第一話 梅雨

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第一話 梅雨

 六月中旬。  約一週間前、概ね平年通り梅雨入りした広島の山中で、真琴は呆然と車のフロントガラスに迫った前車の後部を眺めていた。山深い地域で、ちょうど集落と集落の中間地域のような所であり、建物らしい物は何一つ見当たらない。只々、山間を道路が貫いている、と言った感の何もない所だった。車窓に打ちつける大粒の雨を前にワイパーは無力であり、最後の砦たるフロントガラスの撥水加工も歯が立たず、車窓は止め処なく打ちつけては流れる雨水でぼんやりとした景色しか映さない。それはピントのずれたテレビカメラの映像のようだった。いずれにせよこの山奥では、山と道路以外には他に見える物などなさそうだ。 「またかぁ——」  と、大きな溜息を吐く。  辺りは前も後ろも車でびっしり詰まった状況であり、一見して動きそうにない。何度溜息を吐いた事か。車内は真琴しか乗っておらず、気を遣う必要はなかったが、真っ赤な外国産クーペの天井を打ちつける容赦ない雨音は大きくなる一方で、耳も感情も雨に支配されストレスが溜まり続けた。  山間の国道は、片側一車線の対面通行だが、順行車線は大渋滞で動く気配はない。逆に対向車線は、車が一台も擦れ違わずがら空きだった。車載ナビの交通情報によると、随分と先まで濃い赤色の線が続いている。原因はよく分からない。が、 「事故か——」  の可能性が強く、真琴は右手で前髪を掻き上げながら、座席のヘッドレストに頭をもたげた。渋滞に捕まって約一〇分になる。車内のフロントパネルの時計と、左手首につけている腕時計の時刻を見比べて見たが、どちらも間もなく午後五時になろうとしていた。会社を出てから既に約三〇分が経過している。  この春広島に転居して来た真琴は、市内中心部の自宅マンションから高速道路を約四〇分かけて、北部郊外にある会社に車通勤していた。転居前に住んでいた首都圏の高速道路と違い、殆ど渋滞知らずの優れ物だったが、難点が一つあった。それが事故による通行止めである。  大事故はそう頻繁に発生しないが、普段渋滞がないためか著しい速度超過の車が散見される。更に、山間を縫う道路はカーブとアップダウンが多いと言う地理的要因も加わり、一旦事故が起こると大きな事故となり、長時間の通行止めで迂回を余儀なくされた。それはこの春、広島にやって来た初日に経験済みの真琴である。  今日もやはり、会社から出る直前に高速道路の事故通行止め情報が入り、やむなく一般道経由で帰宅する事になったのだが、この一般道は近辺では高速を除くと広島市内中心部に向かう唯一の幹線道路であり、高速が通行止めになるとよく渋滞した。それでも流れを止めるような大渋滞は、これまでにはなかったのだが。 「どうしたものかしら」  真琴は、腕組みをしつつ鼻から大きな溜息をまた一つ吐いた。実は、今日は真っ直ぐ帰宅しない。午後六時から市内中心部で開催される、地元商工会議所主催のフォーラムに出席する予定だったのだ。それに合わせて少し早めに会社を出たのだが、結果は現状である。  ——お腹すいてるのよね。  昼は忙しくて、余り物を腹に入れる余裕がなかった。早く着けば、何か小腹に入れようと思っていたところへ 「これはないよね」  座して手をこまぬく性ではない真琴は、先程から嘆息混じりの独り言を何度となく吐いたものだ。  するとしばらくして、順行車線が尺取り虫のように前方へせっつきながらゆるゆると動き始めた。それと共に、対向車線にも一台、また一台と車が通過し始める。どうやら渋滞の前にいる車両が、諦めて転回しているようだった。となると、渋滞の原因は深刻 「と、判断したものかしら」  と真琴は、また溜息を吐く。  尺取り虫でじりじり進んで行く事しばらく、今度は、  ——抜け道か。  左へ折れる道が見えて来た。  道幅は、普通車でも離合が難しい程狭いが、こちらの道にも一台、また一台と車が曲がって行く。ナビで調べたところ、国道の一段下に位置する川沿いに土手道があるらしかった。 「抜け道か、転回か」  ナビの表示では、高速はまだ通行止めマークだ。戻ったところで、ICの入口でいつまで続くか分からない通行再開待ちを強いられる。国道も真っ赤な線のままだ。真琴は、今まで何度かこの国道を通って帰宅した事があったが、国道を逸れた事はなかった。それは、ここまでひどい渋滞に遭遇した事がなかったからなのだが。  曲がるか——  抜け道も真っ赤だったが、真琴は前車に続いて左折した。抜け道の先がどのようなルートになるのかよく分からなかったが、既に何台か曲がっている様子から、恐らくこの先へ抜けられる事は容易に推測出来る。待つのは苦痛でならない。真琴は、状況を変えたかった。  そのまま二〇〇m程度真っ直ぐ進むと、件の川に突き当たった。川沿いまでやって来ると、国道の左側にあった山は、この中間地域の中にある僅かな丘陵上の神社である事が分かった。ナビによると「中山神社」とある。周囲を高い針葉樹で囲われていたため、山と勘違いしていた。道は突き当たりで右折方向にしかのびておらず、一応市内中心部方面であるため、そのまま道なりに曲がる。すると曲がった途端に、また渋滞で動かなくなった。 「やっぱりか」  また、ぴくりともしない前車の後ろにつけ、ハンドルに突っ伏しうなだれる。数秒目を瞑って少し気を落ち着かせ、起き上がるなりナビを操作し始めた。少し縮小して、付近の全体像を捉える。すると、この辺りは小さな盆地状である事が分かった。北から南へ向かっている感覚だったのだが、実際には盆地の中は、東西方向に道路がのびていた。東方向が市内中心部方面、西方向が北部方面だ。若干東西に楕円状の盆地の広さは、東西南北とも約五〇〇mと言ったところだ。中央部西寄りに外周三〇〇m程度の神社の丘があり、その北側を川、南側を国道が、それぞれ東西に抜けている。  雨の打ちつける車窓越しに見る限り、盆地の西半分は、川と国道と神社の丘があるだけだが、東半分は川と国道に挟まれた中に、田畑と極小規模な林地が複数混在していた。他にある人工物は、道路と電線電柱ぐらいである。物寂しい所ではあるが荒んではおらず、何処か牧歌的な情景を呈していた。抜け道は市道のようで、一応東へ抜けている。中央線こそないがアスファルト舗装であり、対面通行可能な幅員もある。盆地を抜けた後も川沿いの土手道として、南方となる市内中心部方面へ続いていた。  牧歌的な情景を切り裂く車の渋滞は全く進んでいない事はなかったが、分速数mと言ったところであり、文字通り歩いた方が早いと言う牛歩以下のレベルである。真琴は、再び時刻を確認した。午後五時一〇分を回っている。再び腕組みをすると、また一つ鼻から深い溜息を吐いた。 「動くことは動くのよ」  自己暗示をかけるように、抜け道の選択を受け入れようとする。何回か尺取り虫をしたところ、また左手側に今度は小さな石橋が見えて来た。川の上に架かっている橋は、普通車なら通行出来そうな幅のコンクリート製の小さな橋だ。橋を渡った向こう側にも土手道があるようだったが、辛うじて見える車窓からは、短い丈の草がびっしり生えていて舗装されていないように見える。ナビによると、道のようなものがのびてはいたが、直に見る限りでは車は全く通っていなかった。  通れない——か。  真琴が決めつけていると、そこへSUVタイプの如何にも悪路に強そうな車が、のらりくらりとした走り方で東側からこちらに向かって走ってくるではないか。  ん?  そのまま橋の向こう側まで到達すると、橋を渡って真琴の車の傍を通り抜け、国道へ颯爽と抜けて行った。しばらくすると、今度は軽自動車がやって来た。やはりSUVタイプで、やはりのらりくらりと走って来る。そしてしばらくすると、同じように国道へ抜けて行った。 「クーペじゃ無理か」  順行の車はセダンやハッチバック型であり、橋を渡る気配はない。つまりは足回りのしっかりした四駆か、SUV型でないと通れない道と言う事なのだろう。が、  足回りならこの車だって——  車の高性能が誘惑をもたらす。  真紅が映える真琴の車は、仏国が誇る多国籍コングロマリット「フェレールグループ」の高級スポーツカーブランド「アルベール・フェレール」のスポーツ&ハイパフォーマンスコンパクトクーペで、馬力は優に五〇〇を超えていた。ただ車底部が低く、  それが——  気がかりだ。が、それも、最近の車のトラクションコントロールに任せて突っ走れば、  何とか——  突破出来るのではないか。この際、多少汚れるのはやむを得ない  と、思う——  事は無理がないのではないか。真琴の脳内が誘惑で満たされると、尺取り虫で件の石橋の傍まで到達したところで車をまた左折させ、橋を渡り始めた。学校のプールの長辺程の川幅に架かる橋を渡り終えると、北側の川土手に到達する。予想通りの非舗装道路がのびていた。  やっぱりか。  雲の中のような有様で視界が悪く、先は一〇〇m程度しか見通せないが、西方面の土手道は一〇〇mも行かず川の法面と同化し、車は抜けられそうにない事が分かった。片やこれから通ろうとする東方面は、先程車が通って来た事を裏づけるように、低い丈の草や土や砂利が顔を覗かせている。そこに踏み入れる事は少し汚れそうだったが、車で走れない事はなさそうだった。道幅も普通車同士であれば、擦れ違う時に慎重を期せば十分離合が出来そうだ。 「これなら行けるわ」  真琴は少し表情を和らげ、慎重にアクセルを踏み込みゆっくり進入を開始した。見た目より揺れるが、やはりクーペでも走行可能だ。安堵した真琴は、  何で他の車は通らないのかしら?  不思議に思った。  通り始めてすぐ、雨が一段と強くなった。辺りに濃い雲が降りて来たのではないかと錯覚する程、急激に視界が悪くなる。五里霧中の様相にも、真琴は更に進んだ。が、 「これか——」  二〇〇m程度進んだ所で、目の前に突然腰高の草むらが現れた。雨が強くて先がよく見えないが、見える限り前方は草むらである。既に何台か通過しているため、ある程度は薙ぎ倒されていたが、道と言えるような状態ではなかった。他の車が通らない理由を直接突きつけられた真琴は、草むらの直前で車を止める他に術を知らない。 「はぁ——」  また盛大に溜息を吐いていると少し雨足が弱くなり、見通しが利かなかった先の様子が今更ながらに明らかになった。視界が回復した限り草むらはたっぷり先まで展開しており、雨のタイミングと言い雲の動きと言い、まるで見知らぬ旅人を貶める罠のようではないか。 「くっそ——」  ここまで来ておきながら。真琴はハンドルを叩きたい衝動をどうにか抑え込み、また大きな溜息を吐き出した。視界が悪い中をここまで来てしまった以上、バックしたくはない。この大雨の中の悪路をバックするのは、骨が折れるのは言うまでもなく、考えるだに  有り得ない。  その選択肢はみるみるうちに消え失せた。かと言って、何処まで続くか分からない草むらを突っ切るような自信はない。少し考えた結果、他車の通過後であり、草も少しは倒されている事をプラスに捉えて、  他の車が通ったんだし。  強行突破する事にした。  反対側からやって来る車がない事を確かめると、オートマチックのシフトレバーをローに落とす。途中で止まったら抜け出せそうにない。真琴はアクセルを、気持ち強く踏み込んで車を再発進させた。  草むらに入ると、想像以上に車が揺れた。草以上に足場が  ぬかるんでる!?  思いのほか悪い。車の揺れがあっと言う間に上下に大きくなり、草を掻き分けながらもまともに前進出来たのは二、三〇mだけ。その先は、アクセルを踏んでもエンジン音が跳ね上がり、フロントパネルに黄色のスリップマークが点滅し始めるとタイヤが踊り始めた。更にその数秒後、フロントバンパーの方から一度鈍い衝突音がしたかと思うと、突然目の前に白い風船が展開し前が見えなくなってしまった。 「あっ!」  と言う間に、車が前方にめり込んだ感触と共に急停止する。白い風船がエアバックである事は言うまでもない。それに頼る程、体が前方に飛び出すような事はなかったが、シートベルトがロックする程度には跳ねた。 「はまったかぁ」  シフトレバーをパーキングに入れてシートベルトを解除し、ドアを開けて外に出ると、 「うわっ」  一歩目で、ピンヒールの踵が見事にぬかるみに刺さってすっ転げた。一瞬で白のビジネススーツが泥だらけになる。容赦なく叩きつける雨に晒される自分の間抜けさに呆れ、怒りと焦りがない交ぜになり体がぶるぶる震え始めた。ここまで散々な事も久し振りだ。それなりに派手な失敗も何度か呈して来た身ではあったが、ここ十数年の人生は落ち着いていた。それが、  こんなところで——  何を血迷ったものか。叫びたくなりそうになる衝動をどうにか抑えるが、 「くっ!」  悔し紛れに声が漏れた。  地面に刺さったピンヒールに手を添えて抜き取り、爪先立ちでしゃがみ込んでフロントバンパーのめり込み具合を確かめると、下部が破損して地面の泥をえぐっている。フロントグリルに泥が押し寄せタイヤハウスも曲損してタイヤに接触しており、一見してまともに走れそうになかった。へなへなと尻餅をつき、がっくりとうなだれた真琴は、 「はぁ——」  今日最大の溜息を吐いた。  雨は強いまま、容赦なく破損した車共々、泥だらけの真琴を打ち続ける。不幸中の幸いは、左ハンドル車だった事だ。川の北側土手道を東進する格好だったため、南側土手道を渋滞中のドライバーからは真琴の姿は見えない。川の北側にあるのは、迫って来る盆地外周の山肌と、少しの田畑くらいのものだった。  半分いじけ気味に、車外で存分に濡れ鼠になった。誰であろうと上手くいかない事はある。悪い時には悪い事が重なるものだ。それも理解している。しかし自分は、もう少し上手くやって来た筈ではないか。こんな派手な失敗など、それは若かりし頃の過去の浅はかな自分であり、そんなものはとっくの昔に捨てて生まれ変わった筈だったのに。  こんなの、有り得ない——。  自分の事として受け入れ難いこんな屈辱は、本当に久し振りだ。全て身から出た錆であり、雨に濡れる事でより錆が鮮明になっては端からぼろぼろこぼれるような、そんな情けなさだ。  過去の盛大な失敗の時は、誰も助けてはくれなかった。もっともプライドが邪魔をして、助けを求める声など上げようとも思わなかった。そうやって自分の力で切り抜けて来た自負が、過信を招く事も良く理解していたつもりだ。  ——だめだ。  こんなのは自分ではない。  屈辱とプライドが頭を席巻し、中々次の行動に移れない。  どれくらい経ったか。存分に濡れたと思っていると、不意に雨の気配が消えた。うなだれていた頭を起こし、これが虚ろと言わんばかりの暗い目で変化を確かめると、いつの間にか傘を持った男が傍に立っている。 「大丈夫、ですか?」  足の甲と踵をバンドで固定するグルカサンダルを履いた男は、綿パンの裾をまくり上げ、リュックサックを前に抱えていた。足元は濡れるのを諦めているようだが、リュックは濡らしたくないらしい。  真琴は男の存在をはっきり認識するや目に力を戻し、ぎこちなくも一度うなずいた。その土壇場でさえ、  当たり散らさなくて良かった。  発狂寸前だった自分をひっそり褒めたものだ。  男は真琴に傘を預けると、自分は濡れながらも、フロント回りを確かめ始めた。横顔を見る限り三〇前後の穏やかそうな優男であり、一見してこの片田舎とイメージが重ならない。しかもこの大雨で、周囲が雨の臭いしか感じ得ない状況下にあると言うのに、不思議な事に男からは何となく  パン屋——?  のような、香ばしい良い匂いがした。 「バックは出来そうなんで、とりあえず橋まで下がりましょう」  思わず鼻を利かせていた真琴の傍で立ち上がった男が、東側に向かって腕を大きく動かし手招きする。男の声につられて真琴がゆるゆる立ち上がると、いつの間にか薄れていた周囲の雲間から、二、三〇〇m東側で待ち構える車列が見えた。 「みんな、雨が収まるのを待ってたんですよ」  男のその合図で、先頭車両がこちらに向かってゆっくり動き出す。真琴は咄嗟に、男から預かっていた傘で自分の顔を隠した。 「誘導しますから、下がりましょう」 「ええ」  男に促され、とりあえず返事をする。が、バック  と言われても——。  このぬかるみに突っ込んだような技量の身である。その猪武者的な構図に、今更ながらに恥ずかしさが込み上げて来て情けなくなった。  どんだけ猪突——  だったものか。恥ずかしさと、それでも自分を保とうとするプライドが、頭の中でぐじゃぐじゃに混ざり合う中、最後に悪心が競り上がって来た。思わず手で口を押さえると目が泳ぐ。 「じゃあ、私が下げましょう」  男は如才なく察して、 「誘導は良いですから助手席へ」  うろたえる真琴に言った。 「はい——」  こんなに参るなどいつ以来だ。意気消沈する真琴が男に傘を返すと、ピンヒールが地面を踏み抜かないよう拙い足取りで歩く泥だらけの濡れ鼠の真琴に、それでも男は傘をさしてついて回った。真琴が乗車する時も、 「傘と荷物をトランクに積んでも良いですか?」  男はきちんと尋ねる。 「はい」  真琴が返事をしたと見るや、男はするりと車の後ろに回り込み、傘の水気を払って傘とリュックサックをトランクに載せた。かと思うと、すぐ様運転席側ドアを開けて乗り込んで来る。物腰は柔らかいが、どことなく動きが熟れていて素早い。 「ミラーとシートを動かしますよ」  それでいて、確認を怠らないのだった。一つ一つの意思確認を省略しない丁寧な応対の中で、慣れた手つきでシートを調整する。  ——慣れてる。  左ハンドル車は、各種操作、動作に多少の慣れを要するもので、真琴は男の迷いのない所作に少し感心した。その上素早く、妙に落ち着きがあるその余裕振りは、今まで真琴が見た事がない人種の男である。大抵の男と言えば、真琴を前に慌てふためき無様を晒け出す者達ばかりで、こう言う時など全くと言って良い程頼りになる事はなかった  のに——。 「じゃ、下がります」  男は、そんな真琴の観察など気にも留めない様子で宣言すると、シフトレバーをリバースに入れ低回転でゆっくり車を下げ始めた。  男は一見して貧相気味に痩せてはいるが、身長は一七〇cm代半ばである。にも関わらず、一六〇cm代後半の真琴よりも、座席の位置もシートの角度も随分窮屈そうな設定で運転をし始めたもので、その様子はまるで、  自動車学校の——  生徒のようだった。その車の動き始めがその乗車姿勢の如く、自信がないと言うか慎重で、明らかに勢いがない。  また——  ぬかるみにはまるのではないかと言う真琴の心配をよそに、車は勢いのないまま主人の思惑に反し、損傷の異音を立てながらも、のらりくらりと下がって行った。 「こう言う足場の悪い路面は、ゆっくり回転を上げない方が良いんです」  言いながらも男は、目を忙しそうに動かし周囲の確認を怠らない。その仕草は今までのそれとは真反対であり、何とも落ち着きがなかった。  バックをする時は、助手席のヘッドレストに腕を回して格好をつけて  男は下がるんじゃないの?  すかした男がやりそうな後退スタイルを想像した真琴だったが、男の両手は軽くハンドルに触れており、如何にも行儀が良い。  カッコつけるより——  情報の獲得を優先するスタンスらしいその動きと連動したアクセルワークも中々繊細で、ハイパワーを誇るエンジンが昂る事がない。丁寧な操作は何処の馬の骨か分からないものの、それを見ただけで確かな腕を持っている事を思わせた。  ——流石は、  自動車学校としたものなのか。内心で勝手な事を言う真琴は、お陰で少し余裕を取り戻した事を悟る。気がつくと、顔も髪も服もずぶ濡れで酷い形だった。その前方からは、いつの間にか前進の車がにじり寄って来ている。今更ながらに恥ずかしくなった真琴は、心持ち体を小さくして俯き加減になった。  黙って俯いていると、二、三分で石橋まで戻って来た。その橋の少し西側に通り過ぎた所で車が止まると、何台かのSUVが窮地を救った男に感謝の意を評してか、クラクションを軽く一回ずつ鳴らして颯爽と橋を渡って行く。男がクラクションに答えて手を振りながらもシフトレバーをパーキングに入れると、 「レッカーの手配は、心当たりがありますか?」  続けてトランクレバーを引きながら前を見たまま言った。酷い形の真琴に配慮したのだろう。 「ディーラーに、依頼します」  真琴がその好意に甘えて、ほんの少しだけ男の方を向いて答えると、 「そうですか。じゃあ私はこれで」  男はさっさと車から出た。 「あ、」  その去り際も中々素早いもので、 「ありがとうございました」  真琴は折角の男の配慮を忘れて形振り構わず運転席に追いすがったが、男はやはり何も言わず素気なく手を振って答えただけ。目を合わそうともせず、静かに運転席側のドアを閉めトランクから荷物を取り出すと、余りにも呆気なく立ち去った。  何処へ?  行こうと言うのか。男は土手道を更に西に向けて立ち去る。西の土手道はすぐになくなっており、どう見ても山中に向かっているようにしか見えなかった。この悪天候下を、である。登山するような形でもなかった  ——けど。  真琴は男に感謝しながらも、とりあえずシートの後ろに放置している鞄から、ハンカチやらコンパクトやらを引っ張り出した。サンバイザーの鏡で顔を見てみると、殆どすっぴんになっている。 「め、目が——」  特にひどい。つけ睫は落ちて、アイラインもクソもあったものではなかった。幸いなのは、細く整えた眉が全毛だった事ぐらいである。平安貴族に見られる通称「マロ」が回避出来たのは大きい。化粧が中途半端に崩れてぐずぐずになるよりは余程ましだったが、すっぴんは流石に耐え難かった。背広とスカートも泥だらけの濡れ鼠でひどい有様だ。髪も濡れに濡れて、水が滴っている。 「うわぁ」  スカートは脱げないまでも背広を脱いだ真琴は、ハンカチで顔やら髪やらを拭いてみた。が、全く水気が拭えない。諦めてナビを操作し、とりあえずレッカーの手配をする事にした。ディーラーのインフォメーションデスクを呼び出すと、 「お世話になっております。高坂様」  二、三コールもしないうちに、応答の声が車内スピーカーに流れる。 「実は車が——」  そこへ、運転席側の車外に先程の男が戻って来た。 「事故で——」  真琴は驚いて、やや慌てながらもインフォメーションデスクに車の破損を伝えつつ、運転席の窓を下げて助手席から運転席側に身を乗り出す。男は申し訳なさそうに小さく苦笑いしつつ、下がる窓と共に頭を下げた。かと思うと 「よろしければどうぞ」  とだけ言ってバスタオルを真琴に手渡すと、またあっさり立ち去ってしまった。真琴もそれに答えて会釈をしながらも、目でその後を追う。インフォメーションとやり取りを続ける中で、真琴は男が数十m先の山裾へ姿を消すのを確かめた。やはり、どう見ても入山するようにしか  見えない——?  のだが、どう言う事なのか。  疑問に思いながらも、レッカーと修理、帰りのタクシー、明日からの代車などの手配を済ませると、今度はフォーラムの欠席連絡をした。諸々連絡をし終えてからようやく、男から受け取ったバスタオルを確かめつつも有り難く髪や顔を拭く。バスタオルからは、また仄かに 「やっぱりパン屋さん?」  のような良い匂いがした。思わず鼻を近づけて嗅いでみる。仄かに優しく暖かい匂いのそれは、それだけ今の身体がひどい状況である事を教えてくれもした。水気が拭えたのはとにかく有り難かった。梅雨時で気温が高いとは言え、ずぶ濡れで身体は冷えている。最低限のメイクを整えて、タオルから仄かに漂うパンの匂いを嗅いでいると、今度は妙に空腹感を覚え始めた。  こんな辺境に、  パン屋?  でもあると言うのか。  俄かに気になり始めた真琴は、雨が収まって来た事を確かめると、エンジンを切って車外に出る。渋滞は相変わらずで、レッカーは当分来そうになかった。それならバスタオルの礼に  パンでも買うか。  真琴は、男が立ち去った方へ向かった。こんな時でも腹はすく。元々昼を殆ど食えず、腹をすかせている身だ。ずぶ濡れの濡れ鼠だが、バスタオルの礼も伝えなくてはならない。男が戻って来た時間からして、そんなに奥まっていない筈だと推測し、今度はピンヒールで土手道を踏み抜かないよう、不格好に膝を曲げて爪先歩きで歩を進めた。  肩にバスタオルをかけると、やはり仄かにパンの匂いがする。それにつられてついでに  ホットコーヒーも——  飲みたいなどと勝手な希望を抱いていると、男が土手道から山に入った辺りに来て、からくりが判明した。土手道に切迫するように迫り出している山裾の樹木が、土手道の終点の辺りだけ、少し開けていたのだ。広さは二五mプール大であり、その周囲には高木が迫り出してはいるが、広場の中は中で、別に比較的低い広葉樹が覆っている。少し離れた所から見ると殆ど森林迷彩の状態で、その広場の存在は気づきようがなかった。川向こうの正面から見ない限りその存在は分からないだろうが、そこは南土手道の市道も終わっており、神社の丘があるだけだ。  その広場の奥の方に一軒だけ、古そうな小屋が控え目に建っている。そこは殆ど  隠れ家——  のようだった。  真琴はこんなひどい状況下ながらも僅かなときめきを覚え、好奇心が疼くのを感じ取る。足元に気をつけながら、広場の木々の間を縫って小屋の傍まで近づくと、小屋の目の前は少し開けた庭状を呈していた。  小屋の中には電気がついており、外壁の傍からは暖かそうな白煙も上がっている。南側の西寄りは開け放たれていたが、日除けのターフが軒下から地面に向かって斜めに展張されており、部屋の中は下半分しか見えなかった。その下半分から畳間が見える。  一方東寄りは、雨戸で締め切られていた。屋根の大きさから全体的に奥行きは感じられず、部屋と呼べるのは南側から見えるその二間だけのようだ。二間の南側を、畳二畳分程度の大きさのターフ二枚で外からの視線を概ね遮断出来る。そのぐらいの、吹けば飛びそうな小屋である。男の姿は見当たらなかった。  一見してパン屋では  ——ないわね。  当てが外れた。  足を止めた真琴は、土手側から小屋の中を眺め、僅かに首を傾げる。白煙はパン焼き窯には見えず、では何なのか。代わりに小屋の奥から聞こえて来るのは、何やら水を打つような音である。分かり兼ねていると水を打つ音が止んで、男が奥から西寄りの畳間に出て来た。不用意ながらも、矢庭にターフの隙間から目が合う。 「あっ」  それに少し気を乱した真琴が迂闊にも小さく声を上げると、 「レッカーの手配はつきましたか?」  ばつが悪そうな顔をしてしまう真琴に対し、男は鷹揚に答えた。梅雨時だが日は長い。雨で曇ってはいるものの、建物の内外はまだ薄明るかった。真琴は、肩に掛けているバスタオルを外してそそくさと折り畳むと、 「タオル、ありがとうございました」  と言って頭を下げる。 「どうぞまだお使いください。お身体が冷えてらっしゃるでしょう」  男は膝を曲げながらも、ゆったりとした所作で 「ちょっと足を洗っていたものですから」  畳に両膝をついて  跪座——  をしながら言った。  作法にうるさい家に育った真琴は、つい所作や立居振舞に目がついてしまう。だからこそだが、中々整っている男の所作につい目が張りついた。変に気取らず、柔軟そうな物腰が板についているが、口から漏れ出た言葉は 「どうか、なさいましたか?」  僅かな機微を見逃さない聡さを思わせる。 「あ、いえ、その」  思わず真琴は、歯切れの悪い三段論法で身体を捩った。他人に対して劣勢になるなどいつ以来か。記憶を遡るが思い当たらない。 「宜しければ、お掛けになりますか」  が、あえて子細に構わない様子の男は、畳間の南側にほんの少し張り出した縁側を勧めて来た。 「レッカーはまだ来ないでしょう?」  真琴がやや気後れ気味に目を下に落とすが、 「そこでは雨に濡れますし」  男が気を遣って更に勧めた。  女がずぶ濡れで雨に打たれて佇んでいて、男が直近で雨宿りしているのであれば、勧めない者はいないだろう。それを自分で催促しているようなものだと思い至った真琴は今更ながらに恥ずかしくなったが、拒否して意地を張るのもまた今更だ。 「では、お邪魔でなければ」  素直に好意に甘える事にした。のだが、  あの雨で——濡れていない。  縁側の西角寄りに腰を下ろそうとしたところで、それが引っかかり躊躇する。と言う事は、男は出先から戻ったばかりの一人暮らし  ——と、言う事か。  こんな山奥で男女が二人切りと言う構図に逡巡する真琴の前で、 「雨戸をしていたので、濡れていない筈です」  男はこんな所ですがどうぞ、とやはり鷹揚に言うだけ言うと、畳間の奥にある暖簾の向こう側へ消えた。  まあ、座るだけなら——。  真琴は、それなりに猜疑心が強かった。 「もう少し下った所で、大型トラックが横転して国道を塞いでるんです」  室内からは、やはり仄かにパンの匂いがした。 「そうでしたか」 「ええ。渋滞が続いているので、まだひっくり返ったままなんでしょう」  市道に流れた車同士も何箇所かで事故を起こし、そこへ大型車が紛れ込んだりで大変な有様らしい。暖簾の奥から戻って来た男は、火をつけた蚊取り線香を持って来て、真琴から畳半畳程度離して置いた。 「線香の臭いは気になりませんか?」 「ええ、大丈夫です」  ずぶ濡れで臭いも何もあったものではないのだが、やはり男は律儀な配慮を怠らない。  縁側に座った真琴の目線は、ターフの底辺より数十cm下にある。周囲の樹木の間から、市道とその向こうにある国道上で、未だに車が列を成しているのが見て取れた。 「この北側の土手道は農道みたいなもので」  男は、真琴の左横に畳一畳程度の間を空けて胡座をかく。 「草地の手前までは、農家の方が頻繁に車で出入りされるので、普通の車でも入れるんですけど」  二人の間に線香の煙が、ゆるゆると縦に上がり始めると、 「草地の方は山が迫り出して農地がないので、車の出入りがなくて荒れ放題なんですよ」  男は柔らかく事情を説明した。  対して真琴は、 「急いでいたもので」  とだけ返す。自分の非を認める習性に真琴は乏しい。が、以後の真琴は、思いがけず謝意を連発する事になったりする。 「災難でしたね」  それはこの男のせいである事に他ならないのであるが、いつになく思いがけない真琴に対し、男は何処までも穏やかだった。  しばらくすると、お盆の上に小振りのやかんと湯飲みを二つ、更に追加のバスタオルを持って来る。 「これを下に敷いてください」  男がまずは、バスタオルを真琴に差し出した。タオルを出されて、縁側を服の水気で濡らしている事に気づき、 「あっ、ごめんなさい!」  真琴は慌てて腰を浮かせる。 「いえ、そうじゃなくて」  男も慌てて、両手を突き出しそれを否定し、 「冷たそうで申し訳ないので、せめてタオルを敷いてください」  バスタオルを突き出した。  一々気を遣わせる事に、また申し訳なく思うと同時に、  まあタオルぐらいなら——  何か裏を勘繰るような構えを見せる事もないだろうと、とりあえず男の好意を素直に受け取る。 「このタオルなんですけど」  そのついでに真琴は、 「パンの匂いがするんです。部屋の中も仄かに」  タオルを顔に近づけ、匂いを嗅ぐ仕種をみせた。言われた男は苦笑いしながら、やかんで沸かした物を湯飲みに入れる。 「どうぞ」  と、茶托に載せた湯飲みを差し出すと、 「実は米糠と小麦のふすまなんです」 「は?」 「うちの洗剤が。全部、米糠とふすまなんです」  恥ずかしそうに二度言った。 「米糠とふすまが、洗剤になるんですか?」  思わぬ回答に真琴は思わず目を剥いて、声を大にして食いつく。  それは何の——  化学反応なのか。 「バイオ洗剤と言うヤツで。農家さんから貰った米糠とふすまを混ぜただけです」  遅れて、自分の湯飲みにも注ぎながら「あ」と小さく叫ぶと、 「小麦アレルギーは、お持ちじゃありませんか!?」  男は慌てて言った。 「それは、大丈夫ですが——」  真琴は、驚いた表情が露骨に顔に出てしまった事に気づき、 「聞いた事がなくてその——すみません」  慌てて顔を伏せ、また謝罪した。  今日はよく——  謝るものだと自分の迂闊さを恥じ入る。他人にこれ程謝るなど、完全に記憶がない。 「いえ、やっぱり変ですよね」  男は苦笑いしながらも、 「洗剤も石鹸もシャンプーも、全部一緒で経済的なんで、個人的には気に入っています」  開けっ広げた様子で、やはり穏やかな笑みを浮かべた。その思わぬ素朴げな優しさに、不覚にも一瞬動揺する。 「自然にも優しいので」  それとは気づかず続ける男は、何やらそれが、生活排水を分解して浄化するなどと説明をつけ加えた。  ——道理で。  あちこちから穀物系の匂いがする訳だ。米糠とふすまの洗剤ならば、着ている物からそんな匂いがしても当然である。しかし今時、石鹸も洗剤も頼らないとは、  いつの時代の——  人間なのか。真琴は油断なく、そんな穿った感情に種火を焼べ続けた。変わっている。憚らずに言うなれば  ——胡散臭い。  脱サラしたエコロジストか何かなのか。何がそう思わせるのかよく掴めないが、とにかく一見して感覚的に周囲に染まっていない。その一方でこの山奥では、  これがスタンダード?  なのかとも思う。でなければ、どう言う物好きか。 「最初、パン屋さんかと。白い煙も上がってましたし」  とりあえず無難に話を合わせる事にして、そう自分で言っておいて、では白煙は一体  ——何なのよ?  新たな疑問にぶち当たった。  パン屋でなければ、一見して陶芸小屋にも見えない。室内は物がなくこざっぱりと言うか、生活感に乏しい程に物がなかった。  そんな男は、 「薪で風呂を沸かしていますので」  また、思わぬ事を口にする。 「薪って、あの薪ですか?」  そう言って、またバカな事を言ったものだと後悔した。薪に他もクソもないではないか。今日の自分は何処かしら  やはり、少し——  おかしい。まあ、あのような事故を起こすようだから、元々が既におかしいのではあるが、それにしてもいつになく自分らしくない。 「ええ。裏の山が大家さんの私有林で、山の産物は採取の許可を貰っています」  男の答えに、 「ええっ!?」  真琴は、また思いがけず驚いた。  ここって借家!?  この小屋に大家が存在するとは思いもしなかったのだ。文脈からしてこの男は、この小屋を大家から借りて住んでいる事になる。男は男で、必要以上に驚かれる事に対して、軽く首を傾げて明らかに腑に落ちない顔をしていた。その様子に真琴は、  あぁ——  迂闊さを痛感しながらも、その理由を開示せざるを得ず、 「こちらは、その——ご自宅なんですか?」  申し訳なさそうに尋ねる。察した男が、すぐに表情を崩すと 「この四月からですが。借家です」  あっさり答えた。  ——ウソでしょ!?  どう考えても一時滞在用の山小屋だ。人の住居には見えない。自分の思考を正当化し、真琴が思わず突っ込みたくなるのを飲み込むと、 「よく山小屋と勘違いされます」  思っていた事を図星された。 「一々すみません」  また少し恐縮気に、頭を下げる。  男から受け取ったタオルを尻に敷くと、板の間から伝わる冷たさが軽くなり、心持ち尻が楽になった。 「ここは昔、大家さんが経営していた材木屋の社宅だったそうです」  物語調に語り出した男に、  日◯昔話しか!  思わず噴き出しそうになった真琴が、堪らず顔を背けて手で口元を押さえた。 「え?」 「いえ何も——続けてください」  子供の頃、テレビで見た記憶にあるアニメのお爺さん役の声とは似ても似つかなかったが、穏やかで落ち着いた振舞が男を必要以上に爺臭く見せ、真琴はしばらく口元から手を離せなかった。  この小屋は、裏の私有林で大家一族が林業を営んでいた頃、明治から使っていた長屋を、約六〇年前に四軒の木造住宅に改築したらしい。その後も材木商として細々と林業を営み、社宅として使っていたそうだが約一〇年前に廃業。その時この一軒だけを残し、他の三軒は解体したそうだ。残したこの一軒は、その後も大家が山の手入れの際の休憩所として使っていたらしく、この四月からは男が借りて住んでいる、と言う事だった。 「実は、家財道具も全部借り物なんですよ。大家さんの」  男は茶を啜り、 「この湯飲みもやかんも」  と言った。 「そうですか」  真琴も合わせて茶を啜る。 「ん?」  飲んだは良いが、思わず疑わしい声を上げてしまった。 「美味しいのですが、その——」  慌てて無様な弁明をする。  何? これ?  特に混ぜ物をされているような感覚はない気がするのだが、僅かな酸味でしかないパンチの効かないそれは、濃い味に慣れた者には文字通り味気ないかも知れない。 「なんちゃって陳皮茶です」  察した男が、茶の名前らしきものを漏らした。 「なんちゃって陳皮茶?」  おうむ返しに答えると、おかしさが込み上げて来て、真琴は思わず失笑する。 「貰い物の夏みかんの皮を捨てるのが勿体なくて」  恥ずかしそうに説明する男によると、みかんの皮は一年も乾燥させれば立派な漢方薬なのだそうだ。 「これは精々二、三週間物ですが」 「それで、」 「なんちゃって陳皮茶です」  くすりと小さく笑った真琴が、表情を和らげつつもまた啜る。仄かな甘酸っぱさが、色々あって疲れた体に不覚にも意外に染みた。 「美味しい」  少し軽くなった口が、思わず素直な言葉を発する。 「あ、本当ですよ」  思わず真琴がまた弁明すると、 「ええ。意外に美味いですよね」  男も少し顔を緩め、嬉しそうに語った。その顔に、また少し気が緩む。 「笹の葉もいいですよ」 「笹の葉?」 「ええ。今は切らしてますが」 「それは残念、です」  と言ってみた。男によると、自然の甘味が良いらしい。 「ちょっと失礼します」  その男が、今度は縁側からそのまま突っ掛けを履いて裏手に回る。少しすると、 「風呂の薪の調整で」  と言いながら戻って来た。 「ガスコンロがあるのに、お風呂は薪なんですね」 「大家さんの志向なんです」  なるべく自然に寄り添いたい大家の志向を守る事が、入居条件だったらしい。自然を壊さない程度に手入れしながら、その過程で得た産物や廃物を使って自然を壊さない程度に生活を営み、その過程で出た産物や廃物を使って、また自然を整える。 「文明開花以前のイメージです」  男は、心得たように説いた。 「それに、風呂を沸かす時に薪で(おき)を作っておくと、炭として使えますし」 「おき?」  その聞き慣れないフレーズに軽く語尾を上げて反芻すると、 「薪の燃え残りです」  薪を燃やすと、水分と木炭ガスが抜け切らないうちは煙が出るが、炭化が進むと煙が出ない熾が出来る。これをキープしておくと炭になる。昔の人々は、こうした炭を使って生活を営んでいた 「——らしいです」  男は何処か楽しそうに答えた。 「冬は火鉢で使えますし、燻製で使ったりバーベキューでも良いですよ」 「何だか楽しそうですね」 「ええ。ここの生活は楽しいです」  屈託なく笑った男だったが、その前に、  燻製?  と言ったからには、まさかそれを作っているのかと、また新たな疑問が湧く。 「実は、水は温泉です」 「え、温泉!?」  そこへ後出しの温泉が攻めて来た。  ——って、  飲用に耐え得るなのか。真琴は思わず、啜ろうとした湯飲みから口を離した。そのぎこちなさを晒す自分がまた、いつになくらしくない。当然の如くそれを察した男が、 「軟水の冷鉱泉なんです」  疑いを晴らすように説明を加えた。軟水の冷鉱泉は、美肌とか血行とか疲労回復に良い 「そうでして——」  傍にある井戸からモーターで汲み上げ、風呂と台所の蛇口に水を引いているらしい。 「で、燻製は——」  他人のやる事に興味を覚えるなど本当にらしくないと思ったものだが、気になるものは気になる。生来人嫌いの真琴にとってそのような好奇心は、本当に古い記憶を弄らなくては出て来ない遠い昔の思い出である。だが、古めかしい昔の生活を地で行っているこの男の生活スタイルは、知識欲をくすぐった。それなりに物を知っているつもりで生きて来たつもりだったのだが、だからと言ってそれが、  どうこうって事はないけど——  気になるものは気になった。 「隣の部屋で干物を作ってまして、それを燻製にするんです。農家の方から貰った籾殻で」  その隣の部屋は、襖で締め切られている。何でも先程の熾を使った火鉢で乾燥中らしく、梅雨時で湿気と格闘中らしい。 「これが中々いけるので助かってます」 「助かる?」 「ええ。干物と燻製は冷蔵庫を遠ざけますからね」  また現代人らしからぬ言で、男は真琴を動揺させた。 「冷蔵庫、ないんですか?」  顎が落ちそうになる程の衝撃である。今時の人間が、冷蔵庫なしで生きて行けるものなのか。 「あるにはあるんですが、大家さんの備えつけが」  電気代節約のために使っておらず、洗濯機もないなどと畳みかける。 「え?」 「手揉みで。風呂に入った時に一緒に洗います。どうせ石鹸も洗剤も全部同じですから」 「そう、ですか」  まあ言われてみればそうだ。全裸の男が風呂場でそれをしている様子を危うく想像しそうになり、気を引き締めた真琴は目線を変えた。戦前後色の濃いこの男の生活は、冷蔵庫に洗濯機と来てテレビが揃えば昭和の三種の神器だが、一見してやはりそれも見当たらない。今の何不自由ない文明の生活とかけ離れたそれは、不便さを思わせる中で理に適ったサイクルの一端も垣間見る事が出来る。脱炭素ではないが、省エネで自然に寄り添った生活である事には違いない。 「でも、下水道はありますからね。環境破壊が著しいとかで。あと、電気も来てますちゃんと」  何だかその言い訳めいた物言いに、思わず真琴は小さく噴き出した。 「すみません。——つい」  また、小さく謝る。 「いえ」  男も事もなげに返した。 「こちらは、お一人で過ごしてらっしゃるんですか」  目線を遠くへ投げると、依然解消されない渋滞の列。どうやら覚悟を持って待つしかなさそうであり、更なるプライベートが気になった真琴は、試しに少し突っ込んで訊いてみた。今いる部屋は四畳半だが、本当に物がない。ちら見する限り座卓しかなく、テレビもエアコンもなければ、扇風機すらない。  ——本当に、何もない。  と言って良かった。  この状況で、一人以上の生活が存在するとは思えない。もしそうならそうで、逆に猛烈な興味を覚えたものだが、 「ええ。天涯孤独の身ですから」  台詞の重さとは裏腹に、男は呆気らかんとして特に拘りもなく、予想以上の回答をした。  天涯孤独——。  それは肉親が誰も存在しない時のフレーズである筈である。男の外見年齢では、二親が存在していて当然の年代に見えるのだが、そうではないと言う事は、  訳ありなのか——?  多少の紆余曲折はある、と見るべきなのだろう。如何にもストレスレス然としたこの穏やかそうな男は、そう言うものからかけ離れたところに存在している、もっと言ってしまえば知らず知らずのうちに、苦労知らずの放蕩者のような蔑みすら芽生えていたようで、 「周りに気を遣う必要がないので気が楽です」  何の気なしにつけ加えた男に、 「寂しく——ないですか?」  真琴が更に少し食い下がった。  蔑みなど、今の自分がどの面下げて出来たものか。また密かに、自己の愚かさに打ちひしがれる。  そんな事などやはり露程も知らないのか気にも留めないのか。男は相変わらずだったが、 「そうですね」  流石に今度ばかりは、少し考える風を見せた。が、 「たまにこうして来客があれば、寂しくないですかね」  一瞬後には、やはりあっさり答える。 「あ、催促じゃないですよ」  慌ててわざとらしく補足するところなど中々軽妙さもあり、妙な心地良さを覚えてしまったものだ。 「まあ、流行りの一人キャンプみたいな生活を満喫しています」  と、どうやら本当に満足気なのだが、それだけではないと思わざるを得ない。  もっとも本人はいつも通りなのだろう事は、その穏やかな雰囲気が物語るところではあるのだが、その自然体が実は猜疑心の固まりのような真琴を大いに揺さ振っていた。その証拠として、気がつけば警戒すべき筈のお茶も、何を混ぜられたものか  分かったものでは——  ないとして口をつけるつもりなどなかった筈が、いつの間やらずるずると啜っている。更に、公私を問わず一対一でこれ程他人と話をするなど、真琴には覚えがなかった。それは単に、突然起こった非日常が影響を及ぼしているからなのだが。  少しずつ薄暗くなる辺りの景色は牧歌的で情緒的であり、自然目元が緩んだ。これに渋滞がなければ、  もっと良かったのに。  それを想像するに、樹間から見える盆地内の風景は、確かに一言でノスタルジックである。どんな気象条件でも、心の何処かの琴線を弾きそうな、そんな雰囲気だ。自然を愛でる心を少しでも持ち合わせる者ならば、きっと目を細める事だろう。そんな失われつつある日本の貴重な里山の情景だ。実際に雲が垂れ込み雨が煙った今でも、真琴の心を俄かに掴んで離さない。人工物に塗れた生活しか経験がない真琴にとって、目の前に展開する隔世的な景色は、自然に寄り添う尊さを再認識させるのに十分だった。  自然を壊さない生活とは言え、そう言えば、 「ごみ——は、」  当然出るだろう。ふと思った時には、真琴は既に口から言葉を漏らしてしまっていた。  あっ!  何を言い出したものか。また自分に呆れ、思わず口に手を当てる。 「え?」 「いえ、お気になさらず!」  不自然にぶつ切りにした格好で、真琴はそれまで目の端で捉えていた男から視線を逸らした。下顎を上げて、意味もなく軒の角を見ながら右手で口元を押さえる。迷惑を掛けて居座っている上、妙に所帯染みた話で相手の素性を窺うなど、どれだけ非礼なのだ。レッカーの到着予定の見当がつかないとは言え、流石にずっと居座る訳にもいかない。辺りは夏の夜と言えども夜陰が濃くなり始めている。男にも夕食や入浴があるだろう。  そろそろ——  中座するべきだ。  真琴が、口元に当てていた右手を縁側の板の間につけた瞬間、 「大家さんから土に還る物は、山に埋めても良いと言われています」  男が機先を制したように答えた。 「土手道は急な増水がないとも限りません。余計な救助を心配させられるよりは、ここに留まって頂いた方が私も安心出来ます」  ん——。  そしてどさくさ紛れに足止めまでされてしまっている。その巧さのようなものに僅かに顔を顰めた真琴だったが、自分の迂闊さを悔やむと共に男の察しの良さが、忘れかけていた警戒感を思い出させた。  一見して、このような山に籠って隠棲するような年齢でもなければ、タイプにも見えない。頭髪の裾はきっちりとまでは行かないが、乱れておらず常識の範囲内だ。奇抜さがないそれは、普通と言っては語彙の表現として味気ないが、文字通りどこにでもいそうな頭髪である。髭も生やしておらず、日々手入れをしている様子が窺え完全な世捨て人ではない。体型は上背があり痩せてはいるが、悲壮感はなくどこか達観しており、健康的な印象すら覚える。物腰は柔らかいが、物怖じせず落ち着きがあり妙に察しが良い。  第一印象に多大な影響を及ぼす顔つきも朧気な優面で、どこかしら力感に乏しく淡白な印象だが整っている。見た目は巷で言われる草食系だが、中身は明らかに異なり、どこか超然とした感がある。  総じて、端正と称して差し支えがなく、男を見る目が厳しいと自他共に認める真琴も、  これは——  認めざるを得ない、と値踏みした。 「看板に偽りなし」とは言ったものだが、まさにその通りなのかも知れない。隠棲しているのであれば、身形や言動は隔世感が強くなろうものだが、この男にはそれがない。直ちに今この瞬間でビジネススーツを着れば、十分ビジネスマンとして通用しそうだ。もっとも男の言う事を信用するならば、四月から暮らし始めてまだ二か月そこそこであるだけに、まだ染まり切っていないだけなのかも知れなかった。  加えて何処となく、佇まいに隙が無い。雲に包まれた辺りの情景が、そんな男の形に  雲心月性——  仏教由来の四字熟語を連想させた。地位や名誉、世俗の欲とは一線を画した超然としたものを男に感じ始めた真琴である。  やっぱり——  何処か、油断ならなかった。 「プラスチックやビン缶などの資源ごみは、勤務先で捨てさせて貰っています」  弛緩と緊張を繰り返す真琴を前に、男の口は相変わらず拘りがないようで、 「勤務先?」  真琴はまた、言質の尻尾を掴んだ。思わぬ功罪だ。自分の迂闊が男の素性に近づいた事を、警戒心を取り戻した真琴は逃さなかった。 「ええ。大家さんが介護施設の理事長でして。そこで二日に一度、宿直の仕事をしています」  男はやはり、何の衒いもなく勤務先を明かす。 「宿直、ですか?」  介護士なら仕事のイメージが出来るが、宿直とは介護士とは違うのか。腑に落ちない声色を滲ませると、 「戸締り、見回り、火の始末、電話番——夜間の留守番要員です」  男はやはり、あっさり説明した。 「夕方から翌朝まで就いて、二食仮眠つきで助かってます。今日は非番で、また明晩泊まるんですが、殆ど二食仮眠を貪りに行っているようなものでして——」  はは、と男はどこまでも柔らかい。  ぽつぽつと時間潰しのやり取りをするうちに、真琴はその男の語り口に、山小屋と男のイメージが重ならない理由を、また一つ見つけた。 「なまりがないですね」  唐突に直球で疑問を突く事で、何かボロが出るのではないか。恩を仇で返すようで気が引けもしたが、気になったものは仕方がない。だんだんと男の怪しさが増しているのだから  仕方がないのよ。  自分自身に言い聞かせる。  春からそこかしこで耳にする広島弁は、首都圏生活が長い真琴には極めて異質な方言だった。使われ方よっては、荒々しく語尾もキツくて殆ど口喧嘩しているようにしか見えない事もある。  なんだけど——  男には一切それがなかった。標準語と変わらないイントネーションが、油断に繋がっていた事に気づく。が、それはそれで、広島の山間に住む者としては余りにも不釣り合いであり、それに気づくと疑念に近い感情が芽生えた。似合わないと言う事は、やはり  ——胡散臭い。  何か企てのようなものの存在を彷彿とさせ始める。こうなってくると、それが人のアイデンティティーやセンシティブな面にずけずけと触れようとしている事などお構いなしになる自分を愚かしくも思えた。身を守るためなら何でもすると言うのは、真琴にしてみれば小物染みており端ない。  とは言え——  恩はあれども、人気のない山小屋で二人切りなのだ。お互い妙齢と言うか、微妙と言うか、奇妙と言うべき年齢の男女である。やはりある程度、何らかの担保を欲するのは  本能よ。  と言う事にした。  本能に負けてしまった真琴は、人嫌いの自分が人の本性を晒す事で、自分も愚かな人間に過ぎない事を改めて再認識させられ密かに自己嫌悪するのだが、 「実は、広島は二〇年振りなんです」  男はまた、実にあっさり白状した。 「高校まで過ごして、後は転々と言うか——」  男が続けるのを、思いがけない事を聞かされた真琴が、 「えっ!?」  普段は冷静沈着を常としている自分とは似ても似つかない言動に、また軽く打ちのめされる。男がまた僅かに訝しむ様子に、 「いえ、その」  真琴はまた、ばつが悪そうに消え入りそうな声で呟いた。 「お年が、」 「あぁ——」  例によって男はまた、 「今年で三八になります」  屈託なく答えたものだ。 「見えない!」  それについ、勢い余って思い切り突っ込んでしまった真琴だった。  一体全体この男は  ——何なの!?  悉く自分の常識的な想像を穿つ男に、知らず知らずのうちに常識に縛られていた事を痛感する。 「良く言われます。いつまで経っても箔がなくて。大人の厳つさを持つ人が羨ましいですよ」  そんな男は、苦笑いしながら頭を掻いてみせた。 「首都圏にも何年かいたので標準語に染まったんですが、それでもここぞの広島弁はそれなりに助けられたもので」 「例えば?」  真琴の素直な問いかけに、 「そうですね——」  と言った男が 「『じゃけえ』とか『わりゃあ』とか『どしたんなら』とか」  見た目との懸隔が著しい方言らしきものを吐く。その見事なまでのチグハグ振りに思わず 「似合わない!」  真琴は失笑した。その直後、また慌てて謝ったものだが、 「まあ、よく言われるんで」  男はやはり、事なげもない。 「知り合う人には大抵、詐欺師だとよく言われます。色々意外だとかで」  男は照れ臭そうに白状した。  自分が辿り着きたかった答えを男の口から聞かされるや、もやがかかっていた頭の中が晴れる。 「そう詐欺師! それぴったり!」  真琴はつい、激しく追認した。 「——あ」  で、また慌てて謝る。非日常の非常時とは言え、すっかり他人のペースなど有り得ないにも程があった。その原因の全てが、何もかも詐欺師を自認するこの男のせいだ、と思い至る。何かにつけてそのベクトルが、つい常識的な観点で推し量ろうとする真琴の物差しで量りにくい。常識と非常識が男の中で当たり前のように同居しているようで、本当の姿が見えて来ない。だから詐欺師と言う表現は、  的を得てるわ。  真琴は内心でも大いに追認した。  更に言うならば、この短時間ではあるが、その外見に何処となしに知性と寛容さを漂わす男は、器によって形を変える水のようでもあり、周りによって色を変えるカメレオンのようでもあり形容に尽きないが、意外性の観点からすると詐欺師の見立ては一番しっくり来た。でなくては自分がこれ程、赤の他人に絆される  ——筈がない。  その自己分析は、事実とは言え寂しいものだった。  幼少期からのお家事情により、実は屈折した人生を送り続けた真琴は、基本的に性悪説論者だ。人の善性を疑わざるを得ない悲しさは自分でも良く理解してはいたが、自分を取り巻く人種にまともな人間がいないのだから仕方がない。他人の在り方こそが今の自分を作らせたのだ、と言う自己防衛のとどのつまりが、性悪説的思考を芽生えさせたのだ。 「人間の本性は欲望的存在に過ぎないが、学問などを修める事による後天的努力により公共善を知り、礼儀を正す事が可能である」  と荀子が説いたそれは、真琴の解釈では人間社会など、猿山の猿と同じだった。知識も教養もない愚かな人間が、欲に塗れ本能に溺れ好き放題する構図を思う様見せつけられて来た真琴にとって、人間社会など混沌以外の何物でもなかった。ここまで凝り固まり、最早修正不能に陥っている頑なな自分を、この詐欺師は強い意外性で揺さぶるのだ。たまたまこのような市井に根づいた人種との関わりが今までの人生で余りなかったとはいえ、この男は何処にでも身が置けそうであり、為人が巧緻な熟れ方をしている。実際に、山奥だろうと都市だろうと卒なく渡り歩いて来たのであろうその風合いを思わせる形は、  ——やはり、  油断ならない。密かに気を引き締めさせるのだった。  そんな真琴をよそに、 「実はこんな生活をしていますが」  前置きした男は、 「今はたまたま、こんな生活をしているだけです」  また一つ白状する。 「これまでは、ちゃんと普通の石鹸や洗剤使ってましたから」  何だか誇らしく語るその様子がまた滑稽で、真琴は気を引き締めた割に失笑を堪え切れなかった。 「物が少ないのは?」 「元々です。詐欺師じゃ食っていけないんで」  また自信満々に言うので、真琴はまたつい噴いてしまう。 「でも、この生活は気楽で気に入っているので、今後はずっとこんなかも知れませんね」  ——随分と居座ったな。  いつまで経っても、状況は全く変わらなかった。 「今日の渋滞は本当にひどい」  夏至が近いが日も没して久しく、辺りは流石に闇に塗れた。 「これだけの交通量があるのに、この道路から得られる町の経済的効果なんて高が知れています。確かに道路はないと困るのですが」  道路の整備事業において、経済効果算出に用いられる「費用便益分析」では、得られる経済効果に対して事業に投入する財務的価値の比により、その効率を出すのであるが、経済的価値が財務的価値に対して一を超えて来なければその路線は赤字となる。もっとも、 「事実上の生活道路を兼ねているような幹線道もありますし、経済主眼だけで語るのは乱暴ですが」  都市部の幹線道や高速道路以外は、殆どが厳しい結果である。それよりも高速道路の事故通行止めによる経済的損失が圧倒的に大きくかつ目立つ。周辺に回避した車両が引き起こす一般道の損失などは、高速道路の注目度には勝てない。つまりは、 「住民がその便益を得られていると言う実感は少なく——」  不利益を受ける時は徹底的、と言う要点らしかった。 「確かに、今のあなたのように」  真琴が自虐的に締めると、 「私は珍しい客人を迎えて、どちらかと言うと——」 「言うと?」 「得難い経験をしたものかと」 「それは利益と言う事ですか?」 「いえ、あなたの事故を利益と言う訳には——」  気がつくと和やかに、軽妙な話を交わしている。  それにしても山奥で経済とか、  言われても——  こう言っては何だが、費用便益効率を語るような山奥の人間など当然覚えがない。 「以前、政府の交通統計をちょっと調べた事がありまして——」  他意はありません、などと言う男は、真琴の底意を感じたかのように苦笑して見せた。 「そう、でしたか」  真琴はとりあえず合いの手を出しはしたが、  ——だから?  どうしたと言うのか。 「何か変な事言っちゃいましたね」  はは、と追加で空笑いする男に  ——よく分かってるじゃない。  真琴は悟られないよう、話の流れの中で首を捻った。本人の言う通り、全くおかしな男である。なのだが、真琴はまた一つ気づいた。  私の事を、全く聞かない。  男は、真琴に尋ねる機会はいくらでもあったのだが、それを全くして来なかった。内心、いつ痛い腹を探られるのか気にはなっていたのだが、いつまでも探りすらない。それに甘えて真琴はと言えば、つい男の皮ばかり剥ぎ取り続けてしまっている。フェアでない事は承知しているのだが、やはり自分の素性は軽々しく言えたものでは  ——ないし。  ナチュラルに自制が働いてしまう。そのあおりを食らった男が、長時間無理をして場繋ぎをしているのだから、おかしな事を吐き始めてもそれは無理からぬものだった。結局は自分のせいなのだ。  だからせめて、 「なんだか聞いてばかりですみません」  と言ってみた。  それでも男は、 「いいえ」  あっさりとして明解である。  ややあって、 「詐欺師ですから、気をつけるに越した事はありません」  と言うと、 「この家は一見して怪しいですから」  何処か嬉しそうな男は、やはり拘りなく吐いた。何か事情はあるようだが、今の生活は本物のようであるし、  特に下心はなさそうね。  流石にここまでやり取りすれば、何となくそう収まりをつけようとする。 「騙されないように気をつけます」  と言う真琴の横で、男は黙って頭の上に両手で耳を作って惚けたかと思うと、 「あ、そうそう、狐、狐!」  何事か思い出しては、そのまま狐耳のご愛嬌のまま、また台所の方へ逃げ入った。その滑稽さの背後に、性悪説に謳われる人としての後天的素養を感じざるを得ない男は、詐欺師であろうと何であろうと、これまでに真琴が見て来た人種の中では実に熟れていて、それでいて極めて異質だ。ここに至っては、それを認めざるを得ない段階に来たようだった。  ——それにしても、  まさか小芝居でも用意しているのかと真琴が様子を窺う中、男は暖簾の向こうで何やらごそごそしている。しばらくして、両手で持って来た皿を二人の間に置いたそれは 「頂き物なんですが、」  稲荷寿司、らしかった。 「え?」  と、言われても——。  笹の葉に包まれた筒状の物が、ピラミッド状に積み上げられており、一つ一つがやたら大きい。 「夕方に農家の方から貰ったんですが、流石に多くて」  一〇個の稲荷寿司は、既製品として店頭で陳列されている物と比べると軽く二、三倍はある。一個でちょっとした碗の一杯分はありそうなそれを、 「デカいんで、毎度食い切るのが大変なんです」  男は早速葉を剥いて頬張った。 「田舎は、もてなし料理が半端なくて」  苦笑しつつも懸命に頬張る。もてなす物がないからせめて、 「食い物くらいは」  と言う事らしいそれに、真琴はやはり手が伸び辛かった。実は猛烈に腹は、  減ってたり——  するのだ。昼を殆ど抜いたも同然なのだから当然と言えば当然だ。が、やはり茶は良しとしても、  食べ物は——  警戒感が強かった。よく知らない人間の前で得体の知れない物を食らうなど、それなりの生活をして来た真琴にしてみれば、何歩譲ったところで有り得ないにも程がある。  のだけれども——  人心地がついてしまうと腹は正直だった。昼はろくに食っていない、と言う事は朝以来、  殆ど食べてないのよねぇ——  と言う極当たり前のフレーズを脳内で反芻する。つまり、兎にも角にも問答無用で腹は減っていた。しかもここへ来てからと言うもの、バイオ洗剤と称するパンのような匂いのせいで空腹が刺激されているのだ。だが、ここまで油断させておいて、  もし何か——  と言う止め処なく続く心の声に 「怪しい物は入っていません」  男がまたあっさり被せた。  驚いた真琴が、口に手を当てて口が閉じている事を確かめる。余りの空腹に口が滑ったものと錯覚した真琴が目を瞬いていると、 「何かするつもりなら、もうやってます」  稲荷寿司を詰め込んだ口で、やはり男は屈託なく言ったものだった。その籠った声がまたおかしくて、真琴はまた失笑する。  折れどころ——  らしい。言われたとおりだった。何かしようと思えば、いくらでもその機会はあった。お茶に混ぜ物をするだろうし、後ろを取る機会などいくらでもあった。  まあ——  そんなドジはしない真琴ではあるのだが。  それよりも、既にインフォメーションデスクに、レッカーやタクシーの手配をしているのだ。本当に何かするつもりならば、その手配をする前でなくては何かと不都合である。それでも何事か強行しようものならば、既に行動を起こしているレッカーやタクシーは、男にとっては明らかに面倒に成り得るだろう。もっとも、そんな事など形振り構わずと言うのなら話は別である。だが詐欺師を称する男は、そんな短絡の愚を犯すようには  ——見えない。  その結論が全てだった。  これ以上は、他人を信じないどころか自分自身の感性すら信じられなくなりそうだ。自分の業を知らない人間に対して、わざわざこれまでの人生と同じように振舞うのは明らかに  勿体ない——。  今、啜っている陳皮茶と同じだ。ちょっと手を加えるだけで、まだ十分飲み食い出来ると分かっている物を、みすみす疑いなく捨てるようなものだ。これまでの人生は、意地や見栄や体裁に取り憑かれ、訳も分からずろくに分別せずに良い物も悪い物も殆ど全て捨てて来た。それと同じようにするには、この状況は  少し、惜しい—— ような気がした。  大体が、今日は散々無様を晒した身なのだ。壁を作ろうにも、今更何処にそんな壁があろうと言うのか。今更取り繕ったところで、意地も見栄も体裁あったものではない。それこそ余計に無様を塗り固めるようなものだ。そして男は、そんな真琴の頑なさを見透かしている。取り繕う必要は、もう何処にもなかった。  真琴は、降参宣言の代わりに 「どうかしら?」  意地悪く笑みを浮かべつつ、大きな稲荷寿司を一つ手に取った。 「そんなに見境ないように見えますか?」 「男なんて分かったもんじゃないし」  言いながら葉を剥いだ真琴は、一口頬張る。 「——美味しい!」  空腹も手伝っての事ではあるが、もち米入りの具がふんだんに盛り込まれたそれは、味つけも確かで 「こんな美味しいのは初めて!」  真琴は手放しで褒めちぎった。 「農家のおばちゃんが喜びます」  男は嬉しそうに、既に二個目を頬張っている。 「でも、余り気を緩めると——」 「狐にでもなるの?」 「いや、今日日の男はそんな生優しくは。虎狼の輩ですから」  男はまた、ここでも思いもよらぬ事を口にした。この柔そうな男に虎狼の輩と言われても説得力に欠けるのだが、 「ほら、やっぱり。危ないんじゃない」  自ら墓穴を掘る男に乗っかり、とりあえず突っ込んでおく。 「あくまでも一般論を言ったまでですよ。自己分析ですが、理性と遵法精神は人より備わっていると思ってます」  まあ、証明しようがありませんが、と困る男に 「あら、詐欺師なのに?」  真琴は失笑しながら軽くあしらってみせた。が、一方で内心、素人から遵法精神と言うフレーズが出て来る  ——ものかしら?  と、やはり一抹の何かを感じさせられる。 「そう言う時は、逆の証明を立てるのよ」 「逆の証明、ですか?」  命題を直接証明しにくい時,その命題の対偶を証明するという数学的間接証明法であるそれは、 「背理法」  と言われる。 「難しい事は苦手なんですが——」  うーん、などと唸りながらも真琴の呼び水に真面目に答えようとするその姿勢が、既に男を少しずつ虎狼から遠ざけているのであるが、あえてそこは言わない。そんな男の口がどんな事を吐くのか、真琴は興味を覚えた。 「あ、山月記——ですよ」  と男が、とりあえず思い出したままに口にしたそれに、 「の、李徴?」  真琴はまた、小さく噴き出す。  中国古典をモチーフにした中島敦の傑作は、李徴と言う官吏が 「高名な詩人になれず発狂して——」  虎になる、と言う話である。大抵高校二年時の現国で習うのだが、その内容は 「自尊心が高い狷介な男が、って事よね」 「ええ」 「で?」  逆の証明、の筈である。 「詩を志すような高尚さもなければ、自尊心も狷介さもないので——」 「虎ではない、と?」  それでは明らかに証明として不満足である。 「それだと虎になるような人は、高尚で詩を嗜む人だけになっちゃうでしょ?」  高尚な詩を嗜む人達が怒るわよ、と真琴は追加で噴き出した。が、その実、山月記とそのモチーフとでは虎になる理由が若干違っており、この場では中々際どかったりする。モチーフは清朝の伝奇「人虎伝」と言われ、それによると李徴は寡婦との逢瀬を妨害された怨みで、とある一家を焼殺し、その因果応報で虎に変身するのだ。この山奥で妙齢の男女が二人切りの時に、知ってか知らいでか男は中々際どい逆説を持ち出したものだ。仮にそこまで説明出来たなら、山月記よりはましな証明になる気も  ——するんだけど。  その内容の際どい情感が、また真琴に密かな警戒感を呼び戻させた。固い表情を悟られたのか、男は尚も頭を押さえて考え込んでおり、それが少し微笑ましく思ったり、する事はするのだが。 「ウィリアム——」 「——ブレイクの『虎』?」 「詳しいですね」  次なるは、英ロマン派を代表する詩人のそれで、文字通り「The Tyger」のタイトルで始まる中々ストレートな詩だ。が、 「あれは、誰もが抱えてる精神を覗いたものでしょう?」  虎の姿を借りて、人間精神の内面を掘り下げたものとも言われ、それを否定出来る人間など 「悟りを開いた高僧ぐらいかしらね」  とりあえず知っている虎を吐き続ける男に、即断でダメ出しし続ける真琴は、ついまた失笑した。 「——こう言う問答は、苦手なんですよ」  と、ぼやくその如何にも情けない声色は、しかして愛嬌があり気がつくと不意に心が落ち着いてしまったりしている。  やはり、 「油断ならないわ」 「哲学は嗜んでないんですよ」  今度は違う意味で警戒する真琴を前に、男は困惑気味な言とは裏腹に、稲荷寿司を頬張り続けている。 「美味しいんだけど、少し大き過ぎない?」  真琴は思わず、また失笑させられながらも、柔らかく不満を漏らした。  結局、渋滞が解消し始めたのは午後九時前だった。雨も上がり、国道も市道もゆるゆると渋滞の列が動き始めると、十数分後には盆地内の渋滞は解消し、ほぼ通常の速度で延々車が流れ始めた。元々が信号すら殆どない路線である。流れ始めると復旧も早い。稲荷寿司のピラミッドは、最後の一段で解体が止まり、手をつけ始めて三〇分程度で下げられた。男がどうにか五つ、真琴は三つ食べるのが精一杯だった。 「これなら今回は、明日には食い切れます」  男は安心したようで、入れ代わりに、やはり貰い物のプチトマトやあんずを持ち出した。 「水菓子?」 「そんな上等な物じゃありませんよ」 「これはこれで、立派な物よ」  それはそれで、やはり自宅で食す物よりどう考えても濃厚な美味であり、少しばかり真琴を驚かせたものだ。その後は、茶を啜りながらぼんやりした待ち時間だった。ぽつりぽつりと真琴が口火を切るのは、山での生活向きの内容ばかりで、以後は余り突っ込んだ事を尋ねなかった。男は男で、それにぽつぽつと答えるだけで、やはり真琴の事を聞き出そうとはしない。  気を——  遣われているとしか思えなかったが、そこは男の配慮と受け止め、やはり真琴は一切素性を割らなかった。  渋滞車両のテールランプやヘッドライトが少なくなると、山間は闇を濃くした。その思わぬ暗さと静けさに  ホントに山奥だ。  今更ながらに、その山深さに少し慄いた。口には出さなかったが、こんな山奥で一人取り残されていたのかも知れないと思うと、今更ながらに背筋に寒気を覚える。  しばらくすると、ようやく真琴のスマートフォンが素気ない音で鳴り始めた。レッカーの到着予定を知らせる連絡だった。 「お風呂」 「え?」 「待たせてごめんなさいね」  男は食べ物を出し終えると、風呂にも入らず部屋の中央にある座卓の前に座り、静かに本を読んでいた。流石にずっと横に居座るのも変だと思ったようで、その程良い距離感は真琴を少し安心させた。真琴は真琴で、何となくスマートフォンを突いたり、本を読む男に話かけたり、ぼんやり辺りの闇を眺めたり、その繰り返しだった。 「いえ。レッカー、良かったですね」  男は顔を少し綻ばせる。 「居座っちゃって」 「縁側ですみませんでした」  水が滴る程ずぶ濡れなのであれば、普通は着替えを与えたいところだが、よく知らない男の服や下着など、どう考えてもNGだろう。また、部屋に上がるよう言われたところで今の形で真琴は上がり込むつもりにはなれないし、それを察する男もそれを言い出せない。更にはそんな真琴を放ったらかして男も風呂に入れる訳もなく、現況は互いの境界線を暗黙で探った成れの果てだった。 「気にしないで、って私が言うのも変だけど」  真琴はせめて、さばさばと立ち上がった。 「本当に、助かったわ」  すっかり角落ちした真琴に対し、 「いえ、お気になさらずに」  男は相変わらず敬語だ。元々そう言う性分のようで、殻を破った真琴に対しても、男は変わらず穏やかだった。 「タオルは借りて行くわ」  真琴は、尻に敷いていたバスタオルを軽くはたくと、それを腰に巻きつけ泥で汚れたスカートを隠した。肩からもタオルを掛けたままだ。立ち上がった真琴の傍には途中から置かれた火鉢があり、お陰で寒さはなかった。それは隣の部屋で干物の乾燥に使っていると言う件の熾入りのそれであり、男が持って来てくれたものだ。服の湿り気は随分緩んだが、干物の具合に多少は影響を及ぼした事だろう。そんなところでも男の生活を乱してしまった事を思うと、つくづく自分の浅慮がもたらした結果の大きさを認めざるを得なかった。バスタオルを腰に巻きつけた無様な姿はその報いだ。その有り得ない形にプライドの象徴たるピンヒールは、  どう考えても——  合ったものではない。真琴は縁側に手をつきながら中腰になると、それを片足ずつ脱いでは足元の靴脱石に踵を打ちつけ、長いヒールの根元を折った。まさかこんな事をする日が来ようとは、今日この瞬間まで思いもしなかったのだが、やってみると何を拘っていたものかと自嘲したものだ。  平らになった両足を履き直すと、折れたヒールを手に取った。その人工物は男の生活には不要の物で、まさにごみ以外の何物でもない。それでも廃棄を頼めばこの男の事だ。何の衒いもなく応じるのだろう。それを頼まない事は、かけた迷惑に比べれば極細やかな事だが、それでも迷惑の上塗りになるような事はもうする気になれなかった。 「今度、返しに来るから」  言いながら真琴は、肩にかけたバスタオルを軽く叩いて見せる。 「どうぞお構いなく」 「そうはいかないわ」  俄かに押し問答となった。最終的に男が折れる格好になり、 「次に来られる時は、ヒールの高い靴は避けた方が良いですよ」  縁側まで擦り寄るとまた跪座する。 「そうするわ。お世話になりました」  素直に肯定した真琴は、それに対して両手を自然体に垂らすと、七〇度角の立礼をした。和式立礼では最敬礼と呼ばれる最上の礼式である。 「あ、いえ」  現時点の形の良し悪しを問題にしない、その現代人らしからぬ美しい立居振舞に思わず目を奪われたらしい男が 「お粗末様でした」  慌てて正座し、何とか答礼を示す。少しして頭を上げた男に柔らかく会釈した真琴は、余韻そのままに立ち去った。  以後は振り返らず、土手道の車まで戻った。これ以上気を遣わせては悪い。振り返ってみたい気持ちもあったのだが、そこは我慢してそのまま川土手に出た。車まで戻ってみると、まだレッカーは着いていない。ようやく、改めて山小屋の方を振り返ってみた。車の位置からは、既に山小屋の明かりは殆ど見えず、やはり森林明細を呈している。  だから——  雲心月性なのだ。少なくとも、こんな山奥で狼貪虎視だと虚勢を張られたところで、説得力も何もあったものではない。改めてそう思うと、何となくだが場所と言い住人と言い、腑に落ちたような気がしたものだ。雲間から覗く穏やかな三日月は、既に西の空の山の少し上にある。人の手が届かぬ所を飄々と流れるその雲と、朧気な月明かり。それを背中に受けながら山小屋に思いを巡らせてみたりする。妙な聡さを持ったあの男なら、そんな情景のような意味合いの自己弁護が  出て来そうな——  気もしたのだが。  と思う一方ですぐに、そんな所の人は自らそれを口にする程  ——図々しくないか。  と思い直した真琴は、レッカーが到着するまで間、穏やかな顔つきで山小屋の方を眺め続けた。
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