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誇らしい恋の歌、思いのままの世のなかを、
鼻歌にうたってはいるが、
どうやら彼らとて自分たちを幸福とは思ってはいないらしい
おりしも彼らの歌声は月の光に溶け、消える、
ヴェルレーヌ「月の光」堀口大學訳
萌凪が「ねえ、好きなひといないの?」と聞くと、夏子はいつだって
「いないわ」
と答えた。
「気になる人くらい、いるでしょ」
「いないわ」
すると萌凪は「そうよね」と目元をきゅっとさせて笑うのだ。
「私も、恋人なんていらない。そんなつながり、必要ないわ」
夏子の手をとっていう「夏子だけいれば、それでいい」。
くすぐったい言葉。と夏子は思って、ただ「うん」とだけ言い添えていた。でもそれは、慢心だった。
お風呂あがり、夏子が寮の部屋に戻るとクラシックが流れていた。ドビュッシーの「月の光」。萌凪の頭はフランスでいっぱいなのだ。夏子の胸はきゅっと痛んだ。心が豆つぶくらいに縮んだのかしら、と思うほど、きゅっと。「ねえ」と絞り出して、萌凪のベッドに腰掛ける。
「ちょっと、抱きしめてもいい?」
濡れたままの髪から、バニラの香りが滴る。
「急にどうしたの」
萌凪は笑いながらも、手を広げた。レモンとバニラの香りが、ぱっと弾け合う。目を閉じると、今日のできごとが瞼の裏にくるくると思い出される。
閉園間際の遊園地。メリーゴーランドの音楽が鳴りはじめたときだった。
「わたし、彼のことが好きかもしれないわ」
といわれたのは。夏子の乗っているお馬は、ぐんと下がっていく。
「彼って、なに」
「大学の後輩。フランスの、留学生なの。フランスと日本の橋渡しをしたいんですって、とにかく、すてきなの」
高らかにいう萌凪の瞳は、メリーゴーランド光の粒を少しずつ集めたみたいだった。
「この乗り物だって、フランス由来なのよ。向こうではカルーセルっていうらしいの」
「そう」
「それでね、彼が帰ったら、私も向こうに行ってみようと思う。パリに」
メルヘンな音楽が、頭の中で大きくこだました。すっと、心が冷え切っていくのを感じた。けれど、お馬が上がるように、夏子は晴れやかに笑ってみせた。
「鉄幹を追ってパリに行った晶子みたいね。
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す
君も雛罌粟われも雛罌粟」
というと、下がっていくお馬の上で、萌凪の顔が曇っていく。
「でも、迷惑だったらどうしよう。ただ勉強相手の日本人としか思われてなかったら。彼、どこへ誘ってもきてくれるけど、誘ってはくれないの」
「そういう、性格なんじゃないの。日本のことわからないだろうし。それに、私も萌凪に、いつも誘われてばかりよ、今日だって」
夏子は口を噤んだ。「でも、好きだから来たのよ」という言葉が喉の奥に転がり落ちる。萌凪が、あまりに眩しかったから。
「そうよ! 彼、夏子に似てる。だから、安心するのね、一緒にいて、楽しいの」
甘い響き。けれども、ちっとも、嬉しくはなかった。萌凪にとって特別でも、友だちは友だち。並列して走る馬のように、交わることはないと思い知らされたようだったから。
アコーディオンの音色に、萌凪の声が重なる。有名なシャンソン。
「Sous le ciel de Paris.《パリの空のした》S'envole une chanson.《鼻歌が聞こえる》Hum Hum」
「カルーセルってとってもすてき」という萌凪の声とともに、メリーゴーランドはゆっくり止まった。オルゴールが最後の一音を奏でるように。
夏子は目をあける。
「これからもし、萌凪が誰かのものになってしまったらできないかと思って」
萌凪はさらさらと笑った。
「わたしは誰のものにもならないわ」
かすかな息が、互いの頬に触れる。ピアノの音が膨らんだ。舞踏会へ颯爽と駆けゆく馬のように、音が高らかに進む。けれども、ぱたり
「あ、お月様がでてる」
夢の時間が溶けたように、元の静かなメロディーに戻る。萌凪は腕をすり抜けて、丸窓の薄いヴェールをめくった。ため息に揺れる、なだらかな背中。
夏子がささやいた一言は、ピアノの音に溶けて、消えてしまった。
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