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いつもと同じ時間。同じ電車。それにもかかわらず、乗客の数はまだらなで、ぼんやりした静謐を保っている。春休みの恩恵さまさま。あなたはひっそり安堵のため息をつく。まだちょっと彩りに欠いた、秘めやかな世界。
窓からの景色をながめながら、あなたは一定のリズムを刻みつづけるジョイント音にはこばれていく。いつもの定位置、四号車のボタン式ドアの脇に背をもたせかけ。
寝ぼけまなこの町。時間は優しく、こんがり焼けたバケットに溶けるマーガリンのようにゆっくりながれる。
夕方そっくりの朝影と、きらめく霞のサラブレッド。夜のとばりのなごりで冷えた空気が、きめ細かな高積雲のすきまから洩れる、お日さまの欠伸にほだされていくディゾルブ。くすんだ車窓の端っこ、あなたは指で心ともなく桜の花びらを描く。
季節の変わりめをかんじる瞬間、いつもあなたは「お腹のなかに蝶ちょがいる」という外国のイディオムを思いだす。
期待に胸はふくらみ、それと背中合わせに影をひそめる一抹の不安、ノスタルジックなわびしさが、奇妙に心地よくて。会者定離の常套――ふしぎな余韻に思いふけるのだった。
きっかけを例にあげるなら「ベランダの軒下にまねかれたツバメの巣」に「たくましい入道雲」、あとは「色なき風にはこばれる虫たちのフィルハーモニー」とか「雪に噛まれても可憐に咲きほこるパンジー」もそう。
それがこの日に至っては、行きつけのベーカリーショップの春フェアだった。数量限定のクグロフ、シュトーレン、カラフルサンド。あとは、ええと……なにがあったっけ?
食べることがすきで、行きつけのベーカリー「WELA」の焼きたてのパンにすっかり虜のあなただから。青空にうかぶ高層雲でさえ、うららかに笑うどうぶつパンに映っちゃうくらい。
あなたは巾着デザインのトートバッグを肩にかけている。持ち手に引っかけたカラビナが、ときどき朝日にからかわれ、ぴかぴか光る。すいかの浮き輪にサングラスをかけたミッキーのキーホルダー。
バッグの内ポケットにもうひとつ、秘密のキーホルダーがある。いつかの放課後――雨を凌ぐために立ち寄った本屋さんのガチャポンで、かれと買ったもの。寝ころんで読書するリスのアクリル。偶然おそろいのキーホルダー。いっしょに付けるのなんて嫌がられると思ったけど、「どこに付けよっか? 見えないところがいい?」って、かれに提案してもらえたこと。珍しくはしゃいだ、かれの横顔。あなたの記憶にずっと焼きついたまま――
高校の最寄り駅の、ひとつ手前の駅。窓を開けていると、その辺りから潮の香りがただよう。ふしぎなもので、香りをきっかけに波の音が耳にとどく。
東の景色を眺めつづけても、海のきらめく風浪を目にするのは瞬きにひとしい僅か。晴れの日だろうといっしょ。つらなる山岳地帯に妨げられてしまうから。
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