第一七話 錦秋

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第一七話 錦秋

 また、一一月が来た。  晩秋を迎えた昼下がりの山小屋は、それでも何か羽織っていれば、まだ開け放っていても暖かい。 「こっちは意外に、まだあったかいわね」 「そうですね」 「温暖化の影響かしら」 「向こうが普通に寒いだけですよ」 「まぁねぇ」  身体が慣れたって事か、と言う真琴は、タートルネックのセーターを羽織ってちょうど良い暖かさである。  よく晴れた小春日和。風もなく穏やかな縁側で、二人は武智から貰った本家本元の陳皮茶を啜っていた。 「私は少し暑いくらいですよ」  と言う具衛も、真琴と同じ物を着ている。本格的な冬の到来が、日本より早いスイスで暮らす一家だ。着る物が少ない具衛は、冬に入る前に真琴が買ったファミリールック用品のそれを、すっかり日常的に着るようになっていた。 「じゃあ、脱げばいいじゃないの」 「それが下は半袖Tシャツ一丁なので、脱げば脱いだで流石に寒くて——」  うーん、と悩む風の具衛は、昨夜の武智邸での大宴会で文字通り酒浸りにされてしまい、着替えを放出してしまっていた。今着ている物以外は、隣の物干し部屋で乾燥中である。 「だから、もっと服を買いなさいよ」  意外に頑固よね、と呆れる不破家の家計は夫婦完全別会計だった。事実上は、具衛の稼ぎだけで回している状態である。今は無職の真琴を慮った具衛が、 「生活費は全部持ちますから」  と言って聞かなかったためだ。物価が高いスイスにおいて、月々の給料と睨めっこしながらやりくりしている具衛を尻目に、真琴は常々、 「痩せ我慢しなくてもいいのに」  と呆れながらも、とりあえず好きにさせていた。  そんな具衛が、ローザンヌの拠点として選んだのは、数km先にレマン湖が見える絶好の眺望を誇る郊外山間部であり、 「やっぱり山の中!?」  と、後から合流した真琴を笑わせたものだ。物寂しい別荘崩れの一軒家は具衛の職場の上司がオーナーであり、当初は殆ど廃屋レベルだった、とか何とか。それを、資材や費用は上司持ちで「家屋の修繕と庭の手入れは自分でやる」と言う条件で、具衛が格安で借りたらしい。具衛はそこを、真琴が合流するまでの三か月で徹底的に手入れしていたのだった。 「殆どお化け屋敷だったんですよ」  と言う割には、内外共に中々小綺麗に整っている。言う程荒んでなかったのではないかと思った真琴だったが、修繕前の写真を見せられると、その認識を改めざるを得なかった。 「ホントに——」  修繕前のそこは、埃まみれの蜘蛛の巣だらけで、まさに何か出て来るのではないか。人知の及ばぬ「何かが住んでいそうな雰囲気」としたものだったのが、具衛の三か月の施工ですっかり良質なペンションに変身していたのだ。始めのうちだけ、建築家でもあり腕に覚えがあるオーナー上司に手解きを受けたそうだが、殆ど「一人でやった」と言うから素直に驚かされた真琴である。何かと「気難しい」と言うその上司をそれなりに満足させたようで、相変わらずの具衛の意外性だった。  家屋と合わせて整えた庭では、上司の許可を取りつけて食費を浮かすために家庭菜園を始めている。その上更に、ここでも干し肉や燻製作りを始めており、 「また燻製!?」  と、追加で失笑させられた真琴だった。  それにしても、三か月あったとは言え、仕事の合間で整えるのは大変だった事だろう。 「まあ、任せたわ」  具衛のその気概を折るような事はせず、とりあえず思うようにさせる事にした。  が、その一方で、その気概を損なわない程度には小出しに出資しており、細やかながらセーターもその一つだ。 「リエコ叔母さんから貰ったのよ」  と言っておけば、万事リエコが口を合わせてくれる手筈を整えている真琴である。フェレール絡みにしておけば、何せあの富豪だ。日用品に関する出費など塵芥にも満たない些事としたものなのだから、リエコ連発でまかり通していた。仮に具衛が不審を抱いても、そこはリエコが上手く宥めてくれるのだ。何せ、 「あなたの思いがけない提案で、フェレールも高坂も儲かってんだから」  とどのつまりはそう言う事だった。  世界トップクラスのグループ同士の本格的な業務提携に発展した両グループの結びつきの影響で、双方の株価は随分上がっている。フェレールの資金力と高坂の技術力の合掌で、両グループの経営は盤石なものになりつつあった。  実を言うと、関係浅からぬ両グループの創業宗家の間で、グループ間の結びつきを強めんとする動きは過去にも何度かあったのだ。が、双方とも規模が余りにも大き過ぎてまとまらず、なし崩しになる事幾度。今を思えば過去のそれは、結局時期にあらずと言う事だったのだろう。ぐずぐず煮え切らない両者間で引き金を引いたのは、結局資金力に勝るフェレールだったのだが、それを焚きつけたと言うのが名もなき具衛だったと言うから、真琴としても愉快痛快としたものだった。  人類の歴史はこうやって——  動いて来たようだ、と思わせる具衛の奇妙な立ち位置は、まさに時の歯車の悪戯と言う他ない。その思いがけぬ調停調整者に、フェレール家はいつまで経っても歓待姿勢が止まらなかった。その様は、真琴の見立てでは、  一生、続くかも。  と言う有様である。アルベールの遭難事件で、具衛の思考を痛い程知っているフェレールだ。多額の謝礼を好まない具衛に配慮し、一気呵成の返礼スタイルを長期的なそれに切り替えた同家は、じわじわと配当を払うが如く、小出しに徹していた。  二人の結婚に際しても、フェレールの三人はここぞとばかり物を押しつけて来たもので、アルベールからは、 「三人になるんだから、真琴のクーペじゃ不便だろう」  として、その名が冠されたスーパースポーツカーブランドのコンパクトSUVが。リエコからは、 「いくら家を整えても、食器がないとご飯が食べられないでしょう?」  として、全く食器を揃えていなかった具衛に呆れながらも食器や調理器具が。ジローからは、 「前に言った通り、ワンパターンだが——」  として、具衛の時計の最新モデルがペアで贈りつけられた。  今、山小屋の居間の座卓上に置かれているその二人の時計は、チタングレーの地の色にベゼルの鮮やかな赤が映えている。以前の二人の時計を知るジローならではの粋な計らいで、真琴の物はほんの少しサイズ感が小さかった。その裏蓋には結婚指輪のように、夫婦がお互いに贈った形でそれぞれの名前が刻印されている。  因みに、今二人がつけている結婚指輪は、二人で一緒にローザンヌ中心部の店へ出かけて買った、一般的でシンプルなプラチナの物だった。流石にそれだけは人から貰わず、自分達で買って誓いを立てた二人である。それは具衛の給料でも買える物で、月並みの物とも言えたが「具衛と一緒にそれを選んで買った」と言う事実が真琴には重要だったのだ。 「私達らしく、ですか?」 「そう言う事」  だった。  それにより、具衛が量販店で買った場繋ぎの物は、 「ようやく、御役御免ですね」 「何言ってんの、思い出の品としての役目が残ってるわ」  物に執着がない真琴だが、流石に捨てる気になれなかった。そう言う具衛は具衛で、射的の景品のおもちゃの「指輪セット」を捨てさせてくれないのだ。と言う事で一切合切まとめて、ローザンヌの自宅にあるデジタルフォトフレームの前に飾っている。  そのフレームのスクロール写真は、結婚記念日に瑠璃繁縷の指輪をつけた二人の手指を並べた物や、その翌日にフェレールの三人がイヴォワールの教会で細やかな式を開いてくれた時の物だったり。その写真のマタニティウエディングドレスは、真琴が式に合わせて密かにリエコと共に準備していた物だ。マタニティ仕様と思わせないスレンダードレスは、教会周辺に居合わせた観光客の視線を釘づけにしたようで「何かの撮影?」とか「女優?」だの「モデル?」などと勘違いされた程だったから、自分で言うのも何だがそれなりに着熟せていたのだろう。  片や具衛のタキシード姿は、何処かしら取ってつけた感が強く、 「いつの間にこんな物を準備したんですかね」  と、相変わらずの及び腰で真琴を失笑させたが、それでも後で写真で見ると不思議とそれなりに写っている。そこは相変わらずの意外性と言うか、詐欺師振りだった。 「また、飾る写真が増えてよかったわ」  こうして順調に、一枚一枚、思い出を積み重ねながら生きている。  そんな事を振り返りつつ、ぼんやり陳皮茶を啜っている真琴の眼前には、最盛期を迎えた紅葉が様々な彩りで惜し気もなく展開していた。 「それにしてもこんな祭りがあるなんて、聞いてなかったんだけど」  その視線の先にある普段は全く人気がない筈の中山神社からは、何やらお囃子めいた音が山小屋まで聞こえて来ている。 「毎年この時期、三日間あるそうですよ」  と具衛が言ったそれは、全国各地で名を変え品を変え催され、この地でもその例に外れない五穀豊穣を祝う秋祭りらしかった。 「去年知ってたら見に来たのに」 「でも昼間の祭りですから」  夕方押しかけていた真琴には、会社を休まなくては無理だったろう。 「でも、勤労感謝の日が最終日なら休みだったし」 「まあ、そうですけど」  そもそも去年の今頃と言えば、二人とも時の外相から突きつけられた剥き身の権力で、それどころではなかったのだ。その事件は関係者が収監され、それぞれ第一審を控えた状態に落ち着いたようだが、それがスイスで報じられる事はない。二人の間では周囲のサポートもあり、既に遠い過去のものとなりつつあった。 「知ってれば、あんな人集りの只中で式なんて挙げなかったのに」  全く、などと如何にも八つ当たりめいた事を吐くと、 「それは知ったこっちゃありません」  具衛にぴしゃりと返される。 「全く——」  返す返すもやれやれだったわね、と嘯く真琴のその視線の先にある賑わいの只中で、神前式の婚礼を行ったのは昨日の事だった。例によって、真琴のサプライズである。  当初の表向きは「新婚旅行」と言う趣きで仕掛けたそれは、独ミュンヘンから飛び立った飛行機の機内で具衛を驚かせるところから始まった。 「何かさっきの機長のアナウンス、羽田行きって言ってませんでした?」 「あら。随分と耳がついていけるようになったわね」 「そりゃ『羽田』ぐらいは聞き取れますよ」  独国籍の同国航空会社運行便であり、機長のそれは独語である。周囲の乗客も同国人らしき乗客が多数を占めており、CAも独語で接客していた。 「教え方が良過ぎるのも考え物ね」  勤め先から公用語である独語と伊語の習得を厳命されている具衛を、それらが使える真琴は日頃から教えていたのだったが、 「いや、そう言う事では」  その飲み込みの早さは、真琴をそれなりに満足させていた。既に英語と仏語が自在の具衛である。コツを掴むと覚えは早かった。 「ケープタウン経由って、何かおかしいと思ってたんですよ」  と心配する向きの具衛に伝えていた行き先は、仏領レユニオンだ。パリのシャルル・ドゴールからなら同地までは直便があるが、ミュンヘンからはそれがなかった。それどころか何回か乗り継いで、上手く連絡出来なければ何日かかるか。そんな覚悟を要する行程である。  これまで世界各地をそれなりに訪れていた真琴も、その遠方にはまだ行った事がなかった。逆に仏軍時代に仕事で訪れた事があった具衛に案内させる、と言うもっともらしい話の筋で、まんまと騙した訳だ。 「天然バニラでも買おうかしら」  バニラ好きの真琴の事でもある。遠方で日本人観光客も少ないそこへ、それを嫌う真琴が旅行先に選ぶ向きは自然と言え、流石の詐欺師も本気で疑わなかったようだ。 「服が——」 「服なんて、あなた年中似たような物しか着てないじゃないの」  それに行き先が日本なら、発地は同じ北半球なのだ。季節感は似ており、服の心配は無用だった。そんな事よりも、真琴が表向きに心配してみせたのは、 「フェレールにあれ程貰っといて、返しをしない訳にはいかないわ」  である。  いくら具衛の吹っ掛けで儲けさせたとは言え、貰いっ放しは流石に受け入れられない真琴だ。常々何らかの返しのネタを求めていたのだが、何せ相手は世界有数の富豪と来ている。単なる金目の返礼で喜ぶ筈もなく、正直頭が痛かった。返礼相手としてのフェレールの面々など、別に真琴でなくとも、それなりに捻りが必要な分だけ頗る質が悪い相手である。  で、大の日本好きのアルベールが、遭難事件の贖罪で禁欲生活を続けていたが故に、それが明けたにも関わらず訪日のきっかけを失っていた事に目をつけた。日本でも神前式で婚礼を行うと言えば、 「フェレールの面々が、日本に押しかける理由が出来るでしょ」  と言うもっともらしいこじつけは、自画自賛ではないが中々の口実だ。その上で表面上は、具衛を騙した上、新婚旅行や挙式費用の全てを真琴が出費するためでもあったのだが、更に言うと底意には高坂の面々に対するけじめも、やはり少しはあった。具衛の作った決まりのせいで未だに父母から毎日一通ずつメールが届くのだが、それでも 「毎日毎日、誰かさんのせいで面倒臭いったらありゃしない」  などと悪態を吐きつつ突っ張っている真琴である。実家に寄り添う向きは、例え相手が具衛であっても、中々素直に見せられない。  で、短期間ではあるが、日本で大変世話になった武智を頼る事にした。天涯孤独の具衛の立場からすれば、その御大は事実上の後見人にして恩人でもある。そこを真琴は都合良く「迷惑ついでに晴れ姿を見て貰えばよい」と考えた。  しかして、その申し出を受けた武智は、 「それはこの上ない事ですな」  と二つ返事で引き受けてくれた、と言うのが、真琴が描いたサプライズの概要だったのだ。が、後々改めて自身の詰めの甘さを思い知らされる事を、この時の真琴は当然知らない。  結婚記念日は二人が遭遇した事故日にして、瑠璃繁縷の誕生花で記憶を刷り込み済みだ。ならば本挙式は、真琴の誕生日にすれば具衛も晴れの日を忘れないだろう。おあつらえ向きに日本では、独り身の時は忌々しさでしかなかった「いい夫婦」の日でもある。具衛は具衛で、この旅行中に誕生日を迎える真琴に何かしらサプライズを用意していたようだったが、 「悪いんだけど——」  問答無用でキャンセルさせた。本当に具衛には悪い事をしたとは思っていたが、自分のそれは一石数鳥にもなるアイデアだ。これを超えるサプライズもないだろうと、  ——よしよし。  内心満足した真琴が、具衛を引き連れ武智邸を訪ねたまではよかった。が、そこから先は、良くも悪くも真琴も予想外の連発となった。 「い、一体何処で何をするつもり何ですか?」 「三つ竹輪違い」と呼ばれる武智家の家紋入りの羽織袴を無理矢理着込まされた具衛は、着慣れないと言わんばかりの相変わらずの及び腰だ。が、真琴が見る限りでは、その見映えはやはり、どうして中々である。重ね重ね不思議な男だと思わされる一方で、真琴は自分で言うのも何だが、武智家が用立ててくれた白無垢を完璧に着熟していた。 「中山神社で神前式の婚礼に決まってんでしょ」  この格好なら、神前式以外には考えられないではないか。 「何を今更——」  と言いかけた真琴の後の句を、 「ええっ!?」  叫んだ具衛が掻き消した。驚いて抗議しようとした真琴に、 「わ、私はどうなっても知りませんよ」  具衛が大袈裟にも腰砕けの慌て振りで天井を仰いで慄いるところへ、意気揚々とやって来たのは、白の狩衣に紫の袴を着込んだ武智である。 「流石は御両人。見映えは申し分ないですな。晴れの行列はこうでなくては」  会場である中山神社の神主であり、当然全般を取り仕切っているのだが、妙に入れ込み気味のその神主に、 "行列?"  新郎新婦の反駁がハモった。 「流石に息が合いますな」  カカカ、と高らかに笑った武智に促されて豪邸の玄関を出ると、晴れ渡った秋晴れの良日。待っていたのは高坂とフェレールの面々の他、具衛の羽織と同じ紋をつけた武智家絡みの男衆と、粛然と着物を着込んだ女衆の総勢何十人。それが三人が現れたと見るや、恭しく首を傾いだのだった。 「さあ、どうぞ」  武智に促され、乗車を迫られたのは車は車でも、大きな朱傘が取りつけられている人力車である。 「こ、今度は時代劇ドッキリか何かですか?」  と声を揺らす隣の具衛が、魂をも抜かれたかのような動揺のその横で、真琴も流石にその仰々しさに違和感を覚え始めたが、時既に遅し。城門を彷彿させる正門が開くと、一km先まで一直線の取りつけ道路の両端に人の列が出来ている様子が、人力車の高い視座にいる二人の目に飛び込んで来た。 「な——」  何よこれ、と口にしたつもりが驚きの余り絶句して声が続かない。流石に目を剥いた真琴のその前を武智が得意気に静々と歩み始めると、それに続いて行列が動き始める。ここから約三km、小一時間に渡って敢行されたそれは、中山神社数十年振りの「参進の儀」の始まりだった。  この町の秋祭りは、町の中では夏の盆踊りと双璧をなす一大イベントである。近辺の全公立小中学校ですら三日間ともそれ絡みの学校行事になり、事実上の休みに相当するようなその中日。本来ならば昼下がりのメインイベントで予定されていた子供神輿が、 「前座扱いで午前中に回されたんで!」  とは、出発早々、粛々と進む列にこびりついて離れようとしない、具衛の元勤務先施設のケンタとショウタからの情報だった。 「やっぱり、あの時のおねーさんじゃんか、先生!」  きれーじゃのう、などと囃し立てられ続ける道中は、何も二人の小坊主に限らず、真琴の美しさを賛美する声に溢れている。  片や具衛にかかる声と言えば、在郷時の野良仕事の影響が色濃く反映されたもので、農家の爺婆衆からの支持が圧倒的に厚かった。が、その内容は、 「今度はいつ帰って来るんか?」 「また野良へ出て、てつどーてくれんかいの」 「どけー泊まっとるんか? 野菜が余って腐らすけー持って帰れや」  などと、何処かしら真偽が定まらない場違いなのんきさである。それを律儀にも、一つひとつあたふたと答える具衛は、まさにその愛すべき善性全開であり、真琴を笑わせたものだった。  かくも盛大な、俗に言う「嫁入り行列」は、古来全国各地で執り行われて来た伝統的儀式である。が、時の流れには逆らえず簡素化が進み、また高度経済成長期に欧米式の挙式が流行り始めると、この山間の町でさえ武智本人のそれを最後に廃れてしまったらしかった。それを神職である武智は、自身が元気なうちに華々しくやりたいと思っていたらしく 「これ程受けるとは思いませんでしたわい!」  とは、後の披露宴で終始ご満悦だったその仕掛人の言である。実の息子の時にもこれを画策したそうだったが、それを事前に察知した長男に断固拒否され、不覚を取ったとか何とか。つまり真琴の申し出は、まさに渡りに船だったのだ。 「神職冥利に尽きる!」  と、大いに喜んだ武智は、高砂でとぐろを巻いては破顔し、具衛に酒を注ぎ続けたものだった。  その仕掛人の目論見を躱したその長男と言えば、具衛より一回り程度年上の、一見か細い男だったのだが、具衛も殆ど見かけた事がなかったらしい。良くも悪くも、まだまだ当主の灰汁が強い御当家の事である。そのか細い男が詫びを入れて来たのは、やはり宴席のどさくさ紛れだった。 「最後の奉公だと思って、堪えてつかーさい」  と言う、後ろ倒しされた謝罪は明らかに確信的で「先に言えば逃げられる」との思惑は確かめるまでもない。が、全ての根源と言えば、突き詰めればどう考えても真琴の迂闊な発案だったのだ。それが長年、武智の中で燻り続けていた火に油を注いだのだから、何を言っても言われても、文字通り後の祭りである。どのみち火のついた武智を止められる者など、家中にはいないのだ。長男も、今回ばかりは止めようがなかったようだった。その長男夫妻も、行列時は武智家郎党を率いる格好で、新郎新婦が御する人力車の傍を侍るように粛々と歩いているのだから、具衛にしてみれば文字通り「見事に担がれた」の一言だろう。  武智は地域に根づいた奉仕者である一方で、 「無類のお祭り好きですからね」  と具衛が呟いたのは、全てが動き出した車上だった。 「——遅い」  それを先に聞いていれば、と思った真琴だったが、サプライズを計画して黙っていたのは自分なのだ。言われてみれば昨夏の盆踊りの時も、実行委員会の本部テント内で、重鎮然として楽しそうに座っていた武智を今更ながらに思い出す真琴である。 「あちゃぁ——」  これは大変な失敗ね。その見た目の完璧さに似合わぬ声は、これを予想していたらしい隣の男を真似たものだ。 「だから言ったじゃないですか」 「うるさい」  小競り合いの中にも、とりあえず場を取り繕う事を忘れない二人を乗せた人力車は、ゆっくりとした歩みで静々と田園を抜けて行った。稲刈りも終わった農閑期の事。人口二〇〇〇程の町であっても、昼日中から中心地である神社周辺のそこかしこで、祭りに付随した行事やイベントに興じている人々の中を隊列を成して進んで行けば、嫌でも目立ってしまうのは当然だった。  具衛は野晒しで隠れる事も出来ず、作り笑いをしては顔を引き攣らせていたが、真琴はそれを見ながら角隠しの中で俯き加減に噴き出すのを堪えていれば、ちょうど口元は微笑を浮かべる格好になるのだ。そうして黙っていればそれなりに見えるようであり、見物人からの賛美が聞こえて来るのだから、これはこれでくすぐったかった。散々に中傷され続けた人生で、真琴はお世辞にも褒められ慣れていない。  そう言えば——  この町には約半年前まで勤めていたサカマテの従業員も多くいる事だろう。そう思うと、やはり恥ずかしさが込み上げて来た。と思う一方で「いい夫婦」の日は平日だ。  ——なら、従業員はいないか。  と安心する向きに傾きかけるが、そうは言っても人手の多さである。 「それにしては、人が多くない?」  町の人口は二〇〇〇と少しの筈ではないのか。と、吐いた直後、思い当たる節があった。確か昨夏も、そんな事を耳口にしたような。そして、行く先々で見える屋台のテント。つまりは、 「これももしかして——」 「夏は盆踊り、秋は秋祭りですよ」  商工会を始めとする町の各寄合衆の気合いの入れ時らしかった。 「ほら、噂をしてると——」  具衛の心配が的中したかのように、何かしらの徒党を称える襷を掛けた青壮年連中が現れる。 「お前は今度は高みの見物か?」 「後で胴上げ一〇〇回の刑じゃけぇの」 「青年部に入らんかい!」  冗談めいていながらも、相変わらずの口の悪さに辟易する具衛である。 「何でこうも、示し合わせたかのように順番に現れるか」  などと密かに独り言ちる一方で、外向きには裏返る声が予想に反せず滑稽だ。思わず噴き出しそうになる真琴が、それにも堪えて然も奥ゆかしげに、片手で軽く口元を隠しながらも笑みを浮かべていると、急に怨嗟の声が収まった。つまりは見惚れたらしい。それでどうにかやり過ごした具衛に 「胴上げ一〇〇回って言ってたけど?」  真琴が嘯くと、はっきりしない母音でえずいた具衛が途端に苦々しい顔をして、また失笑させてくれた。  平日にも関わらず、こうした現役層の男衆が多い訳は 「この近辺の人は、取れるものなら有休取るらしいですよ」  盆は会社が休みでも秋祭りは平日なので、とは、去年積極的な参加はしなかったものの、祭りの雰囲気だけは感じていたらしい隣の男の言だ。だから人口比でみても、 「軽く倍はいるわね」  ようだった。 「だから言ったじゃないですか」  どうなっても知りませんって、とは具衛の細やかな恨み節である。それにしては、真琴を中傷する声が一つも聞こえて来ないのは、何処か不自然だった。ここまで大がかりになっていては、二人の素性は当然知れ渡っているだろう。ならば自分などは、若かりし頃から色々とやらかして来た身であり、その黒歴史は未だにネットで検索すればいつでも紐解けるのだ。  気がつくと川沿いの市道に入り、何処なく出発直後の火照りが削げ落ち、より熟れて来た嫁入り行列である。その真ん中を堂々と歩む様子に、 「大丈夫なのかしら」 「出張所前から神社までの市道は、毎年警察から道路使用許可を貰ってるらしいですよ」  心配する向きを、具衛が一々答えてくれる。田舎の事だ。余り法が行き届いていないのではないか、などと失礼千万にも勝手に思ったのだが、どうやらやはり勝手だったようだ。 「そこはやはり『武智領』ですから」  と、言う事らしい。  このような何気ない細やかなやり取りでも、この男の善性は、飄々として何処か熟れた様子で真琴を安心させるのだ。それはせっかちで結論を急ぎがちな真琴の手綱を上手く引くが如くであり、御される身ながら心地良い。こうした小さな積み重ねが、今までの孤独を少しずつ埋めていくようで、真琴はそれを肌身を持って実感させられていた。  と言うのも、この男と出会って向こう一年半、恐ろしく化粧のりが良いのだ。衰えて行くばかりと思っていた肌艶は、逆に過去に類を見ない張り艶で一向に衰える様子がない。それどころか、それは肌に限らず身体全体の調子が良いと来ていた。その間、おたふく風邪やインフルエンザに罹ったものの、結局予後は頗る良かった事を思うと、やはり精神的なもの、と言う理由に辿り着く。  これは、つまり——  どうやら良質な女性ホルモンが全開らしい。その原因は、この年にして恋する女の何とやら、と言うヤツである事を密かに認めざるを得なかった。  だからこそ、今自分が受けている賛美の半分は、  この男の物だわ。  それを思うと、一緒に褒められているようで嬉しかった。  人力車の上で何となく慣れて余裕が出て来ると、心中に楽しさや誇らしさが芽生え始めて来る。が、その一方で、やはり同時に湧き起こるのは、長年のトラウマの如き中傷由来のネガティブな感情だった。  どうせなら——  このような事など、間違いなくこれが最初で最後なのだ。仮にも数千人の羨望を集めるその中を、晴れ姿の主役として進めるのだ。そしてそれを、自分がこれと認めた唯一の男と共に出来るその至福。  ——楽しみたい。  どっち付かずで脳内が揺らいでいると、具衛がさり気なく手を握って来た。 「そうは言っても、武智さんが先導されてますから——」  大丈夫です、と言う具衛に見透かされていたらしい。 「我らの役目は、恥ずかしさに堪えて堂々と受け入れるだけですよ」  と言うと、具衛はすっかり据わり出したものだった。 「それよりも気になってたんですが」  具衛は、あたふたしている中にも、後列の妙な賑わいに気づいたらしい。 「後ろ?」  が、どうしたと言うのか。後列と言えば、本来は徒歩であるべきところ、そうは言っても長丁場の道中と年齢的観点から、主役同様、親族や来賓の面々も分乗した人力車が続いている。真琴にしてみれば、それだけだったのだが。 「それが、最後尾に——」  元首相にして、町の選挙区出の高千穂隆一郎が歩いている、と具衛が言うのだ。 「ウソ!? 何処!?」 「だから一番後ろですって」  と、言われても。この瞬間だけは恭しさを忘れ、形振り構わず常の鋭さで後ろを振り返ってしまった真琴である。その迂闊もさる事ながら、振り向いた瞬間、直後を随行している父母と目が合ってしまい更にばつが悪かった。父母とは寛解に向かっているとは言え、表向きにはまだいがみ合っている間柄である。一瞬目が合っただけで苦さが込み上げて来て、その軽い迂闊に思わず舌打ちが出てしまった。 「み、見えやしないわよ」  つい忌々しさを募らせた声が、自分の口から出てしまう。 「まあ、一番後ろですからね」  が、具衛は相変わらず鷹揚と言った。そうは言っても、人力車だけで六台並んでおり、加えて武智家郎党が数十人連なっている列の長さは一〇〇mにも及んでいる。それを、前を向いていながらどうやって知り得たのか。 「耳目の持って行き方と言いますか——」  雰囲気の掴み方にコツがあるらしかった。そこはやはり、それなりに修羅場を潜り抜けて来た者にしてパイロット、と言う事のようだ。 「手品を見破るようなもので」  要するに「目つけ」なのだろう。 「どんな見え方をしてるもんやら」  所謂「鷹の眼」だ。真琴もそうした勘は良い方だと思っていたが、どうやらこれも思い込みだったらしい。  こうした自分にはない部分、それも一個の人間として丸裸にされた時の基本的なステータスの高さこそ、真琴が具衛に求めている部分であり、全幅の信頼を寄せているバイタリティーであった。それ以外の大抵の事は、別に男でなくとも真琴が何とでも出来るのだ。男に唯一求めた部分が屈強にして、にも関わらず社会性が高く熟れており、加えて何処かしら可愛いとくれば、これはもう十分 「だから詐欺師なのよ、あなたは」  としか言いようがないではないか。 「はぁ?」  果たして神社に着くと、具衛の言う通り、何やら後ろの方が蠢いていた。何せ仏国の元大統領と日本の元首相がいるような行列である。何人かの背広が、それでも目立たぬよう配慮しているつもりのようだったが、 「フランス側が四人、日本側が八人」  元職にしては少し多いですね、と具衛は澄まし顔で真琴に報告した。おりしも神社では、行列到着に合わせて奉納神楽が終了したところである。 「護衛もだけど、人が多くない?」 「神楽人気の厚い地域ですから」  高名な神楽団が粒揃いの広島において、その隆盛振りを示す神事や祭りが立て込む秋の季節柄の事である。それを見ようとする神社周辺の人だかりは、只事ではなかった。真琴の記憶に残る日頃の閑散振りとは似ても似つかぬその光景に、  ——ウソでしょこれ?  思わず固唾を飲む。  何重にも折り重なる人垣の中を練り歩かされるその気恥ずかしさも大概だが、それ以上に気になるのは、山間に似合わない見物人の多さの中で、その護衛の人数に比例する何事かが起こる向きでもあるのか。  俄かに顔を硬くし始めた真琴だったが、 「特に、何もないようですよ」  やはり具衛はあっさり言ったものだった。 「じゃあ何で——」  これ以上のサプライズは招かれざるものだ。まさか、この絶頂を奪う者でも現れようと言うのか。瞬間で、収監されている連中の顔が真琴の脳裏を掠めたが、 「大丈夫ですよ」  それを落ち着かせたのは現職の護衛ではなく、やはり具衛だった。その根拠として、 「念には念、でしょうね」  元職とは言え、未だに各方面に強い影響力を持つリーダー達なのだ。と言う具衛も、その面々に臆する事なくすっかり落ち着き払っている。 「そうなの?」 「ええ。だから大丈夫」  降りましょうか、と促され、始めて何かに硬直している自分に気づいた。土壇場になると自分はいつも不甲斐なく、日頃穏やかなこの男に支えられっ放しだ。その構図は、結婚前後から不動だった。以前の自分は、こんな狼狽などしなかったのだが。 「じゃあ、任せちゃっても良い訳ね」 「はい」  どうやら傍の人間のせいらしい。こう言う時はもう、預け切る事にしている真琴だった。あたふたしては、真純の拉致事件の時のような醜態を晒すだけだ。決して具衛には口にしないが、こんな調子では先が思いやられる。このままでは何年もしないうちに、自分はダメ女の骨抜きになってしまうのではないか。そんな心配ばかりしているそれは、明らかに  ——惚気てる。  としたものだ。一緒に暮らし始めて早半年が来ると言うのに。実は未だに日々想いを募らせては、それを抑える事に躍起になっている真琴だった。  そんな事——  流石に具衛はおろか、他人に言える訳がない。楽しくて仕方がない。常に傍にいたくて、未だに焦がれるのだ。自分の何処かに束縛癖が潜んでいたようだ、と戸惑う真琴だった。今この瞬間も、小難しい自分を柔らかく受け止めてくれるこの男に、しがみつきたくて堪らない。  が、そこは小さく嘆息し、丹田をイメージして気を鎮めると、先に降りていた具衛の手を取った。妄想しなくても、今は一緒に住んでいるのだ。後でいくらでも  甘えられるわ——。  などと、頭は熱を帯びながらも、手は涼しげに具衛のサポートを受け入れた。真琴が静々と下車する一方で、後列は主役を置き去りにして更に賑々しくなっている。 「——困ったものですな」  それを仏頂面で黙して待っていた先導の武智にウインクされて、真琴はつい小さく噴き出した。何事かを心配していたのは自分だけだったらしい。 「では、対揖(たいゆう)しますかな」  真琴の準備が整ったと見た武智が、真琴と具衛だけに聞こえるようにこっそり呟いた。それに目で答えた二人が、落ち着かない後列に先立って鳥居前に伸びる参道の端に寄って正対する。すると、それを見た後列の面々の中から 「ほら! みんな何やってんの!? もう対揖だよ」  先月、晴れて若き弁護士になったばかりの真純の声が、並みいる重鎮をけしかけた。様子を窺っていた真琴と具衛が、その頼もしさに目を合わせて小さく顔を綻ばせる。 「宜しいですかな」  合わせてしたり顔の武智が、然も厳かに確認をすると、号令一下、左右に分かれた人々が概ね小揖(しょうゆう)の姿勢をとった。後、軽く各列に目配せした武智が満を持してまた前を向くと、二列を維持したまま列が再始動する。そのタイミングで、具衛が真琴に耳打ちして来た。 「落ち着きがなかったのは、皆さんがどちらの列に並ぶか悩んだようで」  すみません、と謝ったそれは、これまで行列に箔をつけるため随行して来た武智家郎党が、役目を終えて抜けてしまった事が原因らしかった。つまり、具衛側の親族が一気に誰もいなくなってしまったと言う事だ。ここから先の参列は、来賓のフェレールは特別として基本的には親族だけだ。 「そんな事?」 「はい」  護衛対象が右往左往するものだから、それに合わせて護衛も落ち着かなかったらしい。 「心配して損したわ」 「何かすみません」 「あなたが謝る事じゃないわよ」  バカバカしい、と言い切った真琴は今度こそ安心した。 「皆々様は精々いつも踏ん反り返ってるから——」  こんな時ぐらい私達のために心を砕いて貰えばいいのよ、と真琴が毒づいていると、 「もう御前ですよ」  いつの間か傍で真琴の手を取っている由美子が、それを窘めた。 「相変わらず、お変わりなくて安心致しました」 「あなたもね」 「もうホントに御前です」  今度は具衛に言われてしまい、真琴はまた角隠しの中で思わず口元に笑みを浮かべた。  お陰で自分を取り戻した真琴は、以後その場を魅了する。普段通りの凛々しさに加えて雰囲気を掴み切った花嫁は、粛然とした圧倒的な所作で独壇場を築き上げたものだった。 「テレビ局まで来てたのよ」  思い出すだけでも身震いする、とは言ったものの、縁側から見る秋祭り最終日の神社に嫌悪感はない。そこは照れ隠しの真琴だった。 「嫁入り行列の復活」と言う触れ込みでインタビューされそうになったのを、武智に押しつけたのは具衛である。満更でもない様子でインタビューを受ける武智に、具衛も何か思うところがあったようで、 「お陰様で、少しは恩を返せたような気がします」 「それはまあ、あれだけ盛大につき合わされればね」  まさにとんだサプライズではあったものの、ある程度は納得しているらしかった。  神社での式の後、また同じ道のりを人力車で武智邸まで戻らされたのだったが、帰りはイベントではなく移動だ。にも関わらず、それでもやはり、六台の車は見物客にちやほやされた。そもそもが、人力車自体が珍しいのだ。それに羽織袴と白無垢の二人が乗っていれば、盛り上がっても仕方がなかった。加えて乗っていたのは、高齢者層に厚い支持を誇る町の元住民である具衛と、文字通り人形の如き美しさを漂わす真琴だったのだ。当然と言えば当然だったのかも知れない。  武智の思惑通りに進んだ行列と式は、後に武智邸で行われた披露宴でもしてやられた。元首相の高千穂隆一郎を呼んだのは武智だったらしい。一応、高坂宗家夫妻と相談しての事だったそうだが、それは一石二鳥どころか、何鳥になるか分からぬ程の一石だった。  表向きは新郎新婦の格上げを狙っての事、と言う理由だったそれは、まずは元外相の事件で拗れた高坂と高千穂の関係修復を目論んでいた。今更示談ではないが、隆一郎の目の黒いうちは少なくともその息子に間違っても復習めいた愚はさせない、と言う確約をさせた。また、真琴にとっては元義父であり、真純にとっては父方祖父だ。元夫と違い、その義父はそれなりの人物であり、 「あなたが再婚したがる男がこの世にいようとは」  具衛を褒めてくれたようで、素直に嬉しかった。  更に武智からすれば、選挙区の元後援会長である。その息子に代替わりした後、放置された選挙区内の陳情のツケを払わすつもりらしかった。隆一郎は議員こそ引退したものの、未だ自由共和党員にしてその重鎮だ。国政に強い影響力を持つその証左が、護衛の数にも現れていた。具衛によると専属SPは二人で、他は地元広島県警の警察官らしいが、それでも元職に対する数ではないらしい。その重鎮に対する武智の本意は、空席となった選挙区にそれなりに筋の通った公認候補者を据えなければ選挙区内の政治不信は拭えない、との脅しだった。母美也子などは、隆一郎の知恵袋にして殆ど思うがままだったが、武智も武智で結構な発言力を持っていたようである。  また高坂は高坂で、サカマテの企業城下町である近辺の有力者と懇意になるのは益の方が多い。更にフェレールと高坂の家族ぐるみの結束を深める一事である事は言うまでもなく、改めて未だ美也子、アルベール、隆一郎の三姉弟の繋がりの存在も確認された事でもある。日本好きのフェレール一家の事、武智との繋がりが構築されそうでもあり、四つの大家がまさに真琴と具衛によって結びつけられようとしていると言ってもよかった。まさに一石何鳥、である。  で、披露宴もすっかり武智の思惑通りに進んだのだが、それに強烈な楔を打ったのが他ならぬ具衛だった。早い段階で乱痴気騒ぎの様相となった宴席は、高砂、特に具衛を囲んでの酒乱めいた騒動に発展したのだが、最後に残ったのは何と身体の細い飄々とした具衛であり、然しもの真琴もこれには驚いた。 「こんなに強かったの?」  武智に次任と、その息子にして実兄の利春。アルベールとその息子ジロー。おまけに隆一郎までが潰れてしまっている。何れもそれなりに飲める男達だと認識していた真琴だったが、その六人が具衛の周りでくたばっているのには、呆れて絶句した真琴だった。 「飲めない事はないんですよ」  とは、前にも聞いたような気がしたものだが、それにしては度を通り越してはいないか。 「痛飲するぐらいじゃないと酔いませんよ」  と言う具衛にとって、そこら中に転がる瓶や徳利、死屍累々の数は、痛飲レベルではないと言うのか。その身体つきは、常識的なアルコール分解レベルからすると余りに華奢である。  一体——  どんな鍛え方をしていたら、こうなり得るのか。今更ながらにつくづく謎多き男だが、その片鱗は新婚生活で散見されていた。  具衛の借りていた別荘崩れは、電気、ガス、水道が来ていなかった。別荘と言うよりキャンプ小屋だったのである。電気は太陽光、暖房や調理、風呂などの熱エネルギーは全て薪、水は井戸だ。それらの手入れや段取りを始め、一切の家事を具衛はよくやった。で、落ち着くと、居間に座って本を読み始める。それは、広島在住時の山小屋での生活スタイルと全く変わらないらしかった。真琴が山小屋を訪ねていた頃などは、その一息を狙い打つように襲撃していた事が分かると、 「何か今更だけど、悪かったわね。あの頃の私」  などと、思わず謝罪せずにはいられなかった。 「いえ」  実は私も楽しみにしてましたから、と言う惚気はさておいて、完全主婦の真琴をまるで働かそうとしない具衛は、 「産前後ですから」  と言っては、炊事ぐらいしかさせてくれない。とにかく 「動かないと落ち着かなくて」  身体が鈍るのを恐れていた。そこは何でも一人でやって来た具衛らしい。律しているつもりはない、と言うその暮らし振りでも、肉体レベルはガタ落ちのようだった。 「まあ、ゆっくり衰えて行くのは、人間の常ではありますけどね」  と言われた真琴も、やはり産前後で鈍っており、最近では二人でストレッチをしたり、長い薪を木刀代わりにして素振りをしたり、組手をして勘から遠ざからないようにしている。  その中で具衛の勘の良さ、引き出しの多さには、それなりに嗜んで来た真琴も舌を巻いたものだった。具衛が接して来た鍛錬と、自分が積み重ねて来た物の差は、物の見事に「道場の中」と「実戦」の差だった。鈍る事が生死に直結する状況で生きて来た具衛の鍛え方が凄いのは、当然と言えば当然なのだ。 「何ならジムにでも行く?」  日本にいた頃の真琴は、たまにはそれを利用していた口だったが、具衛は 「勿体ないです」  時間もお金も、と言い切り、特別な鍛錬などとは縁遠かった。 「功夫です」 「カンフー?」  全ての動きの中にヒントがあり鍛錬がある、と言うそれは、家事の中でもそれが出来る、のだとか何とか。実際、具衛の薪割りや水汲みを始めとする家事労働は、身体の使い方を意識している様子が見て取れた。それに合わせて、 「自分の健康の維持は、他人に対する愛ですから」  と言う具衛の食生活は、確かに低カロリー高蛋白と言う隙のないものだった。  余り肉を食べない真琴のために、家の手入れが落ち着いた具衛は、何と豆腐を作り始めた。スイスでも豆腐は売ってはいたが、これをメインとしてそれなりに食うにはそれなりの値段がする。腹が満たされる量を安く食うには 「自家製ですね」  と言って、せっせと作り始めた豆腐は、不格好ではあったが濃厚で意外にも美味かった。しかも途中で出るおからも合わせて食えるのだ。豆腐は総合栄養食品の代表格である。 「豆腐がなかったら、今の私はないでしょうね」  貧困で荒んだ家庭に生まれた具衛を助けたのは、まさに豆腐だったそうだった。  安くて植物性蛋白質やビタミンが豊富な豆腐は、近年スイスでも注目されている。それをトレーニングの前後で食せば、その効果が上がる事でも知られ、アスリートも注目の食材だ。幼少期から豆腐を食いつけて来ていた具衛は、山小屋生活でもやはりそれを食していたらしい。そのシンプルな食習慣が、過去に鍛え上げた肉体をそれなりに弛緩なく維持させているのは間違いなさそうだった。  怠けない家事で身体を使い、質素にして合理的な食事で肉体と健康を維持する。その生活スタイルは、生真面目さと味に頓着しない具衛でないと成立しないところが真琴を笑わせたものだ。  そんな豆腐が日常化した食卓は、硬い物が欲しくなれば干し肉や燻製肉をかじるなど、何処かしらサバイバル化しており、 「何かホント、食卓がスパルタ化してるんだけど」  重ね重ねも真琴を笑わせた。  が、そこは元来素食にして料理上手の真琴である。笑いっ放しにはせず、豆腐料理のレパートリーを劇的に増やしてやると、素直に喜ぶ具衛が自分の事のように嬉しかった。  本人は節制のつもりでやっているのだろうが、真琴にしてみればそのシンプルな生活は、終わりのないキャンプをやっているような感覚で、他に何も  ——いらない。  具衛と一緒にいるだけで楽しかった。  そんなキャンプ生活に具衛の秘密を垣間見た真琴だったが、 「キャンプでも晩酌するでしょ?」  産後満を持して晩酌を嗜むようになると、具衛もそれにつき合うようになった。それでも痛飲どころか、精々日に一合程度しか飲まなかったのに。  涼しげな顔して——  またしても、まんまと騙されてしまっていた高砂の真琴である。  その当の本人は、死屍累々に囲まれながらも、残った真純や兵庫助、武智家の山下を相手に楽しげだ。 「流石は私が目をつけた男って事ね」  片や真琴にはリエコがついており、人の旦那を捕まえて何処か不遜で得意気だった。それにしても男衆もさる事ながら、具衛はこのリエコにも随分と懐かれたものである。それが実は、少し心配な向きもあった。  仏を筆頭にラテン系の国々は、相手が妻子持ちだろうが何十歳も年が離れていようが、愛に制限知らずなのだ。そしてリエコは、自分で言うのも何だが、自分を上回る美魔女にしてその地位を何十年も築いて来た才媛だ。誰もが羨む若々しさで、わざわざ二〇歳程年を上に鯖読んでいるのではないかと言わんばかりの華麗な女振りは、真琴の中では間違いなく、親類縁者筆頭の美貌の持ち主である。  片やその夫アルベールは、中々渋味の利いた男振りでかつ年齢の割に若々しいのだが、それでもやはりそれなりの年なのだ。アルベールと比べた時の実年齢以上の差は、リエコの中で確実に満たされない何かを生み出している事だろう。しかもアルベールは、国難に発展した大掛かりな不倫を犯した盛大な前科持ちにして、その立場故に一家ぐるみで禁欲生活をせざるを得ないと言う、重大な結果を招いた男でもある。  その鬱憤と満たされない部分を何処かに向けたなら。例えば手近な具衛などは、年齢こそ世間的にはアラフォーだが、肉体的には二〇代の青年である。そうしたアルベールにはない瑞々しさと力強さをリエコが具衛に求めたら。  私なんて——  到底敵わない。  例によって、ネガティブに渦巻き出すと止まる事を知らない真琴に、目の前の美魔女が、 「それにしてもあなた、随分と顔つきが変わったわね」  ドレスを着れば妖精。白無垢ならお人形さん。まるでオードリー・ヘプバーンみたいね、と言って真琴を戸惑わせたものだった。  ——何を。  それはリエコ自身ではないか。少なくとも自分は、あの大女優のような花のある顔つきではない。目つきは暗く鋭く冷たく、口は薄く端は偏屈に歪み、下卑た顔だとにっくき母から面罵された事すらある。  世間の男共が騒いだところで、真琴が自信をたぎらせていたのは文武であって美貌ではなかった。だからこそ以前は、化粧を塗りたくって武装していたのだ。それを変えたのは紛れもない具衛だ。世間と言う名の北風に晒され続け、頑なに凝り固まっていた自分を、具衛はその寛容さで受け止め続けてくれた。  が、そんな具衛は、リエコが 「素朴で地味でぼんやりして——」  と言い表す通り、地味で一見して冴えない。だからこそ世間の見方としては、自分では烏滸がましくてとても口に出来たものではないが「ヘプバーンが地味男と一緒になった」とでも思うのだろう。だが、この地味男はそれだけではなく、 「何故か羽織袴が良く似合って」  とリエコも評する程に、中々不思議な花を持っていた。タキシードを着れば従容な紳士に、袴を着れば静謐な侍に見えてしまうのだ。常々不思議に思っていた真琴だが、この宴席こそがその解だった。いくら花婿と言っても、それなりの人物群たる死屍累々共が、訳もなくこれ程までに懐く事はないのだ。つまり彼らも、具衛の中に真琴が感じている何かを察したのだろう。  真琴にしてみれば、この至高の地味男はまさに「太陽」なのだ。それに加えて「何か」ある。そんな男だった。高砂の形から表現すれば、穏やかさの中の何処かしらに何かしらを携えている。何となしに初見からそれを感じていた真琴が、昨年末辺りからその片鱗を垣間見るようになるにつけ、常に研ぎ澄まされた鋭さである事にようやく気づかされた身にしてみれば、具衛などは常備不懈の侍のようなものだった。  一方で、その男を太陽と捉えた真琴自身、たまにその勝気さから「火」と例えられる事があったものだったが、この男はそれに例えるなら、真琴などまるで問題にならない程の火を蓄えていた。今までその鷹揚さにまんまと騙され、その巨大さに気づかなかったのだ。傍にいても離れていても、問わず真琴に安らぎをもたらす暖かい柔らかい火。しかし有事においては己の正義に則り、その巨大さの片鱗を見せつける猛炎。その猛々しさと高砂でのその形が、以前の具衛から頻繁に滲み出ていた観念的な雰囲気を伴いながら重なって行く。  具衛を知らない人間には、取ってつけたかのような羽織袴姿でしかないだろう。が、真琴の目に写るそれは、中世から近代にかけ、それを纏い帯刀を許された階層独特の矜持故の、献身的な自己犠牲を尊ぶ哀然美が際立ち、訳もなく胸騒ぎを覚える危うさでしかなかった。  俄かに湧き立つ不安が顔を曇らせたようで、何かを察したリエコが、 「真琴」  女を捨てず、弛まず磨き続ける事を忘れちゃだめよ、とふんわり笑う。その艶やかさは自分にはない花だ。片や自分など、具衛と出会う前はそれを忌み、ずっと男になりたいと思っていたのだ。それなりに嗜みとしての所作は身体に染みついているとは言え、中身は男に近いと自己分析している真琴である。それが、畳間の宴席で御御足を横流しにして、美人画の麗人の如き優艶さを纏う美魔女に、 「ボヤボヤしてたら取っちゃうから」  と追い討ちされてしまうと、余計心配になった。殆ど女を捨てていた半生なのだ。その男女の真琴に近しい人々と言えば、リエコのみならず千鶴や由美子など、自分にはない女性美を誇る魅力的な女衆ばかりなのだ。その人々に比べると、自分の何と粗忽で武骨な事か。今更ながらに、その重圧に密かに青ざめていると、 「まあそうは言っても、つけ入る隙はないかしらねぇ」  と言うリエコが、やはり完璧に着こなす五つ紋の色留袖のその色は淡い桜色である。紅葉シーズンの只中において、一輪咲きの桜の如き華やかさを受け止め切るその着物のセレクトもさる事ながら、それを纏うリエコの美白は問答無用の堂々たる美しさだ。  その美魔女がまた何を言い出すのかと思っていると、その豊かな胸元から取り出した袱紗の中から出て来たのは、見覚えのある小封筒だった。それは昨年末、せめてもの償いのつもりで山小屋に置いて帰った物だ。 「愛する女を救うためとは言え、惜し気もなく打出の小槌を放り出せる男なんて、そういるもんじゃないわ」  その心意気を見せて貰っただけで私達は満腹だから、と、その御尊顔同様に嫋やかな白い手が真琴の胸元に伸びて、有無を言わさずその封筒を捩じ込んだ。 「でも、私は騙されないわよ」  男共は、あの子があなたを絡め取ったと見るんでしょうけど、私に言わせれば真逆ね、と言ったリエコは、 「少し見ていれば、誰でもあの子の価値に気づく。中々得難いものを絡め取ったのはあなたの方よ」  分かったら励みなさい。あなたらしく現状に甘んじる事なく何が出来るか、何をすべきか考えなさい。と急に説教臭いそれは、高砂に近づこうともしない母美也子からの伝言らしかった。確かに如何にも堅物の言いそうな事だが、真偽は不明だ。  その母は、割り当てられた席に鎮座したまま、千鶴や由美子と語らっていた。目すら合わそうとしない真琴だったが、リエコの唆しめいた誘導でつい見てしまうと、生後二か月でまだ首も座らない我が子を、さも大事そうに抱えているではないか。  行列から向こう、我が子の守りは、母を始め参列した一族の女衆が交代で見ていたのだったが、不思議と母が抱える時だけは全くぐずらず、一言たりとも泣かなかった。  元々、どちらに似たのか分からないが、場を読むかのような我が子は泣き時を心得ており、周囲から褒められる不思議な子だ。が、それでも自分や具衛以外の手が触れると、流石に多少は機嫌を損ねるのだ。その我が子が、最もぐずるのではないかと思っていた母を相手に、大人しく抱かれるとは。正直、納得が行かなかった。自分の遺伝子を半分受け継いでいるのだ。どう考えても、懐く理由が思い当たらない。  その堅物と言えば、特に変わった事をしているようには見えず、面持ちも赤子に向ける分だけ、気持ち常より緩んでいるように見える程度であり、後はいつも通りの堅物にしか見えなかった。  それなのに——  何故なのか。我が子なら、余計にでも食いつきそうだと思っていただけに、 「意外でしょう?」  それを悟ったリエコに、口に出されてしまった真琴だった。  リエコの恨み節のような言い分や、母の言いたい事は理解出来るし納得もしていた。確かに世間の見方を良い事にそれに都合良く乗っかり、その実で、具衛を絡め取るため形振り構わずだったのは自分の方だったのだ。それをやはりプライドが邪魔して口に出来ないだけで、自分の中では認めている真琴だった。それに反論はない。それはもう何と言われても良いのだ。  だが結局、他の誰よりも我が子を大人しく抱える母の姿だけが、謎としていつまでも頭の片隅に引っかかり続け、気がつくと花の宴はそのまま終わってしまったのだった。  昼下がりの縁側で足を垂らす真琴は、相変わらず右端の壁際に陣取っていた。その傍で、具衛も同じように足を垂らして座っている。以前なら、客である自分を放置し、居間の座卓で図書館の本を読んでは座していた男だ。 「ここにいたら、日本の漫画が読みたくならない?」  と聞いてみると、 「そーなんですよ」  と予想通り相好を崩したものだから、真琴は小さく噴いた。具衛にとって日本での心残りと言えば、その一事のみだったらしい。特に全国的にも珍しいまんが図書館がある広島は、市民であれば無料でそれを借りて読めただけに 「それだけは、惜しかったもんですよ」  具衛は結構本気で残念がっている。その具衛が、最近ローザンヌの自宅で専ら読んでいるのは、真琴が具衛のレベルに合わせて買い漁った独語や伊語の絵本や童話だった。それは時期が来れば、子供にも使えて一石二鳥である。 「ホント、よく読んでたものねぇ」 「真琴さんは?」 「なに?」 「日本で心残りは?」 「和蕎麦、かしらね」  流石にスイスでは、伝統的な和蕎麦はお目にかかれない。蕎麦粉を買って来ては、ヌードルメーカーで作って食べているのだが、やはり素人仕事なのか、何か一味足りないような気がしていた。 「そうですか?」  あんなに食ってるのに、と言う具衛は、真琴が作るそれもやはり、いつも然も美味そうに何杯も喰らっている。が、凝り性の真琴は、常に納得していない。だから今回の事で羽田に到着後、まずは有無を言わさず空港内の蕎麦屋を襲撃し、それを堪能したものだった。 「変わりませんよ?」  真琴さんの蕎麦と、と言う具衛は、そうは言っても日本の蕎麦をやはり堪能していたのだったが。二人の日本での心残りと言えば、こんな細やかなものだ。  秋祭り最終日の神社からは、相変わらず軽快なお囃子が聞こえて来ており、耳に心地良かった。その日本らしさに、海外慣れした真琴は懐かしさを堪能している。流石に昨日は目の前の神社で散々賑わした身だけに、今日は遠巻きに見るだけで十分だ。そんな二人は、山小屋を懐かしんでは動こうとしなかった。  サプライズに託けて新婚旅行先を強引に広島に変更した真琴が逗留先として選んだのは、やはり具衛が在郷時に借りていた山小屋だった。武智は二つ返事で提供してくれたが、そこから広島の各地へ出かけるのは、お世辞にも近いとは言えない山間の事である。移動に難がないとはとても言えたものではなかったが、同じ広島に泊まるのであれば、やはりここを置いて他に考えられなかった。  かく言う今日も、本当は具衛の案内で広島の各地を訪ねる予定だったのだが、昨日昼下がりからのサプライズ挙式で、気持ちが昂ったまま朝を迎えた二人である。今日一日は、山小屋で一息入れる事にした。  夏休みのバカンスを後ろ倒しで取得した具衛は、この新婚旅行に丸々二週間の有休をつぎ込んでいる。旅行先を無理矢理変えた真琴は、その二週間を日本で過ごす事に決めていた。欧州在住の身であれば、余程の辺境でない限り国外旅行はそれなりに出来るのだ。特に欧州内は陸続きであるため、流石に日帰りは厳しいものの、コンスタントに二、三泊ずつでも旅行出来るならば、結構回れたりする。だからそれをわざわざ新婚旅行で行く選択肢はなかった。それよりも我が子のために、縁遠くなる可能性の強い日本の日常を、少しでも感じさせてやりたかったのだ。  で、本籍地の山小屋は外せない、と言う事で武智にお願いした訳だ。その計画の全貌を、事後承諾で恐る恐る具衛に開示すると、 「そう言う事でしたら、まあ私は別に何処でもいいですよ」  と、これにも特に拘りなく答えをくれた具衛だった。で、次の瞬間には 「あなたと一緒なら、私は何処でもいいんですよ」  あわよくば欲しかったその惚気をあっさり吐いてくれる。少しは口論を覚悟していただけに、安心と共にその愛すべき鷹揚さがもたらすときめきは、実は只ならない真琴だった。それでも一応、時をおいて何度か念入りに怒ってないか確かめたが、やはり答えは同じでときめきを補充させられては密かに苦悶させられ続けただけの事だ。そもそもが、少し考えればこの男も、仏軍時代に仏国の旧支配地域を中心として各地を転戦していたのだ。海外の物珍しさはそれなりに乏しいようだった。  それよりも元職の影響が大きいようで、治安の良い日本は油断ではないが過ごし易くて心地良いらしい。それにどうやら具衛にも、我が子を連れていつかは帰国したい思いが何処かにあったようだ。サプライズとは言え騙し打ちの後ろめたさに駆られていた真琴は、そこにを気持ちの折り合い求める事にした。  そんな二人が育んでいる我が子は、今、二人の間に置いているポータブルベビーベッドの中ですやすやと寝ている。 「ホント、よく寝るわ」 「寝るのが仕事みたいなもんですから」 「それにしてはホント、堂々と寝てるのよね」 「そこは真琴さんに似たんでしょう」  と言う我が子は女児だった。産前に性別を知った具衛は、とにかく安心の一言に尽きたようだ。常々具衛は、その忌まわしい出自故に、男の遺伝子が受け継がれる事を恐れていた。もし男児だったら、隔世遺伝で途轍もないたわけ者が出来上がるかも知れない。逆に女児なら、女流の高坂の血の事だ。具衛にとっては喜ばしい事この上ないらしかった。 「これはしっかり者ですよ、絶対」 「性別は関係ないと思うけどねぇ」  真琴は真琴で、同族故に辛く当たり、また確執が生まれるのではないか不安である。それを経験した身でもあり、逆に男の真純は上手く育ってくれたのだ。真琴としては、実は男児の方が良かった。 「まあ自分で言うのも何だけど、私達の子だから——」  具衛が心配するようなたわけになるなど、真琴には想像がつかない。それどころか、 「親を上回るような小面倒臭い女になるような気がしてならないわ」  それを心配した方が良さそうだった。それが、この眠りっ振りにも出ている。  そんな子に、具衛がつけた名前は「(りつ)」だった。如何にも隙のない、しっかりしてそうな名前であり、真琴はいよいよもって女流の高坂の血を強く感じざるを得ない。その名を言い出された時、 「もう少しソフトに行かない?」  と、思わず日和った真琴だったが、具衛は 「如何にも真琴さんの子らしく、凛々しくて良いと思うんですが」  いくつか候補を見繕うと言っていたにも関わらず「他の名前は考えられない」と勝手に決めつけており、結局この名しか用意していなかった。  「ん——」  益々確執を恐れる真琴だったが、 「まぁそこは。一応、私の血も半分入ってますし」  と言われてしまうと、もう何も言い出せなかった。自分が入れ込むような男の血が半分流れているのであれば、確かに大丈夫だと思いたい。真琴はそれを出産直後、科学的検証ではっきりとさせてはいた。親子三人の血縁を法的に確かなものにするため、わざわざDNA鑑定を行ったのだ。  日本の民法では「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子である」と推定する規定があり、この場合は法的に特に問題いなく嫡出子として扱われている。それに合わせて、婚姻成立の日から二〇〇日後、もしくは離婚など婚姻の解消の日から三〇〇日以内に生まれた子は、婚姻中に妊娠したものとする「嫡出推定」の規定もある。が、真琴の妊娠はこの二つの原則から外れており、原則的に真琴の子律は、具衛の嫡出子として認定されない状況だった。  それでも実を言うと戸籍実務では、婚姻届出後に出生した子は、すべて嫡出子として出生届を受けつけられていたりする。よって結局律は、具衛の嫡出子として届出が受理されてはいた。後に親族間で相続絡みのトラブルでも発生しなければ、別にこの出生届出をもって満足していても何ら問題はない。が、もしも将来的に何らかの争いが発生した場合、所謂この具衛と律の状況は「推定されない嫡出子」と呼ばれ、後々「親子関係不存在確認の対象」に成り得る状態であった。その時になって調べてみて、突然「父子関係がない」と言われ、慌てふためくケースと言うのは意外に散見されるのだ。それを気にした真琴が鑑定を依頼した、と言う訳である。 「あなたが慌てないようにね」  曖昧を嫌い、相互扶養、相続権、親権に関する各種権利をはっきりさせておく、とは如何にも真琴らしい。 「後々に、変な後腐れを残したくないのよ」  とは、具衛の権利を担保する向きでもあり、より一家の絆を意識するきっかけでもあるのだが、具衛は 「私は問題には——」  と言いかけたところで、口を閉じた。では「父子関係がない」との結果が出たらどうなのだ。その時具衛はそれを受け入れてくれるのか。真琴が突きつけたそれに、 「あなたに限って、それはないでしょう」  俄かに具衛は答えをはぐらかす。 「信用してくれるのは嬉しいけど、もし別人の子だったら、あなた納得するの?」 「そうですね——」  そこまで考えた事がなかったので、と言うと流石に黙した。 「あなたが私と育てたいと思う子なら、私にとってその子は我が子です」  かと思うと、やはり殆ど即答だ。普段ぼんやりしているようで実はそうではない。根底に据え抜いた物を常に携えているからこそ、普段はぼんやりしている。見た目を度外視する具衛のそんな意外性は、予め答えを用意しているとは思えないような事でも、何かに従って思うところを淡々と口にする。 「それが例え、子種が違っても?」 「はい」 「不倫の果てだとしても?」 「はい」 「何で?」 「不倫されるのはそりゃ悲しいですけど、私を上回る魅力が相手にあったと言う事なんでしょうから、男としては敗者ですよね。私の甲斐性がそうさせる訳で。でも私はあなたの事が好きな訳で——」  後はさっき言った通りです、と流石に苦しそうだ。 「ごめんごめん。拙い口で何か沢山喋らせちゃったわね」  そのブレない口振りに、つい弄りたくなってしまったのだ。悪い癖である。 「ちょっと言ってみただけよ」  ここまで言わせてしまったからには、少しリップサービスしなくてはならないだろう。 「私を寝とれる男なんて、古今東西あなた以外にいないわよ」  それは真琴としては最大級の賛辞のつもりだったのだが、 「はあ」  然いですか、と具衛は何処かしら半信半疑のようだった。例えが飛躍し過ぎたようで、自分毎として捉え難かったようだ。 「こう言う言い方は余りしたくないけど——」  自分の中でも、自分を知る小面倒臭い周囲の面々の中でも、自分の配偶者として認められた存在なのだ。 「そんな男、他にいる訳ないわ」  それどころか、仮に夫婦間の隙間風を他人に察知されるようなら、リエコを始めとする周囲の出来た女達に、その身を狙われ兼ねないのだ。それこそ冗談ではなかった。 「一生放さないから覚悟しときなさいって、前に言った通り」  放す訳がない。放せる訳がない。 「そんな訳で望んだ子だもの」  だからこそ、曖昧な推定を嫌ったのだ。  二人の子は二人の子だ。感情的にも肉感的にもそれは確かだ。律の顔つきは真琴の割合が大きかったが、その中に覗く優しげな印象は具衛のようでもあった。が、それらは公然の根拠としては、やはり乏しい向きが強い。 「勿論私だって、自信を持ってあなたと私の子だって言い切れるけど」  それはあくまでも、口先だけの感情論でしかない。 「こう言う事は、早くやっとくに越した事はなかったのよ」  あっさり言った真琴が依頼した鑑定結果は、やはり二人の望んだ通りだった。 「ね」 「まあ、確かに」  で、科学的根拠でも、律は半分具衛の血を受け継いでいる事が判明したその結果をもって、結局具衛の言い分を受け入れた真琴は、律と命名する事を認めたのだった。あくまでも日本国法になぞらえた考え方であるそれは、当面の間は二人が、日本国籍のままスイスに滞在し続ける事を意味していたのだったが、結局のところ真琴自身の不安を取り除くための鑑定だったのだ。具衛を信用していない訳ではなかったが、長年不信頼の原則で人と相対して来た真琴は、細やかな擦れ違いの積み重ねによる破局が怖かった。それ程、  予想通りで——  怖いくらいだ。  この男との生活は、穏やかで幸せだった。料理以外の家事は何不自由なく、それも好き好んでやってしまう具衛であり、最後に残った料理も真琴と共に台所に立ちたがり、上達が著しい。基本的な生活に揉め事が存在しないのだ。  そりゃあ——  幸せな筈、である。  逆に日頃は争い事のネタを探すような有様であり、家事に勤しむ具衛を捕まえては、 「いい加減、一息つきなさいよ」 「好きでやってるんですよ」 「私が何もしてないみたいじゃないの」  そんな言いがかりをつけては、わざわざ揉め事を起こすかのような流れである。 「そんな事ないでしょ。ずっと子守してるんだし。夜な夜な起こされてるじゃないですか」  休める時は休んでおくものですよ、と言う具衛こそ、 「そっくりそのままそれはあなたの事ね」  決まっていつも、突き返す真琴だった。  山岳国のドクターヘリのパイロット稼業は、そうは言っても中々シビアなのだ。ローザンヌ基地が受け持つ管轄は、主に高原地域の平坦地形が殆どで、山間の繊細な操縦に神経を擦り減らすような事は余りないようだったが、それなりの人口を抱える地域故夜間出動が多かった。結局は、心身共にタフでなくてはシフトローテーションをこなせない。だから在宅時くらい、楽にして欲しいのだが。 「自分の健康は、他人への愛なんじゃないの?」 「だから今やってる事がそれですよ」  しんどい時は言います、と言う具衛は、 「私は、あなたが隣にいれば元気なんですよ」  動いてないとのぼせて鼻血が出そうです、と平気と惚気るようになった。真琴も当初は割と平気だったのだが、落ち着いて来ている近頃ではそうした惚気は痒くなりつつある。呆れた真琴が、 「——このままじゃ、ダメ女になりそうだわ」  その常套句で嘆息するのも、殆どルーティン化していた。 「十分、良妻賢母ですけどね」 「平和過ぎるのよ」 「じゃあ闘いますか?」  と言って、具衛のライフワークである家事の休憩がてら、チェスをやってみたりする。 「いや、これも十分平和なんだけど」 「そうですか?」  私は物凄く頭を使ってプレッシャーが半端ないですよ、とは言え、具衛の腕前は相当なものだった。戦績は概ね五分五分だ。素人レベルなら負け知らずの自分を相手取り、全くもってつくづく意外なものだ。 「物足りない、ですか?」 「そうじゃないけど」 「じゃあ張り合いがない、とか?」 「それも違う」  それを口にするのが怖いくらい、  幸せ——過ぎる。  婚前もそうだったが、結局未だにそれが悩みとは。よそ様が聞けば「惚気も大概にしろ」と言われそうなものだった。  肥立ちも頗る良かった真琴は、律共々健康に産後を過ごしており、旦那は旦那で仕事も軌道に乗り、全くの順風満帆だ。これが絶頂期なのだとしたら後は、  落ちて行くだけなのか——  それが怖い、とは中々口にし辛かった。 「まあ、慣れてもらうしかありませんね。これだけは」  今までが大変だった分のツケですよ、といつも具衛は 「幸せ負債、とでも言いますか」 「よくそんな歯の浮いたような事を、平気で言えるわね」  然も満足気に言う。が、つまりはそう言う事のようであり、結局それで収まりをつけるしかなさそうだった。  そんな惚気たローザンヌでの穏やかな生活が、もう半年だ。律が生まれてもうすぐ三か月になるが、産後から真純の時に感じたような大変さを全く感じない。確かに夜中に起こされたり何かと気を遣ったりで疲労感はあったが、やはり穏やかである事に変わりはなかった。疲労感すら心地良いと言う有様で、愛する男との間に生まれた子を育てる事の意味を、まざまざと実感させられている今日この頃である。それはつまり、こんな自分を受け止め隣にいてくれるこの男のお陰なのだ。  そして、周囲の紅葉がまた見事と来ていれば、別に何もしなくても良かった。人が聞けば「折角の新婚旅行」と言う声が出そうなものだが、それでも時の移ろいがもどかしい。ややもすると、この状況が絶頂とするならば、今この瞬間このまま三人で死んでしまってもいい、とさえ思えてしまう。  このまま時が、  止まってしまえばいいのに——。  気がつくと、霧雨が降っていた。  先程まで晴れていた筈だ。天気雨らしい。空を見上げると、やはり晴れていた。 「昨日の方が、強かったわね」 「この辺じゃよくある事ですよ」  西中国山地の外縁地域であり、季節の変わり目である今は、朝夕の気温差もさる事ながら、山地に当たった風が極局地的な小雨を散らす事があるらしい。 「小春日和も、そろそろ終盤ですし」  天気予報では入れ替わりの低気圧が西に現れており、具衛によると夜には雨が降り出すようだった。 「昨日なんてまさに『狐の嫁入り』だったしね」 「良い打ち水でしたよ」  女狐の蔑称を持つ真琴だ。流石に昨日はサプライズのぶっ通しで、それを口に出す事も忘れていたが、落ち着いた今となってはネガティブな自虐が覗き始める。 「幸せ、過ぎる」  ぼんやり呟いた真琴は、あえて具衛には聞かなかった。この男の事だ。きっとまた歯の浮いた事を言うに決まっている。 「ねぇ」 「はい?」 「誰かさんのお陰で、すっかりダメ女になったついでに聞いてみたいんだけど?」 「何ですか?」  いつも何らかの答えを用意しているこの男の事だ。それが逆に真琴の口を軽くし、危うい事を言ってみたくなった。 「私が今この瞬間、一緒に死んでって言ったらどうする?」 「心中、ですか?」 「そう」  具衛は相変わらず動じなかったが、流石に嘆息してみせた。茶化した様子を振舞った真琴だが、一方でその思いは、実は最近常に心底の何処かにある。こんな拗らせ屋にこの男が、  どんな事を——  言ってくれるのか。聞けるものなら、聞いてみたいと思っていた。訊かれる具衛は、突拍子以外の何物でもなく、それがフェアではない事は分かっている。しかもその内容は、いくら冗談めいているとは言え、今後何処かで起こり得る口論の際の言質になり兼ねないのだ。内容が内容だけに、具衛が抱えるリスクは答えようによっては深刻なものに成り得る可能性を秘めている、と言えた。答える相手は、日本では弁護士資格を有する有弁な女なのだから、当然と言えば当然だ。  少しは考え込むと思っていたのだが、やはり具衛は一瞬後、 「——許しませんよ。そんな事。断じて」  優男にしては珍しく、三段論法の有無を言わせない口調で即答した。それでいて、気負わずごまかさず。相変わらずの柔らかさだが、その中に毅然さを感じる。そんな男のステータスは、世間的には決して良いとは言えない。二〇年間の公職従事経験を有するものの、一言で言ってしまえば盲目的な国家の手先、と言う危うさがつき纏う組織の、その底辺でうごめいていた大多数の中の一人に過ぎない。それを取り除けば、後に残るのは地元広島の県立高校中退、と言う冴えない経歴。そんな男でしかなかった筈だ。 「私は、騙されませんよ」  そんな男の一言一言が、日本では多くの敵を作り「最恐の才媛」などと恐れられていた筈の自分に躊躇なく向けられる。恐れる向きは全くないらしい。怖いもの知らず、と言う訳でもなく。 「そう言う事は、冗談でも言わないでしょ」  茶化したつもりが、何かを悟られている。自分の危うさを感じた具衛の追及が、痛くもあり嬉しくもあり。 「これも私の至らなさ、ですね」  四つも年下だと言うのに。左側に座った男から伝わって来る雰囲気に押される。そんな左側を見る事が出来ず、景色を愛でる振りをする他なかった。それは昨夏以降、ここに住んでいた男に会うための口実だった。 「手綱捌きの見せどころなんでしょうけどね、ホントは」  鷹揚さを思わせる一方で、実際に大変な手業を誇るその技量は、一見卑小な外見からは想像出来ない程の武芸達者だ。そんな、見えにくい部分の一つひとつが、実は出鱈目に抜きん出ていると言う、世間を斜め上から俯瞰しているかのような詐欺師の正体を間近で開示され続けた真琴だ。世の見解のいい加減さと無責任さを、まざまざと痛感させられるような男との夫婦関係は、一見すると絶対的に真琴が上位に見えて、実は真逆だった。物の見事にそれを、昨日の宴席でリエコから恨み節のように指摘され、分かる人間は分かっている事も再認識した真琴である。  敵わないものは、  ——敵わない。  結局は普段の木訥振りに騙され、見た目を覆す剛毅さで、いつもいつも放胆小心の如く諭されるのだ。そしてその仁のようなものが、真琴の何処かに染みてしまうのだ。そのままやり込められる構図が、いつまで経っても変わらず密かに悔しい。これでは本当にダメ女に成り下がるばかりで、到底この男に相応しい妻と言えたものではなく。昨日の宴席でのリエコの叱咤が脳裏でこだまする。 「最後は腕力って言ってたものね」  バカな男なんて、などと、とりあえずそうでも言って突っ張っておかなくては。このまま言い包められる事は、やはり真琴の習性に乏しかった。 「真琴さん」 「何よ」  そうなると、妙に頑なになって来る真琴である。自分の中では、そんな自分を面倒臭い女だとは理解しているのだ。が、何十年も培って来た癖は、例え相手が愛する者であっても中々治らない。 「あなたは、良くも悪くもせっかち過ぎます。結論を急ぎ過ぎる癖は治さないといけませんね」 「余計なお世話よ」 「何だか雲行きが怪しいなぁ」  その言葉とは裏腹に、霧雨は終わって、また小春日和に戻っていた。 「もう晴れたけど?」  具衛は普段、説教めいた事など口にしない。が、いざそれを言われてしまうと、耳にしない分重く響く。同時に偏屈者の自分は、つい反駁してしまう。自分が許した声は頼り甲斐があるが、一方でやはり、素直になれないものは素直になれない。その葛藤の中でもこの辺で、  大概にしとかないと——  とは思うのだが、こう言う時は今までもそうだったが、無駄な抵抗をしては最後の最後で泣かされるのだ。自分の中では、そんなところまで認めてしまっている。が、それはとても口に出して言えたものではない。  具衛の言葉が切れたかと思うと、左側の気配が少し緩んだように感じた。ほんの少し、そこへ顔を向けて目をやると、待ち構えたようにこちらを見ていた具衛が鼻で笑ってみせる。 「な、何よ」  バカにして、と言う真琴に 「こう言う事なんじゃないかな、と」 「何がよ?」 「私達らしい幸せ、ですよ」  具衛は、然も分かったような事を吐いた。 「私はバカでダメ女だから、抽象的な言い方じゃ分からないわ」  益々捻くれ始める真琴だ。いけない。これでは土壺だ。それは分かっているのだ。が、止められない。 「きっと年老いても、いつも一緒でベタベタ暑苦しい」 「これの何処が?」  暑苦しいと言うのか。単なる口喧嘩ではないか。そう思うと、既に自分の中では喧嘩に発展してしまっている事が如何にも情けなかった。甘えのつもりだったそれが、これでは感情論の負の連鎖だ。そうは言っても、未だ引き返すプライドを持ち合わせない真琴である。 「こう言う事。きちんと話し合うって大事ですから。日本人って余り口にしたがらないでしょ?」  そう言う意味じゃ口にして貰えるだけ有難いのか、と独り言ちた具衛は、 「すみません。ちょっと怒ったりして。私が悪かったです」  これからも何でも言ってくださいね、などと、屈託のない笑みを浮かべるのだった。つまり、真琴の世迷言を全て受け止め切る、とでも言いたいのだろう。真琴が素直になれずにいる前で、あっさり先に腰を折られる。これはこれで、不完全燃焼だ。 「何を知ったか振りして——」  具衛が消してくれた火を、愚かにもわざわざ起こしに行った真琴だったが、 「初婚のくせして——」  分かった口を、と言いかけて慌てて口を閉じた。言われてみればこの男は、長年常に死生観と向き合う事を生業にしていたのだ。不意に昨日の高砂での羽織袴が脳裏に蘇ると、柔らかく整った面立ちの中に、また危うい観念的な哀然美が漂い始めるようで、分かりやすいステータスで圧倒する筈の真琴を黙らせる。それは  まるで——  自分が否定した「一方の犠牲がもたらす歪んだ幸せ」そのもののように思えた。何がそれを彷彿とさせるのか、それが分からない。その形として現れにくいものの根拠を、一々突き止めないと気が済まない真琴である。一々そうして何かに定義づけなくては、自分は  安心出来ない——  のか。  以前具衛に「一々愛情の所在を確かめるな」と言い放った自分の言葉が、自分の中で見事にブーメランになって戻って来て、深々と胸を貫いた。  お、同じ事を——  やろうとしている。  少しばつが悪くなった真琴は、 「年老いた私なんて、劣化して見れたもんじゃないわよ」  照れ隠しに少し話を巻き戻した。  それは私も同じですよ、と言った具衛は、 「あなたは劣化しません。そもそもその表現が適当じゃない」  と人ごとに託けて、無責任に自信満々だ。 「じゃあ何だって言うのかしらね」  まただ。誘導されている。自分の勝気な部分をくすぐられて、上手く持ち上げられるのだ。 「昇華って言ったら、痒くならないですか?」  だからもし劣化されるのなら、それはそれで逆に興味があります、と中々不敵な事を言う今度のそれは、何かの伏線だ。 「どんなあなたも、私にとっては素敵。前にも言いましたよ。それを何度も確かめて、勝手に痒くなっているのはあなた自身です」 「な——」  普段は拙い舌がよく回るそれは、相変わらずのここぞの強さだ。 「これからはそれを、律に感じてもらえるよう、見える形で表して行かないといけないんですね」  真琴が余りの痒さに絶句する前で、図々しく語ったそれは、結婚記念日に具衛が誓った神学者の格言である。こう言う事を、一々この男はよく覚えていたりするのだ。 「もう痒いから許してくれない?」  クソ、などと悪態を吐いて幕引きを図ろうとした真琴だったが、 「ダメです」  今日は許しません、と言った具衛は、立ち上がって台所へ下がった。すぐに戻って来て、傍に置いたのはマグカップ程の大きさの赤い缶と、赤ワインのフルボトルがそれぞれ一つずつである。 「何よこれ?」 「見覚えがありませんか?」  具衛がまず缶に手を伸ばし、蓋を開けると、中に入っていたのは赤い蝋燭だ。 「つけてみましょうか」 「昼間から?」  合わせて持って来ていたマッチ箱で具衛が早速火をつけると、すぐに甘い良い匂いが立ち込め始めた。 「アロマキャンドル?」 「ええ」  仄かに優しく香るそれは、バニラである。にしても、缶の外装はクリスマス仕様であり、それは一般的には一か月先だ。文字は仏語で、軽やかに踊っているそれが、 「あ——」  脳裏をかすめた。バニラのアロマと合わせて、鼻の記憶を深掘りして出て来たのは、 「リエコ叔母さんからの——」  クリスマスプレゼントと言うそれは、実に約四〇年も遡る古い記憶だった。リエコからのそれで、真琴はバニラの香りが好きになったのだ。子供の頃、部屋でよく使ったそれは、物に大した拘りがなかった真琴の数少ない愛用品だった。 「三つ子の魂何とやらね」 「流石によく覚えてますね」 「で、どうしてあなたが?」  これを持っているのか。 「お義母さんから頂きました」  本当は、伏せておくように言われたらしい。 「リエコ叔母さんじゃなくて?」  保守思想の塊のような母は、滅多な事でもない限り舶来品を求めない事で有名だった。フェレールとの業務提携が頓挫し続けていたのも、実はそうした頑固なまでの保守独立の思想が少なからず影響していたのだ。  それが——  何故あの母が、ここで出て来るのか。  件のバニラキャンドルは、リエコから贈られて使い切った後に販売終了となり、それっ切り購入出来なかった。小さい頃の事だけに、真琴は一度だけ母にその取り寄せを無心した事があったのだが、 「子供染みた甘ったるい香りは家風に合わない」  などと悪態を吐かれては、問答無用で却下されてしまい、壮絶な口喧嘩になった事を覚えている。それが、 「ずっと、宗家の自室で保管されていたそうです」 「ウソよ」  何故、そう言う事になっているのか。あの母が、そんな事をする筈がないのだ。 「実は、出だしから方便だったそうで——」  体裁を保つため、リエコからの贈り物、と言う事にしたらしかった。 「まさか」  宗家の中は今も昔も、良くも悪くも「和の香り」一色だ。それは特別に香を焚く訳でもなく、最上の内装がもたらす洗練されたものだった。それに、家庭内での確執を重ねた幼児期の真琴が、 「辛気臭い」  などと、痛烈に異を唱えては言い争って来たものだ。言い争いのネタを切らさないための古いネタの一つであり、意地になった真琴がバニラを好むようになったのもそんなところから来ていたりする。つまりは「当てつけ」の一言に尽きた。だからこそ母がそれをわざわざ求めるなど。そんな訳がないのだ。  が、俄かに蓋を手に取り製造年を確かめたところ、何と真琴が五歳の時の物だった。それにしては保存状態が良い。 「やっぱり親子ですね」 「何が?」 「律は、この匂いがお気に入りのようですよ」 「寝たままだけど?」  相変わらず分かったような事を言ってくれるわね、と真琴が悪態を吐く横で、具衛が鼻で小さく嘆息する。 「昨日のお義母さん。事前にこのアロマを焚いて、着物に匂いをつけていたそうです」 「流石は策士としたもんね」  だから、律がぐずらなかったようだった。赤ん坊の母親が日頃携えているような匂いをつけていれば、懐かれるのは当然だろう。やりそうな事だ。策のためなら何でもする女なのだ。全ては体裁のためだ。  それにしても、自分のバニラ好きのルーツが、あの母から来ていたとは。それがとにかく忌々しかった。長年嗜んで来たそれを、出所の不明を理由にいきなり遠ざけるなど。今更出来る訳がないではないか。 「よくもここへ来て怨念めいた事を——」  ぐずぐず思案を巡らせていると、いつの間にか具衛が勝手にボトルを開けて、グラスに注いでいる。 「今日はもう、このまま飲んじゃいましょう」  どうせもう何処にも行かないでしょ、と言う具衛は、晩飯も手配したらしかった。ある程度のゆとりをもって武智邸に頼めば、それなりの膳を持って来てくれるのだ。 「昨日あれ程飲んだのに?」 「水筒が飲んでくれたんですよ」 「そうだったの?」  畳用の座椅子で仕立てられた宴席は、確かに和装の女達にとっては正座を強いられず助かったものだったが、そのためテーブルは、座敷用の個別配膳台が一人ひとりの前に並んでいたのだ。水筒などを隠し置くようなスペースはなかった筈だが。 「ウォーターキャリーです」 「登山とかに使う?」 「はい」  チューブで給水出来るタイプの物を腹に抱えて隠し持っていたらしい。袖口にチューブを這わしておけば、上手く吐き出せる訳だ。事前に真純が助け舟を出してくれた、とか何とか。只、それでもたまに上手く入らなかったり溢れたりで下着を濡らしてしまい、結果的に全ての着替えを放出する事になり、今日の有様を招いたようだった。 「急性アルコール中毒で倒れたら可愛いそうだ、とかで。ホントにあの人は、よく気の利く良い御仁です」  奥多摩の決死行の際の装備品の一つであるそれを、真純が大事に保管していたらしい。そんなところまで中々憎らしい手回しのようだった。 「私の息子だもの。当たり前よ」 「そうですね」  通りで。いくらなんでも強過ぎると思ったのだ。とは言え、真琴はそうした事には気が回らなかった。具衛なら何とかするぐらいにしか思ってなかったのだ。本人には言い出せないが、密かに反省する真琴である。  それにしても、真純の事を出されて今更ながらにつくづく思うのは、自分はあんなにも大きなこぶを持っているような偏屈女と言う事だ。そんな女とよく一緒になってくれたものである。確かに一緒に暮らす事もなければ、親子関係も生じないのだが、真純の事もそうなら何かと話題に事欠かない恐怖の親の事もそうだし、何かとやっかみを買いやすい家柄の事もそうだ。自分など、とにかく万事そんな事がつき纏っている小面倒臭い年増でしかなかったのだ。  それをこの男と来たら、各個撃破ではないが、気がつけば自分の周囲を平らかにしたものである。一見、何でもない男だった  筈なのに——。  自分はこの男に拾われたのだ。  この先、この男がいないと生きて行けそうに  ——ないかも。  ふと素直にそう思った。  そんな事をぼんやり考え込んでいると、具衛が傍にグラスを置く。 「これは由美子さんからです」 「そうなの?」 「高坂家特性の、曰くつきのベルモットだそうですよ」  と言うそれを、真琴は知っている。母が愛飲しているそれだった。 「——飲みたくないわ」 「そうですか。美味しいですよ」  真琴さんのサングリアと似てます、と具衛が言うものだから、意固地になったものの少し興味が湧く。 「何だかんだ言って、いい物は何だろうとね——」  あの母も自分に似て、その程度の拗らせ女なのだ。啖呵を切った勢いでつい一口呷ってしまうと、  ——え?  自分が愛飲していた物と寸分違わぬ味と香りである。 「ちょっとボトル見せて!?」 「え? はあ」  これですが、と具衛から渡されたそれは、真琴が日本にいた時によく取り寄せていた米オーク樽の最高級品だった。 「なんで——」  ワインまでも、ルーツがここだった、と言う事らしい。 「リエコさんに伝授したのは、お義母さんだそうです」 「またそれ?」  真琴にそれを伝授したのはリエコなのだ。まるで、いつかこうなるように仕組まれたかのような。まるで、意固地になっている自分がバカだと言わんばかりだった。母がベルモットを愛飲している事を知っていた真琴だったが、美味いものは美味いのだ。でも、同じ類の物を愛飲するなど忌々しいにも程がある。それで苦し紛れに、似たような飲み方をするスペインのサングリアだと言い張っては飲みつけていたのだった。その語源に託けて禍々しくも「血を啜っている」などと勝手に自分の不遇を呪っていただけだ。  蝋燭と言い、ワインと言い—— 「流石は忌々しい策士ね」  結局母は、何処かで歩み寄る向きを模索していた、と言う事なのだろう。それも遥か昔から。周囲の協力を取りつけ、粘り強く、腫れ物に触るようにじわじわと。 「まるで時限爆弾だわ」  まんまとそれを、知らず知らずのうちに体内に仕掛けられ続けていたような物だったのだ。 「あなたも、その一つかしらね?」 「え?」 「だってフランスで母と文通してたんでしょ?」 「——ご存じでしたか」  真純の拉致事件の際、外務省で見た在仏日本大使館の資料には、母と具衛の接点は見られなかった。が、具衛が仏軍在隊時の駐仏大使と言えば母である。文通の事は父が口を滑らせて知ったのだが、母が事件発生当時、即具衛を頼った事を思うと、母の中では明白にこの男を有事の手駒として使う用意があった、と言う事だ。何処までの事を考えていつ頃から何を仕込んでいたのか。それは母のみぞ知る事だ。いくら何でも、自分との出会いまで仕組まれていた事はない、と思いたいのだが、あの母の事となるとそれすらも怪しい。そんな忌々しい女なのだ。あの母は。 「まさか、あの雨の日までも——」  と言いかけた真琴を 「そんな訳ないでしょう」  具衛が上から被せて否定した。真琴が事故をしなければ、二人は出会わなかったのだ。言われなくてもそんな事は分かり切っていたが、それでも一応確認したかった。 「——そうよね、やっぱり」 「只、私の事は、早い段階でバレていたと思いますが」  結局また、確認している。  確かに由美子に知られた段階で、筒抜けだった事だろう。早めに叩かなかったのであれば、今思えばやはり、その偶然の産物を最大限活かそうとした事は間違いなさそうだった。つまりはあの母が、それなりの手駒にしようと考えるような男だった、と言う事だ。その事実が、何気なくこの男の凄さを物語る。  常の力感のなさから何処かしら儚さを漂わせるその風貌は、ストレス社会の現世とは明確な一線を画したもので、その超然とした雰囲気がとにかく気になった。紆余曲折を経て、ようやくそれなりの自由を得たばかりのこの男を、しゃかりきになって絡め取ったまでは良かった。が、今でもよく見張っていないと、ふらりと何処かへ行ってしまいそうな、そんな不安がつき纏う。それを繋ぎ止めるのは、  ——私だ。  世間が、周りが何と言おうと、それを公言出来るのは妻たる自分だけだ。そう思うと、また一つ、確かめたくなった。 「ねえ」 「何でしょう?」 「いつから私の事、好きだったの?」  どんな答えが、どのくらいの早さで出て来るか。楽しみにしていた真琴だったが、具衛はやはりあっさり即答してくれた。 「そんな事、初見に決まってるじゃないですか」 「そうだったの?」 「あなたの見た目で落ちない男なんて、この世にはいませんよ」 「何よそれ」  それでは世に蠢く、最後は腕力頼みのバカな男達と変わらないではないか。 「例えそうだとしても、もっと他に言い方があってもよくない?」  勝手に盛り上がって、勝手に幻滅していると、 「だって、いい加減にしとかないと、また痒くなっても知りませんよ」  具衛に窘められてしまった。 「いつでも口に出来るような事じゃないから、訊いておきたかっただけよ」 「私はいつ訊かれても大丈夫ですけど」  余り痒くない時の方がいいんじゃないですかね、とやはり素気ない。確かにこの男は、いつでも答えを持っている。ぼんやり生きているようで、常に備えている。その深淵に触れたかった。覗けば覗く程、それが心地良くてつい触れたくなるのだ。出会って一年半。興味は尽きないどころか増すばかりだ。  一瞬降った霧雨は何処へやらで、相変わらずの昼下がりは麗かだった。周囲を彩る赤から黄色のグラデーションは、黙して語る絵葉書のようで神社のお囃子が郷愁を誘う。記憶の中にある山小屋周辺の盆地の静寂と違い、祭りを楽しむ人々の姿が異なる色となって景色を作っているそれも中々良い。耳目のどちらも心地良いそれを、最愛の家族と共に愛でるこの状況は、何度でも一瞬で真琴を至福の境地に至らしめた。 「これ以上はないと、思わない?」  不意に口から漏れ出たそれに、具衛が鼻で小さく笑った。 「何よ」 「だからさっきみたいな事を言ったんですか?」  ややもすると、如何にもバカにするような具衛に 「腕力任せの男には分からないわよ」  例の如く、急転直下の真琴が気色ばむ。 「スタンダードでしょ」 「何が!?」 「だから、この状況ですよ」 「どうしてよ!?」 「どうしてって言われても——」 「そこまで言い切るには、きっちり説明出来るんでしょうね!?」  しょうもない事言ったら許さないわよ、と今度は真琴が容赦ない。繊細な感情を嘲笑されたとあっては我慢ならなかった。 「こんなの、何処でも出来ますから」 「ここ以外の何処でよ!?」  二人が出会った思い出の地にして、愛を育んだ本籍地だ。これ以上の状況が他の何処にあると言うのか。 「三人揃っていれば、何処でも」 「だからそれが何処だって言ってんのよ!?」 「まだ行った事のない場所を差し置いて、ここが至上なんてどうして言い切れるんですか?」 「私の中では、ここが今までの至上なのよ!」 「じゃあ、それを私が覆して見せますよ。いつか何処かで、必ず」 「言ったわね! 言質取ったわよ! しっかり覚えときなさい!」 「覆せなかったら、どうなります?」 「それは、その時考えるわよ!」  精々覚悟しときなさいよ、と啖呵を切ると 「うわ、何か怖い」  具衛がわざとらしく震えてみせた。  気がつくと、何となく収拾がついている。こんな小競り合いを、今まで何度やったものか。毎度の事ながら、喧嘩に成り得ないような事で因縁をつけるのはいつも自分だ。自分の大人気なさが容赦ない言及を吐かせ、周囲を戸惑わせる。悪い癖だ。でも止まらない。止められないのだ。そうやって敏感に、自分に対する攻撃の芽に対抗して生きて来た。そうでもしていないと、自分で自分を守れなかったのだ。  それを分かっているかのようなこの男は、いつも熱くなる自分を上手く宥めてくれる。いつもいつも、最後は一歩引いて、脆い自分の矜持を立てたまま、幕を引いてくれる。本当は、とても感謝しているのだ。激昂癖を治すには、まだまだ時間がかかる。それをこの男がつき合ってくれているのだ。その感謝を伝えたいが、今の状況でそう簡単に素直さが口から出る訳もない。気がつくと、具衛はいつも、柔らかい顔で傍にいてくれる。 「真琴さん」 「何よ」  それでも声は、どうしても不細工なままだ。 「気長に行きましょう」 「何をよ」 「まだやっと、新婚旅行ですよ?」  言われて、実はそうである事を思い出す始末である。それ程に瞬間湯沸かし器に成り果てており、すっかり煮立っていた、と言う事だった。それでも具衛の声は、何故か届く。 「だからどうしたってのよ」  まただ。これではまた同じ事の繰り返しだ。分かっていても、どうしても止まらない。しばらくそっとしておいてくれた方が良いくらいだ。でも、今の自分がそれを口にすると、 「ちょっと黙っててくれない?」  これでも絶叫するのをどうにか抑えつけて吐いたつもりだ。が、他人が見れば、恐らくそれなりに迫力があるのだろう。  また——  やってしまった。ネガティブな感情をぶつけるつもりなどないのに、頭では分かっていても、口や胸が勝手にそれを吐くような感覚だ。他人ならここで愛想を尽かすのだろうが、具衛はいつもここから違う。 「これからなんです」  それを裏づけるが如く言葉を選び始める具衛が、 「あなたの周囲は、みんなあなたの戸惑いや苦しみを知っていて——」  淡々と説くその様子は、毎度の事ながらとても年下の、真琴からすれば無学に等しい、そんな男の言には思えない。 「形や見え方は違っても、みんなあなたの事を大切に想っていますから」  蝋燭も、ワインも、私も。時限爆弾と言われようと何だろうと、みんなあなたの味方です、と言われると、随分な言い方をしたものだと振り返る。他人の口から耳にしないと分からないなど、随分と想像力が後退し切っていたものだ。 「その人達のためにも、とは言いませんが、いつかはみんないなくなってしまうんです。そうなる前に、その想いを触れておかないと勿体ないです」  何だかんだであなたの周囲は、みなさんそれなりの人達ばかりなんですから、と言われてしまうと、悔しいが認めざるを得ない。その上この男は、そうした事の経験者だ。家族の何らかの想いを汲み取り何らかの結論を見出すには、まだ少し幼かった青年期に天涯孤独になってしまったこの男は、そう言う部分では後悔しているのだろう。それを以前、この男は「諦めるしかない」と言っていた。  人生は勝ち負けではないとは思うんですが、と続ける具衛は、 「あなたは随分負け込んでるんです。やっと連勝したばかり。これからなんです。借金塗れなんですから、死ぬまでに取り返さないと」  勿体ない、とは、やはり以前ここで諭された事があったそれだ。「借金返済は得意だ」などと自虐的に笑った男は、しかして本当にやり繰り上手で日々感心させられるばかりである。加えて心身までケアしてくれる。 「慌てずに取り返して行けばいいんです——私と一緒に」  結局のところこんな具合で、自分が暴走し過ぎると、とどのつまりがいつも放胆小心なのだった。その上で、最後の最後まで素直になり切れない真琴に、 「まあ『言う事を聞いてやらないでもないわ』って感じで、少しでも理解して貰えたならば、何でも良いから一言貰えると私としては嬉しいです」  などと分かりやすい程に、真琴の心境を斟酌するのだ。  ——クソ。  憎たらしい程、癖を把握されている。これでは何を吐いても、理解を示した事になるではないか。しかして真琴は、黙っていられない性分故に、 「もう何かウザいんだけど」  これ見よがしにひどい事を口にしてしまう。甘えだ。きっとひどい顔をしている事だろう。まるで口と心がチグハグだ。幸せなのに不安になる。感謝しているのに憎まれ口が止まらない。安らかなのに何故か苛立ってしまう。  ——なんで?  自分で自分が理解出来ない。怒りに震えていると思ったら、落ち込んで沈み込んだりする。  ——どうしてだ?  気がついたら、具衛が目元に手を差し伸べていた。 「ほら、だから言ったんですよ」  余り痒くない時の方が良いって言ったでしょう、と微笑むその顔がぼやけている。 「え?」  どうやら、また泣いているらしかった。具衛と一緒なる前後から、こんな事が増えた。もう一年はこんな状態だ、と、ふと気づいた時、 「私——」  所謂、心に何か支障を来たしているのではないか、と思い当たった。世間で耳にするそれは、心に限らず身体も相当に辛かったりするらしいが、真琴のそれは身体は至って健康でそれどころか調子が良いぐらいだ。でも、精神が何処かチグハグなのだ。  これまではいつも何事かに憤ってばかりいて、そうした思いを押し込めては胸の内でやり場のない激情をたぎらせていただけだった。それを具衛が受け止めてくれると分かってからは、随分とそれを素直に吐き出すようになったのだ。いつもではないが、不意にそれがあからさまに表に出てしまう事がある。その結果が、現状の有様だった。  このままだと、一体自分は、  ——どうなるんだ?  その不安を口にしようとした時、 「よくある事です」  それを具衛が、穏やかに遮った。ベビーベッド越しに身を乗り出し、素手で何度も何度も、真琴の両目を優しく拭い続ける。その手の指先が暖かい。恥ずかしいのに顔を背ける事が出来なかった。 「泣きたいのを、無理矢理我慢し続けたツケですよ」  前にも言いましたよ、と、ほんの少し悪戯っぽさが乗った顔が、ほんの小さく笑う。 「大丈夫。誰でも経験する、よくある事です」  具衛は自分の変化に気づいていたようだった。と言う事は、 「他の誰かも、何か——」  知っているのだろうか。この醜態に気づいているのだろうか。それを言いかけて、やはり具衛が遮った。 「あなたと私だけの秘密です」  他の誰も気づいている筈がない、とこれには具衛らしからぬ断定だ。 「あなたの紅涙を見られるのは、傍にいる私だけですから」  こんなのそれこそ勿体なくて他人に見せられるもんですか、と言う具衛が真琴の頭を抱えると、そのまま首筋にくっつけてくれた。 「あなたの涙は、今は私だけの物です」 「じゃあ、将来的には?」  誰かの物にされてしまうのか。ぐずつく声が、鋭敏に反駁する。 「その御慈悲を、他に振り撒くゆとりが出来た時、の話ですよ」 「御慈悲と来たか」 「だから今は、私の物です」 「ずっとあなたの物よ」  それだけは絶対にブレない自信があった。こればかりは公然に示しようがない、それこそ根拠のない自信だ。律の存在にせよ指輪にせよ、結果的に形を成す物はあるが、だからと言ってそれらが絶対を示す事はない。その根拠を補うには、二人の歩みはまだまだ短いのだ。理詰めで生きて来た女が、掛け替えのない存在を説得するに当たり、今は只、理屈ではない本能的な直感にすがる他ない、と言う人生の不思議である。  結局は、いくら何かを飾ったところで、  人は人でしかない——  と言う事を、改めて痛感する真琴だった。  ——あ。  それは去年の今頃、奇しくもこの山小屋の大家である武智の口から耳にしたフレーズだ。勝手に今の心境を予見されていたのではないか、と思った真琴の心臓が一瞬激しく跳ねた。 「——ホント、しばらくはダメ女ね」  盛大な嘆息と共に、ここに至り具衛の行動の一々に合点が行き始める。真琴本人が気づいていなかった変化を、この何処か鷹揚でぼんやりした男はしっかり認識していた、と言う事らしかった。対男に関しては、散々調子に乗っていた人生だっただけに、情けないにも程がある。 「こんな女で、つくづく申し訳ない——」  少しずつ絆されて、素直になりつつあった真琴を、具衛が小さく笑ってみせた。 「何だか武士めいた言い方ですね」 「人が少し素直になったってのに!」  それにまた、ついまた噛みついてしまう。 「その猛々しさ、凛々しさこそがあなたの個性ですから」  こんな女だなんてとんでもないですよ、と言った具衛は、最後にまた殺し文句を決めたものだった。 「どんなあなたも素敵。もう何回言いましたか? 私はその度に痒くなるあなたが、蕁麻疹にでもなるんじゃないかと心配ですよ」  それに小さく噴いた真琴は、具衛の首筋を激しく吸い出した。 「あっ!? ちょっ!?」  具衛が情けない断末魔を吐く中で、しばらく吸い続けて出来上がったのは、色素沈着する程に腫れ上がり、当分は消えそうにない程に鮮明なキスマークだった。 「これでしばらくは私の物ね」 「ずっとあなたの物ですって」  のぼせたらしい具衛が、情けない溜息を吐きながら呆れてみせる。そうは言っても季節は寒くなるばかりだ。傍から見えそうにないそれは、当面迷惑にはなり得ない筈だった。それだけに、真琴的にはまだまだ物足りない。 「これだけじゃ足りないわ」 「十分でしょ?」  まだ何かするつもりですか、と及び腰の具衛に、思わずまた噴いた。 「かすがいが足りないわ」 「子供ですか?」  一瞬で持ち直した真琴の勢いに、一瞬で及び腰になる具衛の様子がまたおかしい。 「一人じゃ足りないの、私は」 「いや、しかし——」 「何? 不満?」 「いや、そうじゃありませんが——」  勝手に盛り上がって来た真琴が、また暴走し始める。一気にその気になったと言うのに、具衛の煮え切らなさがもどかしかった。 「はっきり言いなさいよ。煮え切らないわね」  鼻を啜りながらも顔を起こして、例によってポシェットから取り出したのは、具衛からせしめた件のタオルハンカチだ。まだ、使っていた。意外に持ちが良く、使い勝手が良い分使い込んでいた。色々と思い出深いそれを、手放す気になれないのだ。 「まだそれ使ってるんですか?」 「なけなしの物をふんだくっちゃったから、大事に使ってんのよ」  甲斐性を言ってる訳じゃないから、と一応それなりにフォローを入れる余裕も出て来た。不思議だが、波長が合う。この男とは小競り合いですら、何処か軽妙としたもので、何となく楽しかった。こうやっていつも、気持ちが安らいで行くのだ。だからこそ、  絶対、手放したくない。  その一事に尽きた。そのためには、やはりかすがいだ。 「それなりの年だって事は、自分でも理解してるわ」 「しかし——男は、こう言っては何ですが、精を吐き出すだけで——」  快楽に身を委ねるだけだ、とか。相手は世の男共が目を剥くような美女であればいくらでもつき合う、とか。それで日和るようなヤツは男じゃない、とか何とか。中々生臭い事を吐いてくれる。 「私も、あなたを失いたくはないんです」  無理は絶対にして欲しくないんですよ、と言う最後の一言は、抱きつきたくなる程嬉しかった。が、今は昼間で、一応遠目に人影もある事だ。 「なら、全く問題ないわね」  体調は驚く程良いのだ。律は孝行者で、小さめに産まれて来てくれて、分娩時間も実に三〇分かからなかった。どうやら骨盤の形が良いらしい。鍛え上げた身体の貯筋も健在で、食生活の良さも影響しているようだった。思えば真純の時も超安産だったのだ。律もそうだった、となれば、 「確信したもんだわ」  耳元に顔を寄せ、囁いた流れでその頬に軽く口を這わした。まあ、外の目があっても、これぐらいは許されてもよいだろう。 「何人産むつもりなんですか?」 「男が産まれるまでよ」  そのつもりだった。 「いや、不破家の男は——」 「高坂の女だって、面倒臭いわよ」  結局、そんな話になる。 「大丈夫よ。あなたと私の子だもの」  絶対、大丈夫だ。自信があった。 「何でそんな事、言い切れるんです?」 「幸せだからよ」  結局、そこだ。だから肌艶も最高だし、身体の調子も良い事は最早疑いようがなかった。 「あなたが父親としての、最大の役目を果たし続けてくれればね」 「それはもう——」  とは、言ったものの、具衛はやはり乗りが悪い。 「でも、お産は女性ばかりに負担を強いるので」  男は能なしで、何も出来ない事が不甲斐なくて、と言う具衛は、 「一方の犠牲がもたらす歪んだ幸せ、ではないかと——」  思うんです、と最後は苦しげだった。 「それ、違うわ」  その物憂げな苦しさは、一方で具衛の執着とも言える。その由来が自分である事が、真琴は嬉しくて仕方がない。現世に執着なく、何処となく浮ついた危うさが漂っていた具衛が、苦しげな顔を見せるのは、思えば  初めて——  だった。正確には、インフルエンザで生死を彷徨った時にも、一瞬見たような記憶があったが、その時の自分はそれどころではなかったのだ。が、今はお互い、そんな危機的状況とは無縁である。思えばDNA鑑定の時も、不倫を仮想した時も、具衛はとても切なげだったのだ。  真琴はもう、抑えられなかった。 「あなたも——」  今度は真琴が、その男の頭を胸に抱え込む。自分自身が、この男と現世とのかすがいになっているのであれば、これ程嬉しい事はないではないか。 「十分苦しんでるじゃない」  人に辛い事を押しつけるくらいなら、自分で背負い込む方がすっきりする質の人間なのだ。その男が、現世とのかすがいを失い兼ねないリスクを、かすがいに強いて苦しむのだ。かすがいたる真琴が、もしそれで先立つような事になれば、真琴自身としては確かに寂しいが、絶頂に近い幸せのまま逝くのだからまだましだ。  それが逆だったなら——  残された者の苦しみを受ける事になる。  私はそれには——  耐えられない。  真琴なら、それこそ後追いし兼ねない。それを多少なりとも具衛も感じている、と言う事なのだから、 「お互い大変って事だわ」  歪んだ幸せでは、断じてなかった。 「そうやって、人の親になるの」  命の重みを、文字通り痛感するのだ。それが世の男共と来たら、大抵は人ごとだ。真純の時など、加えて醜聞をぶち撒けられる始末であり、その怒りは言語に絶したものだ。だから具衛のそうした吐露は、余計嬉しかった。 「でも、リスクが大き過ぎます」  胸の中でか細さを漏らす今度のそれは、子供のようだ。その頭に顔を寄せ、髪に鼻を突っ込でみる。真琴が買い求めた米糠のシャンプーを一緒に使っている男の髪は、仄かに懐かしい記憶の中の匂いがした。 「大丈夫。任せて」 「無理は禁物です」  ようやく肯定的な声色が聞こえたかと思うと、 「でも開け放した縁側で、真っ昼間からはまずいでしょう」  服の上からではあるが、胸の谷間を嗅ぐ格好の男の耳が赤くなっていた。スタンダードでもそこそこボリューム感のある真琴の今のそれは、授乳期と言う事もあって、更に二ランクアップしている。 「これは律のよ!」  あなたのじゃないったら、と慌ててその顔を引っぺがすと、具衛も慌てて天井を仰いで鼻を摘んだ。 「は、鼻血が」 「ウソ!?」  具衛が喘ぎながらもティッシュを探す中、真琴は自分の服を確かめる。すると少しだが、セーターの胸の辺りに血のような物が乗っているではないか。 「ちょ、ちょっと、セーターに血がついちゃったじゃない!?」  何勝手に興奮してんのよ! と真琴の言及は容赦ない。 「そりゃ酷ですよ」  バカな男を相手に相変わらず迂闊だ、などと具衛が抗議を口端に込める横で、 「迂闊って何よ迂闊って!? うわっ!? 早く取らないと」  染みになっちゃうわ、と真琴が慌てて立ち上がった。その真琴と入れ替わりで、今度は仰向けに転がり込んだ具衛が鼻を啜り始める。  お互いにしばらく「あー」だの「うー」だの母音を連発した後、縁側に戻った真琴が正座するその膝に、嫌がる具衛の頭を無理矢理乗せた。 「これじゃ止まるもんも止まりませんよ」 「うるさい。しばらく上向いてなさい」  顔を背ける具衛のその両頬を、無遠慮に両手で挟んで真上に向けさせる。 「また変な所に鼻血をつけられたら敵わないわ」  相変わらずウブねえ、と嘯きながらも、そうした生真面目さといざと言う時の腹の据わり方のギャップが愛おしかった。 「前もこんな事したわね」  おたふく風邪の病み上がりで、ここに立ち寄った時だ。よく覚えている。思えば自分はあの頃から明白に、今の状況をイメージして動き出していたのかも知れなかった。殆ど女を捨てていた筈の自分が、将来の出産不安を語るなど、あの時点にして既に自分の中では有り得ない事の連発だったのだ。  やっぱり—— 「至上だと思わない?」  今の状況、と真琴が子供染みた動揺を見せる男のその顔を、上から覗き込むと、 「だからこんなもんで——」  それでも強がる具衛に、堪え切れず上から噴き出した。 「それにしては、鼻血出してるじゃないの」  本当に、この可愛らしさは罪だ。こんな惚気た事を、  いつまで——  出来るだろう。いつまでこの男は、つき合ってくれるだろう。またぼんやり怪しくなり始めた真琴が、暗くなりそうになる中、尻に触れる何かがあった。 「いくら欧米でも、真っ昼間の公然じゃ尻は触らないわよ」 「遠退きそうになったら、私が引き戻しますから」  気を引くために、あえてそうしたようだ。 「は?」 「こう言うのは、得意じゃないんですが——」  恥ずかしいので、と言って起き上がった具衛は、 「それでも実は、常に触れ合っていたい、とも思ってたりするんです」  と、回りくどい口調で今度は背中を摩り始めた。 「これなら、真っ昼間でも受け入れて貰えそう、ですか?」 「——そうね」  しばらく摩られると、また落ち着く。セーターを脱いで、代わりに薄手のダウンを羽織っており、その手の温もりなど感じない筈なのに、その手が熱いくらいだった。  その具衛がしばらく後、思い立ったように 「本当は、口止めされてたんですが——」  二人の間で灯されている蝋燭に目を落としながらも、何やら重い口を開き始める。 「これを贈られた時、」  それは、母からアロマキャンドルを贈られた時の事、のようだった。 「育て方を誤った事を悔やんでおいででした。許せとは言わない。只、辛い思いをさせてしまった事を詫びたいが、中々面と向かって言えない、と」  だから私は「僭越ながらも文字にして送れば良いのでは」と、アドバイスしたと言う具衛によると、やはり母の中では、その折り合いがつかないらしい。 「あ、そう」  表向きは鼻を鳴らして突っ張ってみせたが、その実でそんな雰囲気を母が持っている事に、何となく気づいていた真琴である。父は既に高坂重工の会長職を辞しており、宗家の方も兄利春に継がせた。今は、宗家の離れで完全に隠居の身であり、ストレスのない余生を楽しんでいる。それに合わせて母もすっかり毒気が抜けて温顔が板につき始めた、とは父のメールだった。夫婦二人で、毎日娘たる自分にメールを送っていると、よくその娘の話をするようになったらしい。それまでは、全く話題に上がらなかったのが、 "具衛さんのお陰だ"  と、父は明らかに感謝を示していた。  その一方で母は、嫌味こそ吐かなくなったものの、やはりメールの内容は全く遊び心がなく、必要最低限で素気ない。  それでも——  その行間から伝わって来る柔らかさは、母の中にある何かしらの照れを感じはしていた。 「口止めされてるのに、言っちゃってよかったのかしら?」  母は怖いわよー、と脅してみると、具衛はあっさり言う。 「だって、死ぬまでに言えなかった時のための保険にされたんですよ?」  冗談じゃないです、と苦笑いしてみせた。 「そんな借金の担保みたいなの。もう貸し借り事は懲り懲りですから」  と言われてしまうと、 「そうでしょうね」  真琴も笑うしかなかった。あの母ですら、そんな世迷言を吐いてしまう。具衛はつくづく不思議な男だ。その理由を本人が口にするならば、 「詐欺師ですから」  と言う事になるのだろうが、要するところ見た目の整った印象と、それに裏づけられた実直にして熟れた振舞。そしていざとなると頼もしい男。そうした雰囲気によるものなのだろう。かく言う自分も、それにあっさり陥落した身だ。 「許否の別はともかく、お義母さんの謝罪を、面と向かって聞く度胸がありますか?」  具衛は相変わらずぼんやりしていて、鷹揚に言ったものだった。が、唐突なその問いかけは、明らかに挑発めいている。穏やかながらも、何らかの意思を含んだ、言うなれば喧嘩腰の具衛に真琴が触れたのは初めてだった。常のチグハグなギャップの中に、瞬間で太々しさを直感した真琴のその声が、 「度胸って——」  正直に揺れて途切れる。 「何で、それを今更私が聞かされないといけない訳?」  死ぬ前の罪滅ぼしのつもりか。今更後悔の念に耐え切れなくなって楽になりたくなったのか。例によって急上昇で沸騰し始める真琴に、 「では、それがかすがい計画の条件だとしたら?」  冷や水を浴びせるのは、やはり具衛だった。それにしても、迷いのないこの口振りはどうした事か。 「何か小細工でもしたの?」  と言う事なのだろう。色々と面倒事に首を突っ込んで来たこの男の事だ。が、具衛はやはり呆気らかんとしたものだった。 「それは史上の謀略家たちが好んだ手管ですね」  腕力頼みの私には無縁で忌むべき所業です、と言っては、 「嫁入り前の挨拶もろくにしないあなたに代わって、ご両親に挨拶をしただけですよ」  やはり不敵な言葉で、真琴の神経を逆撫でする。 「ふん」  とりあえず、鼻で捨て置いた。そうでもしないと、それを受け入れた事になってしまう。それは自分の中では、まだまだ程遠い領域の事だった。  確かに入籍の時も、挙式の時も、面と向かって両親とは言葉を交わさなかった真琴である。相変わらず、毎日一通メールのやり取りをしてはいるが、それだけだ。メールの内容は挨拶程度のもので、辛うじて具衛が決めた約束を履行しているに過ぎない。 「相変わらず、お節介が過ぎるわね」 「許せなくても、感謝は出来る」  軽くスルーしてみせた具衛が、 「そのままお伝えしときましたから」 「なっ!?」  言ったそれは、二人で具衛の家族に挨拶に行った時、真琴が言ったそれだった。まさかそれを 「何勝手な事言ってんのよっ!?」  二人の秘事を暴露されたかのようで恥ずかしさが込み上げる。それをあの親に伝えられる事は、殆ど痛恨事だった。それでは自分が歩み寄ろうとしているみたいではないか。 「感謝するって事は、許したも同じですよ」 「私の中では違うのよ!」 「別に、急に仲良しになれと言ってる訳じゃありませんよ」  むしろそうした親子関係はあなた方では有り得ないでしょう、と具衛はしたり顔だ。勿論、そんな事は耐え難い。 「当たり前でしょ!」  あんな女なんかと。そんな友達めいた仲良しクラブを想像するだに、身の毛がよだつ真琴だ。 「あなたももう分かってる筈です」  深い愛情故の突き放しであり、我が娘を思うが故の屹立であった事を。ご両親、特にお義母さんはあなたに似て真っ直ぐで不器用ですから、と言う具衛に、 「さっきから、何訳の分からない事言ってんの!?」  腑が煮え、思わず笑ってしまう真琴だった。その横で具衛が、何処からともなく差し出したのは、一枚の写真である。 「何よっ!?」 「お義父さんから預かりました」  今度返さないといけないので破ったらダメですよ、と言うその写真はやや色褪せており、随分と古い物のようだった。セピア感が強いその中で写っているのは、若かりし頃の両親である。今では鬼婆でしかない母も、随分と穏やかな顔をして写っている。認めたくはないが、何処となく今の自分と似ていた。忌々しいにも程があるその女は、白い患者服のような物を着て、病院のベッド上のようだ。その傍にいる頑固な顰めっ面しか記憶にない筈の父が、これまた満面の笑みではないか。そんな両親に見守られて、母の腕に然も大事そうに抱えられているのは、生後間もない自分だった。まだ肉がついておらずシャープな面立ちは、まるで早熟の片鱗が早くも現れているかのようだ。この写真を見るのも初めてなら、当然この記憶が残っている訳もなく。加えてその赤ん坊に向けられる慈愛に満ちた両親の顔も、まるで見覚えがなかった。 「生後三日目だそうです」 「私はこんなの認めない!」  寄ってたかって何だと言うのか。今更、こんな事をして何になると言うのか。 「律を気遣っての事です」 「は!?」 「同じ思いを、私達親子でして欲しくない、と言う気遣いですよ」  それはまさに、自分達は実は深い慈愛を持っていたのだ、と言わんばかりの後出しだ。 「どの面下げて!」  それを口にするのか。  家柄故に甘えが許されない事は理解していた。その家の女の身であるが故に、良家の令嬢たる振舞が必要である事も。強過ぎる母が、その身代わりとして邪な何かを仕掛けられる恐れのある自分を強く育てようとしていた事も知っていた。戦前後を生き抜き、前世代型の男社会のど真ん中へ女だてらに飛び込み、己が正義に突き進むその裏で、女性参画の先鋒となり後に続く女達を導き続けて来た母。昔気質で男以上に男勝りであるが故に、愛情の伝え方が下手クソな母の、見えにくいそれをいつしか勝手にない物と思い込み、それに蓋をして拒否するようになったバカな娘。代わりに対抗心を燃やすようになったその娘のやって来た事など所詮母の真似事に過ぎず、それどころかその足元にも及ばなかった。そのくせピンチに陥りそうになると、愚かな娘に大過が及ばぬよう、それとなく娘の矜持に配慮して分からぬように手を差し伸べ続けてくれた母。 「よくある親子故の擦れ違いです。そんな一面まで、後の世代に引き継いで欲しくはない、と」  切に願っておられました、と言う具衛は、 「この機会が、最初で最後かも知れません」  これを逃したら話題にする事すら難しい、と神妙な面持ちだった。 「やり直せます。親子関係に遅過ぎる事はない。例えそれが死ぬ直前でも。それなら少しでも早い方が良いに決まってる」 「う、うるさい!」 「あなた方はまだやり直せる関係なんです。格好の機会が得られた今、それに尻込みするのは、それに怯む愚か者だけです」 「黙れ!」  勝手な事をするな! と瞬く間に余裕がなくなった真琴の容赦ない舌鋒を、この時の具衛は 「そうは行きません」  とことん覆すのだった。 「もう人ごとじゃない」  あなたの事も、律の事も、あなたに纏わる事は全てもう私の事。と語る具衛。 「あなたはもう逃げ回らず、ちゃんと向き合える人の筈です」  その静かながらも思いがけない言い切りと、 「な、何を——」 「ね、真琴さん」  まるで子供に言い聞かせるような呼名と共に向けられた眼差しは、幼児を叱る親の如く少しわざとらしい怒気を伴っている。一見すると、何て事ない穏やかな説教なのだが、常にない訓戒に怯んだ真琴が、 「——クソ」  また静か泣き出した。まさか、普段拙い言葉しか持ち合わせないこの男に、子供染みた説教で自分の黒歴史の最も深い部分を突かれるとは。その妙な迫力に押されて泣き出すなど、これでは自分が日頃忌々しく思っている、か弱さを逆手に泣き落としをする小狡い性悪女のようではないか。その悔しさが、更に涙を誘った。 「すみません」  そんなに怒ったつもりはなかったんですが、と、そんな女を目の前にした男の反応としては、至極全うな慌て方をした具衛が、すぐにまた常の穏やかさで真琴の背中を摩り始める。 「触るな!」  それを拒否した真琴がその手を払い退けたが、具衛は諦めず何度も手を差し伸べ続けた。結局、諦めた真琴がその手を許す格好になる。 「アンタなんか!」  右手で泣き顔を覆い隠しながら、左手で具衛の何処かを叩くその手が、小さい子供の駄々捏ねのように、拙く弱々しい。 「すみません」  顔や身体を力なく叩かれながらも、それを避ける事なくされるがまま。それでも優しく背中を摩り続けるこの男が、真琴に対して穏やかといえども怒ってみせたのは、後にも先にもこれが最初で最後だった。  同週末。一一月第四週の広島市内某所。  真琴は具衛を率いてその故郷を案内させていた。広島観光を今日で打ち切り、明日は実家に帰らされるためだ。  公共交通機関を乗り継ぎ約二時間。やって来たのは、真琴が約一年半前の春、初めての広島で、何時間もかけてタクシーで通過した因縁の山奥だった。 「ここも広島市、なの?」 「ええ、一応」  広島市の東西は幅広でして、と言うそこは、具衛が春先まで暮らしていた山小屋周辺よりはそれでも季節が少し遅く、周囲の山々の色づきは今一つだ。 「しかし、こんな所にわざわざ新婚旅行で来るなんて——」  ホント物好きだなぁ、と具衛が口にした通り、辺りは何もなかった。JRの駅を降りて思ったのは、一年半前の初見同様、相変わらずの寂しさだ。狭隘な山中は圧迫感があり、幹線道路の他は狭い土地を河川や宅地、農地が奪い合っている。その中に猫の額程の土着の商工業者の営みがある他は、本当に何もなかった。駅前に一件、どうにかコンビニがあった程度だ。 「うるさい。いいから案内なさい」  自分だけ黒歴史をほじくり返されるのは面白くない。それなら具衛のそれも確かめてやろう、と思い立った結果が今の状況だ。この旅行中に実家に立ち寄る羽目になった真琴の、せめてもの一矢だった。  どの道、無理矢理旅行先を変更してしまい、挙式以外の予定など頭になかったのだ。それに良かれと思いやった事とは言え、具衛を騙した事に変わりない。具衛は気にしていないとは言え、やはり後味は悪かった。加えて具衛は、以後一言もそれを言及しないのだ。それが真琴の自責の念を増幅させ、結果的に譲歩する事になった。具衛がそこまで読んでいたとは考え難かったが、最終的には具衛の思惑通りになった、と言う訳だ。  で、それならその前に具衛の黒歴史を、と思い立ったのだが。  ——何もない。  案内先のリクエストは、通った小中高校と育った家だ。まず、約二〇分かけてのらくらとやって来た所は、道路外れで農地が混在する宅地内の、ボロボロになった空きアパートだった。 「ここ?」  二階建て六部屋の敷地は雑草塗れ。階段はローピングされており上がれないようだ。 「流石に取り壊し寸前ですね」  当時から地震がくれば倒れそうだった、とか。その具衛の目が、二階の端部屋に行く。 「階段上がってすぐの部屋に住んでました」  ほら、行きましょう。今地震が来たら巻き込まれますよ、と素気ない。  今日は朝方までの降雨で、生憎の曇天だ。が、それ以上に気乗りしない具衛だった。それでも抱っこ紐で律を抱えたまま、疲れた様子も見せずてきぱき歩を進め、続け様に小中学校を片づける。山川に挟まれたそこは隣同士で、然程大きくなかった。 「小学校は一学年三クラス。全児童数は約七〇〇人。中学校は一学年五クラス。全生徒数は約六〇〇人弱でした」  建物は昔と変わっていないようだが、 「少子化で、生徒も減ったんじゃないかと」 「懐かしい?」 「いえ」  と、これまた素気ない。 「後は高校ですが——」  数km先の山中らしく、流石に歩くには遠い。具衛は小中学校前のバス停で、時刻表を確かめた。約三〇分待ちだそうだ。 「タクシーにしますか?」 「いや、いい。待つ間に小中学校の事でも聞くわ」  屋根つきバス停のベンチに座った二人は、ぼんやり学校を眺めながらバスを待った。具衛の思い出話は、やはり冴えない。この辺の子達は皆、エスカレーターで中学までは同じ顔を突き合わす。高校は、優等生なら市内中心部の進学校、その他多数はこれから向かう山中にある住宅団地内の、在り来りの県立高に通うらしかった。具衛の説明はそれだけだ。 「それだけ?」 「ええ」  義務教育は、貧乏由来の中傷が原因で半分も通っておらず、代わりに図書館に入り浸っていたらしい。 「じゃあその図書館は何処?」 「もうありません」  昨夜調査済みだそうだ。元住居のアパートの近くに今でも役所の支所があるそうだが、当時はその中に市立図書館の分室があったらしい。が、具衛が渡仏後、利用者減少に伴い、マイクロバスの移動図書館に替わったらしかった。 「そう」  何処もかしこも、まるで具衛の黒歴史を拭い去るかのようだ。 「『天地は万物の逆旅にして』か」 「『別に天地の人間に非ざる有り』ですよ」  何れも唐の詩聖李白の一文だ。 「つまらない」 「良い塩梅ですよ、全く」  人間様が何者ぞ、などと穏やかな中にも悪びれる具衛が 「消えてしまえばいいんです」  珍しく鼻息を荒くした。 「自分だけ都合良く消さないでよ」  確かに天地は旅人がすぐに旅立つ宿屋の如く、移ろいやすく儚い。只でさえ、この世に執着が乏しい具衛が「俗世間と異なる別天地がある」などと口にすると、放っておいたらそのまま仙人にでもなりそうで。 「冗談に聞こえないんだけど」 「そりゃあ、修行の成果ですね」  そんな具衛は飄々と、カラカラ笑っては嘯いた。  ——クソ。  黒歴史を覗く方が動揺してどうするのか。思わぬ藪蛇の中、何処か冷めている具衛が小憎らしい。  そうこうしているとバスがやって来て、それに揺られる事二〇分。着いた先は、まさに山の上の団地にある高校だった。着くなり具衛の顔が明らかに歪む。 「もう昼ですし、近くの店で何か食べますか」 「校内でいいわよ」 「まともに食える物があるかどうか」 「いいから。入るわよ」  お日様も出て来た事だし、とサングラスをかける真琴は興味津々である。偶然にも、文化祭中だったのだ。 「仮にも受験間際のシーズンに——」  文化祭をやるような高校ですよ、などと否定的な具衛を差し置き、真琴はその他の来場者と共に臆する事なく校門を潜る。 「理解出来ない人の事を愚か者とみなしてしまう事が、人間にはよくある」  形勢逆転、である。 「こんな山の高校の文化祭なんて——」 「全ての文化は意識の拡大に他ならない」 「うぅ——」  真琴の勧めで、児童書と共に名言集でも独伊語習得に励んでいる具衛が 「——ユング、ですか」  口惜しそうに呟いた人物は、一家の現在留地スイスが誇る心理学の巨匠カール・グスタフ・ユングである。 「Probleme, mit denen Sie nicht konfrontiert sind, werden sich schließlich als Schicksal treffen.」  真琴が止めの名言を独語で誦じると 「それはあなたの事でしょう?」  具衛があっさり返した。真琴による指南開始から約半年。「耳」はもう殆ど問題ない具衛である。 「リスニングは良さそうね」  言いながらも、二の足を踏んで中に入りたがらない具衛の腕を、素早く背後に回り込んで決めると 「あたたたたっ」  決められた男がつんのめりながらも、律を落とさないように渋々歩を進め始めた。 「私にとって、里はもう運命じゃありませんよ」  もう清算済みです、と口を尖らせる具衛に 「私にとっては運命なのよ」  真琴が容赦なく上から被せる。 「あなたが向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会う事になる」と言うその和訳は、確かに具衛には当てはまらなかった。悔しいがこの男は、浮ついた見た目に似合わず、忌まわしき故郷の業と向き合い清算しているのだ。その出自の実相を知りたいと思っていた真琴である。何が出て来ても多少の動揺こそすれ、受け止め切る自信はあった。  逃げられないためにも——  この男の全てに触れたい。こんな辺境など、今後中々来れないのだ。 「ホント、物好きですねぇ」 「うるさい」  いいから案内なさい。真琴は具衛を適当に校内に押し込むと、具衛から律をむしり取り、案内に専念させ始めた。 「学生以外にも、一般の人達が多いようだけど?」  娯楽の少ない山間地域のイベントと言う構図は山小屋周辺に限らず、具衛の故郷でも変わらなかったようだ。週末休みではあるが、制服以外の服を着た若者や大人の姿も多い。 「生徒数はどのくらいなの?」 「私がいた頃は、一〇〇〇弱はいましたよ、確か」 「この山の中にしては多いわね」 「近隣の郊外団地に住むぼんくら共の受け皿は、今もここしかないようですね」  とは言ったものの、流石に生徒数は減少傾向のようで、校内は空き教室がちらほら散見された。そこを利用して、同窓会めいたものが開かれている。 「そろそろ授乳の時間だけど」  フラフラ校内を回っていると、ちょうど保健室が見えて来た。 「あそこで掛け合ってみるか」 「何か楽しそうですね」 「私もこう言うの初めてだし」  いきなり弁護士になったり大学院に入ったりで、高校に無縁だった真琴だ。自然、興味が湧いた。  具衛に門番を頼み、律を抱えて保健室に入ると、五〇代の女性教諭らしき人物と二、三人の女子生徒が一人を囲み、賑わいながら処置を行っていた。授乳したい旨を伝えると快く受け入れてくれ、あっと言う間に女子の黄色い声に囲まれる。 「みてみて! この子チョーかわいーんだけど!」 「女の子? 女の子ですよね?」 「何ヶ月ですか? わぁ目がぱっちり二重!」 「こら! あなた達! 騒がない! 赤ちゃんがびっくりするでしょ! ごめんなさいねぇ、賑やかな子達で」  その賑やかさは真琴が嫌う物だったが、律が褒められるのは掛け値なく嬉しい。しばらく授乳させて貰い廊下に出ると、具衛の方も何人かの男子生徒に囲まれて、軽い口論をしていた。中に入れろ入れないで揉めているらしい。  髪を染め、制服のシャツを出し、ズボンを下げ、ピアスに指輪。一見して一昔前で言うところの不良グループのようだったが、自由だ権利だのと取ってつけたような主張をしている。年端も行かないその無謀な若者達を前に、苦笑しながらも学生目線で対等であろうとする具衛がもどかしかったが、らしいと言えばらしかった。  保健室から出るなり、せっかちな真琴が瞬間で限界に達すると、 「Qu'est-ce qui se passe?(どうしたの?)」  流暢な仏語で語りかけながら、涼しげに割って入る。 「授乳中って言っても理解して貰えなくて。ぼんくら高校の生徒ですから」 「中にいた女の子達は、理解があったけど?」 「野郎は幼稚ですから」 「投げ飛ばしちゃえば良かったのに」 「流石にそうも行かないでしょ」  勿論、仏語のやり取りだが、気がつくと四、五人の悪ガキ共が、それだけで気圧されている。堂々たる真琴の形と、流暢な仏語に驚いたのだろう。 「Das kannst du auch?(もう終わり?)」  独語で呼びかけるも、当然返答はない。只でも異邦人が珍しい田舎の事である。仏語や独語はおろか、まともな英語を話すような人間すらいないのだ。それを堂々たる美人が捲し立てれば、田舎の垢抜けない不良などはイチコロだった。 「Andiamo.(行きましょ)」 「Si.(はい)」  最後は伊語で、呆気に取られる男子達を押し退けまかり通った。その場を離れながら、 「これ、楽しいかも。あなたのレッスンにもなるし」  日本語で真琴が嘯く。 「決めたわ。私、今日はもう日本語使わないから」  何かあったら通訳お願いね、と言う真琴には一つの確証があった。気乗りしないだけならまだしも、何処か気後れしている様子は具衛らしくない。つまり、 「あなた、同級生に出会したくないんでしょ」 「ええ」  分かってるんならもう出ましょうよ、と言う事だったのだ。山小屋周辺よりは大きい地域のようだが、やはりそこは山間の狭いコミュニティだ。空き教室の同窓会が散見されており、黒歴史を持つ具衛はそれだけで嫌なのだろう。 「そのサングラス貸して貰えません?」 「いいけど、余計目立つわよ?」 「マスク買っとくんだったなぁ」 「まあいいから。任せときなさいよ」  校内に入ってからと言うもの、真琴に対する視線の多さは相変わらずなのだ。それならそれを使わない手はなかった。ルッキズムの煩わしさを逆手に取る絶好の機会だ。 「あなたの過去を上書きしてやるわ」 「はあ」  しかしてその後は、真琴の思惑通りになった。例によって屋台でB級グルメを食い漁る真琴は、具衛を引き連れ様々な店を訪ねてはその羨望を集めた。 「みんな見てますよ」 「分かってるわよ」  ほぼ仏語の具衛に対し、真琴はスイス公用語を気紛れで使い分けている。一見して日本人の二人が日本語以外で話している姿は、それだけで浮いていた。その上で、真琴の見映えだ。今日はデニムパンツにロングコートと言う、何の飾り気もない普段着だが、それでも周囲の視線を根こそぎ掻っ攫っていた。そんな女が生後間もないながらも、既に美人の片鱗を覗かせ始めている律を抱えて、泰然とウロついているのだ。 「場違いだと思うけどなぁ」 「だからいいんじゃないの」  女が赤ん坊を抱えていれば、傍にいる男は普通考えて夫である。世の男共にしてみれば、それだけで夫のステータスと見るだろう。 「子供の頃の屈辱を、精々返しなさいな」  近寄って来る人間は皆無だったが、周囲で耳打つ姿は相次いでいた。中には具衛を知る手合いもいるだろう。好奇の視線の中に蔑視がある事を真琴は見逃さない。 「もう、出ましょうよ」 「まだまだ」 「頑固だなぁ」  過去の事だろうと夫がバカにされたまま、と言うのは許せないのだ。だから、精々自分が際立てば良い。わざと大声で話して、具衛に通訳させる。田舎を蔑む訳ではないが、外国人がいない山間の事ならば、それだけで具衛のステータスは上ろうものだ。蔑視の目はそんな具衛の過去を論っているのだろう。精々、過去にしがみついて  ——卑屈になるがいいわ。  子供の頃の具衛を、真琴は詳しく知らない。が、真琴が知る具衛は、照れ隠しで詐欺師呼ばわりしないと困るような意外性で、一々驚かされて来た男なのだ。 「何か事件でも起きればいいのにねぇ」 「何言ってんですか」  それじゃ平和な日本に来た意味がないですよ、と苦笑いした具衛に、この男の価値をまた再認識させられた。自分のように無闇に争わない。飄々とした善性を持つ至高の地味男。だから当然、 「それじゃあやり返した事にならないでしょうが!」  勝気な真琴は収まらない。 「だからもういいんですって!」 「私はよくないのよ!」  気がついたら周りに構わず、仏独伊語で言い争いをしている。 「——あ」 「これだけ注目されれば、もう充分でしょう?」  その後の具衛の一言で、真琴はとりあえず引き下がらざるを得なかった。 「私は何と思われても、二人がいればいいんですよ」 「だからそれじゃあ——」 「もう過去に費やす時間は終わったんです」   それを言われてしまうと、ぐうの音も出なくなる。 「これからは、先の人生に向き合いたいんです」  まあ——  そうだろう。自他共に、過去を変える事など出来ないのだ。だからこそ、現在でやり返そうとしたのだが。 「とりあえず、一休みしません?」  会場の混雑の中で視線が集中している。 「クソ——」  具衛に背中を押されるままに、人の流れが閑散な校舎とグラウンドの間へ逃れた。石のベンチを見つけると、具衛がポケットからタオルハンカチを取り出して、真琴が座る辺りにそれを敷く。デニムのズボンだから別に構わないのだが、 「——ありがと」  少しばつが悪くとも、とりあえずその気持ちが嬉しかった。 「いえ」  結婚すれば緊張感が失われ弛緩しがちな夫婦間で、いつまで経ってもさり気なくこんな事が出来る男だ。 「つまんない」  その暖かさに、黒歴史をほじくり返す気が削がれる。そのせいで気がつくと、代理で復讐めいた事をし始めている自分がいた。この男のアイデンティティーをバカにすると言う事は、  一家をバカにするも同じだ!  やはり、許せない。悔しい。 「なら帰りましょうよ」 「うるさい」  密かに向けられる蔑視に敵意をたぎらせる真琴が、食後のげっぷを吐くように思う様日本語以外で毒を吐いては、具衛がそれを中和する事をしばらく。二人の目の前を、 「おがぁーさーん」  わんわん泣き叫ぶ女児が通りがかった。五、六歳の可愛らしい子が、目に鼻にぐずぐずだ。 「迷子さん?」 「真琴さん、ハンカチいいですか?」  具衛のハンカチは、今は自分の尻の下である。 「はい」  代わりにバッグからいつも使っている件のハンカチを手渡した。それを手にした具衛が早速、女児を引き止め優しくあやし始める。激しくえずいているが、特に異常はなさそうだ。具衛の呼びかけで少し安心したようであり、流石は安定感抜群の詐欺師としたものだった。 「ついさっきまで一緒だったようですよ」  子供目線までしゃがみ込み、丁寧に接する姿は、まさに具衛のイメージそのものだ。その暖かさが一々染みる。 「じゃあ近くにいるかもね」  今頃、探しているだろう。 「どうしよ?」 「生徒会が本部を構えてるでしょうから」  そこへ連れて行って、放送で呼び出して貰う事にした。  具衛の手を躊躇なく握る女児の拙い足取りに、つい少し嫉妬する真琴だが、その優しさが板についている具衛が誇らしくもある。律の手を引く姿を想像すると、早くも待ち遠しかった。  で、何棟かある校舎と校舎の間にある中庭の本部テントを訪ねると、 「あれぇ、お姉さん!」  先程の保健室三人娘がいるではないか。生徒会の執行部員らしかった。 「迷子さんですか?」  早速、その内の一人が聞き取りを始めようとすると、具衛が如才なく確認済みの事実を伝達する。 「ちょっとそこの店に行って来ます」 「店?」  かと思うと、目の前の何かの屋台へ飛んで行ってしまった。お面や風車などの定番物から、様々な小物やアクセサリーが陳列されている。グッズ屋のようだった。 「最近の流行は分からなくて——」  と、オジン臭い事を吐きながらも、早速買って来たのはキャラクター物の 「鈴?」  らしい。ちりんちりん、と猫の鈴のようだが、それは余りにもストレート過ぎないか。その懸念を 「防犯ブザーつきです」  具衛が解消した。それを真琴に手渡すと、 「つけてあげてください」  と小さく笑む。女児が着ているワンピースのウエストにベルトループがあるのだが、それに触れる事を恐れたらしい。 「うん」  流行は分からなくても、世のセンシティブ指向に敏感なところなどは流石だ。こうした対応に全く心配がいらない、熟れた男だ。  言われた通り鈴をつけていると、放送を聞きつけた母親が駆け込んで来た。年の頃はアラサーで、身形も言動も常識的な母親だ。少し目を潤ませており、殊勝げに具衛や真琴を始め生徒会の面々にも何度も頭を下げている。 「もうはぐれないからね」  お母さんが鈴の音を聞いてくれるよー、とすっかり幼児言葉に慣れた真琴が視線を感じる。確かめると、具衛の顔が緩んでいた。 「な、何その顔は?」 「え? あ、すいません」  全く、などと軽く悪態をつきながら、 「こう言う変なおじちゃんがいたら、これを引っ張るんだよー」  具衛をネタに早速つけてやった鈴のブザーの使い方を教えてやる。それを母親がひどく恐縮して、鈴のお金やお礼を払おうとするのを諦めさせるのが中々骨折りだった。 「何か、いい事しちゃった気分」 「ハンカチ、良かったんですか?」  ぐずぐずになったそれは、そのまま女児の手に握らせたまま、母子と別れた。 「うん」  今、必要な人に使って貰う方が物も喜ぶだろう。他ならぬ以前の具衛も、そうして泣き虫の自分にそれを差し出したのだろう事を思うと、もう惜しくなかった。 「また買って貰うから」  私にはもう、それは必要ない。 「——分かりました」  この男がいる限り、想いはいくらでも補える。この男を失わない限り、想いは尽きる事がない。大丈夫だ。 「じゃあ、次に行こ——」  と、言っていると、横で具衛が別の男児に捕まっていた。 「どうしたの?」 「指輪を拾ったらしいです」  見ると、二から四mm大のダイヤが一〇個前後埋め込まれた、幅広で存在感のある物だ。 「結婚指輪、じゃないかしら?」 「やっぱり、そうですか」  内側を見るとPt九九九の刻印。居並ぶダイヤは〇.二カラット前後。一般的な感覚ではそれなりの物だろう。飾りに無頓着な具衛がそれと気づいたのは、恐らく日付の刻印だ。指輪の場合、大抵それは結婚記念日である。 「結構な価値よ、これ。一般的には」  九九九は千分率の割合であり、つまりは純度一〇〇%の純プラチナだ。それは希少価値が高く、金同様に資産として保有する向きもある一方で、ジュエリーには向かない。柔らかく傷つきやすいのだ。 「確かに、偉く主張してますもんね」  素人の具衛が見てもそれなりに見えるのだ。それを無造作に、小学校低学年と思しき男児が持って来た。両親と共に来ているそうで親から届出を任されて一人で来た、と言う。総じて、  これは——  いい加減に扱えない。 「気をつけた方がいいわよ」 「——やっぱりですか」  少し諦め気味に吐いた具衛に、真琴は小さく噴き出した。その注告すら必要なかったようだ。二年前まで「現役」だった男である。真琴はそれ以上何も言わなかった。  拾得物の取扱いは遺失物法を根拠に頼むが、法令に則り取扱われている施設や機関は、警察を除くと実は極少だったりする。余程しっかりした警備会社が常駐しているか、取扱いに熟達した公共交通機関でない限り、まずまともではない現実がある。それは悲しい事に、学校や役所などの公的施設でも例外ではなかったりするものだ。  身近に取扱う事が多いのに、意外に法に則った対応がされていない。悪い言い方をすれば、適当に扱われている。拾得物に対する世の認識の低さである。もっとも「落とし物が然るべき者に届けられる」と言う感覚は、世界広しといえども日本をおいて他に類がないのだが。  問題は、届出を受けた側の対応であり、 「確かにこれは、後で揉めそうだなぁ」  と、具衛が呆れる程に、意外にも適当だったりするものなのだった。 「ホントはもうこんな事からは解放された身で——」  やる義務もないのに、と途端に愚痴を漏らし始める具衛だが、そのくせ生徒会の面々に、校内における拾得物の取扱い方を確認するそのギャップが一々おかしい。何かにつけて格差を伴うのは具衛の癖と言うか、最早宿命めいていた。 「いいから。手伝ってあげなさいよ」  そうは言っても母校の事でしょ、と真琴がやりやすいように切り捨てると、それに生徒会の面々が 「卒業生ですか?」  などと食いついて来る。 「いや、卒業はしてないんだけど。まぁ、母校? かなぁ。中退だし」  律儀な具衛が、臆面もなくそれを明かすと、そこかしこから 「見えない」 「もっと賢そう」  と言う声が噴出して、真琴を満足させた。 「ほら。褒められたからには、ちゃんとしたげなさいよ」 「もう日本語解禁なんですか?」 「こっちの方が面白そうだからもういいわ」  そう言った真琴は、 「私もちょっと前の店に行って来るから」  と、具衛が先程鈴を買った店に逃げる。すぐにイベント事でよく見かける襷を見つけた。それを買って戻り、早速 「はい。『よくできたで賞』」  もうちょっと待っててね、と襷にあるフレーズを読み上げながらそれを男児にかけてやる。 「で、どう? まだかかるの?」 「昔、よくそんな事を怒鳴られては書類作ったもんですよ」 「早くしろ!」とは、とにかく何かにつけて時間に追われる末端の司法官憲が、上役に浴びせられる常套句の筆頭、らしい。 「言うくせに、誰も手伝ってくれないんです」  と嘆息する具衛に、真琴はまた噴き出した。 「まあ、それはいいとして——」  これ懐かしいんじゃないの、と男児にかけてやったばかりの襷を整えてやりながら目配せする。 「『向こう』の儀礼でつけたんじゃないの? サッシュ」 「まあ——」  相変わらず良く知ってるなぁ、と具衛が呆れながらも、 「——『そう』ですね」  そのフレーズを確かめると、手でOKサインを作った。  主に儀礼的な場面で身体に着用するリボンや帯の一種である「サッシュ」は、パーティーグッズの襷の起源である。大抵、貴族や軍人による「襷がけ」の使用が連想されるが、具衛が過去に属した仏外人部隊員は、パレードなどでそれを 「腰に巻くんですよ」  と言う伝統があった。  そう言いながら、もう一度OKサインを出す。つまりは「男児からの聴取内容に不審点はない」と言う事らしかった。日本ではそのままOKを意味するそのサインは、仏では「ゼロ」を意味する。ジェスチャー一つ取っても、他国では意味がまるで違うものだ。この場合の具衛は、日仏両方の意味で使ったのだろう。それが分かる二人である。  早くもその感触を得たらしい具衛は、 「拾得届もないなんて」  などと嘆きながらも、生徒にテント内の端末でその様式の検索させ、良さそうな物を見つけると印字させた。どうやらこの高校も、満足な書類すら整えておらず、適当に預かっているだけと言う、よくあるやり方だったようだ。 「県立高校なのに」  一応、公的機関なのだ。  百歩譲って価値の低い物はそれで良いとして、では高価な物の場合はどうなるか。 「落とし主を騙った盗人がそれを騙し取ったり、拾った者が法外な褒美を請求して揉めたり——」  と、具衛がてきぱき処理を進めながらも、生徒会の面々に説明する通りの展開となるのだ。きちんと見定め記録化し、適切に保管しなくては、下手をすると盗難や横領などの刑事事件や、報労金や所有権を巡った民事訴訟にまで発展する。それが拾得物の怖さなのだ。  しかも今回は、拾得者の背後に保護者が控えている。拾得物に価値がある物ならば、 「『報労金請求権』と言って——」  拾得物の価値に応じ「拾った労に対する謝礼」で揉める可能性がある。更に、遺失者が見つからなければ、拾得物の所有権は一定の保管期間経過後、 「学校側ではなく、拾った人に移るんですよ」  と言う事になる。遺失者と拾得者の権利保護の観点からも、学校側は「善良なる施設管理者」として、適切な取扱いや警察への届出義務を負う、と言う訳だ。  流石に立板に水の具衛の説明に、 「何かチョー詳しいんだけど」  賑やかだった三人娘以下生徒会の面々も、俄かに面食らい気味である。 「だって、私の夫だもの」  と、自信満々で呟いた真琴だが、大した反応が返って来ない。で、悔し紛れに 「それに元警察官だし」  とつけ足すと、 「ウソ!? マジで!?」 「詳しいと思ったぁー」  予想通りの反応が返って来て、ようやく溜飲を下げる真琴だった。 「ちょ、ちょっと真琴さん!?」  これには流石の具衛も、抗議の声である。 「いいからほら! 僕が待ちくたびれてるじゃないの」  それを「迅速的確な手続きはお役所のモットーでしょ」などともっともらしい標榜を追加して黙らせた。 「もうお役所じゃないのに——」  と愚痴を吐きながらも、結局全部の手続きを代行した具衛は、最後に 「これをお父さんかお母さんに渡してね」  と言いながらも、書類化した拾得届のコピーを男児に渡して完結させる。男児は住所も連絡先も満足に説明出来なかったが、保護者はやはり卒業生のようであり、生徒会によると姉が在校生らしかったので、代わりに姉から聞き取り事なきを得た。  結婚指輪なら、そのうち紛失に気づいた遺失者が訪ねて来るだろう。恐らくは今日のうちに返還手続きをする事になる。その際の段取りも教示した具衛を、 「流石、完璧ね」  わざとらしく真琴が褒めると、周りの生徒会一同が感嘆の声を上げながら盛大に拍手をした。 「うわ、ハズい」  途端に及び腰になった具衛が逃げ出そうとするところへ、また訪ね人だ。先程別れたばかりの母子だった。 「どうしてもお礼がしたくて——」  と言う母親の説明で、女児が差し出したのは何かの勲章のレプリカである。 「細やかな物ですが——」  屋台でわざわざ見つけて買って来たらしい。 「これは、嬉しいなぁ」  照れ臭そうに人見知りする女児の手によって、無言で突き出されたそれを受け取った具衛が、立ち所に破顔した。嬉しそうに振舞うその姿は、子供の手前オーバー気味なのだろうが、そうした配慮がまた眩しい。こう言う気さくさが、一々如何にも詐欺師だ。 「ほら、いい事あったじゃない」 「まあ——」  お役所は見返り厳禁なんですが、とまた立ち去る母子を見送っていると、 「これ着ませんか?」  入れ替わりで「絶対似合う」と口々に突然三人娘が、何かの服を突き出して来た。受け取った真琴がそれを広げるなり、悪戯っぽくも破顔する。片や具衛はまた及び腰になり、今にも逃げ出しそうだ。 「これ! 大アリだわ!」  面白そう! と叫んだその横で、一歩踏み出した具衛を見逃さなかった真琴が、瞬間で腕を取って捩じり上げた。 「あたたたた!」 「逃げるな!『良い子の味方』でしょ!?」 「別に着なくても『そう』ですよ!」 「確保!」  真琴の号令一下、数人がかりで取り囲む生徒達に、尚も抵抗色を帯びる具衛だ。 「よもや素人さん相手に、妙な手業を使う事はないわよね?」  怪我させたら大変よ、と一応牽制を入れる。 「みんな気をつけて! この人元特殊部隊員だから!」 "ええっ!?" 「ま、真琴さん!?」  驚きと抗議がコラボする中で、 「これで何かすれば銃刀法は免れないわよ。観念なさい!」  その事情を知る真琴が止めを吐いた。 「よくもそんなわざとらしいウソを——」 "ウソ!?"  何の伏線ですか、と呆れる具衛に生徒達が俄かにどよめく。  何十年も前から世代を経て語り継がれる「喧嘩の際に、格闘技に熟達した技能を有する者が使う手業は銃刀法」と言う都市伝説は、まさに都市伝説なのだ。確かにそうした修練を積んだ者は、正当防衛が成立しにくい側面があり、過剰防衛になる事例は散見される。が、だからと言っていきなりその身体が「凶器」認定されるものではない。 「流石は元凄腕デカ!」 "凄腕デカ!?"  その伏線かぁ、と、いい加減ダメージが立て込んで来たらしい具衛が、 「分かりましたよ! 分かりました!」  これ以上何か吐かれると堪らないと言わんばかりに、真琴に煽られて面白おかしく悪乗りする生徒達の中で両手を上げた。 「これで満足ですか?」  数分後、嘆息しながらも着替えを済ませて帰って来た男は、周囲からの地味な賞賛に晒されている。 「に、似合うんだけど」 「ちょっと、カッコよくない?」 「マジで何か特殊部隊員っぽい!」  と言う具衛が無理矢理着込まされたのは、何処かの国の役人が如何にも着ていそうな制服めいた物だ。紺色で統一されたシャープな印象のズボンとシャツは、偶然にも具衛が普段から履いているスニーカーの色合いとマッチしている。 「どうもここ何日か、妙な物ばかり着てるような気がするんですが」  何でサイズぴったり? と諦め気味に軽くふて腐れる具衛に 「気のせい気のせい」  真琴は満足げに噴き出した。 「しっかしこの『盛り込み方』は何とかなりませんかね?」  と言うその服には、胸や袖に仰々しくも見映えする五芒星やら六芒星のマークがついており、極めつけが胸と背中にある「MPD」のロゴだ。一般的には警視庁の略称だが、背中の物はご丁寧にもその正式名称が合わせて記載されており、Mの字はよく読んで見ると「Muchakucha」の頭文字らしい。要するに、 「『ムチャクチャ警察』って、ホント無茶苦茶だな」  と一々愚痴る具衛に、真琴も堪え切れず一々噴き出した。 「これの何処が『良い子の味方』なもんですか」  止めは、被っている「ギャリソンキャップ」に燦然と輝く「MP」のロゴである。ギャリソンキャップは軍の略帽で、現代では主に各国空軍が採用している。米国では退役軍人の制帽として用いられ、つまりが軍事色の強い帽子だ。しかもMPは通常「憲兵」を表す。 「まあ、あなたは両方の経験者だし」  正式な物を知り抜いている具衛にとっては呆れたてんこ盛り感だろうが、知らない者の目にも多少はそう映るにせよ、それを上回る着熟し振りなのだ。 「やっぱり一流は、制服が良く似合うわ」  そこは本当だった。 「あなたは着ないんですか?」 「律と一緒に?」  全ては生徒会の三人娘が「レンタル衣裳屋」の屋台から借りて来た物である。 「この服は、嬉しくない」  と半分やけになっている具衛は、先程女児から貰った勲章も一緒に胸につけていた。 「で、居座っちゃう訳ですか?」 「もう大抵の所は見て回ったし」  と言う二人は、すっかり生徒会の本部テント内に陣取る有様だ。一番賑やかな会場に構えているため通行人も多く、具衛の格好を見た人々の 「うわ、何かお巡りさんいるし!?」 「え? ウソ? 本物?」  と言う似たり寄ったりの反応が一々面白いのだ。 「生徒会の面々も、あなたがいてくれれば心強いでしょ」  ねぇ、と振る真琴に、面々は揃いも揃って二つ返事だった。 「これじゃあ『リアル交番』ですよ」  と言う何気ない具衛の愚痴が、一々本人以外を噴き出させる。 「先生に許可も取らずにこんな事やってもいいのかなぁ」  と言う愚痴も、 「うちの学校は『生徒の自主性』を尊重するので」  と言う、誰かのもっともらしい一言で片づけられてしまった。そもそもが今やこの高校の文化祭は、学校の枠組みを超えた祭りになってしまっているらしい。在校生に限らず地域住民や卒業生、他校生が入り乱れての大イベントになっているため、自治会やOB会、他校生徒会などとも連携している、とか何とか。で、いざとなると 「先生達よりその伝手の方が頼りになりますから」  と言う事らしい。 「何か、」  随分しっかりしてるなぁ、と言う具衛によると、昔と違って生徒が出来るようだった。 「そんなにひどかったの?」 「ええ。ポンコツでしたね」 「そのポンコツからちょっといいですかぁ?」  と、生徒会の一人から呼ばれて振り向いたその後ろに、同年代の私服男子が物憂げに立っている。 「ちょっと相談が——」  具衛の経歴を聞きつけて押しかけた、らしかった。 「出番よ、お巡りさん」 「『悪事千里』はホントですね」  一々失笑する面々の中で、恨み節のような愚痴を忘れない具衛が早速椅子を勧める。何でも、校内で営業している的屋で他校の生徒がバイトをしているそうだが、 「時給をどんどん下げられるんです」  八〇〇円で雇われた筈が、売り上げが伸びず「呼び込み不足」の言いがかりをつけられ、今や五〇〇円まで下げられている、とか何とか。そもそも、 「やっぱり的屋だったのかぁ」  まず、それが出店している事を具衛が勝手に結論づけた。随分慣れたPTAの屋台があるもんだ、と思っていたらしい。が、それにしては、 「人相悪いし——」  よく聞いてみると、体育祭でも出店しているようで、すっかりその文化が根づいているようだった。 「そんなものなの?」 「いや、時代錯誤と言いますか」  昔は結構あったようですが、と言う具衛に、 「うちの学校は揉め事さえ起こさなければ、基本何でも歓迎してます」  生徒の一人が補足したところによると「多様性」を良いように解釈しているらしい。 「——まあ、確かに。問題さえなければ、ね」  色々と言いたい事はあるようだが、清濁を飲み込んで端的な見解を吐いた具衛が、軽く嘆息した。 「でも問題よね、詐欺だし」  ねぇお巡りさん。と言う真琴に対し、 「いや、それは少し性急かと」  具衛は慎重だ。予想通りではある。それを密かに楽しんでいると、 「まずは民事契約上の『不法行為』の線でしょ。弁護士さん」  具衛にリベンジ暴露されてしまった。 "弁護士さん!?"  そのフレーズに周囲の生徒達が驚きの声を上げる。一瞬顔を引き攣らせた真琴だったが、具衛に同じ事をやった手前もあり、身から出た錆だ。 「仮装しないんなら、本業でどうでしょう?」 「——分かったわよ」  具衛の止めに盛大に嘆息した真琴が、往生してバッグの中から弁護士バッジを取り出した。 「ダウンじゃなくて良かったわ」  今日のロングコートはキルティングの物だ。それを左胸につけると、 "おおっ!"  一斉に歓声が上がった。  一応、日本国籍のまま移住している事もあり、弁護士登録も生かしていたのが 「裏目に出たか」  とぼやいた真琴が、最後に「案内して」とつけ足す。  一見して、冗談抜きで本当にいそうな軍と警察のごちゃ混ぜコスプレ姿の具衛を伴って訴えの的屋を訪ねた真琴が、根拠法令の羅列で「痛い腹」を掻きむしり往生させると、そこから先は、噂を聞きつけた人々が生徒会本部テントに集い始める始末となった。 「元刑事と弁護士夫婦の相談所があるらしいで!?」 「何それ!? コ○ンみてーじゃん!」  と口々にやって来る人々を前に、 「ホントあなたは、祭りで臨時屋台作るの好きですよね」  どうして毎度大人しく出来ないんですか。場外乱闘もいいところですよ。などと、合間合間で痛い皮肉を、横の「無茶苦茶警官」に叩かれる真琴である。 「——うるさい」  公僕たる警察官の報酬は公金からの支給だが、弁護士はあくまでも商売なのだ。弁護士活動の一環とあらば、一応身分は示しておかなくてはまずいと判断し、数枚だが念のため持ち回っている名刺を掲示している 「ってぇのに——」  無報酬でやらされるとは。 「そう言うのって、身から出た——」 「うるさい」  そもそももう「公僕」じゃありませんよ、と苦笑いしながら応酬する二人の前には、あくまでも文化祭屋台らしく、体験物の冗談めいた 「ストーカーかしら?」 「いや、恋愛相談でしょ?」 「だってつけ回されるじゃないの?」 「飼い犬同士の話ですよ」 「犬だったかぁ——」 「法律上は殆ど『物』扱いですからね」 「犬の痴情のもつれねぇ——」 「次、行きますか。次の方——」  ものから、 「不動産侵奪ね」 「でも、消滅時効が成立してません? この件」 「時効の援用をさせなければいいのよ」 「債務者をどうやって止めるんですか?」 「こんな人間は叩けばいくらでも埃が出るものよ」 「別件ですか?」 「毒を持って何とやらね」  本気も本気の相談内容まで。それは流石に最後まで受け持てず、その場で休日対応してくれる弁護士を探して引き継いだり。  最後には校内を引っ張り回され始め、 「来校者の車が校舎に当たって、今にも逃げそうで!」 「怪我人は?」 「みんな大丈夫だったけど——」 「当て逃げね」 「建造物損壊ですよ」  悪いやっちゃなぁ、と具衛が先行で駆けつけて異様な程に似合うその姿でねちねち説教をしたり。 「許可しないのに勝手に写真撮られたんよ!」 「何、盗撮?」 「いや、スカートの中とかじゃないんよ」 「肖像権、ですか」 「民事上の不法行為ね」  真琴がこんこんと説法を説いて脅し上げたり。  中でも印象深かったのは、真琴が保健室で授乳中、門番をしていた具衛に食ってかかった生徒が、他校の生徒と揉め事を起こした時の仲裁だ。  教職員すら対応したがらないその面々は、周囲を取り巻く不穏な筋者を背景に傍若無人を働いていた。筋者の上役の「御子息」が在学中らしい。その「取り巻き」が幅を利かしているようだ。 「いくら誰でも歓迎って言っても——」  限度があるだろうに、と具衛が顔を出すと、 「あれぇ? 久し振りですね」  意外にも筋者が、揃いも揃って全員及び腰になった。 「組長さんは元気ですか?」  と言う頃には、すっかりばつが悪そうな顔をして俯いている。 「あら、知り合い?」 「いや、まあ、昔取った何とかと言うか——」  開放感溢れる祭典の最中において、一際目立つ黒服軍団を立ち所に黙らせたかと思うと、もう一人。一見して「チャラ男」と言わんばかりの生徒がまだ息巻いている。保健室前で、自由だの権利だのと口先で宣っていたヤツだ。  揉め事の相手方は卒業生数人組で、年上を相手取りながらも「黒服」を武器に、聞くに堪えない下卑た台詞のオンパレード。で、手が出たその瞬間を見計らった具衛が、飄々とその腕を取り捩じり上げた。  青ざめる周囲に具衛が解散を指示する中、 「俺にこんな事して只で済むと思うなよ」  やはり唯一の増長振り。気になった真琴が遠目に窺っている日和見教諭を一人捕まえて聞き出したところ、何と元国会議員下手泰然の妾腹らしかった。 「——因縁だなぁ」  具衛は具衛で「チャラ男」に事情を確かめたところ「トイレに指輪を忘れたのを相手に盗まれた」とか何とか。 「——『合致』ですよ」 「まあ、確かめた方がいいんじゃないの?」  何分高価な指輪だ。生徒会のテントまで連行して、 「『お父さん』は『保釈中』だったよな?」 「だったら何だっつうんだよ!?」  目の前でスピーカーモードで連絡させ事情を確認したところ「亡母の形見の品だ」と吐き捨てるように言われて切られた。 「あんたら、何者?」  一応名乗った具衛の声を、敏感に察した「ヘタレ」の怯み具合に、その息子も何か感じたらしい。 「お父さんの『仇』さ」  それを明かすところが、また具衛らしく。急に大人しくなったチャラ男によると、指輪の日付けはチャラ男本人の誕生日だったらしい。妾の屈辱を負わされた母親が、せめて息子に想いを寄せた、と言う事なのだろう。 「純プラチナは雑に持ち歩く物じゃないわ。『想い』がつまった物なら余計にね」  その真琴の注告に素直に答えた事から、腐れ縁ついでに拾得者との「折衝」もしてやったところ、最後は涙ながらに礼を言われたものだった。やはり、大事な物だったようだ。 「お祖母さんと二人暮らしなんだって」  拾得物の受領署名の苗字は当然「母方」のようだった。 「——めげずに生きて欲しいですね」  まだ十分間に合う。具衛のその何気ない一言は、説得力があった。  そんなこんなで気がつくと、生徒会依頼の顧問弁護士にされてしまっており。結局、終了時刻まで「駐在依頼」を受ける羽目になった真琴に引きずられた一家が、帰りの電車に乗ったのは日没後だった。 「やれやれだったわ」 「全くですね」 「結局、同級生いたの?」 「さあ?」  目を車窓に逃がしつつ答える具衛は、久し振りの大立ち回りで、 「途中からそれどころじゃなくなって」  結構本気「お巡りさん」だったようだ。真琴は真琴で、 「『子連れ狼』だって。ひどくない!?」  その手腕で賞賛と畏怖の両方を手中にし、その活躍振りから、一家三人でいつの間にか撮られていた写真が「何でもコンテスト」の「ベストファミリー賞」を受賞していたりした。  今、真琴が手にするその記念品は「プラチナチケット」と称する 「向こう一〇年分の文化祭優待券だって」  と言う物だが、もっとも内容は開催年の都合で変わるらしい。 「また行こっか?」 「また『お巡りさん』やらされる訳ですか?」  一々嘆息する具衛に、今日真琴は何度噴いたか分からない。冗談の中にも真摯に向き合う具衛の姿勢は、何となく現職中の一幕を垣間見たようで 「何か、デジャブだったわ」  嬉しかった。  とは言え、この男にしてみれば高校中退後の二〇年は、この地のしがらみと決別するための苦難だったのだ。その原点を当てつけの興味本位で弄るなどと、今更ながらに少し後悔する真琴だった。やはり、触れられたくなかっただろう事を思うと、 「——悪かったわね、今日」  謝罪がすんなり口から出た。 「いえ」  その代わり明日はあなたの実家ですから、と具衛に言われると、 「やっぱり今の撤回」  つい、反駁してしまった。  翌週、月末。 「何だか結局、思い出巡りで終わっちゃったわね」  羽田からの空路で帰途に着いた三人の中で、真琴が窓に向かって嘆息した。 「そうですね」  具衛は相変わらず、柔らかく答えるだけだが、とにかくそれは真琴自身が招いた事である。愚痴を言えたものではなかった。  広島を巡った後日に実家を訪ねると、母は随分覇気を取り戻しており、離れの隠居ながらも家中に対する威厳も復活しつつあった。高千穂事件の責任を取り切り、それなりに踏ん切りをつけたようだ。  表向きには突っ張っていたそんな母が、孫を前に目口を緩ませるものだから、思わず噴き出した真琴である。あの母でも、やはり孫は可愛いようだった。 「そりゃあ——」  と、その隣の父が代弁する。  高坂宗家筋の子孫の出生は、真純以来なのだ。もう次は見られない、と勝手に諦めていた父母にしてみれば、予想外の喜びらしかった。進んで律を抱えたがる母に抱かせてやると、何とも優しげな顔をする。  それだけで、もう十分だった。 「もう毎日メール送って来なくていいから」  嫌味じゃないわよ、と一応つけ加えて、 「もういいでしょ? 具衛さん?」  一応、その決まりを作った男に確認をする。 「そうですね」  初期の目的は達成しましたし、と言うその公式コメントのような生真面目さに、またつい噴き出した。 「孫はかすがいだわ」  真琴が思わず口にしたその一言に、四人は思わず顔を見合わせ鼻で笑ったものだ。  そのまま離れで二泊すると、父母の身近が慣れておらず痒くなったため帰国する事にした。  別れ際に玄関先で、 「爺婆が元気なうちに、また来てくれんか」  と言った父が「社交辞令じゃないぞ」とつけ加えると、横の母がそれをすぐに訂正した。 「来年、ローザンヌを訪ねます」  その断定口調に驚いた真琴が絶句する横で、具衛が 「むさ苦しい所でお恥ずかしいですが、お待ちしております」  先に答えて間を作ってくれた。  ほら真琴さんも、と促されると、 「むさくないわよ」  まずそこを否定しつつも、次の一言は、父母に対した言葉としては人生一素直に出たものだった。 「良い所だから。暖かくなったら待ってる」  次に会う約束をして実家を出るなど、思えば初めての事だ。よくよく考えると、親に見送りされた事もなかったような。そう思うと、互いの健康を願わずにはいられない。  となると、次の一言も実に素直に出たものだった。 「身体に気をつけて」  社交辞令じゃないわよ、と照れ隠しに父を真似てつけ加えつつも、ここまで穏やかに実家を出るのも、またかつてない経験だ。  それもこれも、具衛一人の功績だった。律が明白なかすがいである事は言うまでもないが、それはあくまでも結果論だ。その一切合切の根本は具衛なのだ。感謝の底が見えなかった。 「それにしても、あなたと旅行すると、毎度何事かほじくられるから疲れるわ」 「せめてツボをほぐされた、と言って欲しいですね」  まさかまた妙な所に向かってないですよね、と往路の路線変更を論われるが、搭乗便は独航空大手の運行便である。 「もうしないわよ。あなたが夢だの幻だの言わない限りはね」  妙な所って随分な言い方ね、と口を尖らせてみせた。 「あら? 私のせいですか?」 「そうよ。一々サプライズしないと現実と向き合おうとしないんだから、仕方ないでしょうが」  そこまで言うなら今度はあなたが企画しなさい、と真琴が突き放すと、 「何処行きますかね——」  隣で具衛が本気で悩み始めた。 「まあ何処でもいいけど、空路なら最低でもビジネス以上じゃないと、私は納得しないわよ」  と言う今も、ファーストクラスだ。費用は真琴持ちなのだから当然だった。 「精々至上を目指して悩みなさいな」  あ、何か罰を決めないと、と呟くと 「後出しですか?」  具衛が軽く呆れてみせる。 「その時々で決めるって言ったでしょ。死ぬまで待たされたんじゃ堪ったもんじゃないし。死出の旅が至上って言われても敵わないから」  そうやって真琴は勝手に一人で怪しくなって、具衛に説教を受けたのだからそれも当然だ。 「意外にこれは、プレッシャーですね」  何せこの年に至るまで、ろくに私的な旅行をしておらず、バカンス慣れしていない具衛の事である。 「決めた。毎年一回、あなたの企画で絶対何処かへ家族旅行よ!」 「参ったなぁ」  真琴さん目が肥えてそうだし、と嘆息する具衛に、  あなたがいれば——  自分は何処であれ至上なのだ、とは言い出せなくなった真琴だった。
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