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後編
海で出会ったあの日から、辰吉の時はまた前へと動き出した。
犬は「虎吉」と名付け、散歩にも毎日行くようになった。
調べたところによると、柴犬の一種らしい。
「これ、虎吉。道路に飛び出ちゃいかん。車に轢かれてまうで」
虎吉は嬉しそうに尻尾を振りながら振り返り、そのつぶらな瞳で辰吉を見ている。
「なにを楽しそうにしてる? こっちは怒ってるんぞ?」
停車している車の窓に映る辰吉は、言葉とは正反対の表情をしていた。
この状況さえも愛おしい――そんな表情だった。
「おぉ、辰吉さん。なんや最近はいやに元気やね。虎吉くんも、すっかり懐いて」
散歩の途中、辰吉は長岡と鉢合わせた。
「少しずつですけど、この子のお陰でまた何とか頑張れてます」
「ほうか、ええこっちゃ」
心臓と膝が良くない辰吉には、虎吉と同じように走ったり、飛び跳ねたり、長距離を移動することは出来ない。
ただ寄り添い、同じ時間を過ごすこと。
それが虎吉に与えられる、辰吉に出来る唯一のことだった。
それにもかかわらず、虎吉はいつも楽しそうに尻尾を振り、片時も側を離れようとしない。
まるで、それだけを求めているかのように。
辰吉は虎吉の過去を、虎吉は辰吉の過去を知らない。
しかし、それぞれがそれぞれの過去を背負いながら、今この一歩を踏み出している。
その事実だけが、虎吉と自分を繋ぎとめている――そんな気がしていた。
「虎吉、そろそろ帰るで」
長岡と別れてから十分足らず。
「いつか思いっきり、散歩に行けると良いな――……虎吉よ」
辰吉は様々な思いに耽りながら、帰路についた。
「よー、虎吉。いつも父さんのこと見ててくれてありがとーなー」
「バカ言うな。わしが虎吉の世話をしよるんぞ」
虎吉とじゃれあう茂俊に、辰吉は喝を入れる。
茂俊は「はいはい」と辰吉に視線を送ることもなく、左手を軽く上げて受け流す。
その間も、虎吉はずっと茂俊にお腹を見せて甘えていた。
「でも本当に良かったよ。虎吉が来てから、父さんは変わった。それも母さんと行った海で会ったなんて……、こりゃ母さんの仕業だろう。母さんは天国に行っても父さんの世話で大変だな」
「アホか」
辰吉は腕組みをしながら、雲一つない空を見上げる。
今の言葉は冨美子、お前に言ったんだぞ――。
心なしか、青空は笑っているようだった。
「虎吉に言ったこと、あながち冗談でもないんよ……」
茂俊は突然、真剣な表情で言った。
「俺な……、散歩に行くって言った時、少し不安もあった。父さんが戻って来なくなるんじゃねーかって」
辰吉は先程と同じように「バカ」の一言を浴びせようと思ったが、何かを堪えるように唇を噛む茂俊を見て、言葉を飲み込んだ。
「犬ってほら、迷子になっても優れた嗅覚で飼い主のところに戻ることがあるって言うやろ? 虎吉と会った奇跡みたいな話を聞いたらよ、なんか……、父さんがどこに行っても虎吉が見つけてくれるんじゃねーかって――そう思えるんだよ」
茂俊は言葉を風に乗せるように吐息交じりにそう言うと、口元を緩ませ、また子どものような笑顔を虎吉へと向けた。
哀愁漂うその背中は、近くに居るはずなのに小さく映る。
どこかってどこだ――
辰吉の言葉は二人の間を流れる空気を震わせることなく、胸の中へと落ちて行った。
屋根を雨が叩いている。
タイムスリップでもしてしまいそうな旋律を聞きながら、辰吉は目を覚ました。
予報通り、今日は朝から雨が降っているらしい。
辰吉の気配に気が付いたのか、虎吉が脇の隙間に鼻を潜らせる。
隙間から覗く円らな瞳に微笑みかけてから、辰吉は虎吉の頭を撫でた。
――散歩に行けない分、いつも以上に一緒にいるか。
そう思いながら身体を起こしたところで、辰吉は突如として襲われた胸の痛みとともに、再び眠りについたのだった。
――虎吉の鳴く声がする。
大きく低い声と、か細く高い声。
なぜだろう。
どちらも酷く震えている。
右へ左へと移動しては暖かな息、そして感触が頬に刺激を与えていた。
「――……」
耳元で何かが聞こえる気がしたが、それを聞き取り、理解することも出来ぬまま、微かに残る意識も遠のいていった――。
目覚めを知らせる柔らかな風が、陽の光から守ってくれた布を捲る。
懐かしい空気に包まれると、心と身体が交じり合っていく。
すすり泣く声が、今度はしっかりと辰吉の耳に届いた。
「……ん、ここは――」
目を開けると、見覚えのある病室が視界に広がっていた。
辰吉は自分でも驚く程に冷静に、状況を整理していく。
結論に辿り着くまで、時間は掛からなかった。
「わしの番が……来たんじゃな」
先が長くないことはわかっていた。
あの日から数ヶ月、この時を覚悟して、生きてきたのだから――。
自分の頬を触り、皺の深さで人生の濃さを知る。
気付けば笑みが零れていた。
「と……父さん? 目が覚めたのか……? でも先生はさっき――」
「――そんなことより……」
振り絞るように、擦れた声で辰吉は言う。
「え?」
辰吉の声に気付くと、茂俊は慌てて枕元に駆け寄った。
「と……虎吉は? わしはもう、あいつと――」
「わかってる。もう先生を呼ぶ時間もないだろうから、よく聞いて」
茂俊の話はこうだ。
朝方、いつも通り家に行ったが返答がなく、虎吉の鳴き声だけが雨音を切り裂くように轟いていた。
妙な胸騒ぎとともに急いで駆け付けると、辰吉は倒れ、虎吉が心配そうにその姿を見つめていたのだという。
茂俊はすぐに救急車を呼び、この病院へと搬送された。
一方で、虎吉は救急車のサイレンを聞いて駆けつけた長岡の元へと預けたとのことだった。
辰吉はそこまでを聞き、ようやく胸を撫でおろす。
「――……とは、任せたからな」
そして、医師の到着を待つことなく、八十五年の長く短い生涯に幕を下ろした。
「ったく……自分のことには顔色一つ変えなかったくせに、虎吉のこと話した途端、一気に優しい顔になりやがって。最期の最期まで自分のことは後回しかよ」
茂俊は返事の来ない質問を投げかける。
「母さんが死んだ時、父さんはそうならないって思ってたんだぜ? でも……同じ顔で逝けて良かった。後は任せとけ。本当に、今までありがとう――」
温もりに包まれた茂俊の言葉は冷めゆく辰吉の、優しさにまみれた笑顔へと向かって飛んで行った――。
「――さん。辰吉さん」
胸の奥へと染み込むような、久しく聞いていなかった声。
優しさと、切なさと、愛しさと。
その声は、全てを含んでいた。
そして、頭に直接届くその声は、辰吉の身体のネジを巻いていく。
辰吉はまた、目を覚ました。
――一体、どうして?
「あなたもこっちに来たのね」
ぼやけた視界のまま、辰吉は声のする方へと振り返る。
「冨美子? 冨美子なのか?」
「あなたの目には違って見えるの?」
――これは夢か? いや、夢の中で見る以上に声が、動きが、表情が……そのどれもが温もり纏っている。
辰吉は無言のまま、何度も繰り返し、瞬きをする。
目を開ける度、あの時の冨美子が映し出される。
最期に見た、あの笑顔がすぐそこに。
「わしはやはり――」
冨美子は静かに頷いた。
人生とは実に不思議だ。
これはきっと、死んでしまったことに対してのモノではない。
辰吉の頬には、一筋の涙が流れていた。
「八十五年、お疲れ様でした」
そう言って、美しい笑顔は辰吉に向けられる。
「冨美子も……八十三年、お疲れ様でした。それと――本当に、ありがとう」
人生の半分以上を共に過ごしたにもかかわらず、離れていた数ヶ月は並んで歩いた日々よりも長かった。
その時間を取り戻すように、辰吉は笑顔に向かって手を伸ばす。
「良かった――またあなたの、笑顔に会えて」
それから辰吉はこの数ヶ月の出来事を、溢れ出る感情のままに冨美子に伝えた。
時折、冨美子は「まるで一本の映画のようね」と微笑んでいた。
中でも、一番力を込めて伝えたのは虎吉についてだった。
虎吉に出会ったから、笑って生涯を終えることが出来た。
虎吉と出会わなければ、もっと違う幕引きだったと思う――と。
「虎吉ちゃんには感謝しないといけないわね」
「あぁ。本当に不思議な子だったよ。理屈じゃないんだ。あの子は心の奥底から寄り添ってくれて、どんなことがあっても自分の元へと帰ってくる、そんな安心感を与える力を持っていたんだと思う。だからわしも、また自分の足で進むことが出来たんだ」
どこまでも続く遠い地の、遥か遠くを見つめながら、辰吉は言葉に込めた感謝が虎吉へと届くことを願っていた。
「私も会ってみたかったわ」
「きっとお前も気に入るさ」
――遠くから足音がする。
その音は次第に近づき、ぼんやりとその姿を現していく。
辰吉は目を細め、音の先を見つめた。
それは小さな体をいっぱいに使い、舌を出しながら、二人の元へと走って来る。
「と……虎吉? 虎吉なのか」
辰吉は立ち上がり、その姿から決して視線を逸らすことなく向かって行く。
「――……ワン、ワン」
「虎吉!」
口から言葉が出るよりも先に、辰吉の身体は走り出していた。
「軽い、軽いぞ!」
ここでは膝も、心臓にも全く痛みを感じることはなく、思うように走ることが出来る。
距離はみるみるうちに近づいていく。
そして、辰吉が膝をつき、両手を大きく広げると、その胸に虎吉は飛び込んだのだった。
「虎吉! お前どうして――」
しばらくじゃれあった後、辰吉は虎吉に問いかける。
「辰吉さん言っていたじゃない。『どんなことがあっても自分の元へと帰ってくる』って……」
冨美子からの言葉に、辰吉の目には再び熱が込み上げる。
どこからか湧き出る恥じらいの感情を隠すように、辰吉は声を張って言った。
「よし、虎吉! これから散歩だ! 思いっきり走り回れ!」
「ワンワン!」
無邪気に走る虎吉を追いかけると、辰吉は走りながら振り返る。
「ほら冨美子、お前も来なさい」
辰吉の声に導かれるように、冨美子も全力で走り出す。
そのまま三人は広大な世界の中を、幸せとともに走り回った。
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