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新米先生【先生のアノニマ 2(上)〜1】
六月中旬。日本時間午後一時過ぎ。
米軍横田基地に降り立った俺がろくに休む暇すら与えられず、土砂降りの大雨の中を連行され続けた終着は、何と都内の
「——中学に、高校ぉ?」
だった。
在日大使館の車は既にいない。辛うじて雨に打たれないよう、校舎の玄関先まで車をつけてくれたぐらいで、トランクに積んでいたズダ袋とその持ち主を降ろすなり、とっとと立ち去ってしまっていた。
——おいおい。
任務を開示しない上に投げ捨てとは。いくらなんでも僻み過ぎではないのか。こっちは好きでパイロット稼業をやってきた訳ではないのだ。と、思ったがすぐに諦めた。自分の意思など通る事のない身の上だ。
とりあえず、おずおずと正面玄関から中に入り、その傍にある大部屋の窓を覗いてみた。職員室らしい。その中の女性職員が、窓越しに肉薄して来る。
「——シーマと申しますが」
とりあえず、コードネームのファミリーネームだけを英語で名乗ってみた。結局、任務もそうだが、送りつけたというステータスの内容の説明もなかったのだ。そもそもが、それを送った先がこの学校なのか。それすら怪しい。
少しでも怪訝な反応をされようものなら、
——脱走したろか。
何の気なしにそんなフレーズが脳裏に浮かんだ。
——そうかぁ!
意外にも簡単な事なのかも知れない。
既に天涯孤独で身軽なのだ。守る必要のあるものなど何もないではないか。瞬く間に勝手に脳内が盛り上がり始めたところで、
「Please wait a moment.(少々お待ちください)」
意外にも流暢な返答が返ってきた。英語教師だったようだ。結局、その先生に案内されてやって来たのは、職員室と同じフロアのやや奥まった所に位置する部屋だった。扉の上についた、学校内ではお馴染みのクラス名プレートには【理事長室】とある。流石にそこまで連れてこられたからには、この身のやり場が
どうやらマジで——
この学校にあるらしい。
そのまま中へ連れ込まれると、アラサーの淑女が一人。大きな机の向こう側で、柔和な笑みを浮かべて立っていた。上品にして才知溢れんばかりの婉容だが、それを上回る徳のようなものの眩しさが只ならない。
「ようこそお越しくださいました。シーマ先生」
「先生?」
その違和感あるフレーズにつられ、ついそのまま日本語で答えてしまった。すると淑女の目元が更に穏やかになる。
「流石に澱みない発音でいらっしゃいますね」
「何かの間違いでは?」
先生などと。何かと異名の多い身だが、お世辞にも冗談でもそう呼ばれるのは初めてだ。
「いいえ、何も間違ってなどおりません。シーマ少佐」
「——はぁ」
「詳しい事は、指揮下にお入りいただく先生から説明してもらいますので、まずは校内をご案内致しましょう」
何処もかしこも、肝心な事は後回しでまるで順序が逆だ。もうどうこういったところで、どうにもならないらしい。
「このような形で構わなければ」
とりあえずそう言って、わだかまりを濁した。
このような形と称した半袖ポロシャツと綿パンは、共々我ながら素気ない。灰とも青とも判別つかない地味な統一感は、公私兼用を考慮しての事だ。背負っているズダ袋の中身だけで日常生活に不便を感じない俺は、よくいえばミニマリスト、悪くいえばズボラとか適当、という事になるだろうか。見た目を着飾る趣味はなく、生活は実用性重視の俺だ。
「動きやすくて結構かと思います」
そんな男を前に淑女は、スッキリと整ったライトグレーのビジネススーツだった。俺の無頓着振りが際立つばかりの見事な佇まいで、その机の前面に置かれた名札には【理事長高坂千鶴】とある。その視線を察したらしい理事長が、早速動き出しながら
「名乗る程の者ではございませんが、理事長の高坂です」
目の前に迫ると握手をしてきた。
「先生には重責を担っていただく手前、余計な事にお心を砕かれる必要はございませんが、宜しければお見知りおきくださいませ」
では、むさ苦しい所ですが宜しければおつき合いください、と熟れた優しい笑顔を見せつけられてしまっては
「狐に摘まれているようです」
後出しを飲み込む外なかった。
「まあ。本当にお達者な日本語をお使いですわ」
その若理事長の微笑が小さく弾ける。まるで観音様が微笑まれたかのようだ。
学校法人太史学園太史中学高等学校。高校からも入学可能な男女共学の所謂併設型中高一貫校は、歴史を辿れば江戸期から約三〇〇年の歴史を有する私学らしい。元を正せば武家故実(武家の生活諸般のしきたりを研究する学問)の高家(江戸幕府における儀式や典礼を司る役職)の一角【三谷家】が学祖とか。
「不躾ながら、武家故実はご存じですか?」
「新井白石、ですよね?」
「まあ。お詳しいんですね」
「日本の本で少し読んだ事があるだけで——」
歴史の教科書ではお馴染みの江戸時代のその学者は、その道の研究者で知られる。
高家の中にも役職として幕府に仕える常勤の奥高家と、年間の限られた祭礼以外は登城しない非役(役についていない家柄。無役とも)の表高家があり、
「奥高家として有名なのは——」
「吉良上野介、ですよね」
忠臣蔵の敵役は、その肝煎(所謂その職の代表者。筆頭とも)として有名だ。
その一方で、当時としては稀に見る実用性特化型の武家故実真流を唱えた三谷家は、代々異端視されており完全無欠にして屈強な後者だった、らしい。
で、暇を持て余し、金に困るようになった何処かの代が生計を立てるために始めたのが、漢学、国学に合わせて故実真流を学べる
「【斉琢学舎】という——」
私塾経営、という訳だったそうだ。
【ひとしく玉を磨く】の意を含むというその私塾は、広く門戸を開放した事ですたれる本業に反比例して江戸市中で思わぬ支持を取りつけた。後、幾多の激動の時を乗り越え今に至る、とか何とか。
「今の校名に変わったのは——」
戦後らしい。何でも若理事長の実家と学祖三谷家が近縁となり、高坂の家の者が学校経営に加わるようになってからしばらく後、今の校名に変わったとか。
「こちらこそ不躾ですが、ひょっとして、旧財閥高坂家のお血筋でいらっしゃいますか?」
「——あなた様のようにお詳しい米軍の方をお見受けするのは初めてです」
「それは偶然、そうした連中に接しておられないだけで——」
その高坂家といえば、武家から商家に転じ巨万の富を築いた由緒正しき数百年来の富豪だ。明治維新後は大財閥の一角。それが祟り戦後は財閥解体の憂き目に合い一度は没落した。が、その後直系一族が劇的な再興を成し遂げ、今や【日本一の金持ち】とまで称される家柄とくれば、
「——私のような者でも気づきますよ」
高坂の名を冠する企業だけでも数百社。グループ社員総数は数十万人ともいわれる巨大グループを従える、その創業宗家なのだ。よその国の人間なら余計、メイドインジャパンのブランドイメージを形成する企業群の代表格たるその巨大グループが生み出す製品や産品の恩恵に預かっている。その創業宗家と同じ苗字を持つ者が旧家の知識階級と繋がりがある出自とくれば、誰でも自然に思いつく推測だ。
「まあ、それはよいとしまして——」
戦後復興から高度経済成長期に至る世の大波に乗り、著しい発展を成し遂げたその世界企業は、都内中北部に企業城下町を築き上げ、ついには自治体名称を家名に変えしまう程の隆盛を誇るに至り、
「当学園も校名変更時に、ここへ移転した次第でして——」
横田基地からそう遠くない高坂の街に引越し、今に至るそうだ。
相変わらずの大雨の中、授業中の校舎内を案内する理事長が語る内容は、本当に学校の事ばかりでこれから携わる事になる重責にはまるで触れて来ない。中高合わせて二〇〇〇人弱という学園内は、学生寮他付属施設も充実しており中々の広さだ。約一時間かけても全てを見る事は出来ず、結局中途半端でまた理事長室に戻らされた。
そこからは学園職員として、
「お恥ずかしい限りですが、一応当法人職員としてのOJTという事で——」
校内見学の際、既に口頭で理事長が説明した学園の歴史を紹介したビデオ鑑賞。更には、
「一応、表向きには当法人職員という事ですので——」
採用上の諸注意の確認。一通り終えると、室内の壁掛時計が午後三時半を示していた。
結局——
何なのか。
数時間前まで軍機のコックピットにいたのが嘘みたいだ。それが気づいたら、転属の辞令が出ていてしかも赴任地が学校。止めが日本のそれときている。何をどうすれば、現役米軍人の身にこんな事が起こり得るのか。仮にそれが有り得るとして、では何をやらされるのか分からないまま採用手続きとは。
——流石に、ね。
最早呆れる外ない。しかもそれをやるのが、法人責任者の理事長というお膳立てだ。そんな無茶を押し通す法人とは、
——どんな法人なんだ?
疑いたくもなる。
そもそも理事長とは、各個職員採用に関して、事務手続きまで手間をかけるようなちまちました役職なのか。
何から何まで理解不能だが、表面上は平生を保つ俺をよい事に、淡々と話を進め続けた理事長は、
「では、事務手続きは以上で終わりましたので——」
一息つきましょう、と室内の大型テレビをつける始末だった。しばらくすると茶菓子が出てくる。
「あ、コーヒーの方がよろしかったでしょうか」
「いえ、緑茶も好きですから」
と俺は早速、緑茶と饅頭に手を伸ばした。そうはいっても、流石に毒は入っていないだろう。食える時には食っておく。それはどんな状況下でも変わらない。それにしても緑茶に饅頭など、本当に久し振りだ。
手口を動かしながらテレビを見ていると、夕方前の日本の情報番組が、各地の水害を報じていた。どうやら雨がひどいのは東京だけではないらしい。
画面は何処かの山奥の道路で大型トラックが横転して、大渋滞が発生している映像だった。ヘリコプターからの空撮らしく、上空に引いた映像では延々渋滞が続いていて、数少ない周辺道路や集落にも車が溢れているのが見て取れる。
「まあ、ひどい渋滞ですねぇ」
まるでマイペースの理事長が、やはり茶菓子に手を伸ばしながら漏らした。注意してテレビに耳を傾けていると、場所はどうやら、
「広島、のようですね」
「ご縁がおありですか?」
「いえ。今、テレビがそのように」
「あら? そうでしたか?」
「はい」
「地理も詳しいご様子で」
「地名に聞き覚えがあるだけです」
被爆地ヒロシマを知らぬ米軍人は、良くも悪くも少数派だ。本当はそれだけではないが、今はそういう事にしておいた。
何だか——
何もかもが無茶苦茶な現状に引きずり込まれ、嘘を嘘で塗り固めるかのようだ。ヒロシマの事を俎上にしておきながら、不謹慎にも思わず溜息が漏れた。
「もう少し、お待ちください」
それを察したらしい理事長が、少し顔を曇らせたように見えたその瞬間、まるでそれを待っていたかのように廊下の方から律動的な足音が聞こえ始めたではないか。
「——と、思ったらそうでもなかったようですね」
スタスタと、ヒールのない上履き用シューズようなのだが、それにしてはやたら猛々しさが耳につく。
「はあ?」
入れ替わりで、また理事長の顔がほころんだかと思うと、
【バン!】
と、ノックもなく勢いそのままに理事長室の扉が開け放たれた。
「あったまくるなぁ全く! どういうつもりだ本社のヤツら!」
雄々しい言動と共に姿を現したのは、紺色の清楚なワンピースに身を包んだ途轍もない絶色の女だった。燃え盛るようで凍りつくかのような。そのどちらとも判別つかない外見ではっきり言える事は、あからさまな傍若無人の
——女だなぁ。
であり、確かに問答無用で美しいとは思ったが、それ以上の興味は起きなかった。俺は気の強い女は苦手なのだ。しかもこの女は、見た目が振り切っていながら口は男っぽいというチグハグ振りである。かといって俺は、なよなよか細い女もダメで、その辺りの加減は我ながら中々シビアで我儘と言われても仕方がない。それは認める。
つまり——
理事長は、実は相当いい線をいっていた。でもこれはこれで、出自が出自だけに、やはりその時点で落選なのだったが。単体の女としては、全くもってOKだ。と、それはよいとして。
その理事長と同年代と思しきその女は、扉を開け放ったまま理事長目がけて闊歩し、俺に見向きもしなかった。まるで眼中にないらしい。長いコンパスに加えて居丈高な足音を響かせ、あっという間にプレジデントデスクに在席している理事長に肉薄すると、
「今度は何処のどいつだ千鶴!」
荒っぽく両手で机を叩いた上、事もあろうに呼び捨てだ。
「あちらに」
人ごとだと思っていたが、理事長のマイペースなその一言で、一瞬にして巻き込まれてしまった。
「え?」
「はああっ!?」
すると、遠慮ない不躾な疑問系と共にショートカットの赤い髪が鋭く舞って、大きく爛々と光る強い目に容赦なく射抜かれる。
「何だこの借りてきた猫のような男は?」
何かの間違いじゃないのか、といきなり失礼だ。
「——何、か?」
この瞬間、蛇に睨まれた蛙の気持ちがどういうものか、身をもって思い知らされた気がした。
端正で涼しげな顔立ちは理事長同様に只ならぬ品の良さを漂わせ、均整の取れた体躯も申し分ない。まさに、絵に描いたような美女だ。が、一方で傍若無人の典型のような言動のギャップが凄まじく、今一つ現実感が追いついてこない。そんな女に睨まれる理由などない筈なのだが。
「学校側のオリエンテーションは終了しましたから」
「——分かった」
つんのめりながらも理事長の顔に大きく嘆息してみせた女だったが、とりあえず沸騰は収まったらしい。
「今度はいつまでもつか——」
と、独り言ちたかと思いきや、横柄にも顎をしゃくって俺に退出を促した。
「え?」
しばらく振りの日本であり、大和撫子の概念も随分変わったらしい。
「当法人の主幹先生でして、シーマ先生は当面こちらの真耶先生のおあずかりとなります」
「ええっ!?」
「そういう事だ。分かったらぐずぐずするな!」
驚く間もなく、今度は直に手を掴まれて応接ソファーから腰を浮かされると、つんのめってドアを閉める事も敵わず強制退出させられてしまった。いきなりの最接近で、
——うわ!
悔しいが瞬間で頭が眩む程のいい匂いに、脳がフリーズする。
今日何度目かの連行劇で、続いてやって来たのは高等部の校舎の一角だった。先程の理事長の案内で獲得した記憶によると、確か一年生の棟だ。ドアの上に【主幹教諭室】のプレートが掲げられた一室の前に辿り着くと、ドアの周囲に妙な気配を感じる。その傍には【関係者以外立入禁止】の警告があり、ドアの取っ手は不自然にゴツい。見るからに教室一つ分の広さを有し、理事長室よりも大きいようだ。
て、いうか——
空き教室を一つ分丸々使っているのではないか。実際に外見は、隣接する一般教室と変わらない作りだ。ドアも理事長室は重厚な片開き戸だったが、主幹教諭室のそれは他の教室同様に引き戸のまま。が、廊下側には窓がない、立入禁止で中が見えない胡散臭い部屋。
その出入口取っ手に女の手が触れると、電子錠の解錠音が耳を突いた。
——何だ? この部屋?
周囲にカメラは見当たらないのに、何やら機器的な気配を感じる。その様子に気づいたらしい女の、
「流石に三人目ともなると、少しは心得があるか」
鋭さを伴った口端が僅かに笑んだように見えた。かと思うと、
「ほら、さっさと入らないか」
と急かされる。入室すると、驚いた事に狭苦しい個室だった。所謂、目隠しスペースらしい。四方を壁に覆われ、室内へ至る出入口と廊下側出入口の扉の外は何もない。室内側の戸には、やはりゴツい取っ手。その電子錠は指紋認証なのだろう。女の手が触れるとまた解錠され、今度は重厚感のある窓もない大戸が難なく開いた。
中に入ると、答えがあった。壁一面に最早何インチあるか分からない大きさのモニター、というかスクリーンとでもいうのか。校内の様々な箇所に設置されているらしい防犯カメラの数十分割映像が映し出されている。つい先程入室前に立ち止まった廊下側出入口も、その中に写っていた。
——という事は。
一般教室同様についている、校内のグラウンドが一望出来る窓は恐らくマジックミラー仕様だ。中から外は見えるが逆は見えないだろう。何となく厚みも感じるそれは、防弾仕様でもある事が窺える。その窓を背後に従えた室内上座に位置する机は、理事長室のあつらえと同じくプレジデントデスクだった。
——いや。
理事長室のそれよりも、一見してゴージャスではないか。
その室内に入るなり、やっと俺の手を解放した女は、慣れた足取りで机同様大仰な椅子にどっかりと座ると、
「はぁ——」
と、盛大に嘆息してみせた。卓上前面の名札には【主幹教諭真耶紗生子】との記名がある。
「ぼさっとしないで座る」
嘆息ついでに吐くような随分な扱いで、机の前の応接ソファーに尻を置かされた俺は、とりあえず背負っていたズダ袋を膝上に抱えて縮こまった。
「——冴えないな」
言いたい放題の人間に言われたい放題なのも慣れている。見た目を裏切らないその横暴さは、かえって分かりやすくて清々しい。
「迂闊に踏ん反り返ったら、ひっくり返りそうなんで」
それ程の柔らかいソファーだった。部屋のあつらえの一つひとつが、ことごとく俺とかけ離れている。
「君の経歴の事だよ」
と言う女は、いつの間にかレジュメを手にしていた。米軍か在日大使館謹製の、俺の【コードネーム】に紐つく偽造のそれでも眺めているのだろう。どんな経歴なのか、本人すら知らないそれだ。
——答えようがねーや。
返答を放置していると、シュレッダーが紙を細断する地味な音が聞こえてきた。
「——って。こんなもので騙せるのは生真面目な公僕だけだな」
と女が吐くなり、壁一面を覆っていた防犯カメラの映像が、俺の顔写真に切り替わる。
「うわ」
自分で自分の顔写真のアップを見るような趣味はない。それだけでげんなりしたものだったが、その後すぐに始まったスライドショーは、中々肝を冷やされる内容だった。
「Yi C。台湾出身の台湾系アメリカ人。三四才、独身、身寄りなし。本日付で空軍少佐に昇進。前所属はエドワーズ空軍基地のテストパイロット——」
女の朗読と共に、飛行服姿の俺が実験機と写っている写真に変わる。
「げ」
いつの間にこんな写真を。しかも既にエドワーズが前所属になってしまっているではないか。大体が実験機は、極秘開発中の次世代機に結びつく機体で、極秘中の極秘の筈なのだが。
「スライド写真になってるし——」
呆れてつい独り言ちる俺を、軽く鼻で笑ったような声が構わず続ける。
「元はフランス外人部隊員。活躍目覚ましく、異例の同国空軍転籍と共に同国籍を取得。並行してNATO軍のテストパイロットとなり、以後数々の試験飛行に従事——」
ふーん、と延々一人語りされる経歴を前に、一々律儀なスライドは俺の過去を詳らかにしていく。
「今日までよく生き残ったな」
「たまたまですよ」
「謙遜だな」
「何を根拠に?」
「摩擦熱で溶けるような危なっかしい機体で実戦テストしてたんだろう?」
言われた途端、つい唾を誤飲して盛大にむせてしまった。一体どこまで知っているのか。
「NATOでの実績を気に入ったアメリカ軍でも同じ目に遭って。天涯孤独の都合の良さ故だな。当然極秘中の極秘作戦だろうし、名前も国籍も違うからカウントされてんだかどうだか知らないが、私の手持ち資料だと【第二次世界大戦後の撃墜王】って事になってるぞ」
「いや、人違いでしょ」
「素直じゃないな。私の前で嘘をつく訳か」
「はあ」
「そうか。では、台湾以前の事にも触れていい訳か。名前は——ん? これは【とり】と読むんだったか?」
「——なっ!?」
「その様子だと違ったか。何と読むんだかな。最近は字を書く事が少なくなってどうも漢字に自信がない」
その白々しさが忌々しい。
「分かりました! 分かりましたから!」
堪らず慌てて腰を浮かせ、女の資料を奪いにかかったが、あっさり躱してくれた女は、手にしていた資料をまた足元のシュレッダーにかけた。
「中々俊敏のようだが、不躾な事するもんじゃないな」
着席、とつけ加えられ、じっとり見つめられると声も出ない。辛うじて一息吐いて、言われたとおり大人しくソファーに戻り座り直すと、
「まぁ書類選考は合格だ。日本語も当然使えるしな。最初のお子様なんぞエリートだか何だか知らんが、日本語など知らんと抜かしたその一言で首にしてやったモンだ」
女は何やらぼやきながらも、今度は卓上の端末を突き始めた。いう事を聞いていれば、とりあえず我慢出来る程度の扱いはしてくれる、らしい。
「とりあえず試験採用期間に入ろう。で、名前は——レイ・シーマ? 何だこのスカした【コードネーム】は?」
気に入らんな、と早速、卓上電話の受話器を上げた。
「ちょっと名前変えるぞ。新しいALTの名前だよ。スカした感じが気に入らん。何? もう校内に流したのか? 余計な事だけ無駄に早いな全く!」
相手はどうやら理事長のようだ。不思議な事にこの法人では、理事長よりも主幹教諭の方が偉いらしい。何が気に障ったのか分からないが、投げつけるように受話器を置くと
「何が【レイ・シーマ】だ! 元号じゃあるまいし! ったく。源五郎で十分だろ!——あ、それだ」
何かを思いついたらしい女が端末のキーボードを叩く。すると、壁面モニターの顔写真と合わせて【Goro Minamoto】の名前が現れた。
「シーマの名前は校内だけだ。本社には日系アメリカ人【ゴロー・ミナモト】で登録するからな」
「はぁ?」
さっきから本社本社と。何処の何の本社なのか。と、思っていると、
「どうやら何も聞かされてないようだな」
すぐ首にするから米軍も面倒になったか、と呆れた様子で立ち上がり、応接ソファーにかけ直した。俺の右側の大きなシングルソファーは議長席であり、どうやら何かにつけてそうした立ち位置に慣れているというか、そこでないと落ち着かないのだろう。
——困った魔女だな。
女の服装は、子供の頃に見た長編アニメの主役の子供の魔女のようだった。といっても、髪にお決まりの大きな赤いリボンはつけていない。その代わり、日本人離れした美しい赤髪がやたら目を引いた。
常に癇気を帯びているせいか、それに伴いファッショナブルなショートボブがやたら動的だ。当然、ワンピースも野暮ったさ皆無で、スタイリッシュの具現と言わんばかり。総じて飾り気なくスッキリした大人の女だが、言動はまるで男であり歌劇団の凛々たる男役のようだ。
——ダメだ。
こういうプライドの高そうな女も俺は苦手なのだ。と、ぼんやりしていると
「ホント冴えないな」
女の手と顔が伸びてきて、シャツの襟を掴まれ引っ張られた。危うく顔にキスをしそうになる寸前で、応接テーブルに手をつき辛うじてそれを躱す。瞬間で顔が上気するのを感じた。
「しかも可愛らしいのは見た目だけじゃないとはな」
それも、よくいわれる。俺は淡白端正な面で、良くいえば童顔。悪くいえばガキ臭い顔で、何処へ行ってもナメられまくりだ。まあそれは別にいい。
いつの間にかテーブルの上には、小学生が教材を収める時に使う道具箱のような箱が一つ置かれている。その蓋を開けた女に、在中されていたキャッシュカード大のカードを突きつけられた。
「ウブなのはいいが、二人目の子はハニートラップにひっかかって首にしたんだ。精々気をつける事だな」
と、よく分からない忠告と共に手渡されたカードは、日本内閣府の職員証らしい。
「表向きには、今日から君の身分は日本内閣府に出向となる」
裏向きには、米空軍少佐兼在日米国大使館駐在武官室付特別補佐官兼、
「日本の内閣の事務員だ」
という事なのだとか。
——何だそりゃ?
国を跨ぐ兼務辞令も滅茶苦茶なら、役所の関連性がまるで見えてこない上、役職も出鱈目だ。別にポストに拘る向きはないのだが、それにしても米国機関の役職に対して日本機関側の肩書きの釣り合いがまるで取れていない。表裏とも一致するのは、日本政府に絡む身分である事ぐらいだ。
「ホントに何にも知らないのか?」
世の都市伝説に詳しい人間の方が余程詳しいぞ、と呆れた女は、
「私の本籍は海自の三佐でな——」
思わぬ事を口にし始めた。やはり表向きは内閣府に出向にして、裏向きには兼務辞令で【内閣の事務員】らしい。
と、言われても——
だから男っぽいというか、単刀直入で言葉に甘さがない、という事のようだ。と、それは今はおいておくとして、職員証には内閣府の記載のみで、裏にナンバリングされている外は何も記載がない。顔写真もなければ名前の記名もなく、実に素気ないカードだ。職員証というよりは、カードキーめいている。
「——早く受け取らないか」
気がつくと、カードを突きつけられたまま固まっていた。
「はあ」
「辛気臭いなぁもう!」
それでも男か? と、やりたい放題やっておいて本当に言いたい放題だ。訳が分からず腑に落ちない事だらけだが、それでも俺が受け取ろうとすると、寸前で女が躱してまた机に戻った。かと思うと顔を引き締め、
「辞令交付!」
と発する。日本式、らしい。睨まれるので渋々ながらも正面に立つと、
「ゴロー・ミナモト、日本内閣府出向を命ずる!」
と言い放ち、先程応接テーブルに置いていた筈の道具箱を、慇懃にも両手で突き出した。
——って。
辞令交付で小学校で使うような道具箱を渡すなど。本当にしばらく近寄らないうちに日本も変わったものだ。恭しくも幼稚園児が先生にそれを貰うかのような構図だが、まあそれでも礼に対しては礼で答えるべきだろう。
「はっ! 拝命します!」
と言って受け取ると、ソファーに戻るよう、また顎で指示された。
「よし。これで一応名実共に私の直属になった事だし——」
——うぅむ。
安定的に訳が分からない。そもそもが兼務辞令なのならば、本籍地の米軍にいるままでもよいのではないか。それを何故こんな学校の、しかも一見して俺より若振りの女の尻に敷かれるような扱いを受けなくてはならないのか。三佐なのであれば少佐と同階級なのに、それが、
直属の——部下?
とは、どういう了見か。
何もかもが滅茶苦茶のまま、女によるOJTが始まる。
同日午後六時。
俺は一体——
「——何でこんな所に?」
と、誰にともなく呟いた俺は、校内の学生寮の正面玄関横にある小部屋に押し込められていた。
東西四〇〇m、南北二〇〇mの敷地を誇る校内は、敷地内を取り囲むように隙間なく何らかの建物が建てられている。まるで建物が壁代わりであり、学生寮はその西側一面の壁の役割を成していた。男子寮はその北側半分、女子寮は南側半分だ。
俺が押し込められたのは、女子寮側寄りの一〇畳程度の部屋であり、その中には応接テーブルとソファーのセットがある外は、備えつけのテレビがある程度。俗にいう応接室のそこは、入寮している我が子に会いに来た保護者のための面会部屋として使われているらしい。エアコン完備で涼しく、テレビも自由に見る事が出来て比較的快適なのだが、俺の視野には裸眼で見えている物以外に、半透明の別画面が写っていた。コンタクトレンズ内のホログラフィックディスプレイだ。
従来のシリコーンゲル素材を遥かに超える【ハイパーシリコーンハイドロゲル】という俺には聞き覚えもないようなよく分からない物で作られたそれは、パイロットになれる程の裸眼視力を持ち、それまでコンタクトレンズはおろか眼鏡すらかけた事がなかった俺の目にもまるで異物感なく装着出来たという優れ物だ。というか、それをつけている事を疑わせるような装用感で、目に全くダメージを感じさせない。実際、只の視力矯正用として装着する分は、信じられないレベルでの連続装用が可能らしいのだ。が、コンタクトに内蔵されている電子機器の品質保持は二四時間が限界のようで、
「朝晩で一日二回はつけ替えろ」
と、女に使い捨てを厳命されていた。
オブラートのようなペランペランのレンズには、驚く事に遮光調整、望遠、顕微機能までついており、更に視認している状況をそのまま録画(つまり盗撮)する事も出来る。で、止めはスマートフォンなどの端末とリンクさせる事で、メールやSNSを始めとする様々なデータを直接ホログラフィックディスプレイによって視野の中に展開する事が可能、という呆れた機能を有していた。
——ラプターのディスプレイより凄くねーかこれ?
午前中に駆ってきたそのハイスペック機のそれを、これは完全に超えてしまっている。で、今は、学校敷地内のあちこちに仕掛けられた顔識別機能を有する防犯カメラの映像や、武器類に反応する金属探知機のデータなどの【防犯資料】を展開させていた。主幹教諭室にあったあのモニターのデータをそのままスマートフォンに転送させ、それをコンタクトレンズで展開している、という訳だ。
使用するスマートフォンは【内閣の事務員】用にカスタマイズされたOSを用いている。それは、一般的な事務連絡から今コンタクトに展開させている防犯資料などの特殊データに至るまで、何でもやり取りする事が出来た。
大抵の【事務員】達は、スマートフォンの複数所有を面倒臭がる傾向にあるようで、私物スマートフォンにOSをインストールして使っているらしい。但し、余りにもスペックの低い物だと流石の高性能OSも動かない。その場合は、携帯端末の買い替えを命ぜられるか、一方的に内閣府の物を押しつけられる事になっていた。
で、俺の座るソファーの前の応接テーブルには、その貸与品が置かれている。如何にも屈強そうで、ゴツゴツした暑苦しい物だ。これが持ちたくなくて【事務員】達は私物を使う事に拘る、とは上司たる女の見解だ。
俺は携帯やスマートフォンに関しては別に拘りはないが、所持品が増えるのは嫌だ。かさばるのが煩わしい。それで、他の【事務員】達同様に私物にインストールしようとしたのだったが、
「何だその骨董品並みのスマホは?」
と女に笑われる程古い俺のそれは、OSをインストールさせようとした瞬間、物の見事に固まってしまった。で、一方的に貸与品を使わされている。私物だろうと貸与品だろうと職務柄プライバシーはあってないようなものらしい。
展開しているコンタクトのディスプレイや画角の手動調整などの操作は、各種デジタルガジェットキーの役割を担う、やはり常ならざる【指輪】か【指サック】で行う。
指輪タイプは見た目もそのままで、指輪をつける事が許される状況の者は指輪を使用するものらしい。俺は飾り物を好まないので、指サックタイプにした。が、それは一見して透明で見た目につけている事が分からない利点がある一方で、一度つけると電気ノコギリで壊さないと外せない仕様となっている。指輪タイプにしろ指サックタイプにしろ、紛失防止で完璧に指に合わせるためだ。
よって【事務員】を辞す折は、それを壊す時の作業を揶揄して
「辞める時は指を落とす事になるからな」
と説明する女は、穏やかならぬ事を嘯いては笑ったものだった。小型マイク機能まで有し、集音して録音する事(つまり盗聴)も出来る恐るべき優れ物のそれは、支障がなければ何個でもつけて良いとかで、女は指サックを両中指につけているらしい。とりあえず俺もそれに倣う事にして、そうしている。作動に要する電源はスマートフォンの特殊OSを介してワイヤレス給電され、それはコンタクトも同様だ。その指サックを触ってコンタクト内のディスプレイを操作し、新たに別画面を展開させるとネットサーフィンを始めてみた。
まずは、
内閣の事務員って——?
とにかくそれだ。
女のOJTは、俺が待ちに待っていた新任務の具体的な説明だったのだが、俄かに信じられない事の羅列で今一つ現実味を得られなかった。で、女が言っていた通り、世の都市伝説を見てみる事にしたのだったが、
「——こうもあっさり」
見つかってよいものか。
誰もいない応接室で、呆れを通り越して思わず感嘆が漏れ出てしまった。誰が調べて何のために掲載したのか知る由もないが、日本の【内閣の事務員】と称する特殊機関の詳細が載っているではないか。その実態は所謂スパイだった。
日本政府直掌の諜報部。公私人の別を問わず有能なエージェントで構成され、組織概要は当然非公開にして極秘で不明。一応身分保証上の担保で内閣府の身分証を貸与されている、とか。
それが——
貸与された味気ないカードキーのような職員証、という事のようなのだが、保証もクソものっぺらぼうで何が成せるというのか。理解不能だ。女には、
「財布にでも入れておけ」
と、一応の携帯を指示されてはいるのだが。
——うーん。
通称の由来は、内閣府内における職員録の表記にあるようだ。そもそも極秘エージェントがそれに掲載されるのか、という胡散臭さだが、日本語表記では【内閣府付】という曖昧なポジションのエージェント達が、英語表記では【Cabinet Clerk】として列せられている、らしい。この【事務員】という表記にこそ妙がある。
日本で政府といえば、狭義の意味合いでの行政府たる内閣のみを指し示す事が多いようだが、それに負けず劣らず耳にする機会が多いのが、内閣を補助し、かつその名を冠する【内閣官房】と【内閣府】の二組織の聞こえだ。簡単に言えば内閣官房は内閣を補佐する組織、内閣府は内閣官房を補佐する組織。が、どちらの組織にも【Official】はいても【Clerk】はいない。そこにエージェントを見分ける術がある、とはネットのげなげな話だ。略称は、英語表記の各頭文字から【CC】と呼ばれているらしいが。とはいえ、女に渡された職員証にはそんな英語表記はない。そこは都市伝説なのか。
それにしても見事なまでの
「ダダ漏れっ振りだなぁこりゃあ」
呆れるばかりのバレバレっ振りである。
「こんなんでよく——」
諜報組織を語れたものだ。思わず独り言ちていると、
"早速使ってるな"
そこへ女がSNSでメッセージを送りつけてきた。上役である女は、俺の端末を勝手に覗く権限を持っている。つまり、CCのOSを入れたスマートフォンを介して使用されるコンタクトなどのスパイ七つ道具に、一方的に秘密裏にアクセス出来るという横暴振りだ。逆に部下の俺には、それを拒む事も女の端末を覗く事も出来ない。そこは組織上の抗えない上下関係というヤツだった。
一見して俺と同い年くらいか、はたまた年下に見える女は、組織こそ違うが同一階級なのだ。にも関わらず、この差はどういう事か。確かに俺の昇進年月日は今日なのだから、女の方がこれはどうやら先任だと言わざるを得ない。が、この際上から目線の物言いは飲み込むとして、それにしても随分と権限に差がありはしないか。
確かに女は何年スパイをやってるのか知った事ではないが、先輩である事は間違いなさそうであり、そこに口を挟むつもりはない。表向きの校内の役職でも主幹教諭であり、それなりに資格を持っているのだろう。悔しいが、確かに如何にも賢そうだ。それに比べて俺などは学も何もあったものではなく、こてこての叩き上げときている。冷静に一つずつ確かめていけば、
——当たり前って事かぁ。
大した知恵を持たない身だが、甘んじて受け入れる外ない上下関係である事が浮き彫りになるだけだ。自らの地味な考察で、自らの低い立ち位置が、自らの中で自虐的に認識されていくという小物感が余りにも情けない。
"私はこれから先に風呂入らせてもらうから、その間頼む"
と言う女の名前表記は【Lich】とあった。CCでのコールサインらしい。その意とする由来は知る由もない。一般的に日本語読みでは二つに一つだろう。リッチと聞けば大抵は裕福を連想しがちだ。只でさえ、そうしたゴージャス感というか大物感が伝わってくる女の事でもある。が、英語のスペルでそれは【Rich】だ。となれば、女の名前真耶紗生子から安直に結びつきやすい二つ名【魔性】が転じた【不死の魔術師】の意味合いなのだろう。
——まさに。
その禍々しさに相応しい得体の知れなさもまた、紗生子にはある。
よくぞ——
言ったものだ。
一方で、俺のコールサインはその紗生子に【Gengoro】と命名された。虫のゲンゴロウをバカにする訳ではないが、それにしても小バカにされた気分だ。
"ごゆっくりどうぞ"
"そうさせてもらう"
言う事を聞いていれば、やはりそこまでひどい扱いはされない、らしい。
そういう紗生子は、女子寮の最上階にある特別室に住んでいた。メイドつきであり、食事も入浴も全てその部屋で完結するという高待遇だ。
それにしてもメイドって——
本当にそれを雇って生活している人というのが世の中に
——いるモンなんだなぁ。
片や俺などは、急遽宛てがわれた応接室であるため、寝るとテレビ以外は何も用が片づかない。
上司の紗生子が先に風呂に入るので、こちとらは待機決定だ。お互いのうち、どちらかは必ず待機の態勢を維持する。それには当然、訳があった。
「元副大統領の御令嬢警護?」
「君の国の事だから知ってると思ったが——」
ホント何も知らんとは、とは、OJT中に先生から放たれた皮肉だ。
「そりゃあ【ミスターABC】なら、知らないアメリカ人はいませんが」
【Arthur Bradley Clark】五五歳。米国上下院議員を始め、国務・国防長官等の閣僚を歴任し、前政権では副大統領を務めた現野党【盟主党】の重鎮。副大統領時は「大統領よりも大統領らしい副大統領」と言われ、米国の実質的なリーダーを担っていた大物中の大物だ。
フルネームの頭文字を並べたニックネームで、国内はおろか国際的にも抜群の知名度を誇り、気さくな人柄で人気を博するが、仕事振りは大変シビアで実直なる敏腕家。加えてその男振りから【ケネディの再来】と持て囃されるナイスガイでもある。
前職辞任後は政界引退予定だったが、地元選挙区の下院議員がそれを許さず何と身代わり辞任。結局、間もなく行われた特別選挙に担ぎ出されて当然当選させられてしまい。本人の意に反し、再び泣く泣く下院議員をやらされているという異色異例の元副大統領だ。
「その御令嬢が?」
「日本の高校に留学すると駄々を捏ねて、すったもんださ」
日本人妻との間に何人か儲けたその末娘が大の日本好きときており、高校一年から丸々三年間の留学を希望したらしい。確かに年齢は一六の年であり日本の高校一年生と同い年だが、既にその美貌から国ではアイドルめいた人気振りを博しているという、父親に負けず劣らぬの大物だ。そうした浮ついたゴシップに疎い俺でも、そのトンデモ娘の名は聞き及んでいる。
「もう大学院生だってのに、困った娘だ全く」
そう。美貌もさる事ながら、その秀才振りでも名を馳せる御令嬢は、ハーバード大学院の博士課程に在籍中の才色兼備だ。その何かと話題を撒き散らしがちな御令嬢が、日本文化専攻である事にかこつけて、一人で日本に乗り込んで来たという。
「じゃあ今、国にいないって事ですか!?」
「君は今、人の話を聞いてたよな?」
と冷たく突き放す紗生子によると、研究目的でお忍び来日中らしい。
「今更日本に留学したところで、何がしたいのか理解不能なんだがな」
ネイティブ以上に日本語を使い熟し、日本文化にも精通。既に新進気鋭の日本研究者として列せられるようなその御令嬢に対しても、紗生子は全く遠慮がない。
「何故、この学校へ?」
「理事長と縁続きで仲が良くてな」
高坂家とクラーク家は、当学校法人太史学園の学祖三谷家を介して繋がっているらしく、現高坂宗家当主夫人は三谷家の先代長女、ミスターABCの妻たるクラーク家当主夫人はその五女だとか。そして理事長は高坂宗家当主嫡男の長女、つまり現宗家当主の
「——孫だから」
もうあちこちひっつきもっつきときたモンだ、と呆れ顔の紗生子だ。元副大統領にしてみれば、遅くに授かった目に入れても痛くない愛娘であり、
「溺愛してるからなぁこれが」
で、その警護の御鉢が回り回って【CC】に回ってきた、という事らしかった。
「しかし——」
——いくら何でも。
元大統領ですらSPは大抵一人だ。それをいくら人気者の元副大統領の娘とはいえ、他国の諜報機関員に護衛させるなど聞いた事がない。
「出世払いを期待してるんだ、日本は」
ミスターABCといえば大の日本通として知られ、次に盟主党が政権を取り返した時の大統領候補最右翼だ。その愛娘が日本滞在中に何事かあれば、近い将来における日本の対米政策は地に落ちる。それ程の影響力を秘める案件なのだ、とか。
かといって、それを日本側だけが押しつけられたのでは、
「堪ったもんじゃないしな——」
元を正せば、御令嬢の我儘を端に発しているのだから
「——アメリカも手伝って然るべきだろう?」
という事らしい。
で、困った日本側は米国防総省に泣きついた。同省元官僚のアーサーを信奉する者が多いその出身母体なら、政権から去った野党大物のために一肌脱いでくれるのではないか。で、その目論見通りペンタゴン経由で軍の一部が応じ、日本向けの応援要員を算段する事となった、というのが事の顛末だった。
その後軍内で、どんななすり合いや投げつけ合いがあったものか知らないが、それにより産み落とされたというか、捨て鉢にされたのが俺、という訳だ。
「——やれやれ」
で、今に至る。
が、この四月に始まった潜入警護体制はまだ二か月と少しだというのに、米国側は既に三人目らしい。一人目は瞬殺だった。日本語が使えない事を理由に紗生子が首を切ったのだ。二人目はついこの前ハニートラップに引っかかり、やはり紗生子が首にしたとか何とか。何れも紗生子が既に説明している通りだ。
しっかしまあ——
揃いも揃って紗生子が引導を渡している。つまり紗生子が上司という構図は不動なのだ。いくら日本側に米国側が助太刀する格好の事とはいえ、こうも堂々と臆する事なく米国側に文句を言い続けるこの女とは、一体全体
——何物?
なのか。
それにしても、
「腹減った」
つい愚痴っぽくなる。只でさえ、おかしな事続きで気が晴れないというのに、応接室の窓から見える外の景色は相変わらずの土砂降りだ。今日は何処の窓でも、滝のような雨模様ばかり拝まされている。水膜でピンボケした景色は、まるで
「俺の心のもやのようだなぁ」
などと柄にもなく情緒のようなものをぼやいてみるが、受け入れ難い現実に変化がある訳もなく。
「くわぁ——」
頭を掻きむしりながら大あくびをしていると、陽気な女の声が聞こえてきた。
——ん?
外からの音ではなく、耳の外耳道に貼りつけて使うイヤホンからだ。これも七つ道具の一つで、外から見えない特殊な仕様になっている。イヤホンとして音を鳴らすための【ドライバーユニット】をシリコン素材で覆い、更に粘着素材で吸盤のように外耳道内にくっつけて使うそれは、余り強くつけ過ぎると取れにくくなる程の接着性だが、外に音漏れさせない優れ物でその上よく聞こえる。これもコンタクト同様使い切り品であり、連続使用は二四時間が限界だ。やはり朝夕でのつけ替えを指示されていた。
「しょーこぉ、しょーこぉー?」
と、紗生子を呼ぶその声の主は、恐らくは警護対象の御令嬢【Anne Bertha Clark】だろう。紗生子は理事長を介してアンとは気のおけない間柄だとかで、女子寮に住むアンと同居していた。探偵や捜査機関が嗜む張り込み手法でいうところの所謂内張りだ。紗生子に宛てがわれた最上階の特別室もメイドも、突き詰めればアンのために用意された部屋であり使用人らしい。
「一緒にお風呂入ろうよぉ!」
「風呂ぐらい一人でゆっくり浸からせろ」
「えーだって襲われたらどうすんのよぉ?」
「そのために、下にもう一人いるだろう」
「もう当てになんないよ男なんて。バカでスケベばっかだし」
音と共に紗生子のコンタクトを通して近くでまじまじ見る警護対象は、今時の日本の若者のような甘ったるい声色の持ち主のようだが、背丈は紗生子よりも高く相対しているその目線が少し下がり気味だ。一見して一六〇台半ばの紗生子に対し、この様子だと一七〇は優に超えている。ひょっとすると、一七四cmの俺より高いのではないか。柔な声に反して面立ちといい体型といい、ハーフらしく和洋のいいとこ取りをしたような、大人びた美女である。
まあ確かに——
これで一六歳にしてしかも秀才とくれば、大抵の男などバカでスケベにしか見えないだろう。
——って?
何故、七つ道具経由で紗生子の空間が認知出来ているのか。部下の俺には、上司たる紗生子の端末を覗き込む権限などない筈ではないのか。そんな疑問が脳内を巡り始めると、突然映像と音声が同時にぶつりと切れた。
「や——」
やれやれだ。何かの手違いで俺の耳目に繋いでいたのだろう。
「——ったく」
気をつけて欲しいものだ。俺に覗きの趣味はない。と思っていると、また耳目に音と映像が繋がるではないか。今度はまた何処かの窓に打ちつける滝の雨の如く、水を打つ音がする。
——また雨?
音だけならそれで終わっていただろうが、コンタクトの映像には白いもやの奥に何かが見えた。
「なっ!?」
よく見るとシャワーヘッドだ。という事は入浴中のそれ、という事か。
「ちょ、ちょっと!? 主幹先生!?」
慌てて呼ぶが応答がない。しかもコンタクトの画面の中で、紗生子の視野を消そうとしても何故か消えないときている。
「ど、どうなってんのこれ!?」
しどろもどろしていると、紗生子の視野に白い手が覆い始めた。顔でも洗っているのか。とりあえず上を向いているようだから良いものの。何かの拍子にその目線が下がりでもしたら。
「おおおお」
気がつくと目をひん剥いて、生唾を飲み込んでいる自分に気づいた。言動と見た目は男役のような女だとしても、女は女だ。出る所はしっかり出て、引っ込む所は見事に引っ込んでいるだろう。言動の荒々しさから中性的にも見えるが、少し見れば誰の目にも明らかな只ならぬスレンダー美女なのだ。
「ちょっと! 繋がってますよ!?」
同時に迂闊にも、股間がざわめき始めた。
「くっそ——!」
これ以上はとても待てない。慌てて自分の目に指を突っ込んだ俺は、大急ぎでコンタクトレンズをむしり取った。何分つい先程、人生で初めてコンタクトという物をつけたばかりであり、外すのも当然これが初めてだ。慣れていない事ならば、
「いてててて!」
勢いに任せて眼球を摘み過ぎてしまい、地味に痛い。両手の指先を両瞼に当て、痛みが引くのをやり過ごした後で何度か瞬くと、裸眼視野に戻っていた。
「や、やれやれ」
黙って覗こうものなら如何にも隙のない紗生子の事。後で何をいわれたものか分かったものではない。続いて耳のイヤホンを外そうとすると、
『第一関門クリア』
その声が聞こえてきた。
「はあ?」
『続けて見てたら即刻首だったな』
どうやら試されていたらしい。
「——そうなんですか」
『怒らないのか?』
怒ったところで、どうせ何も変わらない。人事で自分の意思が尊重された事などない身だ。そして経験上、
「与えられた任務はどんなものだろうと全うしておかないと、ろくな事がないので」
という有難迷惑のようなポリシーを獲得させられていたりする。
『それは感心な心がけだ』
そう小バカにする紗生子は、如何にもエリート風情の女丈夫だ。叩き上げの一兵卒の気持ちなど理解出来まい。
『でもまあ君の場合は、確かにその通りかも知れないな』
通常ならざるテストパイロットであるその最たる理由は、
『アジア系の移民だし』
ネイティブではない、つまりいつ死んでも構わない、という現実があった。
肌の色に対する蔑視は、二一世紀も五分の一を過ぎたというのに未だ根強い欧米の事。更に加えて天涯孤独とくれば、使い捨て感覚の雇われ軍人以外の位置づけを獲得出来る訳がない。仏軍といい米軍といい、東洋の黄色いひ弱な猿に国籍を与え、軍で囲った理由は只一つ。純自国民にはとても下知出来ない無茶無謀な仕事をさせるための、ホスト国の思惑でしかない。
そんな軍人が任務を投げ出そうものならどうなるのか。ホスト国に使えないと認識されれば、後に何が残るのか。悪戯に只ならぬ機密を握る無価値な人間、という危ういステータスだけだ。つまり、
『任務にかこつけて殺され兼ねないな』
という俺の心の声を、意外にも紗生子が口にしてみせた。
『それはこっちも同じだ』
君の私に対する印象など知らないがな、と何となく思わせ振りだ。
『非公開組織のエージェントなんて、エリートも何もあったもんじゃないぞ』
加えて何となく、フォローするかのような。
『思うところは色々だろうが、私の元では真面目に尻尾を振っていれば悪いようにはしない——』
いつの間にかイヤホン越しに聞こえるシャワーの音は消えており、水が柔らかく動くような、軽やかに纏わりつく音に変わっている。という事は、バスタブの中だろう。
『——励む事だな』
と、紗生子は一方的に無線を切った。距離が近ければ、スマートフォンがそのままデジタル無線機になり、わざわざ電話をかける必要がない。
恐ろしい時代に、
——なったもんだ。
国家の暗部には秘密に飽き足らず、世の水準を超越した非常識な近未来的世界が展開しているらしい。お陰様で最後の艶かしい雨が、まだそれなりに若い俺の下半身を刺激してくれたもので、
どうやらこれって——
良くも悪くも、新たな業のようなものに取り憑かれる事決定のようだ。
——何とかの生殺しかよ。
といっても、こちらの耳目を紗生子は自由に見聞き出来るとあっては、迂闊な事は出来ない。かといって、俺は修行僧でもなければ極一般的な凡俗に外ならない。手っ取り早く賢者になる術を封じられてしまっては、いい年して夢見の中の何とやらか。流石にそれは、いい加減おっさん年齢を迎えている身としては
「——有り得ねぇ」
のではないか。
「はあぁ——」
とりあえず俺は、深呼吸がてら盛大に嘆息した。
それから一週間が過ぎ、六月下旬。未明。
寮の応接室のソファーを寝床にしていた俺の耳の奥で、何かが聞こえてきた。
——またか。
もう何日連続か。
閉じている瞼の裏側でコンタクトのホログラフィックディスプレイが、せっかちにも早速展開している。内閣府謹製、という事であっていると思われる自慢の近未来的ハイパフォーマンスレンズも、流石に瞼を開いていないとデータを見る事は出来ない。が、それでも何やら明滅しているのは分かる。同時に耳の奥につけているイヤホンがリンクして警報音を鳴らしていれば、真夜中の事でもあるそれは侵入警報以外に有り得なかった。
「はいはい。行きます行きます」
耳目が賑やかで、一瞬で眠気も吹き飛んだものだ。
「人間扱いじゃねぇよこれ」
つい、口から愚痴が漏れ出てしまう。誰に言うでもなく、早速女子寮一階の応接室から出て行く俺はジャージ姿だ。常時警戒態勢の維持が厳命されているため、最低限人前露出可能な格好を心がけている。もっとも私生活ではジャージに塗れている身でもあり、それは苦にならない。加えてコンタクトもイヤホンも、まるでストレスなく連続装用出来る物だ。
それはいい——
として。問題は、
「おっそぉーい! ゴロォー!」
上司の酒乱だった。
「しゅ、主幹、静かに!」
いくら最上階の特別室とはいえ、貸切ではない。都内有数の進学校にして全国にもその名を馳せる歴史と伝統。にも関わらず自由な校風を尊ぶその権門には、全国各地からそうしたステータスを好む世の富豪の御子息や将来有望なエリート達がそれなりに入学している。上流階級のベネフィットは、何も留学中の元米国副大統領の末娘アンだけのものではなかった。
にも関わらず、その身辺警護員ともあろう者が、
「毎夜毎夜つき合ってられっかぁ——!」
ベロンベロンに酔っ払っていい訳がない。その上自分で言うのも何だが、日頃然程文句を口にしない俺がつい愚痴るような警報の賑やかさなのだ。寮生の話では、
「緊急地震速報よりうるさくてシリアスだから動揺が只ならない」
「メンタルトレーニングにしては度が過ぎる」
「ゲームで敵に遭遇した時みたいな音楽を大音量で流すな」
等々。
只でさえ瞬間湯沸かし系の紗生子なのに忌々しいうるささで、それが酔っ払っていれば不満をぶち撒けない訳がなかった。
当然、その騒ぎを聞きつけた周囲の寮生が各部屋からゾロゾロ出て来ては、
「またぁ?」
「センセーうるさいんだけど」
などと、ぶつくさ不満を口にしながら顔をしかめている。
「あー、何でもないから! さぁさぁ部屋に帰って寝て頂戴ね!」
で、何事も忍従派の俺が、宥め役を仰せつかるのだった。
「なぁんでもない訳ないだろぉーがぁー! 連日連夜夜中に発報しやがってぇ!」
と喚く上司の紗生子は、常時警戒を命じておきながら自分はパジャマワンピース姿だ。確かにスッキリしたデザインで、別に男の目で見ても憚られる物ではないが、それは当たり前に着ていれば、の話。
「やってられっかぁこんにゃろがぁ——!」
と大した酒乱振りで、際どい部分がはだけてヒラヒラと。目も当てられたものではない。それを迂闊にも何日か前の夜間出動時に指摘したところ、
「好きでこんなヒラヒラするモン着る訳ないだろがぁ!」
と、酒乱にかこつけて首根っこに絡みつかれ、押し倒されたものだから堪ったものではなかった。
——なんだけど。
投げ飛ばされる恐れがあるとしても、目の前でよたよたと今にも倒れ込みそうになるものだから、支えない訳にもいかない。
こ、これも——
ハニートラップか何かなのか。とりあえず、ぐらりと傾いだその肩を横から支えると、酒臭を上回る思いがけない身体の丸さと柔らかさだ。酒に酔った勢いも加わって、その妖艶さが只ならない。
「もぉーまたぁ? 何なのよぉー」
で、遅ればせながら眠い目を擦りつつ出て来る警護対象のアンに、
「クラークさん、先生を連れて入ってください! 何にもないですから!」
警護員を預けるという、あべこべを続ける事一週間。俺は俺なりに、曲がりなりにも、やった事もない英語のALTの先生としての生活を送っていた。何故英語のALTか。教員免許のない学のない台湾系米軍人が、日本の学校に赴任するにはそれしかなかったのだ。
「——ったく。画像解析しても、データを洗っても——」
センサーに反応するような物なんか何もないのに、と言う紗生子は、朝になるとケロっとしており、相変わらずの見目麗し振りで淡々と仕事をしている。主幹教諭室の端末を叩きながらコーヒーを飲む姿は、傍から見ても完全無欠の出来る女そのものだ。傍にいる人間など、何だって誰だって単なる置物に等しい。
広い部屋の中で俺もその片隅に机を置かせてもらっていたが、在中品などあってないようなもので、少しばかりの教材と筆記具だけ。それもその筈で、学園内の英語のALTは俺以外にも三人いるのだ。取ってつけたような俺など、いてもいなくても変わらなかった。
その置物が座る部屋の片隅へ向けて、
「ゴローは今晩、歓迎会だったな」
部屋の女主人が多少の気遣いを思わせるかのような声をかけてくる。
「どうしても行かないといけませんかね?」
正直、煩わしい。
赴任から一週間。自分が招かれざる客である事は、周囲の反応からもありありと見て取れていた。
それは赴任後の次週頭に行われた全校朝会で、いきなり突きつけられたものだ。
「この度新しく、ALTの先生として着任されました——」
梅雨の間隙を縫った晴天の下。グラウンドに整然と整列した同じ制服を着込んだ学生達の前で、ありがちな程に見事なバーコード頭の、何処となく陰険そうな校長先生の横で紹介にあずかった際、
——額が、光ってるな。
俺は朝日を浴びて脂光りするその頭を見ては、必死に笑いを堪えていた。笑ってはいけない時に、つい笑いたくなるのが人情というものだ。梅雨時だというのに燦々と輝く太陽が
——いかんのだ。
もっともそれは、敷地内建物の配置のせいでもあるのだが。
東西に長方形の学園敷地は、そのほぼ中央部北寄りに南北に伸びる本館がある。ここに職員室や学園事務局、特別教室や教科担任準備室などがあるのだが、その本館を挟んで東側半分は、ちょうどカタカナのコの字型を模したような校舎が東側敷地全体をぐるりと囲んでおり、グラウンドはその中にあった。つまり、外周からグラウンド内が見えない造りだ。
何かを意図したその配置のせいで、朝礼台はグラウンド西辺中央部にある掲揚台前にあり、生徒達は本館に正対して西向きに整列させられている。その生徒達に対面している教職員は東向きに立つ羽目になり、朝日を正面からモロに浴びる事になるのだった。
——まあ、それはよいとして。
俺は早速、イヤホンの効果に驚いていた。それは目の前に障害物がなければ、その恐るべき集音性で必要な音のみをピックアップし盗聴出来るのだ。
で、両足を肩幅に開き、両手を一物の前で組んで、如何にも殊勝を装うその裏で俺は、多くの学生に晒されついでで障害物がない事を良い事に、指サックのデジタルガジェットをさすっては拾いたい音源を選んでまんまと盗聴してやった。
それは、
『何か今度のヤツは、ひ弱そうで冴えねーな』
『空軍少佐らしーぜ?』
『へぇ。空軍らしく、何かヘマでもやらかして飛ばされたんかな?』
『そういう意味でも飛ぶのかよ?』
『何で日本人なんだよ?』
『ちげーよ、元台湾人らしーぜ?』
と言う、男子生徒の皮肉に満ちた好奇から、
『うーん、三〇点?』
『ウソ!? ちょっと低過ぎない?』
『じゃあ六〇点』
『って、いきなり倍!?』
『あたし、ひ弱そーな男タイプじゃないしさぁ』
『まぁ米軍人って、脳筋の屈強そうなイメージだけど』
『でしょお?——それが何なのよあの草食系は? それこそそこら辺の動物園にいそうな痩せっぽっちのダチョウみたい』
『ぶっ! ダチョウって!』
『何か融通利かなくて頭悪そーだし』
と言う、人を人とも見ない女生徒の容赦ない私語。挙句の果てには、
『今度はいつまで持つかな?』
『ここ三か月弱で三人目よ?』
『そもそもあんな日本人顔で、何で英語のALTな訳よ?』
『それも軍人』
『何か米軍っていうより、堅物の自衛官って感じじゃない?』
『って、あれ堅いの? ふにゃふにゃしてそーだけど』
『何が?』
『何ってナニよ』
『ちょっと、人前だって!?』
『どーせ分かりゃしないって』
『まぁそうだけどさ。しっかしあんなので護衛が務まんのかしらねぇ?』
『何考えてんのかねー日本政府もアメリカも』
などと、声に年齢を感じるこれは女の教師か。
まぁ——
予想通りといえば予想通りだ。
——俺でもそう思うわ。
飛ばされたのは事実だから捨て置くとして。ダチョウだの堅いだのふにゃふにゃだのと。また余計な通り名をつけられそうで甚だ失敬極まりない。男が、女が、という時代ではない事は理解しているが、陰口の陰惨さは男よりも女の方が一枚も二枚も上手だ。
だから女は——
どうも苦手な訳で。
それはさておき、別にここに限らず男女分け隔てなく。初見はいつも決まって、似たような評価を受け続けてきた俺だ。それは飲み込むとして、生徒間だろうと教職員間だろうと、
——バレバレじゃんか。
身分にしろ任務にしろ、この筒抜け具合は如何なものか。
その後壇上で何と挨拶したか、既に思い出せない程にやる気が出ない。只でさえ不可解な任務に日夜不信を募らせているというのに、何のときめきも見出す事も出来ない歓迎っ振りにして秘匿性ゼロの追い打ちだ。
——どーでもいいなぁこりゃあ。
そんな状況下で歓迎会などと。白々し過ぎて金を払ってでも願い下げだ。
「任務に忠実でありたいモンですが」
酒など飲んでいる場合ではない、という含みの論法は
「それなら尚更行っておくべきだな」
当然、通じない。
対象に害をなす不届き者は、何も外からやって来るとは限らない。むしろ学園内に潜り込んでいる輩をあぶり出す事にこそ、潜入警護員の本分があった。
「まぁ協力関係を作ってこいとまでは言わないが、集まってくれる人間の為人ぐらいは掴んでおいて損はないだろう」
と言う紗生子は欠席だ。一時的に俺が警護から抜けるのだからいうまでもない。
そう言いながらも、女子寮最上階の録画を調べていた紗生子が、
【カッ】
と音を立てて卓上のノートパソコンを閉じると、壁面モニターが消えた。
「私はこれから理事長室だ。ゴローは哨戒を頼む」
「はあ」
ゴローの名は【内閣の事務員】上の登録名であって、校内では俺が決めたコードネーム【レイ・シーマ】の筈なのだが、紗生子はお構いなしだ。もっとも俺が紗生子に何と呼ばれていようが、気にする者など誰もいない。それもその筈で、名ばかりALTの俺は、先生としての仕事はまるでないというザマなのだ。精々徒歩警戒しながら異常に備えるぐらいしか能がない有様だった。
"かんぱーい"
気がつくと、学校から歩いて程近い居酒屋で、よく知らない教職員の面々と杯を交わしていた。といっても、
「まぁ、シーマ先生ったら何それ?」
「ウーロン茶です」
「ウッソー! アメリカ人ってウーロン茶飲むの!?」
俺は酒は飲まない主義だ。
集まったのは、中高等部問わずの英語教員の一部と、教頭以下管理職系の先生達がちらほら。主賓の俺も合わせて総勢一〇人もつれ、という細やかな歓迎会だった。
同僚といってよい筈の他のALTの面々は、何と誰一人として来ていない。どうせすぐ辞める、とでも思われたか。何れも純欧米系の連中の事ならば権利意識が高い事はいうに及ばすで、課外は好きにするものだろう。
が、彼らが姿を見せない理由は断じてそれだけではない。俺は、情けないリタイヤ続きを晒した前任者達の同じ穴の狢である事が既に知れてしまっている。その前の狢達はALTの品質を貶めただけではなく、優性人種と疑わない欧米人のプライドをことごとく辱める体たらく振りだったとくれば、アジア圏出身の黄色い猿にして三番煎じの俺が相手にされる筈もない。
結果、教職員総勢百有余人という学園において、
——実に嫌われたもんだなぁ。
現状の閑散という訳だった。結局、ALTとしての能力云々を論じる以前に、ここでも見事に何かのとばっちりを受けた格好だ。
まあ——
それも慣れている。逆に、そんな男のために集まった人達こそが変わり種なのだ。
その中で、
「えーなんかノリが悪くないですかぁ?」
前任者は酒色に積極的だった、などと只ならぬ事を連発している女教師が隣にいる。
「ほらほらぁ、飲みましょーよー」
紗生子同様、一見アラサーながら、毛色は随分と異なり陽気な女だ。
「いや、飲めないんです」
よく知らない人間に、いきなり絡み酒か。俺は元来、つき合い酒というものが苦手なのだ。そういう事にしておいた。本当は飲もうと思えば飲める体質なのだが、美味いと思えない。それにいつ何時飛べと言われて引っ張り出されるか分からないようなパイロット生活をしていた事もある。体調には常に気を配る癖がついていた。
実際酒が残った状態で飛ばされて、狭いコックピット内で自分が吐いたゲロに塗れる災難に見舞われた事がある俺だ。
——ありゃあ、ひどかった。
酸素が少ない高空では体内の酸素量も減るため代謝が悪くなり、アルコール分解が遅れる。しかも気圧が低いために血管が拡張し、血液循環が促進されてアルコールが回りやすくなるというまさに悪魔の循環。全ては本来、
飛べねーくせに飛びやがる——
人間が悪い、という事だ。無理矢理飛んでいるからこそ、何が死に直結するか分からない。それが高空の世界なのだ。別にいつ死んでもよい身ではあるが、生き残った者として簡単に死んでしまっては、先に逝った連中に申し訳が立たない。
そんな俄かに暗くなる俺の横で、
「のものもー」
佐藤、と名乗る陽気な女教師は実にチャラい。どうやら俺を気に入ったらしく、片腕にしがみついては、
——って、む、胸が!
を密着させて、笑い飛ばしながらもビールのジョッキをあおり続けていた。酒を飲む前は、大人しそうな地味な感じだった筈が。酒の酔いのせいか、甘ったるい声を小気味よく吐いている。が、一方で見た目はやはり、何処か冷めたものを思わせるのは気のせいなのか。それはともかく、身体つきはスレンダーで腕に当たる膨らみは然程の事はないが、それでも当たっているものは当たっているのだ。
「ちょ、ちょっと先生!?」
「あら、ごめんなさーい」
その何処かチグハグな形振りがどうも腑に落ちない。それを、
「佐藤先生ってば、相変わらず面食いよねー」
「そんな事言って、いっつも抜け駆けすんの誰よぉ」
今回は私が先に唾つけたんだから、などと、当の本人を前に抜け抜けと大っぴらで積極的な事だ。
「いやぁ流石に、米軍の方はおモテになりますなぁ」
はっはっは、と一目でかつらだと分かる教頭が、訳のわからぬ事を言っては女達を焚きつける。
——頭スキャンしてやりてぇわ。
バーコードらしく、時代遅れのつまらぬダジャレを吐かないだけまだマシとしたものか。
それにしてもよく見渡せば、英語教師陣は皆女だ。要するに、少しでも俺に興味を覚えた女達が集まった、という事らしかった。
二時間後。
俺は、佐藤先生を引き連れて学校へ向かっていた。正確には佐藤先生の家が学校の直近であり随分と酔っ払っていたため、学生寮住まいの俺が無理矢理送らされる事になってしまったのだ。
歓迎会は、はっきりいって拷問のようだった。元々俺は他人と連む事を好まない。特に女など、我儘で泣き虫で甘ったれで。面倒極まりない。それを、
「彼女いるんですかぁ?」
「趣味は何ですぅ?」
「ホントにパイロットぉ?」
「何でこんな学校にぃ?」
ずけずけと。
いない、読書、答えられない、知らん。そんなぶつ切りで返答したというのに、随分と懐かれたものだ。
——参った。
また紗生子が、コンタクトを勝手に覗き見ているかも知れないというのに。佐藤先生は完全に千鳥足で、仕方ないから肩を組んで歩いている。
少し歩くと学生寮の裏門が見えてきた。
——全くやれやれだったなぁ。
送る距離が短かった事がせめてもの救いだろう。校内に通ずる門は、正門を除けばここだけだ。夜も更け、出入りする生徒や教職員の姿は見当たらない。ついでに言えば、少し前までは寮には舎監がいたそうだが、今では紗生子が常駐しているからいないらしい。だから出入口でこの醜態を見咎められる事はないと思うが、それでも騒げば誰かが顔を覗かせるかも知れない。
「も、もう歩けないぃ——」
大して大きくもない俺の肩に、殆ど背負われていた佐藤先生がついにずり落ちて地面にへたり込んだ。
「家、もうすぐでしょ?」
「は、吐きそう」
「ええっ!?」
大丈夫ですか、と触る事に少し戸惑ったが、とりあえずその背中をさすってやる。
「ご、ごめんなさーいぃ」
「いえ。まあ、落ち着いてらっしゃるようですし。私はこれで」
何回かさすってやるとぶっきらぼうに切って、さっさと裏門へ足を向けた。
「家まで送ってもらえないんですかぁ?」
「こんなとこ学校の人間に見られるだけでも、何言われたモンか分かりませんから」
「って誰に?」
「誰かにです」
それに、
「平打簪が物騒ですし」
とつけ足すと、佐藤先生の雰囲気が俄かに固くなったようだ。
「いいでしょーこれ。気に入ってんですよぉ」
「抱き込んだバカな男を刺すには打ってつけですよね」
とまで突っ込むと、流石に表情を変えた。やはり酔った振りをしていたようだ。
「平打簪だなんて、普通の日本人でも中々出てこないフレーズだけど」
ホントに台湾の人? と笑いながらも疑う佐藤先生の髪にあるそれは、薄く平たい一本軸に平たい円形の装飾面が特徴的な簪で、昔武家の女性が好んでつけていたものだ。その鋭さ故、立派な暗器に成り得る。
「まぁ日本は嫌いじゃないので」
「——いつから?」
気づいていたのか、と略された後の句に、
「最初からです」
直球で返した。
地味で冴えない事にかけては、自分で言うのも何だが自信がある。そんな男に随分と迫り続けてくれたのだ。それにわざとらしい接近。それで暗器めいた物が頭に見えていれば、これはもう堪ったものではない。これで気づかないスパイは相当な間抜けだ。
「敵じゃない、って言ったら?」
「じゃあ只の美人ですか?」
それは余計願い下げです、と苦笑いして佐藤先生に背中を見せたところで紗生子から
"第二関門クリア"
とのメッセージが届いた。
——やっぱし。
翌日。
俺はプールサイドで、丸椅子に座っていた。Tシャツに半パン姿で、ぼんやりプールを眺めている。
——立派な屋内プールだなぁ。
梅雨時の日本の事。今日も外は生憎の雨だが、高い天井がそれを遮ってくれている。プール内はほんの僅かに漂う塩素臭がする外は、清潔感のある室内と変わらない。縦五〇メートル、横二五メートルの長水路が一面だけなのだが、生で約四分の一サイズの短水路しか見た事がない者には広いだろう。俺もその類いだった。
多くの他校が掲げがちな文武両道を尊ぶ当学園だが、所謂スポーツ特待生はいない筈だ。それにしては、
——ホント、立派な造りだなぁ。
と、感心するばかりのプールである。流石に観客席こそないが、プールサイドの広さは申し分ない。バックヤードも含めると、一般的な学校の体育館よりも明らかに大きい気がする。
そんなプールは本館を挟んで西側半分の付属建物群の中にあり、女子寮の目の前にある。因みにその東隣は体育館、更に東隣は同窓会館と続き、正門に至っていた。
で、今は十分な広さのあるプールサイドにいる俺は、監視員をやらされている。ちょうど警護対象であるアンのクラスが体育の授業中で、夏季のそれはどこの学校にもありがちな水泳だ。体育専門の教師もおり、別に監視員などやらされる謂れはないのだが、どうせ暇だし警護対象もいるのなら断りようもない。
その授業の傍で俺は一人、目のやり場に困っていた。生徒達が着用している水着は、あくまでも授業の一貫でのプールなので、学校指定の所謂スクール水着のようだ。が、それにしては可愛い娘が多く、加えてスタイルも良いときている。
何食ったらこんなマセガキに——
なるんだか。
共学校であり、同数程度の男子生徒もいるのだが、男にはまるで目をやる気にもなれなかった。マセガキの、しかもオスなどに興味が湧こう筈もない。俺はノーマルなのだ。が、女ばかりジロジロ見ていると、恐らく紗生子がコンタクトを覗いているだろう。合わせて、生徒達から変態扱いされるのも面白くない。
好きでやってる訳じゃあ——
ないのだ。という心の弁明は、恐らく誰にも理解されない。何せ警護対象のアンが群を抜いた容姿であり、それを観察する事が公然と仕事と言い張れる役柄だ。油断していると下半身に血がたぎり、立ち上がった時に赤っ恥をかき兼ねない。だからこそ満遍なく視線をその他多数に散らしている、つもりだったが。
まるでこれも、
——何かの拷問だな。
俺は顔の各パーツを中心に集め、難しい顔を装っては懸命に呼吸を整え、念仏を唱えるように脳内で心頭滅却を連呼していた。
学校生活にはそれなりに馴染んできている。順応性の早さには自信がある一方で、プライベートが全くない事は想像以上に堪えていた。いつ上司の紗生子にコンタクトを覗き見られるか分からない生活。それはつまり、エロと名のつく物の一切に触れる事が出来ない状況だ。いっその事、
——坊さんにでもなるか。
煩悩を断つにはちょうどよい機会なのかも知れない。が、何かの境地に至る前に、まずは溜まりに溜まった鬱屈で鼻血が出そうだった。
そんな背景を経てのプール監視は、まさに瞑想しながら念仏でも唱えたくなるのだが、瞑想していては仕事にならない。そんな皮肉だ。
「はぁ——」
早く終われ。せめてわざとらしく足を組み、股間の隆起を抑制する。それに尽きる。男なんぞ、何処までいっても所詮はこの程度だ。
そんな時、俺の目の前の集団と、対岸側の集団から同時に声が上がった。目の前はアンのクラスの授業中、対岸側は中等部のクラスがやはり授業中だったのだが。
アンのクラスの方は、女生徒が笑いながら痛がってはプール内で飛び跳ねている。水深はプールフロアがあり足がつくレベルだ。即座に溺れる事はなさそうだが、どうやら足がつったらしい。体育教師に言われる前に、足元に置いていた救命浮き輪を女生徒目がけて放り投げてやった。
件の女生徒が周りの生徒に助けられて浮き輪に収まるのを確かめながらも対岸側の騒動にも耳目を向けていると、こちらはどうやら穏やかでない。授業を担当している体育教師は二〇代半ばの女先生であり、少し慌てている様子が遠目にも見て取れる。
「こっちは見ときます」
気を利かせてアンのクラスの体育教師に声をかけてやると、小さく頷きそのまま対岸側へ泳いで行った。こちらは四〇過ぎの、如何にも体育教師らしい精悍さを帯びた男先生だ。
「いったぁ——い!」
「あーはいはい。とりあえず浮き輪に乗せようか」
で、目の前の賑やかな若いメスを引き受けた俺は、とりあえず浮き輪の紐を手繰り寄せるとプール側面に捕まらせた。続けざまに傍にいるクラスメイトに、そのまま水中で浮き輪に乗せるよう指示をする。が、本人が
「む、無理無理無理無理ぃ——!」
痛がって動こうとしない。
「センセー無理だよこれぇ」
早くも匙を投げるクラスメイトに
「しょーがねぇなぁ」
悪態ついでに浮き輪をプールサイドに置くと、側面にしがみついて痛さの余り泣き笑いしている女生徒を上から軽々と引っこ抜いてやった。
「わっ!」
と、驚く本人に構わず浮き輪の上に座らせてやると、その周囲から
「あっ、ちょっと密着し過ぎ!」
「抜け駆けだ抜け駆け!」
「ワラビーずっるーい!」
などと抗議の声が上がっている。どうやらひ弱そうな俺をバカにする連中もいれば、自分で言うのも何だが、比較的端正で素朴な風貌を支持する層もいるらしい。
「人の気も知らないで何言ってんのよぉ!」
当たり散らす女生徒が左ふくらはぎを掴んで喚いている。
「はいはい、伸ばしてやるから」
「うぅ——」
その足を伸ばしてやっていると、対岸側のプールサイドではちょうど紗生子が颯爽と駆けて来たところだった。その華麗さは、
何処にいてもすぐ分かるなありゃあ——
嫌でも目についてしまう。
「セ、センセーよそ見せずに優しくしてよー」
「はいはい優しくねー」
痛がる中にも色目を使うワラビーと呼ばれる女生徒に生返事をする中で、俺はイヤホンの集音機能を対岸側に合わせた。どうやらてんかんの持病を持つ男子生徒がプール内で発作を起こしたようだ。遅れて保健室の先生も駆けつけたが、その専門教員を差しおいて何と紗生子が処置の判断を下している。
——って、おいおい!?
いくら校内で一目置かれているとはいえ、それが人命を左右する事ならば話は別だろう。一々尊大な態度が目につくものの、分別はあると思っていたのだが。どうやら見誤っていたらしい。そもそも人を見る目もなければ、人間という生き物を諦めている俺だ。
ワラビーの足をマッサージしてやっていると、紗生子からメッセージが届いた。
"そっちの子は何だ?"
遠目に見ても生徒や先生に囲まれて処置中の筈だが、何とも器用な事だ。
"ふくらはぎの痙攣ですが、痛みの引きが悪いようです"
それに倣って俺もマッサージをしながらメッセージを打ってみるが、中々難しい。何か小細工をしているように見えたらしい周囲の女生徒達に、
「あー、何か怪しーことしてない?」
などと、不覚にも勘繰られてしまった。
「合わせて足の裏のツボを押してんだよ」
「ツボってアメリカ人が?」
「でも元台湾人だったっけ?」
「あ、そーか」
取ってつけた言い訳で思いがけず生徒間での俺の認知度が明らかになり、また不覚にも少し動揺した。こっちにとってはその他多数の生徒達だが、生徒達にしてみれば俺のようなどうでもALTでも少数側の教職員の中の一人という事だ。
「そうそう」
と、口を合わせてみる。警護もそうだが不届き物のあぶり出しも仕事ならば、校内における対生徒との程良い距離感を掴んでおく必要もあるだろう。
——めんどくせぇ。
校内人口は中高生徒に教職員込み込みで約二〇〇〇人。今更ながらにその多さに閉口させられる。
良くも悪くも、長年軍隊という男社会のがさつな連中に塗れていたのだ。男子生徒の方はまだしも女子生徒の扱いは全く分からない。まだしもの男共でさえ、今時の軟弱で小賢しい男共だ。しかもその小賢しさのレベルが面倒極まりない。都内上位にして国内有数の進学校は、現役卒業生の大半が国内の三大国立大や超難関私大に進学するようなガリ勉共の集まりだ。そう考えると腹の中から苦い物が込み上げてきた。自分などは学歴もクソもあったものではないポンコツだ。
「あー何かお腹痛くなって来たぁ」
足がつって腹が痛くなるなど聞いた事がない。しかも、
それはこっちの台詞——
だ。妙な色目を繰り出す気満々のワラビーを相手にしていると、余計煩わしい。
"そっちはまだか?"
"何か腹痛を訴え始めたんです"
"仕方ない娘だな"
そんなメッセージの中でも常に上から目線の紗生子が不機嫌さをたぎらせつつも、あっという間に対岸側からやって来た。
「あ、主幹先生来たー」
「えーい、どいたどいた」
などと、小賢しい花盛りの女子を軽くあしらうところなどは流石だ。隙のない堂々たる男役の如き出立ちは、今時の女子高生の間でも尊敬羨望の的だ。その勢いに俺も一緒に離れると、紗生子が触診を始めた。
「つった時に力んで腹の筋肉が伸びたんだろ」
かと思うと、極あっさり診断を下す。手慣れているような、適当なような。
——そんなんでいいのかよ?
そんな俺の疑いが伝播したようで、紗生子の口が予想外の事実を吐いた。
「私は校医兼任だ。何か不満か?」
「え? そうだったんで?」
「分かったら、さっさとこの娘を保健室へ連れて行け」
水着の上からでいいからバスタオルで水気を取らせたらベッドにでも寝かせとけ、と言う事だけ言うと、また颯爽と対岸側へ戻って行く。
「うわ、カッコいー」
「誰かさんと大違いねー」
バカにされるのは、何も今日に始まった事ではない。それにしても、俺は何処へ行っても
——バカにされるなぁ全く。
その宿命めいたものに呆れつつも、ワラビーをおんぶする。
「うわ、おんぶした!」
「ちょ、ちょっとワラビーくっつき過ぎ!」
周囲の冷やかしの中、背中に伝わるはっきりとした柔らかさに動揺させられながらも、俺は渋々保健室へ向かった。保健室は本館にあり、ここから二〇〇m以上ある。背中の動揺を鎮めたいのに、この距離は残酷だ。
二、三分でやって来た保健室は無人だった。そういえば保健の先生は、プールに来ていた事を今更ながらに思い出す。
「ほれ、横になる前にこれで拭いとけ」
と、椅子に座らせたワラビーにバスタオルを投げると、受け取ったワラビーがいきなり水着の肩紐を抜き始めるではないか。
「ちょっと待たんかい!」
「えーだって主幹先生が——」
「水着の上からって言ってただろが!」
「えーでも何か気持ち悪いしぃ」
そのあからさまな色目にヘドが出そうになる。
「どいつもこいつも——」
そのあからさまに対して、あからさまな悪態を吐くと、
「その胸元に仕込んだワイヤーで首を絞められても敵わんしな」
と言い当て、わざとらしく嘆息してみせた。
「え?——もうバレちゃった?」
実はその固い感触はおんぶをした時、背中に伝わる誘惑的な柔らかさと共に初めて気づいた訳で、世の中何が幸いするか分からないものだ。
「あと何人いる訳? おたくらは?」
「敵じゃないんだけどね」
「んじゃ只のぶりっ子かい!?」
「ぶりっ子って、シーマ先生いつの時代の人よ!?」
盛大に笑い出すワラビーを放ったらかしにして保健室を出ると、コンタクトに
"第三関門クリア"
と、また紗生子からメッセージが届いた。何度も何度も似たような手口で飽きもせず。
"何番煎じするんです一体?"
"君の前任者は、あっさり同じ手にかかって首になったからな"
と言われると身も蓋もない。女から見ると男など、懲りない間抜けという事なのだろう。確かにそういう俺自身も、思いがけぬ女子高生の柔らかさに触れただけで下半身はむずむずしてやり切れない盛り、という情けなさだ。
せめてコンタクトが、
——外せたらなぁ。
せめて少しゆったりとした足取りで、股間に下がりそうになる血を全身に戻しつつプールに戻る。
その夜。
また、女子寮最上階の侵入警報が発報した。
最上階は全室特別室で、各居室で生活の全てが完結出来る造りだ。一度部屋に戻った人間は基本的に翌朝まで部屋から出る必要がない。機械警備のセットはアンの警護の現地責任者たる紗生子に一任されており、毎夜その裁量でセットされているのだが、それにしてもいつも決まって真夜中に発報する。録画記録を確かめても各部屋の入居者に不審な動きはなく、赤外線センサーが反応するような事物の介在も認められない。
なのに——
何故なのか。
一般的なセンサーの感度は蛾が飛べば反応するレベルである事を思うと、相当シビアなサーモセンサーなのかも知れない。例えば、
「蚊ですかね?」
梅雨時ならそろそろそれが飛び始める季節だ。が、それだと、
——あの音の説明がつかねーか。
臨場後に思い当たる節を述べる俺の前の紗生子は、相変わらずのパジャマワンピースで、酔っ払いで、不機嫌だった。
「そんなモンを判別出来ないようなシステムじゃないんだよ!」
カメラがそれを捉える事が出来る筈なのに、何故かそれが出来ていないらしい。
「警報、切ってみます?」
「それじゃあホントに賊に襲われた時、寮生に危険が伝わらないだろ!」
何事があれば、一々全館に大袈裟な発報音が轟く。その理由は賊を怯ませる効果を僅かでも期待するのと同時に、周囲にいち早く危険を知らせるためでもある。
「しかし毎夜これじゃあ、先にこっちが参っちゃいますよ」
と、呆れながらも周囲の抗議の声を宥めるのは、既に俺の仕事と決まっていた。
「はいはい、異常ないから部屋に戻って寝て頂戴よー」
寮生は紗生子程色香は感じないものの、可愛気な年頃娘の寝巻き姿な訳で、やはり目の毒だ。ジャージ姿の無頓着な者など俺だけなのだ。
幅広い廊下の電気はセンサーライトであり、人が集まった今は煌々と点灯している。こんな中で下半身が暴れ出しては事だ。
不満たらたらで引き上げる寮生の背中を見送りながらも
「——そろそろ開発部を呼ぶか」
いくらなんでもこれじゃあ苦情がくるな、と紗生子が嘆息した。秘密結社のCC本社だが、やはり普通の会社のように部署の概念があるらしい。表向きには具体的名称すらないが、
——まぁそりゃそうか。
曲がりなりにも体裁を重んじる公務員の事ならば当然かも知れない。ふとそんな事を考えていると、引き上げる寮生の一人がアンの隣室前で断末魔と共に突然すっ転げた。
「あー散々だぁー」
ややオーバーにわざとらしく泣き真似する様子に、
「冗談のうちに改善しとかないとまずいな」
両手を腰に当て仁王立ちの紗生子が顔をしかめる。確かにアンを巡って周囲の処遇が悪化する事は避けたいところだ。そんな機微は一切合切紗生子任せという俺は、そんなところでも体たらく振りを発揮している。
難しい事は分からんし——
が、上司側にしても生徒側にしても、ご機嫌取りではないがある程度のフォローは必要だろう。校内で完璧な支持を得ている紗生子だが、一見して高圧的である事は否めない。宥め役はプライドも低く、何かにつけてハードルが低いバカそうな男の領分とするならば、
——ここは俺の出番だなぁ。
と、転んだ寮生の所へ歩み寄ると、喚くの生徒を宥めては帰室するよう促した。そこに
——ん?
少量の水が浮いている。加えて、僅かながら床に染みが見えた。
それぞれの部屋に戻る寮生に声をかけながらも廊下の床面を確かめるが、他の部分は実に綺麗だ。毎日寮生達が授業中、学園を経営する高坂一族が抱えるグループ会社のうち、清掃を業とする専門業者が清掃しているのだから当然だ。
結局その僅か染みは、アンの隣室者の出入口前だけにしかなかった。
——もしや。
最後の一人が部屋に戻るのを確かめると、仁王立ちしている紗生子の所に戻る前に、さり気なく隣室のドアノブに触れてみる。すると、
随分とまあ——
冷たくて湿気を帯びているではないか。
——アナログ手法だな。
デジタル化が進めば進む程、その盲点を突くのはアナログだったりするものだ。
「何だ?」
「戻りましょうか」
隣室の生徒も、既に部屋に戻っている。
「毎夜毎夜、目覚ましみたーい」
眠たげに呆れるアンと酔って目が座っている紗生子に代わって部屋のドアを開けて入室を促した俺は、腑に落ちない二人が部屋に戻るのを見届けると、何気なくも共連れで一番最後に入室した。
「——血迷ったか?」
容赦なく不審そうな目をくれる紗生子を軽く手で制すると、一度隣室側に目配せしてみせる。
"盗聴されてると思います"
「なぁに言ってんだ。この特別室は常時警戒されてんだぞ」
"じゃあ他の生徒達の特別室は?"
そこまでメッセージを送ると、何かを察した紗生子も声を潜め、コンタクトにメッセージが届いた。
"ありがちな機材が使用されればその電波を拾える筈だが"
それを聞きながらも俺は、隣室の壁と接する部屋へ足を向ける。
「何だ? 随分ずけずけ行ってくれるな?」
紗生子のプライベートルームらしかった。流石に俄かに気色ばむ紗生子だが、あえて俺は構わない。続けざまに点灯している室内灯を切ると、暗闇で取り出だしたるはCC謹製の武骨スマートフォンだ。その懐中電灯の光を斜めに当て斜光線で埃を照らすと、流石に整った部屋らしく殆ど塵などの浮遊物が見当たらなかった。それでもしばらく目を凝らして見ていると、その少ない塵が部屋の片隅に集まっていく様子が見て取れる。その終点は、部屋の片隅にある未使用の壁面コンセントだった。
一連の俺の調べを察した紗生子の怒りが、俄かに別の何処かに向けられていく。その正体を確かめるべく、俺がコンセントのカバーを手で剥がすと、
【バン!】
予想外の荒々しい室外音で、その剥離音が掻き消された。それを耳にするや否や、酔っている筈の紗生子が驚くべき機敏さで部屋の出入口を開け放して廊下に飛び出す。しゃがんだままスライディングで躍り出たその女豹が、慌ててその後を追った俺の目の前で何処から取り出したものか。いつの間にか自動式拳銃を構えており、勇ましげな片膝立ちで闇に向かって躊躇なくも
【ドン! ドン! ドン!】
と、駆けつけ三杯ならぬ三連射だ。
そこまでの間、僅かに三秒前後。点灯する筈の廊下のセンサーライトが灯らない。破壊されたか。
——まずい!
暗闇で室内の灯火を浴びればいい的だ。コンマ何秒で追いついた俺が紗生子の横っ面目がけて飛びかかったその刹那。闇から伸びた三筋の火線が発砲音と共に俺達の残像に食らいついた。間一髪で躱した俺達は対面部屋の壁にタックルする勢いだったが、その壁を蹴って紗生子毎再びアンの居室へ飛び込むと、またその残像へ食らいついてくる火線。
「危ね!」
敵も容赦ない。
その一瞬、俺の腕の中で只でさえ圧倒的な目力を有する紗生子のそれと視線が絡んだ。が、息をつく間も、パジャマがはだけるのもまるで構わない紗生子が、まるで鰻のような手応えのなさで俺の手の内から瞬間ですり抜ける。その緩急剛柔自在の身の熟しはまさに豹だ。その鋭い目を煌めかせると次の瞬間にはその女豹がまた出入口から片膝立ちで半身を覗かせ、闇に向かって応戦していた。
今度は五連射したがそこまで打つと、
「逃げられたか——」
ようやく一息つく。
何事もなかったかのように銃を下ろした紗生子から立ち込める硝煙の臭い。それと共に、片膝立ちで露わになった悩ましい太腿には銃のホルスターが覗いていた。
「な——」
その二つの事実が否が応でも発砲の事実を突きつける。その衝撃的な事実に驚くべき場面の筈なのだが、目は只でさえ艶めかしい夜着の紗生子の見事な御御足に釘づけだ。その堂々たる殺陣が、その着衣で敢行された事のギャップも凄まじければ、露わになった太腿がもう一めくれでもすれば見えてしまいそうな秘部の艶かしさも只事ではない。見ている方が恥ずかしくなる。
それをごまかすため、答えは分かり切っていたがあえて、
「追いますか?」
と、とりあえず伺いを立ててみた。
「それは本社がやる。我らはあくまでも対象を死守だ」
撃ち終えた時点で追おうとしないところを見ると、頭は既に事後調査に切り替えていたのだろう。その辺りの判断は、見た目の華麗さに似合わず中々手堅い。
「それに追ってももう無理だ」
「分かりました」
ヒラヒラした夜着に臆するどころかまるで構わない素振りの紗生子は、立ち上がって銃をホルスターに収めると独り言を始めた。早速何処かへ通報しているのだろう。俺はまた、よその部屋から顔を出そうとする寮生を押し込める側に回った。
身分は米軍人のままの俺だが、本国サイドはすっかり音信不通で事実上糸の切れた凧だ。事後処理は日本任せで良いのだろう。何はともあれこの場において自分を繋ぎ止めるのは、目の前の女上司しかいない。
警察が来るのか身内が来るのか知らないが、案内役が必要だろう。
「玄関で待っときます」
と、気を回したつもりが、
「いい。ここにいろ」
あっさり退けられた。寮の玄関はおろか校内の門や出入口は施錠済みだが、全て警備システムで開閉出来る。その権限を当然握っている紗生子だ。つまり、新米の俺に下手に動かれる方が困るという事なのだろう。
「——分かりました」
果たして、数分もしないうちに音も立てず現れた数人組が隣の部屋を調べ始めた。感情薄く如才なく。諸事淡々と進めるその連中は、明らかに日本警察の捜査員ではない。身分を確かめるまでもなく、身内の方だった。調査の主眼が犯罪捜査のそれではなく、明らかに情報の獲得だ。あらゆる資料の採取をするその模様は一見すると鑑識作業に見えなくもないが、その着衣には何処にも日本警察の徽章たる旭日章がない。大体、よその組織である警察の鑑識がこれ程早く臨場する訳もなく。
その調査を見物している紗生子が
「——気づいてたようだな」
徐に口を開いた。
「そう言う主幹こそ」
俺が気づいていたのは音だけだった。毎夜毎夜、侵入警報が発報する直前に必ず聞こえる
「ノイズが気にはなってたんです」
「耳がいいな」
常人なら気づかないレベルの音だったらしい。
「普通聞こえないんだが」
「そうですか?【カッ】て。聞こえてるのかと——」
「そういう事は報告しろ。私の耳はノーマルなんだ。犬猫レベルの君とは違う」
さらっと甚だ失礼な事をつけ加えてくれたものだ。映像音声機器を媒介する録画データでは、自慢の七つ道具のコンタクトやイヤホンも拾える画角や音質には限界がある。当然紗生子もそれを理解した上で解析していた筈だが、それでもノイズと勘違いしていたらしかった。俺が聞き取った音はそんなレベルのようだ。
「アリの足音を聞いた事はありませんが」
せめてそんな自虐めいた皮肉を吐いてやった。
「詳しいな」
「何かのネタで知ってるだけですよ」
アリの足音は言い過ぎかも知れないが、犬猫は一km先の音を聞き分ける優れた聴力を持っているといわれる。流石にそんな音を聞き取る自信はないし、はっきりと氷が落ちた時の音を聞き取っていた訳ではない。感覚というか直感というか。何らかの違和感をたまたま耳が捉えていた。それだけだ。
「で、床に浮いた水が氷だと?」
「ドアノブが冷たかったのでそうかと」
金属製のドアノブの室内側には冷凍庫用のコンプレッサーが繋がれていた。そこへ廊下側ドアノブに引っかけられるよう、予め作っておいた小さい氷を取りつける。解凍時間を室内側から調整出来る仕組みだ。で、周囲が寝静まった夜中にあわせて溶け落ちた氷が、常人では聞き取れない音と共に赤外線センサーを発報させ、毎夜毎夜賑わしていた訳だった。
少量の氷に反応するセンサーの感度も大概だが、深夜の眠たい盛りの事。発報時に、床に浮いた少量の水に気づく者は中々いないだろう。しかも朝になればその痕跡は蒸発しておりほぼ残らない。カメラがそれを追っていたとしても一見すると透明だ。後になってその録画データを何度となく確かめたところで、動く物を疑う人間の目では異常を見抜く事は出来ないだろう。結果的にその回数が嵩む事で、床に僅かな水染みが現れた。度重なる発報で機械の誤作動だと思わせ、一時的でも警備システムを放棄させる事が出来れば言う事なし。放棄出来なくとも「いつもの事だ」と対応が甘くなれば、それに乗じて何事か起こすつもりだったのだろう。
そのアナログ的執念は壁面コンセント内に仕込まれていた伝声管にも現れていた。何とそれを直接パソコンの外部スピーカーに繋いで集音し、盗聴していたのだ。従来型の無線型盗聴器は紗生子がいうありがちな機材のど真ん中であり、その電波が逆探知される事を警戒したのだろう。無線電波の逆探知は業界人なら当然警戒するだろうが、何とも手の込んだ事だ。こんなもので本当に満足な盗聴が出来ていたのか今一つ疑問なのだが。
「まさか伝声管で盗聴されていたとはな」
それは殆ど、壁にコップを当てて聞き耳を立てるのと同意だ。更に驚くべきは、陰圧装置まで用意していたという事実。自室の気圧を下げ、紗生子の部屋の空気を呼び込んでいた。少しでも集音効果を上げるためだったのだろう。デジタル全盛の時代を嘲笑うかのような旧世代の応酬だ。
その僅かな空気の流れを見分けた俺の目を、
「中々の着眼だ。流石はパイロットという訳か」
あの高飛車な紗生子が素直に感心した、ように見えた。
「そうですかねぇ?」
アナログな手口でセキュリティーを惑わせようとする者ならば、盗聴もそうだろうと思っただけの事だが。そういえば初めて褒められたのではないか。実に気味が悪いが、それを口にすると後が怖いので当然黙っておく。因みにそのお返しではないが、紗生子の部屋を盗聴したところでこの魔女が迂闊を抜かすとは思えない。それは間違いなく徒労に終わっている筈だ。
「もしかして、ニュータ○プ? みたいな?」
そこへ警護対象のアンが割って入った。
「フランスの外人部隊じゃ【シャ○】って呼ばれてたんでしょ?」
などと、はしゃいでいる。
「私は喋ってないぞ」
と、紗生子が顔をしかめた。元米国副大統領の愛娘にして、これ程の警護を受ける身分だ。接する人間の素性など、嗜みレベルで触れているという事なのだろう。
「アン・シャーリーから揶揄されたんですよ」
仏軍外人部隊には【アノニマ】と呼ばれる【偽名】を名乗る制度がある。それは隊員の身分を守るための制度なのだが、俺は在籍中台湾名で【安】と名乗っていた。そこから安直に、世界的な児童文学の主人公に見立てられてつけられた通り名なのだ。だから、アニメ好きの中でよく知られる近未来ロボットアニメの
「○ャアじゃないですから」
その英雄とは何も関係がない。
「そうなんだぁ」
と言う【eのつくアン】の名を持つ御令嬢も、俺の通り名の由来までは流石に知らなかったようだ。が、
「でもまあ、これはもう決まりでしょ?」
「そのようだな」
アンに何かを向けられた紗生子が、小さく嘆息しながらも追認する風情を見せる。
「私をフォロー出来るレベルのようだしな」
「そのレベルまで落として、敵を油断させてたんでしょう?」
旧世代型の仕掛けには気づかなかった紗生子だが、敵の介在は疑っていなかった。だから、
「酔った振りして」
「鼻も利くようだな」
酒乱を装って酒臭に近い香水をつけていたのだ。でなくてはいきなり寝起きで、先程の如き動きが出来る訳がない。
「でもホントに少しは飲んでるんだ」
「そうなんですか?」
「嫌いじゃないしな。君は飲む習慣がないようだが」
「ええ」
「だったら余計ちょーどいい!」
紗生子の酒乱をシーマ先生がカバー出来るし、と言うアンによると
「勤勉さが如何にもスパイらしい!」
のだとか何とかだ。これも何処かで聞いた事があるような、ないような。
「流石は困ったヲタクだ」
「日本文化に深い造詣があると言って欲しいなぁ」
「屁理屈だけは一丁前だな」
と言う紗生子はそれが理解出来るらしく、仮にも警護対象者に躊躇がない。
「まあ本番で怯まないところは、前任の二人とは雲泥の差だ」
と言った紗生子は、最後の最後で
「——仮免クリアだな」
とつけ加えた。
同日昼間。
あれ程の騒ぎだったにも関わらず校内は静かだった。何がどうなっているのかさっぱり分からないが、少なくとも最上階の寮生の保護者から苦情の一つくらいあってもよさそうなものだ。が、それすらまるでない。
「まぁ苦情が来てもどっちみち私が対応するんだ」
別に構わないんだが、と言う紗生子は、何と学園の顧問弁護士と校内のスクールロイヤーも兼務しているらしかった。
「——忙しい訳ですね」
「顧問弁護士は他にもいるからそうでもないがな」
加えて既に校医も兼ねているこの女に、後どれ程兼職があるのか知らない俺は、月並みな相槌を打つ事ぐらいしか能がない。それにしてもアラサーで、それ程の資格を得る事が可能なのか。しかも既にいくらか経験を有している様子だ。
——どうなってんの?
そもそもが、本当にアラサーなのか。実は結構な年なのではないのか。とはいえ、見た目はどう見てもアラサーなのだが。只、日本人というのは世界的に見ても、一見幼い顔立ちで年齢の分かりにくい人種だ。近年ではそれに輪をかけて、美容医療の発達からアンチエイジングが進んでいて余計分かりにくい。上司の女に年を尋ねる訳にもいかず。今、それを考えたところで堂々巡りだ。何れにしても興味の範囲を脱しない。とりあえず年の事は置いておく事にした。
それはさておき、その保有資格だけで既に常人離れしているというのに、昨夜の勇ましさといったらない。頭が良い女というのはそれなりに見てきた。物理的に腕っ節が強いとか格闘技に秀でた女というのも、たまにだが見かけた事がある。が、それが両方凄いという女に接するのは初めてだ。
「実はな——」
女子寮の最上階は、アンの隣室者以外、学園経営者高坂家の息が少なからずかかった家の御令嬢らしかった。日本一の金持ちと称される高坂家の事。その近しい間柄の家という事は、揃いも揃ってそれなりの家柄である事は言うまでもなく、あえて言えばその頂点に君臨する高坂に逆らえる筈もない。
だから元々、隣室者だけが明らかに浮いていた、のだそうだった。つまりは
「——泳がせていたって事ですか?」
「ああ」
「あちゃあ——」
主幹教諭室内の自分の机にかけていた俺は、思わず天を仰いだ。
「——出過ぎた真似でした」
「まぁ相手もそれに気づいた頃合いだったし、潮時だったからちょうどよかったんだ」
後はどう尻尾を掴んでどう料理するか。その段階だったらしい。只、状況証拠ばかりが積み重なって、肝心な決定的証拠が掴めなかった。
「本当のところは——」
証拠もクソもない世界だが、仮にも正規の手続きを経て入学してきた相手だったため、広く門戸を開く学園の建前を完全に無視する訳にも行かなかったのだとか。で、一応手順を踏む事にした、という結末が昨夜のあの騒ぎという事のようだった。
——あれで?
手順を踏んだと言い切るところが既に無茶苦茶だ。が、何を言われるものか分かったものではないため、そこはあえて放置する。
相手を暴いたまではよかった。で、あれが手順というのなら、日本にあるまじきヒステリックな武闘派だ。そこは本格的なスパイ大作戦、という事なのだろう。
「私では力不足ですね」
母国が誇る諜報機関などの専門家を頼った方が良い。安く見積もれる任務ではなく、俄かスパイの出番ではない事は確かだ。
「駆け引きも、難しい事もよく分かりませんし」
そもそもが、いなくてもよいような立ち位置の俺なのだ。それはまさに現代の軍事技術と同じだ。技術的には自動操縦・制御はおろか、実は既に人間の管理を離れた作戦行動も可能な物が多い各種軍用品。それは戦争の手段・方法を人道原則により規制する【国際人道法】遵守の観点から、それに踏み込んでいないだけだ。それらを前にすれば人間など今や、取ってつけたような建前上の飾り物に過ぎない。
今の俺など——
そんな飾り物と同じだ。最悪の事態に備え、迅速的確に米側にすがりつけるようにしておくための担保に過ぎない。只、自分で言うのも何だが、俺という存在がその担保に成り得ているとは到底思えないのだが。
「では辞退するか?」
「出来るんですか?」
「私が首を言い渡せばな。——でも、そうなると君はどうなるんだ?」
「さあ?」
とは言ったものの、結果は火を見るよりも明らかだ。紗生子にしても、それが分からない訳がない。使えないと判断されれば、只ならぬ秘密を握っている身だ。その末路は、少し前に紗生子が言ったように「任務にかこつけて殺される」のが落ちだ。
「正直に言う。私としては——」
言う事聞いてくれて度胸がある人間なら誰だっていい、のだそうだ。
「命令が理解出来る程度の知能があれば、実はバカな方が面倒臭くなくていい」
と、容赦なく身も蓋もない。
「逆に嫌なのは——」
賢しくてプライドばかり高い意気地なし、なのだとか。
「その点君は、前任二人とは違って私の好みなんだがなぁ——」
要するに使いやすいバカ、という事だ。とはいえ、普段はさばさばと男らしい言動で勇ましいばかりの紗生子だが、要所ではそのギャップを上手く使う術も当然知っているらしい。言葉こそ男言葉だが、嘯きつつも流し目で見られるとドギマギしてしまう。
「そんなウブなところもな」
女を忘れている訳ではなさそうで、それをちらつかす機微がまた憎らしい程聡い。
「アメリカ側の連絡要員という立ち位置だけなら、やっていけなくもないかも知れませんけど」
何にせよ、とにかく何やら怪しくなるのは困る。下半身の鬱積はもうパンパンなのだ。三〇半ばならば、悲しいかなまだそれなりに敏感だ。軽く受け流して話を戻すと、
「まぁ言う事聞いてれば、悪いようにはしないさ」
傲慢な魔女の如き粘りつくような、見下したそのフレーズとはまるで釣り合わない、麗かな女王の慈悲の如き美笑を見せた。
「はあ」
何ともチグハグな女だが、それでいて才色驍勇兼備というこの女傑からしてみれば、俺などはまさに世の大多数の、中身空っぽのバカな男共の一人に過ぎないだろう。
——あ、そうか。
そこまで考えて、前任者達の解任理由にようやく思い至った。選りすぐりのエリートだったらしい彼らは、決して無能だった訳ではないのだ。紗生子にしてみれば自分で大抵の事が出来るのだから、小理屈捏ねて言う事聞かない将よりも、バカで一直線な一兵卒が欲しかった。それだけの理由だったのだろう。
つまり、結局のところここでも
——都合のいい捨て駒扱いかよ。
その役回りの宿命を呪わざるを得なかった。これまでの解任劇は、本国米国と日本側の窓口たる紗生子の擦り合わせのようなものだったのだ。
本国としては、いざという時のために主導権を握る担保は残しておきたい。が、下士官では紗生子の言いなりに成り下がる危険がある。かといってエリートでは、それを嫌う紗生子に難癖をつけられて首にされてしまう。それで紗生子と同一階級で、かついくらでも替えが利く捨て駒。加えて紗生子好みのバカ、という何とも絶妙なチグハグさを有する将校を欲した訳だ。
その厳選結果が、
——俺かい。
という事だったのだろう。
紗生子と同一階級というのは、紗生子に警戒されないギリギリレベル、と本国が判断しての事なのだ。いざ主導権を握るつもりになったなら、俺を昇進させればよいだけだ。仮にもしそんな事態になるようなら、間違いなく俺は死地に塗れる事になるのだろうから、本国としては惜しげもなく上の階級を差し出す事だろう。そもそもが今の階級にしても、取ってつけたような理由のバーゲンセールのような有様で有り難くも賜ったものであり、それに伴い正規のエリート達のように手厚いOJTなど受けた事もなければ、戦時下の特別職のようなものなのだ。そんな邪な特別扱いで俺を雇う背景には、何れ何処かで確実に死に行く者だという、スポンサーたる本国の意図が透けて見える。例え戦死又は殉職したとて天涯孤独で身内がいない俺の事ならば、遺族補償の義務がない本国としてはまさに打ってつけだ。それ故の、今回の転属に伴う昇進だった
——って事かよ。
それに気づくのに一体何日かかったのだ。我ながら自分の頭の悪さに嫌気が差す。
普通の人間なら本国に対して恨み節の一つも吐きたくなるのだろうが、そもそもが縁故を始めとする人づき合いの煩わしさを嫌ってことごとくそれを断ち切って生きてきた俺にも原因がある事だ。それを本国につけ入られたのであれば、一方的に国のせいにするのは筋が違う。
ようやくここまで理解出来た俺だったが、結局のところ何かを改める気にもなれなかった。とにかく俺は、人のしがらみというものが、
——めんどーだしなぁ。
という事なのだ。
時として人生をも左右し兼ねない他人という存在は、己の事すら完全に理解出来ていない不完全でいい加減な者達である事が大抵だ。それに加えて排他的で利己的で、あらゆる欲に貪欲で。それは俺にも言える事だが、他人が俺と決定的に違うところは、満たされない自分を他者に責任転嫁し、果てしない悪意を持ち得るという救い難さだ。そうした心貧しい亡者に他者の苦悩を推し量ろうとする想像力は皆無な訳で、可能な限り個を確立してきた俺でさえ、そうした亡者の邪な悪意に晒される事幾多という世の不思議というか理不尽というか。考えれば考えるだけ、そのおぞましさに気が滅入る。
自由な時代ってのも——
考えものだ。世に民主主義が生まれて数百年。先人達が身を削って勝ち取ったものの価値が分からない大多数の軟弱な現代のたわけ者共は、衆愚化の一途を辿っている。自由にかまけ責任放置で権利ばかりを主張し、利益のみを貪る簒奪者だ。多様性の概念を都合よく解釈し、狭量にして悪辣な自由がまかり通る現世の真理は混沌だ。それがあちこちで火種を燻らせ、挙句の果てにもっともらしい表現に言葉を変えつつ大義を謳っては大事になったのが戦争だ。建前にも民衆が主役の時代において、いつまで経っても人類が戦いの歴史から抜け出せない所以がそこにある、のではないか。
それさえなければ軍人などは一番楽な仕事だというのに、ある意味で時代のニーズがそうはさせてくれない。結局はそんな時代だからこそ、適度な距離感で後腐れのない宙ぶらりんの今の処遇が
俺に取っても都合がいい——
という事なのだ。
「どうした? まさか本気で降りるつもりか?」
「いえ。——続けてください」
頭の悪い俺がそうやって一々脳内で確かめる中、紗生子は煮え切らない俺に構わず淡々と昨夜の調査結果を説明していた。かくいうこの女上司も軍人だ。とすると、実は思うところが俺と同じ部分もあるという事なのだろうが、今のところそれはよく分からない。とりあえず分かったのは、無駄に美人のくせしてやたら度胸が据わっている貴族階級的な魔女、という事ぐらいだ。黙っていると品が良さそうなのに口を開くと軍人などと。まさにギャップが凄まじいというか、如何にも男役がハマりそうなタイプではある。
「聞いてなかったろう?」
「よく分かりますね」
「そりゃあ只でも呆けた顔の口が半分開いてればな」
「え?」
先程何処かのタイミングで嘆息したまま、口を開けっ放しにしていたらしい。うかうかしていると何かの術で心まで読まれそうだ。
「——失礼しました。今度こそ続けてください」
真面目に聞く事にした。
警護対象のアンの隣室者は留学生を騙って潜入したエージェント。米国に敵対する某国の手先だったとか何とか。デジタル監視網を掻い潜るための旧世代型機器、物によっては伝声管のようなアナログ以前の物を駆使した執念は、事後調査を担当したCC本部も呆れを通り越して関心していたらしい。そんな活動だったからこそ逃走に際し証拠隠滅する必要もなかったと見え、部屋に残された数々の資料は旧世代型スパイの見本市のようだった。
それにしても——
紗生子と撃ち合った挙句、窓を突き破って逃げたエージェントが飛び降りたその高さは寮の最上階分だ。国内外に広く門戸を開く学園の、その男女寮は共に七階建て。それを
飛び降りるって——
常人ならざるその身体能力は只事ではない。もっともワイヤーか何かで飛び降りているのだろうが、それはまさにサブカルの造詣に深いアンではないが、
——ルパ○とかスパイダー○ンが相手とはなぁ。
その超有名人達を連想させた。まさかそれをリアルにやるヤツがいるとは。冗談も大概にして欲しいものだ。それに加えて、超進学校に正規入学出来る程のその頭脳。
一方でそれに対するお味方の大将アンや、紗生子の有能振りは言うに及ばす。更にはCC本部の如才ない隠密振り。俺としては初見だったその連中は、夜中だというのに愚痴一つ漏らさず表情薄く。その能吏振りは、バカで陽気でがさつな世界で生きてきた軍人としては気味の悪さすら覚えた。
小一時間もすれば調査を終え、忍者のように消えて行った連中の後に残された隣室者の室内の生活感のなさが、またその寒気を一層強くさせる。敵も味方も何かにつけて俺以外は有能で、何だか真面目に無茶苦茶やっているというか冷静に弾けているというか。生死を潜り抜けてきた中にも、ユーモアを忘れないお国柄に馴染んでいた俺にとって、久し振りの日本は
——辛気臭いんだよなぁ。
何処か堅苦しかった。確かに如何にも日本らしいと言えばそうなのだが。
修行僧じゃあるまいし——
元々スパイに仕立てられている人間ならともかく、一介の米軍人の大抵は陽気なアメリカンだ。
——そんな連中がもつ訳ないじゃんか。
別に紗生子が首にしなくても、遅かれ早かれ前任者達は去っていたに違いない。
野蛮な軍人に対して狡猾なスパイ。毛色こそ違うがそのどちらにも共通するのは、愛国心という名の盲目的な狂気だ。が、一方で、この二者は決定的に違う部分がある。全ての軍人がそうという訳ではないが、一般論として国家の闇を覗くという観点で軍人は根明過ぎて普通向かないのだ。教え込まれた単純な正義に猛進する。そういう分かりやすい正義に鼓舞されてこそ士気は高揚し、国を守るための盾と成り得る。つまり闇を覗き慣れていない。そして俺もその一般論的な根明、要するに短絡的なバカ野郎共の狢だ。俺が覗いてきた闇など爪の垢程もないだろう。
だから前任者達には、同情する向きも少しはあったりする。実際のところ俺の目下の悩みも、任務というよりは煩悩の方が暴れ回ってどうしようにもないのだ。抜きたいものは何も息だけではない。とどのつまりが一言、
「こんな抜け作でいいんですか?」
という体たらくでしかなかった。
「バカとはさみは使いようとはよく言ったモンでな。私はぐずは嫌いなんだが——」
さっきも言ったと言わんばかりの紗生子が、失礼も大概だがそれでも
「——少なくとも、アンは気に入ったようだしな」
と思いがけぬフォローを入れる。
「は?」
「君の事をな」
「そう、なんですか?」
「対象から信頼を勝ち得た事は大きいだろう?」
——どこを?
どう気に入られたものか。相手は御大尽の娘とくれば、確かに嫌われるよりは良いだろう。が、それにより何となく、根拠のない不安を覚えるのは何故か。俺はとにかく、そうしたややこしい星回りで今に至っているようなものなのだ。
「——ネガティブなヤツだなぁ君はホント」
そこを見事に覗き込まれたようだ。
「折角普通の軍人には有り得ない学園生活なんだ——」
構わず微笑む紗生子は、
「——楽しむのも一興だと思うが」
軽々しくも嘯く。
元米国副大統領にして次期大統領候補最右翼と言う世界的大物の娘を預かる日本側の窓口は、最後の砦のような存在でもある
——筈なんだよなぁ。
そのプレッシャーを一身に受ける立場だというのに。本当に大した度胸だ。そこは認める。
「それで務まるのなら、まあ」
「私はそうしている」
「——そう、ですか」
つい半日前に日本にあるまじき大立ち回りをやらかしたというのに、実に呆気らかんとしたものだ。その硝煙の記憶と、今見せている屈託のない朗らかさがまたチグハグで、止めが只ならぬ妖麗さだ。
「あ、仮免クリアしたから渡しとこう」
そんな魔性の女が何処か陽気さすら思わせるその言の後に、机の中から無造作に取り出したのは何と自動式拳銃だった。
「ええっ?」
銃規制にうるさいお国柄にしては、出て来る所がおかしいように感じるのは気のせいではないと思うのだが。
「どうした?」
真面目に疑問を呈するこの女上司のために、ここ何日かで随分固定観念が破壊されたような気がする。
「ここって日本ですよね?」
「武器を持つ者が全くいない事はないが?」
それは警察官であったり、その正反対の反社会勢力だったりだ。
「まぁそうですが——」
それにしても、仮にも教育の場でこんな物を持ち歩いてよいのか。そこまで思って、ふと気づいた。
「ひょっとして、いつも携帯してます?」
「ああ」
——やっぱし。
だからこその、夜中のあの反応の早さだったのだ。
「じゃあ今でも?」
「夏は太腿につけるしかなくて敵わん」
だからいつも、スッキリとしたワンピースなのだ。
「ホントは動きやすいパンツスタイルが好きなんだが、夏は暑くて上着なんて着てられんしな。流石に校内でガンホルスターを見せびらかす訳にもいかんだろう」
で、太腿にレッグホルスターをつけているらしかった。その瞬間で不意に、夜中のパジャマワンピース姿が脳裏に蘇る。
「ずっとつけてるから太腿の皮膚が厚くなるし色素沈着するし——」
独り言ちる紗生子の前で、刺激に飢えて敏感になっている俺だ。途端に鼻の奥が緩んだ、気がした。かと思うと、瞬く間に血生臭くなる。
——この年で!
まさかの鼻血だ。
「——って、よく呆けるなホント」
「え?——いや、その」
密かに鼻を啜る仕種でごまかしていたが、あっという間に限界に達し、鼻を摘んで上を向くしかなかった。
「ぶはっ!」
気づいた紗生子が堪り兼ねて噴き出す。
「て、てっしゅあります?」
「何を想像したのか知らんが、こんな私でも捨てたモンじゃないようだな」
くつくつと声を震わせながらも立ち上がった紗生子が、小さな衣擦れの音と共にするりと寄って来た。かと思うと軽く頭を押さえつけられ、無理矢理目線を下げさせられる。もう片方の玉手で、貸与される予定の拳銃を額に当てられた。冷やすつもりのようだが、プラスチックフレームのそれは然程冷たさを感じない。
「全く冷やさないよりはマシだろう」
「物理的な負傷以外で出た事はないんですがね」
「のぼせ以外に考えられんが思い当たる節はあるか?」
「ありません」
俄かに問診めいているのは職業病だろう。それに対してよもや「溜まっている」とは言えよう筈もない。
「だろうな。君の身体検査のデータは健康そのものだったしな」
何処から入手したのか知らないが、恐らくは俺の航空身体検査か定期検診の結果でも見たのだろう。高が鼻血だが、処置に年輪のようなものを感じる。それをするのが堂々たる男装の麗人とあらば、学生達の支持や憧憬は当然といえた。
「血は構わず吐き出せ」
「もう飲んじゃいましたよ」
「まぁそれで気持ち悪くなるようなたまじゃないか」
それにしてもホント予想外に可愛いな、とバカにして笑う様すら絵になる紗生子に触れられていると、また俄かに鼻の奥が怪しくなる。
「学校は退屈で雁字搦め。若い血潮は上がったり下がったりで落ち着かない、といったところか?」
「そんな事は——」
あるのだが。やはりバレていたようだ。まあ成熟した女なら当然の反応だろう。ならばある程度の配慮が欲しいものだ。そう思えてくると、思わず嘯くその面に
——休ませろ!
と吐き出しかけたが、止めた。
「女の身でずっと銃を携帯してる人を前に、柔な事を言ってられません」
上司がそんななら、部下として強がりを吐く外ない。
「慣れてるからそうでもないが——」
「いくら軽い銃でも、その美肌には酷でしょう」
折角のそれが台無しなのだ。特にデリケートな部分の事でもある。それをあっさり割り切るところなどは手放しで褒めてよい。この自由な時代に仕事のためとはいえ、女の一部分を躊躇なく犠牲にするような女を前に弱音を吐いては男がすたるだろう。
「気遣いは無用です」
「そうか」
もう大丈夫そうだな、と言った紗生子が額に当てていた拳銃を俺に手渡すと、また机に戻った。そのフレームには、オーストリアが誇る武器製造メーカー【グロック社】のロゴ。その横に刻印されたモデルナンバーは、同社の世界的ベストセラーとなった
「グロック19、ですか」
だった。
世界中の部隊や機関で採用されるそれは、射撃精度の高さは言うに及ばず、軽くて耐久性に優れメンテナンスも容易。と、抜群の信頼感と定評を誇る。が、日本のCCがそれを採用した理由はズバリ、
「SATも使ってるからちょうどいいんだ」
日本警察が誇るその特殊部隊と武器をシェアリング出来る事に尽きるようだった。
「武器は現代型ですか」
「日本は一応平和国家を謳ってるからな」
近未来型のコンタクトやイヤホンは他分野でも技術転用出来る物であり、開発費を上回る利益の見込みがつきやすい。一方で武器が同じ感覚で気安く転用・販売出来ない事もまた明らかな訳で。
「どこに重きをおくか、って事だな」
で、兵装の類は国内で採用されている実績ある汎用品を共用しているらしかった。その辺は実に合理的だ。
「先方は使用実績が極少だし、殆ど訓練でしか使ってないからその分使ってやらんとな」
宝の持ち腐れを解消する意図もあるのだとか。確かに日本の特殊部隊は世界各国のそれと比べるまでもなく、圧倒的に出番と武器の使用実績が少ないのだ。だから、
「こっちは撃ちまくるからな」
のだそうだ。
「使ってやらんと予算もつかなくなるし」
そこは例外なくお役所という事らしい。
「まさか学校の先生になって、銃を貰うとは思いませんでしたよ」
「変わった任務は君の宿命だな」
などとその自覚を代弁されると、鼻血から復活した俺はご愛嬌で首を突き出しながらも、復活アピールを兼ねて鼻から盛大な溜息を吐き出して見せた。
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