れようとしただけで殺されてしまうのだ、と。 だから、近づいてはいけないよ、と。優しく諭されはしたが、好奇心というものは、言葉ごときでなかなか抑えられるものではない。期待と疑惑に胸をいっぱいにして、其の広場へ向かったのがおおよそ三年程前のこと。 興味本位で触れてみた金雀枝(えにしだ)の枝は存外柔らかく、微かな歓喜が伝わってきたのを覚えている。 伸び放題になった枝は地面まで垂れ下がるほどで、カーテンのようになっていた。黄色い花弁が散っていたから、あれはきっと初夏の終わりかけ。 野放図な枝の中へ恐る恐る踏みいれば、金雀枝(えにしだ)はまるで、幼子を抱く母の如く、僕を迎え入れた。 薄暗い緑のカーテンで仕切られた空間は、底の平らな卵の中のようで。気づけば無意識に詰めていた息を吐き出していた。すると、金雀枝(えにしだ)は嬉しそうに枝を震わせ、優しく僕の頬を撫でた。 なんだ、全部嘘じゃないか。そう呟くと、答えるようにまた枝が揺れた。其の日から、金雀枝(えにしだ)の下は僕だけの秘密基地になったのだ。 其れ以来、僕は何かと此処へ来るようになった。金雀枝(えにしだ)に木犀だなんて名前をつけて、其の日あったことや感じたことを話し、疲れたら一眠り。同じ人間の近くよりも、物言わぬ木の傍の方が心地好くて、家で眠るよりもよく眠れた。 金雀枝(えにしだ)の木の下、ふぅっと息を吐く。僕しか知らない隠れ場処(ばしょ)。誰も来ない此処は、何処より居心地が良かった。 垂れ下がった枝が、僕を外界から隔絶する。隙間から注ぐ光は優しく、地面に生えた苔は僕の体を優しく受け止めた。外の音は全て、金雀枝(えにしだ)の葉が擦れる音にすり変わる。このまま此処で一眠りしようかと、目を細めながら考えた。 ふわり、甘い香りが鼻を擽る。甘いだけじゃなく、清涼さも感じさせる香り。 (……何の、香りだっけ) 脳裏に橙色の小さな星が煌めく。何て云う花だったっけ。 其れを思い出す前に、甘い香りは解けて、掴めなくなる。 「――金木犀の香りだ」 不意に、そんな声が耳朶を打つ。少年とも少女ともつかない、曖昧な境界線の上に居るかのような声。知らない声。 ぱちり、瞬くのと同時に、頭にかかっていた靄が晴れていく。 ――嗚呼そうだ、金木犀だ。あの星の名前は。 金木犀。不意に甘い香りがしたと思えば、日に日に強くなっていって、だけど或る日、其の香りは急に消えてなくなってしまう。そうすると、水晶の霜が降りる冬がやってくるのだ。 ひらり、視界の端で橙色が揺れる。僕はもう一度ぱちりと瞬いて、それから隣へ視線を向けた。 柔らかそうな白金色の短い髪。愛嬌を滲ませる大きな瞳は橙で、睫毛も白金色に輝いていた。陶器のごとく白い額に、バランスよくおさまった顔のパーツ。まるで人形みたいだ、と、目を細めながら考える。人形が、僕の隣…、僕の隠れ処に座っていた。 「やぁ、初めまして」 「え、あぁ…うん。はじめ、まして?」 快活な声をまともに聞いて、漸く彼が少年であることが判った。如何せん、彼の容姿は中性的で、判別がしにくかったのだ。最初はふわふわとした意識の中聞いていたから判りにくかったけれど、きちんと聞けば確かに、彼の声は少年のものだった。 「ねぇ、君の名前は?」 弾んだ声で訊ねられて面食らう。三拍程の間の後、慌てて自分の名前を口にした。 「……桂花、だけど。君は?」 首を傾げながら問う。目の前の少年は薄い唇を左右対称に吊り上げ、ふふ、と笑った。 「僕はね、……そうだな、木犀って呼んでよ」 「……もくせい、」 ぽつり、小さく呟いて。すると、彼は大仰に頷く。 「そう、木犀。金木犀の、木犀」 薄い唇をゆっくりと動かす彼。丁度、此の金雀枝(えにしだ)と同じ名前だ。 「……此処に誰か来るなんて初めてだから、吃驚した」 理不尽な不服を声音に乗せて云えば、木犀はきゃらきゃらと楽しそうな笑い声をあげる。「……僕の、場処(ばしょ)だったのに」と、風に飛ばされてしまいそうな程小さな呟きは、彼の笑い声に掻き消された。 「あっはは!僕からしたら、僕の場処(ばしょ)に君が来たようなものだよ。つまり、僕でなく、君がシンニュウシャ…って訳」 笑みの形に目を細める木犀。其の目に宿る光は、咎めるような鋭さがあって。 「……そんな訳ない。僕が先に見つけたんだから、此処は僕の場処(ばしょ)だ」 其れに一瞬だけ怯んで、直ぐに負けじと云い返す。木犀はぽかんとした後、くすくすと肩を揺らした。 「ふふ、じゃあ訊くけどね。君、僕より先に此処を見つけた証拠はあるのかい?」 微笑みと共に問われ、一瞬言葉に詰まる。だから、言葉を返すまでに少し間が空いた。 「……出来るさ、其れぐらい」 「へぇ!じゃあやってみせてよ。今、此処で」 胸に手を当て、まるで劇を演じる役者のように彼は朗々と話す。其の云い方のいちいちが癇に触って、僕は眉をひそめた。 「出来るんだろう?」 挑発するような響き。ぐっと唇を引き結んで、気圧されそうになる自分を叱咤する。 「……だって、僕が此処を見つけてからずっと、誰も来なかった。勿論、君も」 風が吹く。金木犀が甘く香った。……そういえば、此れは何処から香っているのだろう。 「入れ違いになっていただけかもしれないじゃないか。君が此処を見つけたのは何時だい」  「三年前、だけど」 もごもごと云えば、木犀はぷっと吹き出し、げらげらと笑い始めた。 「あはは!其れなら、僕が見つけた方がもっとずっと先だ。僕は、拓かれるずっと前から此処を知ってる。人の子達に見つかる、其の前から」 きゅうっと細められた橙の瞳の奥、見透かすような光を見つける。ひやり、心臓を冷たい手で撫でられたかのような感覚が走った。 「…っそんなの、嘘だ。此処が拓かれたのは三十年以上前で…君は僕と同い年…十五か其処らだろう。有り得ない」 ふるふると首を振って否定。掴んだら直ぐに折れてしまいそうな程、華奢な体を持つ目の前の少年が、何だか無性に怖かった。 「人を見た目で判断するのは悪手だよ。センスがない」 肩をすくめ、くすりと笑いながら放たれた言葉。僕は得体の知れない恐怖を、悪態と共に吐き捨てた。 「……君と話してると、苛々する」 「奇遇だね、僕はとても楽しいよ」 「最悪だ」 「最高だね」 嗚呼もう、と苛立ちを隠すことなく息を吐く。がさりとやや乱雑に金雀枝(えにしだ)の中を出て。 「……帰るの?」 戸惑ったような声が後ろから聞こえる。僕は振り返りもせずに歩きだした。 「僕はシンニュウシャらしいからね。もう、此処には来ない」 最悪な気分だ。彼が来なければ、僕は何時も通り此処で眠って、金雀枝(えにしだ)の中で安息の時間を過ごせた筈なのに。 「招かれざる客とは云っていないだろう?……まぁ、帰ると云うのなら止めないけれど」 些か残念そうな声が耳朶を打つ。何故君が残念そうにするんだと食って掛かりそうになって、自制。 「大丈夫。君はいずれまた、此処へ来る。――またね、桂花」 そう云う、笑いを含んだ声が。僕の名前を呼ぶ声が。 ねっとりと鼓膜に絡み付いて離れなくて。 何だかとても、気味が悪くなった。 ――ふわり、金木犀が香る。 * * * * * * * * * * * ――眠れない。 月が洋盃(コップ)を傾け、銀の雫が天鵞絨(びろうど)に散る夜。 白い寝台の上、僕は何度目かになるか判らない寝返りを打った。 ()の金雀枝の処へ行かなくなって数日。あれから、僕は眠れない日々を過ごしていた。 眠れたとしても、それはごくごく浅い眠りで、夜中になると必ず目が醒めてしまう。何時まで経っても疲れが取れた気がしない。倦怠感と眠気が、僕の体に纏わりつく。 眠らなきゃいけないのは解っているのに、意識を手放すことが出来ない。此の体は、明らかに金雀枝(えにしだ)の揺り篭を求めていた。 脳裏に、木犀の矢鱈と整った顔が浮かぶ。……彼に会うぐらいなら、眠れない方がましだと思った。 もぞもぞと起き上がり、台所へ向かう。足の裏に伝わる木目の感触と、冷えきった温度が体を震わせた。 洋盃(コップ)に水を注ぎ、揺れる水面に映る自分を何とはなしに見つめる。 酷い顔だ。隈がくっきりと浮かび上がり、些か(やつ)れているようにも見える。そういえば、最近食事もろくに摂っていない。やけに細く見える白い手首を見て、溜め息。 どうしてもちらつく金雀枝(えにしだ)の木を振り払うように、ふるふると首を横に振る。喉に流し込んだ温い水は、金木犀の香りを纏っていた。 「……ッ嗚呼もう!」 かんッと音を立て、流しに洋盃(コップ)を置く。金雀枝(えにしだ)と木犀の影は、消えるどころかますます濃さを増すばかりだった。 つい、と窓の外へ視線を向ける。磨り硝子越し、煌々と輝く月がぶら下がっているのが見えた。 ふわり、甘い香りが鼻を擽る。甘いだけじゃない、清涼さも伴った香り。 ごくりと喉を鳴らす。――嗚呼、逃げられない。 とぷり、意識が沈む。脳に纏わりつく、甘い香り。 ふらり、足を踏み出す。体を震わせる、凍てつくような空気。 気づいた時には、彼の金雀枝(えにしだ)の木の傍に居た。 柔らかな其の葉に触れる。其れだけで、疲れが少し取れたような気がした。 「――嗚呼、来てくれたんだね。待っていたよ。……桂花」 紡がれた名前。ゆるりと諦念と共に振り返れば、優しい笑みを湛えた木犀が其処に居た。 「やぁ、いい夜だね」 「……やっぱり、居たのか」 「此処に居ちゃ悪いかい?」 確信にも似た呟きに、揶揄するような声を投げかけてくる木犀。やっぱり帰ろうかと考えていると、温度のない手が頬を撫でた。 「…ッ、何を、」 思わずばっと身を引く。ほんの一瞬、彼の手に心地好さを覚えていた自分に驚いた。 「眠れていないんだろう?隈が酷い。此処で一眠りしていくといい」 心配するような声に戸惑う。彼は僕のことを嫌っているんじゃないのか。 「……何故、そんなに心配そうなんだ。君は、僕のことが嫌いじゃなかったのか、」 そう投げかければ、木犀はきょとんと首を傾げた。それから、ゆるゆると首を振り、優しく、寂し気な微笑を浮かべる。 「……君は、そう思っていたのかい?」 「当たり前、だろう」 つき、と、胸に針が刺さったような感じがした。何故、彼はこんなにも寂しそうに笑うのだろう。 「そんなことはないよ。むしろ…其の逆さ。君は、嫌だって思うかもしれないけれど」 切なげに、彼は微笑む。此れ迄の言動と、今の彼の言葉が結びつかなくて、僕は戸惑った。 「……嫌に、決まってるだろう」 最早本当にそう思っているのかも判らなくなってしまった悪態を吐く。彼を毛嫌いする理由は、実は何処にもないんじゃないか、なんて、そんな莫迦げた考えすら浮かんだ。 「ふふ、君はそう云うと思っていたよ。……兎も角、眠れていないのは心配だ。どうしても嫌だと云うなら、僕は一度此処から去るから。眠っていくといいよ、桂花」 有無を云わせない言葉に面食らって、ぽかんとなる。沈黙と静かな圧に耐えかねて、僕は溜め息を吐いた。 「――解ったよ。其処まで云うなら」 「よかった」 そう、彼が心から嬉しそうに笑うから。 余計に解らなくなってしまった。僕は何故、こんなにも彼のことを嫌っているのだろう。 もやもやした気分を抱えて、金雀枝(えにしだ)の中へ入る。久しぶりの揺り篭の中は、何だか酷く懐かしい匂いがした。ほっと張り詰めていた息を吐けば、いつかのように、金雀枝(えにしだ)は優しく枝を震わせた。 「――木犀」 何となく、名前を呼ぶ。其れが、此の金雀枝(えにしだ)を指すのか、()の儚げな少年を指すのかは、自分にも解らない。 只、優しい枝に包まれて、苔むした地面の上で眠るのは心地好くて、酷く安心して。 何時の間にか、寝入ってしまっていた。 ――金雀枝(えにしだ)が、揺れる。 * * * * * * * * * * * * 空が高い。水晶のように透き通った霜を踏みしめながらそう考える。少し肌寒くて、小さく身震いした。 風が吹く。(もみ)の木が揺れた。 金雀枝(えにしだ)の前、小さく息を吸う。 「――木犀、居るか」 ぽつり、極々小さな声で呟けば、金木犀が香った。前よりも、甘さが増している気がする。 「居るよ」 上から、飄々とした声が降ってくる。見上げれば、(もみ)の木の太い枝に腰かけた木犀が視界に入った。 ()の日、久方ぶりに金雀枝(えにしだ)の揺り篭の中で眠った日から、僕は以前のように、此の場処(ばしょ)に足を運ぶようになった。目的が、金雀枝(えにしだ)に会う為なのか、木犀に会う為なのかは解らない。僕の中から、彼に対する嫌悪が無くなってきているのは、確かだった。 「やぁ。元気そうで安心したよ。最近は眠れているんだろう?」 危なげなく枝から飛び降り、僕の隣に並びながら彼は笑った。其れにぎこちない頷きを返して。 「……だけど、今日は来るのが随分と早かったね。學校は、どうしたんだい?」 彼が首を傾げるのに合わせて、さらり、白金色の髪も流れる。其の仕草が何だか幼い子みたいで、少し混乱した。 「……行きたくなかったから、」 言葉少なに答える。木犀は納得したように頷いて、小さく笑った。共鳴するように、金雀枝(えにしだ)が揺れる。 「笑うなよ」 「ふふ。學校をサボってまで、此処に来てくれたのが嬉しかったのさ」 「……別に、君に会いに来た訳じゃない」 ぼそぼそと話しながら木犀に背を向け、金雀枝(えにしだ)の中に入る。薄暗い緑色の空間が僕を包んだ。 「だけど、前よりは嫌そうじゃなくなったな。僕が此処に居ること」 「諦めたのさ、君が執拗(しつこ)いから」 金雀枝(えにしだ)の幹に背中を預けながら云う。僕が此の中に居るときは、木犀は中に入ろうとしない。何時も、枝越しに幹に寄りかかって、立ったまま話していた。 「そうだ。僕はね、君に訊きたいことがあるんだよ」 「……何、」 彼の話は何時も唐突だ。最初はいちいち其れに静かに憤慨していたものだけど、今はもうどうでもよくなってしまった。そういうものだと、考えることを放棄したからだろう。 「ねぇ桂花。君は以前、死ぬのが怖いと云っていただろう」 木犀には云った覚えがない台詞だ。其の話は、此の木にしかしていない。僕と、金雀枝(えにしだ)の秘密の筈だ。 「……話した覚えがない」 「今も、そうなの?」 僕の険を無視して彼は問う。無邪気に首を傾げる様が緑のカーテン越しに見えるようだ。 「誰から聞いたのさ、其れを。君の答え次第だよ」 怠さと共に問えば、間髪入れずに「強いて云うなら、此の金雀枝(えにしだ)から」と云う声が耳朶を打った。冗談を云っているようには聞こえなかったから、多分、問い質すだけ無駄だろう。 一つ息を吐いて、「そうか」と気のない同調。それから、地面を覆う苔に指先で触れた。 「……怖いさ、勿論。死んだ後の世界が穏やかなんて保証はない。人間は、未知を恐れるものだよ、木犀」 気遣わし気に、金雀枝(えにしだ)が揺れて、裏葉色の葉が頬を撫でる。其れに小さく微笑んで、ゆるゆると目を伏せた。 「誰かが僕のことをずっと覚えていてくれるなんて保証もない。肉体が無くなって…存在すら、誰からの記憶からも居なくなってしまったら。其のときに、僕と云う存在は無かったものになってしまう」 嗚呼、なんて恐ろしいんだろう。僕と云う存在が無かったことになって仕舞ったら、そうしたら、僕が生きた意味は無くなってしまうんじゃないだろうか。……僕は其れが、何より恐ろしい。 「後世に残るような人生を送ったとして、其れでも、いつか消えてしまうだろう?……僕は、僕と云う存在が無くなってしまうことが、怖いんだ」 「笑えるだろ、」と、自嘲混じりに言葉を紡ぐ。こんな話、誰かにしたことがなかった。血の繋がった、親族にさえも。 膝の上で踊る木漏れ日を眺める。返ってくる言葉は無く、唯風が木を揺らす音が響いていた。 どの位の間そうしていたのだろう。段々と眠気が瞼を下ろしかけ始める頃になって漸く、木犀が身動ぎする音が聞こえた。 「――僕は、覚えているよ。此の身が朽ち果てる時まで、君のことを」 静かな、何処までも凪いだ水面のような声。其の言葉はやけにしっとりと、僕の耳に馴染んだ。 ……ほんの少しだけ、ほんの僅かだけ、其の声に恐怖を感じたのは、何故だろうか。 其の答えを見つけることは、出来なくて。だけど、彼の言葉に安堵したのは確かで。 「……少し、寝るよ」 木犀が居るであろう方向に背を向け、そう呟く。静かに頷く気配がした。 「ああ。おやすみ、桂花」 「……起きる迄、其処に居てくれる?」 子供じみた願いにも、彼は鷹揚に頷く。「勿論、君が望むなら何時まででも」と、喜色に塗れた声がした。 「ありがとう」と。 風に飛ばされてしまいそうな程、金木犀の香りに攫われていってしまいそうな程微かな囁きが、彼の耳に届いたかどうかは判らない。 意識が沈む前、最後に聞こえたのは、彼の密かな笑い声で。 脳裏に、警告するような主張の強い色をした、橙色の星が揺れた。 * * * * * * * * * * * * ふと、目が覚める。もぞもぞと体を起こすと、滑らかなシーツの感触を手の平が捉えた。 ぼんやりとした意識に、咽返(むせかえ)る程甘い香りが雪崩れ込む。けほっと一つ咳を溢して。 ぐるりと辺りを見回す。銀色の月の光が零れ、木目調の床の上で弾んでいた。空気中の塵が舞い、きらきらと輝く。積まれた本は、今にも崩れそうだ。紛れもなく、僕の部屋。 何時の間に帰ってきたのだろう。確か僕は、學校をサボって、()の森へ行った筈で。其処で、眠って。起きた覚えがないのに、目が覚めたら家に居た。まるで、長い長い夢を見ていたかのような気分だ。 (……何の香りだろう、此れ) ちらり、脳内に鮮やかな橙色の星が瞬く。何て云う花だったっけ。 どうも頭がはっきりしない。まるで、熱に浮かされているかのようだ。 水でも飲もうと寝台を抜け出す。星が奏でる竪琴(ハープ)の音が聞こえてきそうな夜だ。 水差しから水を汲み、一気に洋盃(コップ)の中身を飲み干す。何時もなら此の冷たさが僕を醒ましてくれるのに、意識は未だ霞の中だ。 体が怠い。重い。風邪でも引いたのかと思ったけれど、此の怠さは、睡眠不足から来るものと同じだ。だけど何となく、寝台に戻る気にはなれなくて。 「桂花」 不意に耳朶を打つ、中性的な声。僕を呼ぶ声。驚きに、手の中から洋盃(コップ)が滑り落ちた。派手な音を立てて破片を散らせる様が、やけにゆっくり見えた。まるで、出来の悪い映画をゆっくりと流しているかのような。 「……木犀?」 呟いた声は、みっともないほど震えていた。振り返れば、銀色の光に照らされた、色素の薄い少年。 「ああ、そうだよ。……行こう、桂花」 ゆらり、白い手がひらめく。何処に、なんて問いは、外に出る前に腹の底へ沈んだ。 ゆらり、彼に手招きされるまま足を踏み出す。硝子の破片が足の裏をざっくりと切ったけれど、不思議と痛みは感じなかった。 濃厚な、しかし何処か清涼感を伴った甘い香りが脳の中に立ち込める。意識は朧気で、自分の足で歩いているのかどうかすら、夢か現かすら、判断出来ない。 木々が騒めく音がした。目の前には、季節外れに黄色い花を咲かせる金雀枝(えにしだ)と、小さな橙色の星を咲かせる低木。 「……此れは、」 「金木犀だよ。僕と君、二人で植えた」 優しくて、寂しそうな声が鼓膜を揺らす。――嗚呼そうだ、金木犀だ。此の花の名前は。 「……そう、だっけ」 「そうだよ。君は、忘れて仕舞っているかもしれないけれど」 温度のない手が、僕の頬に触れる。何時かのように。柔らかな手は、金雀枝(えにしだ)の枝のようで、心地好さを覚えた。 「……思い出して、桂花」 縋るような声。促されるがまま目を伏せて、記憶を遡る。僕は何時、彼と出会ったんだっけ。 ――ねぇ、桂花。また、此処へ来てね。……ずっと、僕の傍に居てね。桂花―― 不意に、声が蘇る。土塗れの手を後ろに隠して、まだ小さな苗木の前で寂し気に笑う少年が、瞼の裏に浮かんだ。 其の少年が、目の前の彼に重なる。――嗚呼、そうか。 僕が初めて此処に来たのは、ずっと前。三年前なんかじゃない。もっとずっと、幼い頃に、来ていたんだ。金雀枝(えにしだ)を見上げなければならない程、幼い頃。 一人で遊んでいた、黄昏時。近所の青年に貰った金木犀の苗を、何処に植えようかと彷徨って此の場処(ばしょ)に迷い込んでしまった僕は、彼と出会った。 今と全く変わらない姿の、木犀に。 此処に植えると良い、と云う彼と一緒に、其れを植えた。丁度、金雀枝(えにしだ)の横に。 だけど、何故今迄気が付かなかったのだろう。金木犀はこんなにも咲き誇っていると云うのに。 「――僕が隠していたんだよ。君に気づかれないように。今、此の時迄」 まるで僕の心を読んだかのように、浮かんだ問いの答えを告げられる。ぱちりと瞬くと、くすりと木犀は微笑んだ。 「僕はずっと待っていたんだ。君が此処へ来た彼の日から…君が僕に触れた日から、ずっと、ずっと…此の日が来るのを。待ち望んでいたんだよ、桂花」 恍惚とした響き。ぞわりと背筋が粟立つのが解った。全身が警鐘を鳴らしている。逃げないといけない。何から?解らないけれど、彼と共に居てはいけない。 頭の片隅ではそんな声が響いているのに、体は縫い留められたように動かない。思考が霞む。 「大変だったんだ、君が望む空間を作るのは。でも、もう準備は整った」 「準備って…何、の」 掠れる声で問い返す。心臓と肺が冷たい糸で切り刻まれるような感覚。木犀はふわりと笑い、僕の手を握る。逃げられないと、本能的にそう感じた。 「死ぬのが怖いと、君は云っていただろう?だから、」 ふっと言葉が途切れる。……もう、恐怖は無かった。代わりに、じわじわと胸に広がるのは歓喜。 「おいで、桂花」 金雀枝(えにしだ)の中へ誘われる。だけど、足は動かない。最後の防衛本能だろうか。 「……君についていけば、僕は死なないのか」 「ああ、そうだよ。ずっと、ずっと生きていられる。……ずっと、僕と一緒だよ。一人じゃないんだ、桂花」 嗚呼、なんて甘美な響きだろう。死ななくていい。誰かに忘れられることはないし、一人じゃない。 ふらり、足が動く。木犀の方へ。足の裏の痛みが警告するように走ったけれど、そんなもので止まりはしない。 「……本当に、ずっと一緒なの?」 揺り篭の中、木犀と向き合って寝転ぶ。木犀は愛おしいものを見るように目を細めた。 「そうだよ、桂花」 頷く木犀。額に柔らかいものが触れた。金木犀が香る。 「僕を置いていかない?一人にしない?」  子供じみた懸念に、彼は微笑む。 「勿論さ。君の隣に居るよ。君が嫌がっても、離さない」 返ってきた答えに満足して、微笑む。嗚呼、何だか酷く眠い。 金木犀の香りに、意識が攫われる。とぷり、沈んでいく意識。 「――あいしているよ、桂花」 そう、囁いた声が、どろりと甘く溶けていた。其れが、最後の記憶。 ――はらり、橙色の星が流れる。 * * * * * * * * * * * * 桜並木の坂の下、夏はぽつねんと、しかししっかりと咲き誇る、たった一本の向日葵の横を真っ直ぐに突っ切ると、鬱蒼と(もみ)の木が繁る森に入る。其処を更に進めば、繋がるのは開けた場所。 其処に腰を据える金雀枝(えにしだ)と、寄り添うように咲く金木犀には、誰も触れることが出来ない。
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