前編

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前編

「何を悲しそうな顔しているんですか……。人間はね、泣きながら産まれて笑顔で旅立つ。その権利を持った、唯一の生物なんです。だから――最期は笑って下さい」  暖かな日差しの差し込む病室。  二人以外を疎外するように吹き抜けるすきま風。  白く揺れるカーテンがその風を吸い込んでは、自分の姿を主張する。  一見、温もりに包まれて見えるその部屋には、優しく語り掛けるか細い声と、すすり泣く小さな音だけがこだましていた。 「泣いてなんかいないわい。ただ……、ただ少し、目にゴミが入って――」 「辰吉(たつよし)さん。私はあなたと出会えて、本当に良かった。あなたと過ごした六十年。思い返しても、今は幸せだったことしか思い出せません。私は本当に、幸せでした――」  美しい一粒の涙が、頬を沿うように落ちていく。  その涙が顔を離れ、服の上へと落ちた時、布の中へとゆっくり染み込む涙のように、彼女はそっと、その目を閉じた。 「とみ……こ? 冨美子――おい、冨美子! まだ何も……、わしはまだ何も言っとらん! わしの許可もなく、何を勝手なことをしてるんだ! おい! ……お願いだ、目を覚ましてくれ、わしを一人にしないでくれ……冨美子――」  辰吉は冨美子の手を握ったまま、柔らかな表情を浮かべる冨美子に語り掛ける。  涙が飽和状態にある瞳では、冨美子の顔が滲んで見えた。 「残念ですが――」  医師からの言葉は、いとも簡単に辰吉から熱を奪っていく。  そして、最後の熱を放出するように流れた涙の代わりに、辰吉の瞳には、美しく眠る冨美子の姿が映し出されたのだった。  ――数ヶ月後。  辰吉は自宅の縁側で、ぼんやりと外を眺めていた。  あれから葬儀やら納骨やらでせわしない時間を過ごした後、その反動を受けるかの如く、止まったような時の中を生きている。  心は冨美子と一緒に旅立った。  そう言われても驚かない程に、辰吉は大きな喪失感に駆られていた。  冨美子の死は、本当に「まさか」だった。 「心臓に持病がある自分が先に逝く」  ここ数年はそう考える時間が増え、いつしかそれ以外の考えが及ばなくなっていた。  冨美子にも常々そう話していた。 「自分が死ぬ前に、一緒に色々なところに行こう。一人になった時、少しでも寂しさを和らげてあげられるように」  その思いは一転して、自分の元へと降り注ぐ。  どんなに思い出を作ったところで結局、一人の時間の方がずっと重たい――そう考えては、流れる涙を拭うのだった。  込み上げる想いを、大きなため息とともに体内へと戻していく。  しかし、再び吸い込む空気に、辰吉は冨美子の香りを探していたのだった。  家のインターフォンが鳴る。    身体は反応していたが、重い腰が上がらない。 「気が乗らない」という他に、座って過ごすだけの時間が、年々悪くなる膝の具合を更に悪化させていたようだった。  しばらくすれば帰るだろう――と辰吉は居留守を決め込むことにしたが、間もなくして大きな声が響き始めた。 「父さーん、居るんだろう? 俺だ、茂俊だ」  声の主は、一人息子の茂俊(しげとし)だった。  冨美子が亡くなってから、週末の度に、辰吉を心配して訪ねてきてくれていた。 「入るぞー」  玄関の鍵を開ける音がする。  茂俊の声に続いて、「お邪魔しますー」と別の声も聞こえてきた。 「なんだ、本当に居ないの――って、やっぱり居るやん。返事くらいせーよ」 「辰吉さん、久しぶり。元気ね?」  茂俊と一緒にいたのは、同じ町内会で会長をしている長岡弥一(ながおかやいち)だった。  長岡との付き合いも、長いものでもう四十年になる。 「茂俊、長岡さん。すまんね、音に気付かんで」  辰吉は二人に心配をさせないように小さな嘘をつくと、ゆっくりと立ち上がった。  歩けないわけではないが、立ち上がると、膝が悪くなっていることを実感する。 「で、今日はどうしたん?」 「『どうしたん』じゃないよ。長岡さん、父さんの姿を全然見ないからってわざわざ来てくれたんぞ?」  辰吉が長岡に視線を移すと「ちょっと話したかっただけで」と、軽く右手を挙げながら、辰吉に気を遣わせないような言葉を口にした。 「すんません。今日あたりから、散歩はしようと思とったんです」  こんな自分を見せるのが嫌で、辰吉は嘘を重ねた。 「そうだったんね、そりゃ良かった。茂俊ちゃん。わしはもう帰るで、辰吉さんを悪く言わんでくれな」  四十年の付き合いとなると、こういう細かなところまで気を遣ってくれる。  辰吉はそれがどこか、心苦しかった。 「いつもすみません。ありがとうございます」 「ほいじゃ、辰吉さん。また町内会にも顔出して」と言って、長岡は笑顔を浮かべると、そそくさと家を後にした。  茂俊は長岡の背中に向かって深々とお辞儀をする。  そして、長岡が玄関の扉を閉めると、鋭い視線で辰吉を睨んだ。 「父さん、本当なんじゃろうね? 今日から散歩をするっていうのは」  辰吉は再び長く重たいため息をつく。  茂俊の視線はもちろん、親身になってくれた長岡にも、一日にこれ以上の嘘をつきたくはなかった。 「あぁ、今日は本当だ。これから出掛けるよ」 「……一人で、大丈夫?」  辰吉は静かに頷いた。  向けられた茂俊の視線は、瞬く間に辰吉を心配するモノへと変わっていく。  他人想いのところは冨美子譲りなのだろう。  そう感じられただけで、辰吉は心が少しだけ軽くなった気がした。  一本杖を手に、久しぶりに自宅の外で日差しを浴びる。  そういえばあの日も、良く晴れていたっけか――と、辰吉は日差しに向かって手をかざした。  時折左足を引きずりながらもゆっくりと、確実に歩みを進めていく。  目的地は決めていた。  冨美子と最後に出掛けた、あの海へ。  浜辺にあるベンチに腰掛け、潮の香りに包まれた、あの海へ。  二人で寄り添ったあの日を思い浮かべると、一本杖を持つ手にも自然と力が入ったのだった。  若者の足であれば十分も掛からず到着するであろう場所に、辰吉は三十分掛けて到着した。  久しく歩いていなかったこともあり、手も足も、少しばかり痺れている。  辰吉は手足の力を開放するように、ベンチに体重を預けた。  このまま目を閉じれば、眠ってしまいそうだった。  目の前で、波が押し寄せては引いていく。  その様はまるで、決して掴むことの出来ない思い出のようだ――と辰吉は思った。  耳を澄まして聞くと、波の音は一つとして同じモノはない。  それぞれが異なる音を奏で、互いに協調するかのように寄り添いながら、一つの音のように重なり合う。  自然は神秘であることを、辰吉は肌で感じていた。  肺に取り入れた潮の香りは、すぐにあの日を連れてくる。  ――本当に少しだけ、眠ってしまおうか。  そう思った時だった。  ぴちゃ、ぴちゃという音が、波の奏でる旋律に逆らうように近づいてくる。  何故かはわからない。  しかし、辰吉の耳には、その音が寂しさで溢れているように感じた。  音の鳴る方へと視線を向ける。  視線の先には、波打ち際をゆっくりと歩く、一匹の犬が居た。  まだ少し距離があるので、その犬が首輪を付けた飼い犬なのかの判断も出来ない。  辰吉はしばらく、様子を見ることにした。  足音の主はふらつきながらも、前へ前へと進んでいる。  余りに弱いその足取りは、波にさらわれてしまうのではないかと心配になった。 「おい、こっちだ。こっちに来なさい!」  気が付けば、辰吉は犬に向かって叫んでいた。  ベンチに座ったまま、「声の主はここだ」と主張するように大きく手を振る。  辰吉に気が付いたのか、今まで垂れていた耳が立ち上がる。  そして、辺りを気にするように首を左右に動かし始めた。  慌てて辰吉は口に手を添え、メガホンの形を作り出す。 「ここだ! 何をしてる、早く来なさい!」  犬の視線と辰吉の視線がぶつかる。  この時初めて、辰吉は突然自分が口にした言葉に驚いたのだった。  犬は一旦その場で歩みを止め、躊躇う様子を見せたが、次の波が押し寄せるタイミングで辰吉の元へと足を向けた。  首輪はついていない――断定は出来ないが、飼い犬ではない可能性も十分に考えられる。  何より、そのボロボロにくたびれた容姿が、これまでの苦労を物語っていた。  怯えるように震えながら、一歩、また一歩と犬は小さな足を前へと運び、辰吉との距離が消えていく。  海水に濡れたその足が、乾いた砂浜に足跡を残す。  潮風は犬の毛を逆立たせつつ、足の運びを手伝っている。  その犬が辰吉の前で止まった時、辰吉の言葉は脳を通らずに口を衝いた。  辰吉の言葉を届けようとするように、海は静まり返る。 「お前さんも――……一人、なのか?」  当然、犬が言葉を放つことはない。  それでも、真っすぐと辰吉に向けられた瞳には、肯定の意が込められているように思えた。 「そうか……。一人で、ここまで歩いてきたんだな。そんなにボロボロになっても……ちゃんと一人で歩いてきたんだな」 「くぅーん……」  返事とも取れる鳴き声は、辰吉の目頭を熱くした。 「よくやった。お前さんは、よう頑張った」  涙を堪え、感情を乗せた言葉を犬へと掛けた。  ――もしかしたら、今の自分もこんな風にボロボロに見えているのではないか。  いつしか辰吉は、目の前の犬と自分自身を重ねていた。  これだけ小さくとも、どれだけ弱っていようとも、意思があれば前へと進むことができる。  辰吉も意思を持って立ち上がり、犬の元へと歩み寄った。  そして、そのボロボロの身体を優しく抱きしめると、犬の耳元で囁くように声を掛ける。 「一緒に――来るか?」  言葉の意味などわかるはずもない。  抱きしめられている意味すら、伝わっていないだろう。  これは、自分の自己満足に過ぎないのだから。  懐かしさの漂う潮風が鼻を抜けると、辰吉は我に返り、ゆっくり犬との距離を取ろうとする。 「すまん、歳を取るとどうもこう――情が湧いてしまっていかん。冨美子と最後に来たこの場所で、偶然出会ったという状況に惑わされてしまったのかもしれんな」  そう呟き辰吉が立ち上がろうとした時、犬はまるで意図を汲み取ったかのように全身の力を抜き、頬を辰吉の腕に擦り付けた。  その瞬間、辰吉の身体は勝手に、犬を抱きしめていたのだった。
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