じゃじゃ馬【先生のアノニマ 2(上)〜3】

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じゃじゃ馬【先生のアノニマ 2(上)〜3】

 七月下旬。梅雨が明けた世間は夏休みシーズンが到来した。  表向きには日本の内閣府に出向し、何故かそのまま都内私立名門の中高一貫校【太史(たいし)学園】にALTとして赴任させられた米空軍現役将校のイースこと俺が、裏向きの身分のためにコードネームをつけられ妙な任務(潜入警護員)に従事するようになって早一か月。 「シーマ先生、狭くありません?」 「はい、狭いです」 「だって、紗生子」 「最近、随分と正直に物を言うようになったじゃないか」 「嘘偽りは判断を曇らせますから」 【Rey(レイ) C'ma(シーマ)】の偽名で就いた裏向きの任地は、Cabinet(内閣の) Clerk(事務員)(通称CC)と称される日本政府直掌の諜報部だ。しかも、米空軍の身分は生きたまま。加えてそのどさくさ紛れに、何故か在日米国大使館駐在武官室の特別補佐官という、よく分からない肩書きまで付され。しかも全て兼任という  全くもって——  出鱈目振りの無茶振り。  その上兼務辞令なのに本国は全くの音信不通で、事実上糸の切れた凧状態。加えてクソうるさい車のクソ狭い後席に押し込まれ、運搬される現況に見舞われる  ——俺の性って。  一体何なのだ。 「人の車に乗せてもらっておきながらどの口が文句を垂れるか」 「これって使役でしたよね? 確か?」 「罰に決まってるだろう。相変わらず察しが悪いな」 【真耶(まや)紗生子(しょうこ)】のコードネームを持つ、このクソ高飛車な上司の私有車らしきこのクソうるさい車は、仏国が誇る世界的コングロマリット【フェレールグループ】の高級車ブランド【アルベール・フェレール】のスーパースポーツクーペだ。通称アルベールの名で通る、一昔前でいうところのスーパーカーは、高性能も然る事ながら限定モデルともなると平気で億を超える値をつける。汎用モデルでも軽く数千万という、とにかく金銭感覚を狂わす事では話題に事欠かない世界中のセレブが刮目する名車  ——の筈だよなぁ。  なのだが。  そのコンパクトクーペの、それも限定モデルらしきこのクソ高級車を平然と私有車だと言い放つ紗生子とは、  ——どんな御大尽なんだ?  きっとその実態は何処ぞのお嬢か何かだろう、と俺は勝手に決めつけていた。紗生子にはそれを裏づけるよくいえば大物感、悪くいえば太々しさがある。悪い形容を口にし始めれば切りがないが、それを上回る良い形容にも事欠かないという一見アラサーの女上司は、認めるのが悔しいが左ハンドルのすかした外車を乗り熟すに値する粋な風格を帯びていた。元々が、何かにつけて絵になる玲瓏の君なのだ。その助手席に侍るアンも運転手に勝るとも劣らぬ珠玉とくれば、冴えない中年の俺などはあってないような後席に 「罰でも乗せてもらえるだけ感謝しろ」  という事だった。  で、名ばかりの後席に押し込められては丸くなっている。前席の背もたれが遠慮なく下げられているため本当に足の置き場がなく、天井も低くて頭が押さえつけられているのだ。お世辞にも乗り心地が良いとは言えず、加減速の度に身体があちこちに持っていかれそうになる。が、どうにかそうならないのは、前席の二人が持参したスーツケース達と仲良く肩を組んで座っていたからだった。 「ホントは先生と一緒に帰りたかったなぁ」 【元米国副大統領の娘】という、小面倒臭い素性を持つ警護対象の留学生【Anne(アン) Bertha(バーサ) Clark(クラーク)】は、その実家から夏休み中に最低何日かの帰省を命じられたらしい。元々が、今更留学するまでもない新進気鋭の日本研究者なのだが。にも関わらず留学を強行した理由は「サブカル三昧生活を満喫するため」と平気で抜かすものだから、そのために振り回される俺を含めた日米両国の小役人達は、  ——救われねぇ。  の一言に尽きた。が、 「あー帰りたくないなぁ」  当の本人は何処吹く風だ。  夏休みこそ気合を入れてヲタク道を突き進むつもりが、それを読まれた両親に釘を刺されたとか何とか。で、とりあえずその義務を果たすべく、夏休みに突入早々一度国に帰る事にしたらしかった。 「私の任務は日本滞在中の護衛ですから」 「それなら君は職務放棄だな」 「そうだそうだ」  一言俺が何かを口にするとこのザマだ。それは確かに言えているから  ——むう。  返す言葉がない。  航空機には、何処の国籍であろうと母国の主権がその機内にも及ぶ【旗国主義】の原則がある。 「搭乗便は何処の——」 「新東(しんとう)航空だ。日本(・・)のな」 「——でしたね、そういえば」  であるからして日本国籍の旅客機で米国に向かうのであれば、基本的には米国領空に入るまでの機内は日本、という事だ。 「三日前の課外に私の部屋(主幹教諭室)で説明したつもりだったが、どうやら本当につもりだったようだ。君のレベルに寄り添ってもっと分かりやすく説明しなかった私の責任だな」  イラつく紗生子の答えっ振りでそれを思い出す俺の鈍さは、頭も感情も頗る切れる上司の烈火にせっせと油を注ぎ続けている。一応、その気はないのだが。 「——しぃません、その」  小さく後つけすると、アンが堪え切れないと言わんばかりに「ぶはっ」と小さく噴き出した。その懸命な配慮が、俺の情けなさを増大させる。 「私が二人分働かされる訳だな」  俺は、とある事情で残留だ。となれば紗生子が俺の分まで日本側の警護義務を果たすべく、日本の主権が絶対的に及ばなくなる場所までアンの帰省に帯同する事になった、という訳だった。とはいえ、その実紗生子は元々クラーク家とは浅からぬ交流があるとかで、半分はバカンスも兼ねているらしい。例えそうであったとしても任務の余地が残されているのであれば、本来その義務だかバカンスだかに俺も帯同する責任があったのだが、余りにも言われっ放しなので、 「【建前】をおざなりに出来ないと判断したのは主幹でしょう?」  つい、そんな口答えをしてしまうバカな俺だ。良くも悪くも関心持たれまくりの俺が、先日の【生徒アンケート】で莫大な量の建設的答申を求められてしまった事は校内では未だに冷めやらぬ珍事であり、つまり残留はそのためであって俺の体たらくが原因なのだったが。頭では分かっていても、滑り始めた口は中々止まらない。 「だから【雑務員】に鞍替えしてもらって一向に構わなかったものを——」  そこまで愚痴ったところで盛大に急ブレーキを踏まれ、前席のコンソールまで吹っ飛ばされてしまった。 「あ、あぶね!」 「誰かの減らず口のせいで赤信号を見落とすところだった。危ない危ない」  紗生子が吐き捨てるその横で、辛うじての海老反りで悶絶する俺は、フロントガラスに土壇場の前受身でギリギリセーフだ。 「頭が割れるとこでしたよ」 「ガラスだけでも高いからな、この車は。割れなくてよかった」 「このスーパーカーはABSついてないんですか?」 「さあ? 誰かさんと違って察しはいい筈なんだがな」  紗生子に言われると、冗談抜きで車が気紛れで判断しているように思えてくる。気のせいか、機械にまでバカにされているような俺だ。赤信号で止まっているうちにそそくさと後席に戻ると、  ——もう言うま。  青信号に変わって急発進される前に運転席側の後ろ座席に移り、一層縮こまった上にシートベルトをした。 「や、やれやれ」  最近慣れが生じているのか、つい口答えのようなものを吐いてしまっている俺だ。速攻即断の紗生子の事ならば、この調子では早々に身体が持たなくなる。スーツケースが前に飛び出さないよう、その代わりに真ん中に座っていた事を逆手に取られた犯行だ。絵に描いたような瞬間沸騰型の紗生子は、自分の行動に自分なりの正義が通ってさえいれば良くも悪くも躊躇しない。片や鈍い俺は、その早さと思い切りのよさについていけず。いつもいつも物の見事にやられっ放しだ。  ——可愛くねー女だなぁホント。  では、スーツケースを真ん中に置いてやれば急ブレーキも踏めまい、とも思ったが、それが有事に及ぼす影響の大きさを思うと出来なかった。迂闊に舌打ちも出来ず、密かに顔を歪めるに止める。  真ん中に座っていたのは、不測の有事に対する瞬間的なリアクション重視の意味合いもあったというのに。それが出来ないのであれば次の手だ。大人しく、スーツケースを助手席側に固め置く。運転席側後方に座り直したのは、助手席に座る警護対象を斜め後方から監視するため。スーツケースを助手席後方に固めたのは対象の背後の弾除けだ。リアガラスといい紗生子のスーツケースといい、何れも防弾仕様の事ではある。 「そういうところも当てにしてたのにぃ」  警護慣れしているアンがそれを察して無念そうに吐くと、 「中止してもいいぞ?」  青信号でゆっくりと車をリスタートさせた紗生子が拘りなく言った。 「——知ってるくせに」  米国の学校に比べると夏休みが極端に短い日本の学校の事。加えて学園の高等部一学年は、八月に入ると臨海学校や登校日でおちおち帰国する暇がない。挙げ句、八月下旬には二学期再開である。つまり、帰るなら今しかない。 「クソォ——シーマ先生を陥れようとする連中、許さないんだから!」  私が答申するからアンケート持ってきてよ、と言い出す始末のアンは、俺が自分で言うのも情けないが、三〇半ばの冴えないおっさんの何がいいのか。我ながら全く理解出来ない程に随分と懐いてくれたものである。 「それ、無意味だな」  で、それを紗生子がばっさり切り捨てるのは最早お約束だ。 「アンが答えたらあからさまだろう。ゴローの知能指数を考えろ」  レイ・シーマのコードネームは校内だけで、CC本部では【ゴロー・ミナモト】と登録されてしまっている俺は、その名づけ親たる紗生子から常々【ゴロー】と呼ばれている。 「あーそうかぁ」  懐いているが盲目ではないアンの言動は、安定的に失礼千万だ。 「賢いんなら知能レベルの調整ぐらいチョチョイのチョイでしょう?」 「無理無理。私、負けず嫌いだし」 「だから【雑務員】でいいんですけどねぇ」  と、またそれを口にすると、 「無駄口叩く暇があったら答申のネタを考えろ」  紗生子がぴしゃりと締めた。  学を有しない米空軍現役将校の身分を慮った学園側が苦肉の策で用意した建前上のALTの職だったが、結局のところ最終的にはやはり紗生子のプライドが影響していたようなのだ。自分の部下が雑役要員で他人にこき使われるなど。それによって紗生子を辱めようとする不届きな職員や生徒を警戒しての防御反応でもあるらしく。 「お人好しの君なんかが校務になったら、それこそ雑用で身動き取れなくなって本業に障りが出るだろう」  やはりズケズケ言って憚らない紗生子だが、結局はそんな紗生子を恐れて校内で俺をバカにする者はあっても指示をする者は今のところ誰一人としていない。つまり全ては紗生子の、紗生子による、紗生子のための配慮であって、ここまでくるともう腹も立たない。 「こき使うのは上司たる私だけの特権だ」  ——全く。  ひどい言い種だ。が、俺の役職は全て兼務辞令であり、その給料も出ている現実は見逃せない。であれば本音だろうと建前だろうと任務は任務だ。何れも粗漏があってはならないし、兼務を完璧に熟している紗生子の有能振りは尊敬に値する一方で、プロとして当然の仕事をしている見方も出来る訳で。  ——それは、分かる。  分かってはいたが行動は伴わず。結局、生徒アンケートの答申を滞留させてしまった俺は学園事務局からその提出を急かされ、そのため紗生子の判断でアンの帰国に際した護衛の任から外される事になった、というのが事の顛末だった。 「だというのに、未だそれを理解しようともせず。この上更に私の顔に泥を塗るつもりか?」  隙のない上司の紗生子からすれば、部下の俺の体たらくが唯一の汚点のようなものだ。完璧主義者の紗生子にとってそれは我慢ならない  ——筈なんだが。  何故だか俺は首にならない。それどころか先日の組事務所襲撃時に正式採用を言い渡されており、これまた全くもって理解不能だ。 「返事はどうした?」 「え?——あ。よ、世にいう泥パックでしたら」  パックなどという生優しいものではない泥を塗ったぐった筈なのに。首を切りたければさっさと切ってくれればよいのだが。 「何だそのつまらん切り返しは? アメリカ人のくせに冗談まで冴えないヤツだ」 「すぃません」 「呆れて説教する気が削がれるな全く」  安定的に容赦なく切り捨ててくれる紗生子は、最近機嫌が悪い。移動中のスーパーカーで折檻の現状は、アンの帰国に伴い羽田に向かう道すがらだ。つまり事の良し悪しは別として日本残留を言いつけられた俺は、飛行機が離陸後紗生子の車を学校まで持って帰れば久し振りの開放感が待っている、という状況下である。  ——いかんいかん。  それを思うと、つい口が軽くなる。  密かに深呼吸をし、きたるべきその瞬間を無事に迎えるため今一度気を引き締め直す俺だった。  同日午前九時過ぎ。  羽田空港第三ターミナルの車寄せで前席の二人から車を引き継いだ俺は、そのまま駐車場へ向かった。近年ではスーパースポーツもATが主流で、クラッチワークやパワーバンドで頭を悩ます必要はなくなったものの、  それにしても——  うるさい車だ。  鮮やかな赤一色で統一されたシャープなボディーに加えてその轟音なのだ。高々駐車場に向かうまでの距離で随分と視線を感じたものである。  こんな派手な車を好き好んで  ——よく乗るわ。  まさに主の紗生子の如きじゃじゃ馬(・・・・・)だ。思わずそのフレーズで俺がこれまでのテストで乗ってきた軍機を思い出し、 「うぇ」  嗚咽を催した。飛行機といい、車といい、女といい。俺はじゃじゃ馬に  乗る(・・)因果でも——  あるのかとつい考えてしまい、今度は身震いだ。  ——まだ女は乗ってない女は!  精々、乗らないよう注意するだけだが、この時点で直後に迫るそれを知る由もない俺だ。それは普通に乗ればじゃじゃ馬ではなかったのだったが。  何にしてもつまらぬ想像をしてしまった。正直、さっさと学園へ帰って久し振りに羽根を伸ばしたい。が、自分の落ち度で残留させられる手前もあるし、起きて欲しくはないが運行上のトラブルで出国出来ない可能性もゼロではないのだ。紗生子からはくれぐれも、出国を見届けるよう指示されていたが、言われなくてもそうするつもりではいた。  で、そそくさとターミナルへ戻ると、二人とも既にチェックインカウンター前で待ちくたびれた様子。 「あ、来た来た」  アンは相変わらずのご愛嬌だが、 「遅いな。何やってたんだ?」  紗生子は相変わらず容赦ない。 「ちょっと迷いまして」  空を飛ぶ事には嗜みがあるが、旅客ターミナルなどは殆ど縁もなければ、東京もズブの素人の俺だ。加えて迂闊な連想で頭が上の空になりかけていたとは言える筈もなく。 「ホント普段はダメ男だな」  と盛大に嘆息する紗生子は、要するに機嫌が悪い。その雰囲気は鈍い俺でも、肌で感じるようになった。が、理由に辿り着ける境地にはまだ至っていない。とにかくそういうのは  ——めんどくせぇ。  のだ。色々とやっかみを受けやすい俺は、男だろうと女だろうと、とにかく他人に気を遣うような関わりを持ちたくないのだが。 「まあいい。もう行くから後は頼んだぞ」 「行ってきまーす」 「お気をつけて」  アンは満面の笑みで手を振ってくれたが、紗生子は【プイッ】と前を向くと、明らかにツンツンした様子で愛想もクソもあったものではない。結局そのままアンをおいて、チェックインカウンターへ行ってしまった。  学生達が軒並み夏休みに突入した世間一般では、空港内の出国カウンターも何処か賑やかなような気がするが、紗生子は一際人が少ないカウンターに一目散だ。ファーストクラスカウンターである。 「ちょっと部下がついてこないからって、大人気ないと思いません?」 「はあ?」  アンがよく分からない思わせ振りを耳打ちしたかと思うと、 「早くしろ!」  周囲を憚る事なく紗生子の雷声が辺りに轟き、好奇の視線が俺達に突き刺さった。 「うわ、こわーい。面倒見るの大変そー。帰ったら先生にご褒美もらわないと割に合わないわぁ」  追加で更に訳の分からない事を言ったアンが、ナチュラルにハグをして来た瞬間、 「こら!」  まただ。 「さっきから殺気立ってるからもう行きますね」  ウインクしたアンが長い髪を棚引かせ、翻って颯爽と歩き始める姿はまるでモデルのようで、そんな女子から  うわぁ——  面倒を見るとかご褒美とか。それを紗生子に言われるのなら理解出来るが。  アンは嫌々ながらの帰国とはいえ既に母国の開放感を纏い始めており、日本式から欧米式のコミュニケーションスタイルに戻したらしいそのモデルのハグで、いい年のおっさんは不覚にもフリーズさせられてしまった。  少し遠退いた意識の向こう側で、俺から離れたアンが紗生子に追いつくと、また何事か叱責されている。その最後の最後で、また紗生子の不機嫌な目に一瞥されたような気がした。  ——あ。  目を瞬いて意識を戻した時には、二人の美姫はもう保安検査場へ入っている。  ——何なんだ?  まさかアンのハグで嫉妬した訳もなく、要するに油断に対する怒りだろうか。だとすれば心外な事だ。猿の文吉騒動からまだ日が浅い折の事。何も無駄に目を血走らせていれば良いという  ——モンじゃねーし。  コンタクトやイヤホンなどの七つ道具を活かし、これでもそれとなく周囲の耳目は押さえていたのだが。一方で紗生子の方こそどうなのだ。アンを放ったらかしにしてさっさと先に行っているではないか。  腑に落ちないまま展望デッキに上がり、しばらく待って対象機の離陸を確かめると、俺はとぼとぼと一人帰途についた。本当ならもう何割か増しで浮かれている筈なのだが、紗生子やアンの謎めいた言動のせいで今一つ気持ちが盛り上がってこない。  同日正午。  嫌々ながらも紗生子の派手な車を運転して学園に戻ると、ちょうど昼飯時になっていた。東京の交通渋滞も中々ひどいものだ。その中を、騒音の塊のような車でノロノロと。 「あぁ——やれやれだったなぁ全く!」  車から降りた途端で伸びをしながら盛大な愚痴を吐く程に一仕事した気分だ。そのまま食堂へ足を向けると、夏休みに入った事ですっかり人気が減ってしまっていた。  ——お、少ない。  学食は寮生の食堂も兼ねているが、アン同様他の寮生達も早速一様に里帰りしたようだ。となると、在校している生徒はほぼ部活生か。はたまた補講の苦学生か。何れにせよ、学食で昼を食べる生徒は少ない。昼を跨ぐような活動はしないのだろう。後は教職員がちらほら。  ——こりゃあいいや。  普段の喧騒を思うと殆ど貸切状態だ。相変わらずのスパルタ食に後ろ指を差される事もなく、実に快適である。  食後、相変わらず仮のプライベートルームとして宛てがわれたままの女子寮一階の応接室に戻ると、 「あぁ——」  そのままソファーに寝転がった。同時に、コンタクトとイヤホンは  ——とりあえず取ってもいいか。  スパイグッズのそれをつけた耳目に手を伸ばす。が、途中でやめた。コンタクトは防犯カメラのモニターにもなるし、イヤホンはいざという時に無線代わりにもなる。警護対象不在とはいえ、その間に暗躍する者がいないとも限らないのならば、真の潜入警護員たる佐藤先生やワラビーと連携する上でそれらは外すべきではない。  それに——  相変わらずの上から目線とはいえ、あの紗生子に後事を託されたのだ。それはそれで中々有り得るものではなく、無視出来なかった。  でもまあ——  昼休みの昼寝ぐらいはいいだろう。端くれとはいえ教職員の事ならば休憩後は仕事だ。夏休みなのは生徒達だけである。主人のいない主幹教諭室で、件の生徒アンケートが待っている。これが仕事というのがまた情けない気もするが、何はともあれまずは、  ——昼寝昼寝っと。  スマートフォンのアラームを午後一時前に合わせると、そのまま目を閉じた。たっぷり三〇分はうたた寝出来そうだ。常時警戒が厳命されている今の任務では昼寝など出来たものではなく実に久し振りだが、そこは  ——役得役得。  朝っぱらから延々何時間も、騒音と狭苦しさと上司のパワハラにつき合わされてクタクタなのだ。俄かに押し寄せる開放感とまどろみに身を任せ、思考も止めた。の筈が、  ——ん?  しばらくすると霞がかった脳内に、記憶の中の目覚まし音とは違う音がし始めた、ような気がした。仕方なくぼんやり目を覚ますと、やはり飾り気のない武骨なスマートフォンが外見を裏切らない素気なさで鳴っているではないか。  くっ——貴様。  俺の私物が古過ぎてCCエージェント用のOSがインストール出来ず、紗生子から一方的に押しつけられたエージェント受けが悪い例の貸与品だ。また例によって機械にまでバカにされている俺に対するアレか、と画面を見てみると、  ——うわ!? 電話かよ。  普通の着信だった。考えるまでもなく電話機なのだからそれは当たり前なのだが、それにしても着信などいつ以来か。少なくとも、このおかしな任務に就いてからは初めてだ。今や用があるのは上司の紗生子ぐらいで、しかもそのやり取りはSNSである。そもそもがプライベートで電話など、まるで縁のない俺だ。  今更感の強いその久し振りの着信表示は、番号の並びがおかしかった。やたら長く、しかも先頭に【+】がついているそれは、  ——国際電話?  のようだ。  とりあえず応答してみると、 「Is it Major Ys?(イース少佐か?)」  いきなり久し振りのその名を、電話向こうの声の低い人間が英語で吐いた。一般的に判断すると中年の男の声だが、猿の文吉騒動以来それが固定観念である事を思い知らされている。俺の情報、変声機、翻訳アプリさえあれば何とでもなる世の中だ。が、素直に考えれば、無愛想不躾で流暢な英語とくれば思い当たる節は米軍しかない。 「はあ?」  とりあえず否定も肯定もせず相手の出方を見る事にすると、先方は性急な上に訳の分からない事を言い始めた。 「スクランブルだ!」 「——どちら様で?」 「そっちへヘリ(・・)をやった! 屋上へ上がって招き寄せろ!」  その五分後。  半信半疑で寮の屋上に上がって待ち構えていると、バタバタと音を伴い飛んで来た一機のヘリが俺の直上でホバリングしながらロープを垂らした。米国ベル社製の軍用ヘリ【UH-1Nツインヒューイ】とくれば、学校から程近い横田基地からのお迎えなのだろう。  音信不通かと思えば——  このザマだ。突然かかってくる電話に良い思い出が見出せない俺だが、ウインチで機内に引っ張り上げられると、労いもクソもなくいきなりインカムを投げつけられた。勝手に用件を確認しろ、という事らしい。 「イースですが、ヘリに乗りましたけど——」  こんな扱いは、別に今に始まった事ではない。諦めて耳を傾けていると電話の時とは違う声が、紗生子とアンが乗った旅客機の 「ハイジャック?」  被害を告げた。  東京時間午前一〇時前、到着予定地米国はテキサス州ヒューストンへ向けて定刻通り離陸した日本の三大航空大手の一角【新東(しんとう)航空】の国際線【STA010便】は、ロシア・カムチャツカ半島最南端ロパートカ岬南西約四〇〇マイルの公海上を飛行中、一人の男によってハイジャックされた。今から約一時間前の事らしい。  コックピットの真後ろに位置するファーストクラスの乗客一人を人質に取ったところで、同乗していた日本警視庁のスカイマーシャル二名が犯人と対峙。が、交渉も何もあったものではなく、いきなり犯人の放った拳銃の銃弾により深傷の重傷を負ったその二名は早々に任務から脱落した、とか何とか。  それに代わって瞬く間に事態を収集したのが、たまたま乗り合わせていた紗生子だったらしい。犯人がファーストクラス乗客に対し、同エリアからの退出を命令した際の、極々僅かな間隙をついた紗生子の急襲により呆気なく片づけてしまったのだとか。  まあ——  さして驚く事でもない。一人で組事務所に殴り込みをかけるような女の事ならば、十分有り得る話である。何をどうしたのか知る由もないが、撃ち合ったにしろ食らわしたにしろ。鮮やかだった事だろう。  が、犯人の要求も聞かずして終わったと思われた事件は、そこから更なる変遷を辿る。突然コックピット内で銃声が響き渡ったかと思うと、大きく進路を変転した機がロシア領内へ向かい始めたのだ。異変に気づいた業務移動中(デッドヘッド)のパイロットがコックピットに入ったが、やはり銃の餌食となって沈黙。最後に向かったCAは、逆に人質となってしまった。何と、副操縦士も共犯だったのだ。が、  それで大人しくなるような——  紗生子ではない。俺の知る女上司は 「それがどうした」  と言わんばかりの強者である。  案の定、紗生子はコックピット内に籠城したその副操縦士をも、あっという間に制圧してしまったらしかった。 「じゃあ、何の問題も——」  ないではないか。と、そこまで聞いたところで、ぎくりと思い当たる。  ——着陸出来ねーじゃん!?  操縦する者が、いない。そこまで説明したインカムの声は、 「乗り込んで着陸させろ」  最後の最後でようやくスクランブルの理由に辿り着いた俺に、止めを刺してくれたものだった。 「いやいや——」  中々冗談がキツい。  更に五分後。  気がつくと、電話を受けて一〇分かそこらしか経っていない慌ただしさで横田基地のハンガー前に横づけされたヘリの中から、俺は蹴り出される勢いで追い出された。どうにか転ばすに降りると、目の前の作業台にパイロットスーツ一式、五〇L前後のパラシュートバッグ、工事現場で見かけるようなぐるぐる巻きのスリングロープの束。 「いやいやいや——」  極めつけに、それら怪しい装備品の背後に控えるのは元締め感満点のF-22(ラプター)だ。そのコックピットに何処かで見たような、だらけた男が鎮座している。 「待ちくたびれたぜ相棒!」  俺の姿を察するや否や突然跳ね起きたその男は、無邪気に笑うと片手を巻くように手招きし始めた。 「テックさん!」 「相変わらず呼び捨て出来ねーヤローだなテメーは」  それじゃあコールサインの意味がねぇだろうが、と嘯く男は、飛行服の上からも分かる程の堂々たる筋骨が相変わらずだ。粗野な言動に違わず野生味を帯びる赤ら顔で、それでいて中々の男振りも。 「何やってんスか? こんなとこで?」  テックは、TP(テストパイロット)仲間にして、俺の中では数少ない気の許せる先輩だった。本来はやはり、俺の前任地たるエドワーズの所属であって、こんな所にいる筈はないのだが。 「つべこべ言わずにさっさと準備しやがれ!」  既に機上のテックが、荒々しくコックピットの側面を大手で叩いて急かしている。既にエンジンが回っている乗機の騒音に負けず劣らずの地声の大きさといい、自慢のステルスボディーを駄目にしてしまいそうな勢いの平手打ちといい。豪放磊落を絵に描いたようなテックこそ、俺が塗れてきた戦友の代表格だった。あえて聞くまでもなく、別用務で横田に来ていたところを捕まったのだろう。俺の周囲は類友ではないが、いいように使われる人間が多かったりした。 「は、はい!」  野太い怒鳴り声に、思わず反射的に反り返る感覚も久し振りだ。で、てきぱきと目の前に転がっている装備品を装着し、その乗機の傍に駆け寄ると、 「よっしゃあ! 乗れ!」 「何処へ?」 「俺の上に決まってんだろうが!」 「乗れる訳ないでしょ!?」  只でもスリムなコックピットといわれる猛禽は単座(一人乗り)である。 「いつも煮え切らねぇヤツだな! 時間がねーんだよ!」 「うわ! ちょ、ちょっと!?」 「犯さねーからさっさと乗れ!」  テックに捕まると、見た目を裏切らない剛力を誇るその剛腕で、コックピットの中に引きずり込まれてしまった。只でもデカいテックと単座に二人。細身で柔軟な俺ならその膝上で丸まって乗れない事はないが、 「窒息しますよ!?」 「心配すんな! 酸素はある!」  いくら酸素マスクがあってもキャノピーが閉まれば圧迫窒息しそうだ。 「椅子(・・)取っ払ってるからしゃーねぇよ! 流石に狭いしな」 「ウソでしょ!?」  言われて見てみると、確かに射出座席がない。代わりに見えるのは、座椅子のような物に座っているテックだ。 「何かあっても緊急脱出(ベイルアウト)出来ないじゃないっスか!?」 「んなモン必要ねぇだろ! 真っ直ぐ飛ぶだけだしよ」  ぐずぐず言っている間にも動き出しているではないか。 「よし! 準備完了! 出るぜ!」  その横暴な通信が管制への離陸申請だったらしい。 「まだキャノピー閉まってませんって!」  まるで何処かの誰かさんの如きせっかちさだが、排気音がいきなり大きくなり声が掻き消された。ハンガーの中から殆どフル加速という無茶振りだ。辛うじて速度が乗る前にキャノピーが閉まり、 「ハンガーが吹っ飛びますよ!?」 「そんな柔じゃねーだろ!?」  声が届いた時にはもう遅い。凄まじい風圧と反響音で瞬く間にハンガー内に阿鼻叫喚の修羅場を出現させると、続け様に踊り出た誘導路では完全に離陸速度だ。 「ちょ、まだタクシーウェイですって!?」 「だから時間がねぇんだよ!」 「そういや学校から外出許可もらってないんですよ!」 「俺がしといてやったよ! しんぺーすんな!」 「んな訳ないでしょ!?」 「あぁん!? 俺の卒業した小学校じゃ不満かよ!?」 「無茶苦茶だなぁもう!」  その言い争いの向こう側から管制の離陸許可が聞こえたようだったが、俺達の乗機は殆どそれと同時に誘導路から慌ただしく離陸して行った。 「うひゃあ、マジですか!?」  インカムの向こう側で管制が怒鳴っている。軍生活でそれなりのイレギュラーを経験してきている俺だが、テックの荒っぽさは相変わらずで、驚きを通り越して最早痛快レベルだ。  みるみる内に高空を目指す機は、夏真っ盛りで眩しいばかりの東京上空をあっという間に突き抜け、西太平洋上へ躍り出た。 「あ、有り得ねぇ——」  単座仕様で只でも狭い機内だというのに、大の大人が二人も乗っている事に加えて大きなパラシュートバッグを抱えさせられているのだ。イメージとして、丸く縮こまった俺がバッグを抱っこするのを、正規の操縦席に掛けたテックが更に赤ちゃん抱っこするという 「——曲乗りにも程がありますよ」  その異常さだ。大柄な人間が多い同業者連中ならばまず有り得ない、華奢で身体が柔らかい俺ならではの芸当である。 「こうでもしねぇと間に合わねぇからしょーがねぇだろうが」  相変わらず愚痴っぽいなお前は、と飛び立ってある程度落ち着いたらしいテックが嘆息した。 「ここまでくりゃあ、どんな作戦か分かるだろう?」 「旅客機に飛び移れっていう『これ考えたヤツ泌尿器科で頭診てもらった方がいいんじゃね?』作戦ですよね?」  その盛大な皮肉に瞬間で噴き出したテックが、最後の最後で 「お前にしちゃあ上出来だ!」  花丸の一〇〇点満点、とカラカラ笑ってみせる。これはこれで、テックなりの流儀だ。 「今の状況はどーなってんです?」  機内のディスプレイは、ちょうど午後一時を示していた。 「制圧した日本の女エージェントが、犯人共々負傷者の面倒見ながら飛ばしてるらしいぜ」 「オートパイロットは?」 「壊されたんだと、犯人に」 「はあ」  現代の民間機なら空港の計器着陸装置(ILS)を頼っての自動着陸も可能なレベルだいうのに。犯人以外に操縦出来ない構図の恐ろしさである。 「だから俺達の出番なんだよ」 「やれやれですね」  犯人も犯人だが、それに躊躇しなかった紗生子の神経の図太さもまたしかりだ。誰も操縦出来ない状況下で、CAではなく紗生子が仕切っているところが如何にも紗生子らしい。 「無線で操縦方法を聞きながら機を安定させたってんだから、素人にしちゃあ上出来だ」 「まぁ——」  只、犯人の副操縦士がロシア領内に向かった際のドタバタで、高度・航路の迷走とそれに伴う燃料消費など航空機自体の状態に加え、犯人以下銃創の負傷者を抱える機内の動揺もあって早急な救済を要する状態である事に変わりはない。当然の如く現在は遭難機として認定され、周辺各国の注目を掻っ攫っているらしく。 「今のお前の上司なんだってな?」 「知ってんじゃないスか」 「その女のアイデアらしーぜ」 「やっぱりっスか!?」  ——マジであの女。  泌尿器科で頭診てもらった方がよいのではないか。何も豪放磊落はテックの専売ではない。紗生子の考えそうなそれに、気遣い無用でげんなりする。 「それにミスターABCの娘さんとくりゃあ、燃えねぇ訳にはいかねーだろ!」  華々しい父親の影響で、母国では下手なアイドルより人気を博すアンの、その美貌を知らない米国民は少数派だ。 「ふっふっふ」  と鼻息を荒くするテックの怪しい熱気が、 「やべぇ、興奮したら勃ってきたわ」 「犯さないってさっき言ったばかりでしょーが!? 拷問だなぁもう!」  着衣やヘルメットを介して伝わるかのようだった。  全ては、次期大統領候補筆頭の人気者の娘を助けるための無茶苦茶な作戦だ。功をなせば大きな何かが得られるという思いは、関わる者なら大なり小なり誰でも持っているだろう。テックの分かりやすい野心は、俺の知る陽気で分かりやすい軍人のそれだった。バカで無鉄砲で破天荒ながらも仕事は一流。そんな連中の中でも俺が知るテックは、超がつく程のスキルと経験値を持つ曲者だ。  F-22の超音速巡航をもって飛ばせば、後二時間少しもあればアラスカ沖で遭難機を捉えられる筈だ。長距離を長時間超音速で飛べるそれだからこそなせる技である。東京時間とアラスカ夏時間の時差は一七時間ならば、遭難機に追いつくのは現地時間で前日の午後一〇時過ぎ。真夏で緯度の高いアラスカの日没は午後一一時前の事ならば、何とか日没前に 「飛び移りてぇよなぁやっぱり」 「まあ、そうですね」  という事だ。それ故の強行軍だった。 「夜間給油の要領だろうが、流石に給油と人じゃ勝手が違うだろ」 「そういってもらえると助かります」 「まぁ明るい内に追いついてやるから、たまには計器見といてくれ」 「はあ」  テックの前視野は、当然俺しか見えない。殆ど感覚で飛ばしているテックの腕はそういうレベルだ。そのキャノピーの内側前面には、如何にも突貫工事で取ってつけたような鉄の風防があった。俺が遭難機に飛び移る時、開けたキャノピーは風圧でもげて飛んでいくのだ。その代わりの風よけだろう。お陰様で、 「前が見えませんよ」 「必要ねぇよ」  CCのコンタクトを彷彿とさせる、自慢の前方示現装置が台無しではないか。何から何まで突飛過ぎて、頭が痛くなる。 「届き(・・)ますかね?」 「定員オーバーだから微妙だな」 「そんなバカな」  弾薬の代わりに増量タンクをつけているとはいえ、燃料残量の切迫も問題だ。公表スペックが出鱈目と悪名高いF-22とはいえ、アラスカまでの無給油飛行はギリギリに近い。秘匿性に気を遣う必要がない分気楽だが、テックはテックでやはり際どい任務だ。 「まぁ悠長な事やってらんねぇだろうな」 「しかし毎度毎度ひどくないスかこの扱いは?」 「使い捨て要員の切なさだな」  それにしてもこれは中々に有り得ない。 「飛んでる旅客機に向かって戦闘機から水平バンジーするバカだけでも普通いねぇってのに、更にパイロットじゃなきゃなんねぇんだ。アメリカ広しといえどもそんなアホはお前だけだろ」  さっきからバカとかアホとかひどいものだ。仏外人部隊では落下傘部隊員だった経歴が、よもやこんなところで影響を及ぼすとは。 「飛行機に飛び乗った事はないんですがね」 「聞いた事ねぇよ俺も」  身から出た錆とはまさにこの事だ。文字通りその技など、一昔前の錆びつきものだというのに。確かにまんまと担ぎ出されるお人好しの俺は、バカでアホなのかも知れない。 「みんなスパイ映画の見過ぎですよ」 「相変わらずぐずだなお前は。とてもファイター(戦闘機乗り)とは思えん」  大抵その人種は、アグレッシブで陽気なものだ。 「俺はTP(テストパイロット)ですからね、一応」  只でも理詰めで飛ぶ職人気質のタイプが多い花形操縦士に分類されるそれ(TP)は、ファイターとは明らかに毛色が違う。更に細分すると、 「俺と一緒で生贄要員だしな」  正規兵に任せる事が出来ない任務専門の、スタントマンのようなものなのだ。それではしゃげるヤツは気が触れていると言っていい。 「誇り高き正規のファイターと一緒にしたら、どやされますよ」  ろくに学もないぽっと出の傭兵上がりなど、蔑まされてなんぼというものだ。金でイデオロギーを変更し、裏契約で主に飼われる獣だ。が、本当に畜生に成り下がったのならいざ知らず。一応人心を保っているつもりの俺は、精々使い捨ての屈辱を避けるべく慢心を排除し地道にストイックに徹している。そこに陽気さはいらない。狂気じみたこの逆境で生を掴むために必要なのは想像力と直感だ。 「まぁ後でたんまりご褒美もらえらぁ!」  俺は今この瞬間代われるモンなら代わりてぇよ、と何処までも陽気なテックは、明らかに少数派の気が触れている一人だった。  横田を出て二時間強。東京時間同日午後三時過ぎは、アラスカ時間では前日午後一〇時過ぎだ。 「迷える子羊のデカいケツが見えたぜ!」  俺達を乗せた作戦機は、アラスカ半島沖で問題の遭難機STA010便を捉えた。予定通りだが、それにしても本当に数千km彼方にいるそれに追いつくとは。俺が乗ってきた実験機と比べるとまるで客車のF-22(ラプター)だが、これはこれで大した足の速さだ。 「しっかしこれだけウヨウヨしてんのに何にも出来ねぇとはザマぁねぇな」  テックの下卑た口振りは、その周囲を取り巻く第一一空軍の同型機に向けられていた。道中のレーダーにはロシア空軍機や日本空自機もちらほらしていたが、最後はお膝元の本土空軍機のお出ましだ。ハイジャックだけでも大事なのに、乗客の一人に世界を揺るがす人気者(元米国副大統領)の娘が乗っていれば、方々(ほうぼう)が蜂の巣を突いた状況になるのは想像するまでもない。 「撃墜要員、ですか」 「その程度の能無しヤロー共さ」  正規兵が担えない通常ならざるTP要員であるテックの、一般的なエリート達に対する偏見は甚だしい。表には出さないがそれは俺も同じだ。が、二一世紀早々に同時多発テロを経験した本国の事。決してその二の轍を踏めないのもまた現実だ。たまたま紗生子が乗っていて犯人達を上回ったからこそ現状レベルで収まっているだけの話である。当初はロシアに向かおうとした犯人が、今となってはどんな要求を用意していたのか知る由もない。が、仮に米国内の重要施設や人口密集地などに特攻を試みていたとしたら。軍機は躊躇なく遭難機を撃墜した事だろう。 「精々俺らの名前を売ってやろうぜ!」  その声は反骨精神であり、俺に対する激励であり。 「いや、俺は別に——」  目立つと僻まれるのがウザいから嫌なのだが。もっとも、こんな作戦を任されて目立つなというのも無理がある話だ。 「辛気くせぇな相変わらず。まぁちゃんとリクエスト通りに高度も落としてるし——」  合流に際し遭難機の高度は、予め六〇〇〇フィートまで降下させていた。着陸予定のアンカレッジ国際空港はまだ数百マイル彼方であり、どう考えても低過ぎるその高度は、要するに俺が遭難機に突入しやすくするためだ。旅客機内の調整圧は通常〇.八気圧。標高換算では約六五〇〇フィート上空と同圧だ。つまりそれ以下の高度をとる事で、機内が外気圧と同等かそれ以下の状況を作り出す。それにより突入口を開扉しやすくし、更には俺が遭難機に吸入(・・)されやすい状況にする訳だ。 「——パイロット不在にしちゃあ健気に飛んでやがるからよ。後は煮え切らねぇお前が飛び込むだけだぜ?」 「煮え切ってない事はないですよ。心外だなぁ」  これでも移動中、テックの胸の中でうつつを抜かしていた訳ではない。脳内で何度も突入イメージを練っていたのだ。 「口答えだけは一丁前だな相変わらず」  それは今の女上司からも最近よく言われる。事実を口にしているだけだというのに口答えとは。一方的に決めつけられるのも、最早俺の性だ。 「——入口(・・)も問題なさそうだぞ」  軽口を叩きながらもテックの目はしっかり遭難機の周囲を舐め回していた。言葉だけで判断していたら良くも悪くも期待を裏切る。そういう男だ。  突入にはコックピットの副操縦席直上天井にある非常脱出口を使う。それはパイロット用の非常ハッチだ。旧型機ならそれは開閉窓を兼ねるフロントガラスがその役を負っているが、遭難機は皮肉にも時代の最先端をいくB787(ドリームライナー)。フロントガラスは完全閉鎖構造で開かない。  因みに旅客機の扉は一見外開きに見えて、実は基本的に内開き構造だ。高高度で気圧差による開扉を防ぐためであり、それは非常ハッチも変わらない。何れにせよ突入時の飛行速度は新幹線並みだ。俺と一緒に侵入した外気が一瞬でも暴れ回るだろうが、あからさまな逆流で中の人間が吸い出されるよりはマシだろう。それを防ぐための高度調整でもある。 「——まぁ何でもいいから明るい内にさっさと助けてやろうぜ!」 「ええ——」  日没までにはまだ小一時間ある。高度を下げた以上遭難機の航続距離は更に短くなるし、どの道こんなバカげた作戦要員など俺の他に替え玉がいる訳もないのだ。俺が一発で決めるしか道は残されていなかった。  成功すればどんな恩恵にあずかれるか想像もつかないが、失敗すれば末路は想像するまでもない。この任務で死ぬか、他の任務で殺されるか。二つに一つだ。もう腹を括るしかない。こうやってこれまで何度そうしてきた事か。今後何度そうさせられるのか。決まって言える事は、毎度毎度  ——堪ったモンじゃねぇな。  それに尽きる。 「——じゃあ始めます」  と手始めに、 「主幹、聞こえますか?」  日本語で呼んでみた。大急ぎで来たため私服の上から繋ぎ(飛行服)を着たせいで、CCのスマートフォンやコンタクト、イヤホンなど全てつけっ放しなのだ。本来ならどれもこれも軍機にはNGの品々だが、救難任務の事でもありバレても大目に見てくれる  ——かな?  どうなのかこの際知った事ではない。それはともかく、CCのスマートフォンは世界中で衛星通信が可能であるし、端末同士が近ければトランシーバー代わりにもなる訳で、 『中々早いじゃないか。随分と変わった乗り方をしているが、そのラプターはタンデムか?』  予想通りの軽口が返ってきた。 「お、なんだそりゃ? 彼女との極秘ラインか?」  それを相変わらずのテックが興味津々だ。いきなり公開電波で呼びかけて恥をかかすような事があっても面倒なだけなので、その根回しだったのだが、  ——そんなたまじゃねーか。  やはりいらぬ世話だったようだ。 「優雅な空旅のようで羨ましいですよ。こっちは狭っ苦しくて」  そんな俺の細やかな配慮の中で、 「お嬢さんでいいのかい? それともマダムでらっしゃるのか?」  見境いないテックが早速英語でがなり立てて、強引に割り込んでくる。 『そっちは愉快な相棒と一緒で随分楽しそうじゃないか。まぁ程々にしてこっちへ来てもらえると助かるんだがな』 「そうですね。そろそろ伺います」 「おい、なんつってたよ!?」  当然テックには、イヤホン越しの紗生子の美声は聞こえない。だから、 「『Enchantres(魔性の女)sとお呼び』だそうですよ」  そう代弁しておいた。  本来なら【Lich=リッチ(不死の魔術師)】のコールサインを持つ紗生子だが、それだと禍々しいだけで紗生子のイメージとは似つかない。それにその二つ名はCCでの秘匿事項であり、迂闊に口に出来る筈もなく。それどころか紗生子の名前すら、非公開組織のエージェントである事がバレている様子の事ならば、その部下の俺が軽々しく明かしてはならないだろう。ならば短期間ながらも俺が見てきた紗生子の素直なイメージを口にするだけだ。魔性のフレーズの響きとその妖艶さ。その中に秘められた抗えない強さ。  ——て言うか。  日頃から脳内でそう蔑んでいたために、それしか思い浮かばなかっただけなのだが。 「いいねぇそのヤバそうな感じ!」 「いやぁどうでしょ?」 『どうもこうも君の上役なんだがな私は。半日離れただけで随分な物言いじゃないか? ん?』 「いやそんなんじゃなくて——」 「じゃあどんなんだ!」  ——ダメだこりゃ。  やはり根回しは正解だったようだ。公開電波でこんな事をやっていたら怒鳴りつけられた事だろう。一見して本気でそっち(・・・)に頭が囚われつつあるようなテックだが、先程の()の例しかり。その空っぽに見える頭は、これで恐るべき多重構造であり仕事はしっかりこなしている優れものだ。奔放そうに見えて実は繊細で器用な仕事振り故に、この男はテックのコールサインを与えられている。が、命を委ねるバディとしては、空っぽ頭が色魔に囚われているようにしか見えず。 「上司はぐず嫌いのイラ症ですから、もう始めましょう」  信用していない訳ではないが本当に信用出来なくなる前に、さっさと無線を民間用の緊急周波数に合わせた俺は、以後各局の耳目の中で交信する事にした。これなら作戦の進捗状況を一々方々に報告する必要もないし、流石のテックも多少は自重するだろう。 「STA010便、こちらアメリカ合衆国第一一空軍四二一〇号機。これより突入作戦を開始する。二〇〇ノットまで減速せよ。尚、当機は以後、本作戦終了までの間【作戦機】と呼称とする。おくれ」 『作戦機、こちらSTA010便。二〇〇ノットまで減速了解。尚、当機は本作戦終了までの間【遭難機】と呼称する。おわり』  所属本籍が海自という紗生子は、当然無線も流暢だ。こういう時にはつくづく、やりやすい相手だと思ってしまう。  無線はやりやすいが——  状況は実にシビアだ。本来なら速度は失速限界ギリギリまで落としたい。旅客機の中では抜群の運動性能を誇るB787だ。少々失速させても何とか取り戻せるだろうが、現状は民間人が乗り合う民間機である事を忘れてはならない。加えて操縦席にいるのは、いくら天才肌とはいえ素人の紗生子だ。となれば、無茶は全部作戦機側で負わなくてはならないだろう。F-22の失速限界は一〇〇ノットを切るレベルだが、旅客機には当然無理な話だ。  減速状況と水平飛行レベルを確かめると、 「よし、こんなモンだろ。いくぜ!」 「遭難機、こちら作戦機。作戦開始。繰り返す、作戦開始。現状レベルを維持せよ。おくれ」 『作戦機、こちら遭難機。作戦開始、現状維持了解。おわり』  それと同時に遭難機に横づけしていたテックが、早速乗機のキャノピーを開けて吹っ飛ばした。予めよそへ飛ばしておかなくては、遭難機にでもヒットしたら事だ。が、そうした配慮はダイレクトに、一々俺達だけで負担を背負わされる事になる訳で。 「うひゃあ——! こりゃ敵わんな!」  そのテックの声を押し込むように、瞬間でキャノピーとコックピットの接合部に手足をかけて前のめりに四つん這いになった俺は、ここぞとばかりに後ろのスケベに尻を預けた。減速しているとはいえ新幹線より速いのだ。後つけの不格好な風防がなければいきなり吹っ飛ばされてゲームオーバーだった事だろう。 「美女のケツなら言う事ないんだがなあ!」  その修羅場でも絶妙のコントロールで機体を遭難機前方へ滑り込ませるところなどは、流石は【テクニシャン】の二つ名を持つスケベ男だ。この作戦の運転手(・・・)に選ばれた理由がそこにある。  目指す遭難機の非常ハッチは人間の頭で説明すれば額の右上。水平レベルでの突入に対し角度が浅く平行面に近いため、果たして上手く吸入(・・)されるか微妙だ。 「ヤバかったらパラシュートで逃げろ!」 「エンジンブレードでミンチですよ!」 「ちげーねーや!」  一応、パラシュートを背負ってはいる。が、それは気休めだ。失敗すれば、遭難機にヒットして即死。または失神して落下。エンジンに巻き込まれてミンチ。等々。確率的にパラシュートを使う場面は乏しい。 「マジで後で紹介しろ!」  インカムはワイヤレスだ。障害物がない上空なら少々乗機から離れようと問題なく使える。が、一方で作戦開始と同時に緊急周波数とリンクされてしまっており、俺達の会話は今作戦に従事する関係者には全て筒抜けだ。  ってぇのに——  喋るのもクソ面倒臭い状況下のどさくさで、それでも命がけでスケベのポリシーを貫くテックのバカバカしさに、思わず失笑してしまい脱力しかけた。  ——危ねぇ!  色魔の無節操な一言で、危うく人生が終わるところだ。その寸前で歯を食いしばり、ギリギリで耐える。  ここまでくりゃあ——  スケベも立派な病気だ。  改めて気合を入れ直すついでで 「ラジャー!」  当てつけ気味に返事をすると、暴風に細心の注意を払いながらもとりあえずイカれたスケベの頭を乗り越えてやった。  移動中の狭っ苦しいコックピット内で、四苦八苦しながらもシートがあった辺りに無理矢理結束しておいた命綱は、四本一組が二セットのステンレス鋼線仕様だ。水平飛行時のGに晒された身体を支えるための強度と、排気ノズルに晒された時の耐熱性を重視した物であり、弾性はまるでない。  要するに——  飛ばされたら全衝撃がダイレクトに身体にくる、という恐ろしさである。風に身体を持っていかれ、勢いよく飛ばされたら最後。よくて身体の何処かが脱臼か骨折。普通は身体の一部がもげる。百歩譲ってロープの強度はよいとして、耐熱性は怪しい。戦闘機の排気温度は巡航レベルでも、軽く三〜四〇〇℃を超える。今は減速中とはいえ、如何に熱に強いステンレス鋼線でも時間の問題だろう。ロープもそうだが何かの拍子で排気ノズルに晒されてしまったら。その瞬間でガスバーナーにあぶられた焼き鳥と同じだ。考えれば考えた分だけ  気が滅入る——  狂気の沙汰。  人ごとだからって——  この作戦の立案者は、それが他人によって行われる事を理解出来ていないようだ。人心を持ち合わせないサイボーグか魔物の類だろう。それを考えたのは今の上司なのだが。  テックの頭を乗り越えからは、ラプターの背中を懸垂降下の要領で後退りしていった。正直這いつくばりたい心境だが、ワイヤーから手を離すとあっという間に風圧で飛ばされそうだ。最大限しゃがんだ状態で、辛うじて接している爪先を滑らせて機体の背中を後退りしている、そんな状況である。不意にバランスを崩したら  ——あ、暴れ凧か。  今更ながらに、こんなバカな任務に担ぎ出される自分の甲斐性を恨んだ。精々盛大に口を歪め、苦虫を潰してやる。そうでもしないと有り得ない状況下で、脳が夢と錯覚してしまいそうだ。まさにリアル脳トレである。  ——って。  こんなバカなトレーニングをするヤツがこの世の何処にいようというのか。それこそ宇宙飛行士でも、もう少しマシなトレーニングをしている事だろう。  ぐずぐず自問自答しながらもどうにか尾翼付近まで辿り着いたが、エンジン直上は異常な熱気だった。とても長居する気にはなれない。  ここで何とか——  踏ん張って反転し、四つん這いになって遭難機と正対した。その場に留まるためのバックアップロープは、やはりステンレスワイヤーで仕立てるしかなく当然弾性皆無。貧弱な湾曲性にして金属特有の滑りやすさだが、辛うじて腰回りをその場に留める程度には効いてくれている。  ——よ、よし、そのまま。  何とか片手でワイヤーを一セット分掴むと、水平飛行している後続の遭難機へ向けて軽く放り投げた。すると重量感なく、素直にその末端がコックピット直上へ流れて着く。  ——上出来!  ここまでは予定通りだ。が、それを確かめたらしい遭難機のコックピットにいる紗生子が、早速ハッチを開ける素振りを見せた。  ——まずい!  いくら減速中とはいえ新幹線より速いのだ。それは風速一〇〇m毎秒の世界である。その竜巻レベルの暴風がハッチから侵入する事で、機内はいうまでもなく、飛行や機体に及ぼすダメージは計り知れない。確かに、今投げたワイヤーを機内の何処かに結束して欲しいのは山々だが、繊細な操縦が出来ない今の遭難機の状態で事前にハッチを開放するのは余りにもリスクが大き過ぎる。放ったワイヤーは突入時の目安のためのリードワイヤーであって、結束用ではなかったのだ。なのに、  この土壇場で——  詰めを誤った。声一つ出す余裕すらない状況下で、事前にそこまで詰めなかった俺のミスだ。 「開けるな!」  インカム越しに関係局が耳をそばだてている中、つい焦って怒鳴ってしまった。その発声だけで不意に下半身が軽くなり、背筋が凍る。  ——ヤバい!  その瞬間で背中が風に捕まった。理科学の世界は残酷だ。情という物がない。後は斜面を転がる球と同じで、背中に募る風圧になす術がなかった。そうなってしまうと自分の周りだけ、急に時の流れが遅くなったようだ。つぶさな状況が手に取るように分かるが、もうどうしようにもない事も理解出来てしまう。  最後に拙いバックアップロープが音もなく緩むと、同時に宙に放り出されてしまった。まさに嵐の中の水平バンジー。予め投げていたリードワイヤーが腰回りのカラビナを一気に駆け抜け、瞬く間に遭難機のコックピットの窓が迫る。 「うおっ!」  死んだ、と思った。雨上がりの道路に、無惨にもペシャンコになったヒキガエルのそれだ。が、その瞬間後には目を瞬いている自分がいた。遭難機の()にへばりついた身体が、飛ばされないよう何かで支えられているではないか。更にもう一度目を瞬くと、自分の右腕が非常ハッチ傍の突起に絡まっている事を理解した。パイロットが機内から脱出する際、足場にするためのそれだ。  ——た、助かった?  それだけではない。いつの間にかハッチが開いており、中から覗いた白い柔腕が俺の腰回りの何かを掴んでいた。どちらがなくてもヒキガエルになる以前に暴れ凧になっていただろう。  次に瞬いた時には、柔腕がそれに見合わない剛力で俺の全身を遭難機内に引き込んでいた。容赦なく床面に叩きつけられる勢いで引き込まれると、一緒に雪崩れ込んできた荒れ狂う風の中で、その手が手品師のように俺の身体に結束されたワイヤーを取っ払う。続け様にその手がワイヤーを機外へ放り出すと同時にハッチを締め、あっという間に機内の正常を回復してみせた。一連の動きが息をする間もない、まさに一瞬の所業。  目の前の嵐が嘘のように収まり、その手が成した早業に刮目する俺のその耳に、 「作戦機、こちら遭難機。突入作戦は成功。ワイヤーも解放済みにつき離脱されたし。おくれ」  無線を飛ばす紗生子の落ち着いた声が届く。その泰然自若振りが相変わらずで、思わず失笑が漏れそうになった。 『こちら作戦機、了解。離脱する。イヤッホゥ——! どうだ! 見たかヤローども!』  パイロットはテック、レンジャーはタフっていうバカたれだからな! 覚えとけ! などと最後の野卑たつけ加えは、普通の業務無線では有り得ないあざとさ(・・・・)だ。戦功の明確化とそのアピールは如何にもテックのやりそうな事だったが、無茶を強いられたのだ。その程度はご愛嬌だろう。  最後の通信後、先行していた作戦機がするりと左に流れて遭難機のコックピットに横づけする。テックがこれ見よがしに片腕を突き上げ手話をしたかと思うと、無邪気に喜びながらも翼を軽くバタつかせつつ、音もなくそのまま左旋回で下降して行った。 「『約束を忘れるな』だと? いらん事を請け負ってきたようだな?」  そして何故か、その手話が理解出来る紗生子である。 「いつもあなたは、何でそれが分かるんですか!?」 「無線じゃ『紹介しろ』とか言われてたが、どうやら空耳じゃなかったようだな」 「げ」  無茶な作戦の皮肉の一つも吐いてやるつもりで飛び込んで来たのだが、あっという前に紗生子のペースだ。 「慣れてきたせいか随分と甘く見てくれるじゃないか。そもそも迂闊にハッチを開ける訳がないだろう?」  と言いつつも、紗生子がすっかり慣れた手つきで機体の速度を上げ始めた。着陸アプローチにはまだ少し早く、作戦行動で無理矢理失速寸前まで落としていたため当然なのだが、如何にも理解と行動が一致する紗生子らしい。 「可愛い部下がこんな所で死なないように、受け止める準備をしていただけだというのに」  でもまぁ上手く風に煽られたお陰でさっさと決着してよかったな、と何でもお見通しである。 「流石に死ぬかと思いましたよ」 「全くだな。ホントに飛び込んで来るところは米軍の無茶振りも中々だ」  正気じゃない、と今度はわざとらしく嘯いてくれたものだから 「呼びつけといてよくもまぁ——」  成り行きついでに皮肉の一つも吐きかけたが、止めた。余裕を取り戻す中で目に入る操縦席の紗生子の様相が、出発前の艶やかさとは愕然たる差異で、つい息を飲まざるを得なかったのだ。  職務柄、常に大腿部に銃を隠匿して携行するという紗生子の、温暖期における平服はワンピースと決まっている。今回のそのお召し物もその例に違わず、大人の色香で溢れるラップドレス調のそれだった筈が、  血塗れ——  ではないか。  よく見るとそれは着衣だけではなく、手足や顔にも。 「まさか何処か怪我を——!」  皮肉の一つも吐こうとした口が、気づくと安否を確かめていた。 「私がすると思うか?」 「——ですよね、やっぱし」  そんなドジを踏む紗生子ではない事は分かっていたが、その異形に不安をあおられた分だけ自分でも驚く程素直な溜息が出る。血塗れなのは制圧時か処置時、あるいは両方の返り血なのだろう。斑文状の血糊血飛沫が、美しさと禍々しさの相乗効果で見るからに不吉そのものだ。 「だったら自分の心配でもするんだな。まぁこの突入劇の直後で他人を気遣えるのは流石だ。褒めて遣わす」 「はあ」  と頭を掻くと、小さく鼻で笑われた。何食わぬ顔の軽妙なやり取りも相変わらずだ。いつでも何処でもブレないのは、やはり何もテックの専売ではない。  ——野暮だった。  今度こそ俺は、人心地つきながら装備品を解除し始めた。密かに苦笑したところで、 「しかし今日は色々へばりつくなぁ君は」 「はあ?」 「今朝の車のフロントガラスに始まり、次が戦闘機のキャノピー。それらは内側だからまだよかったものを」  紗生子にそこまで言われてぎくりとする。 「ついには飛んでる旅客機の頭だ。この調子だと止めはミサイルかロケットじゃないか?」 「その冗談は洒落になんないですよ」  頗る同感だ。 「妙な物に取り憑かれたのかもな?」  ——悠長な事言ってやがる。  紗生子に引きずり込まれた俺のこの一件は、紗生子に取り憑かれた事を意味する気がするのは気のせいなのか。 「同行しないから罰が当たったのさ。くわばらくわばらだ」  と、重ねて嘯く紗生子の傍へ突然CAが現れた。普通、コックピットの出入口は施錠されているものだが。紗生子がCAに状況説明する横でさり気なく出入口を見てみると、ドアノブがあったらしい辺りがぽっかり抜け落ちているではないか。それどころか壁までもぶち抜きそうな勢いだ。深く考えるまでもなく紗生子の仕業だろう。 「蜂の巣にして突入したからな」  俺の視線に気づいた本人が、屈託なく笑ってみせた。 「フランジブル弾じゃないんですか!?」  航空機や船舶での犯罪制圧用に使われる弾丸は、跳弾や破壊による被害拡大を防ぐため、金属等固い物質に当たると弾自体が粉々になり貫通しないそれが用いられるものだ。 「だったらそれが無理な事ぐらい分かるだろう?」 「まあそうですが——」  巡航状態の旅客機の飛行高度は三万フィートを超える。間違えて窓を打ち抜いたらどうなるか。それが分からない紗生子ではない。そこは流石の思い切りというか、自信があったのか。事情が理解出来る機上の関係者は、この大穴の分だけ肝を潰された事だろう。大体が、内閣府職員(建前上の職名)の身分だけでどうやって機内に銃を持ち込んだのか。その辺りが謎というか紗生子というか。  その紗生子と話し終えたCAがまたキャビンに戻るその背中に、 「ブランケットか何か、羽織る物を用意してもらえませんか?」  リクエストをした。 「もう大立ち回りは終わったので」 「かしこまりました」  俺の細やかなジョークが伝わったのか、緊張していたCAの顔が去り際に少し緩んだようだ。 「何だ? 寒いのか?」 「あなたのですよ」 「人の心配をしている場合じゃないだろう?」  それをさせているのは、  ——アンタだろーに。  と、激しく突っ込みたかったが、また止めた。  その常軌を逸した上司も、今回はその類稀なる御尊顔に僅かながらも血をつけている。出発前の機嫌の悪さが尾を引いているのか知った事ではないが、そうはいっても逃げ場のない機上で孤軍奮闘し、やはりきっちり結果を出している紗生子は流石だ。相変わらずの皮肉屋振りは元気の便り  ——としたモンか。  そう思うと、潔くも返り血を晒す紗生子を庇いたくなった。良くも悪くもそれを問題にするような紗生子ではないし、その禍々しさはまさにリッチのコールサインそのものだ。  ファンタジーの世界では高位のアンデッドの位置づけで呼ばれる事が多いその名の由来は、実は古英語上では【死体】を意味する不吉さの象徴でもある。それを知らない紗生子ではない筈なのだが、何故わざわざその汚名を被るのか。今更ながらに、それが腑に落ちない。  あらゆる面で常識の枠外をはみ出す事著しい姫将軍。長らくそれなりに非常識の世界で揉まれて来た俺だが、軽々とその上を行くこのお転婆のやる事にはついていくのも大変だ。が、  それでも——  紗生子は紗生子なりの正義を貫いているように見える今日この頃。それをはっきりと説明出来る脳を持ち合わせない俺に確証はないのだが。あえて血を晒す潔さのようなものがいくら何でも  ——痛々しいだろ。  素直にそう思った。  で、早速CAが持って来てくれたブランケットを受け取ると、 「動きにくくて嫌なんだよ」  俺のそれなりの配慮を本人があからさまに拒む。 「もう大丈夫でしょう?」 「人間はな」  やはり、一筋縄ではいかない女だ。 「血液は周囲に対する何らかの感染源にも成り得ます。あなたはよくても周囲には脅威でしょう?」 「誰に向かって物を言ってるんだ?」  と言う女は学園(現任地)では校医でもある。 「医療素人が口を——」  と畳みかけようとするその口を、 「第一功の人間が侮蔑されるのは見過ごせませんよ」  もっともらしく上から捩じ伏せてやった。 「——取ってつけた事を」  苦笑した紗生子がほんの少し思案した。即断即決にして傲慢不遜のあの紗生子が。確かに大胆で豪快さばかりが目につくが、物事の本質をごまかす横暴さがない事もまた確かだ。 「そう言うのを横暴というんだ」  ——どっちがだ。  と、今思っていた事をナチュラルにあげつらうところなどは、最早反射なのだろう。それでも手渡したブランケットを纏ったところを見ると、ある程度は預けられたらしい。  やれやれ——  捻くれ振りまでいつも通りだ。そんな素直じゃない上司でも、預けられたからには本業(操縦)で粗相をして泥を塗る訳にも行かないだろう。とはいえ、旅客機などの大型機の操縦経験はまるでない俺だ。 「操縦の方は何とかしますから、そろそろ代わりましょう」 「当たり前だ。そのために呼んだんだからな」  泥を塗るなよ、と憎まれ口を忘れない。 「一応愚鈍な部下のために言っておくが、いくらアンが乗っているといっても乗客の大半は日本人で日本国籍機だからな。最低限の結果は出さんと後々面倒だ」 「分かってます」  アンが乗る機が狙われた警備上の落ち度は、日本籍なら明らかに日本側にある。しかも航空会社のパイロットが絡んでいるという事実は重い。政府も航空会社も戦々恐々としたものだろう。となれば乗客の無事は最低限の仕事だ。それはアンの警護責任者たる紗生子も同じ事。その部下ならそれを助けるのも当たり前  ——って言いたいんだろーが。  それにしてはミッションの難易度が高過ぎると思うのは、俺の甘えなのだろうか。  そんな無茶振り上司がコックピットから出て行く入れ替わりで、 「きゃー! センセーやっぱり来たんだ!」  渦中のアンが飛び込んで来て、いきなり首に巻きついた。 「ちょ、ちょっとクラークさん!?」  同時に開け放たれたそのドア向こうのギャレーに、横たわる人間の姿が目に入る。首元ではしゃぐアンを適当にあしらいながらもそれを見ると、一瞥出来ただけで腹部を中心に血塗れになっている男達と、肩や腕を負傷し脱出用ロープでぐるぐる巻きにされた二人の男、総合計六人。拘束状態の二人は犯人達で、残り四人は犯人にやられたスカイマーシャルの二人組と、機長、デッドヘッドのパイロット、といったところか。  拘束されている犯人達には容赦なく、目はガムテープ、口は猿ぐつわ、手足は警察の手錠やガムテープで、  ——殆どミイラだな。  一瞥しただけでこっちが窒息しそうになる程だ。今でこそそのザマに何処か滑稽さすら感じるが、そこは世界的に見れば平和で荒事に不慣れと言わざるを得ない日本の武装警察官相手とはいえ、それをあっという間に制した犯人だ。それを女だてらに一人で制し、その上負傷者の手当てをしながら操縦などと。やはり紗生子は並の女ではない。 「戦闘機から飛び込んで来るって映画のスパイみたい!」  いや——  兼務とはいえ、一応それ(スパイ)をやらされている俺なのだが。それはよいとして、女上司の凄さに引いている俺に構わず、アンは相変わらずのはしゃぎっ振りだ。この娘はこの娘で、事件に対する動揺や緊張はまるで感じられず。図太いと言うか、頭のネジが何十本もぶっ飛んで  ——どうにかなってんじゃねーのか?  と疑いたくなるような主従である。ギャレーの向こうはファーストクラスだ。その分だけ事件に直面したというのに。 「ちょ、ちょっと、いい加減ちゃんと操縦しないと」  ベタベタ纏わりついてくるアンを前に、何故か足を止めていた紗生子の機嫌がまた俄かに悪くなったように見えた。 「その分だと操縦は大丈夫らしいな。それとも最後は死なば諸共で、地面にへばりつくとかいう落ちなのか?」  と、また向き直った紗生子が言い寄って来ると、精緻で嫋やかな指が俺の顎に触れ、同時に切れ長の美しい目が怪しく微笑む。 「笑いながら怒るって器用ねぇ」  それを今や頬擦りでベタつくアンが、つまらなそうに吐いた。 「私は忙しいんだ。それをつまらない事で気を煩わせるとはどういう了見だ?」  ん? どうした? 何か言ってみろ? などと、立て続けの疑問系が有無を言わせないそれはまさに、 「——氷の○笑?」  メディアヲタクのアンの比喩も、相変わらず一々的確だ。 「そ、それはもう——」 「分かればいいんだ。後は頼んだぞ」 「嬉しいくせに。素直じゃないなあ」  しょーがないから私も紗生子を手伝ってくるわ、と今度は紗生子に絡むアンが一緒にコックピットを出て行くと、  ふいぃ——。  ようやく一息つけた。上司の気難しさを今更ながらに痛感する。  ——それにしても。  決して女が嫌いという訳ではないが、苦手である事に違いない俺としては  ——マジで妙なのに取り憑かれたなぁ。  誰もいなくなったコックピットで小さく嘆息すると、大人しく機長席に座って交信を始めた。一応これからは、自分も含めて三〇〇人分の命運が俺の操縦にかかっている。いい加減切り替えて、  ——操縦しよ。  これなら正直、押しつけられた命の数の分だけ通常ならざるTPを続けていた方がまだ気楽だったのではないか。が、俺にはその選択権はないし、もうどうにもならない。  ——毎度毎度。  俺はいつもこうだ。何故か何事かに巻き込まれてはひどい目に遭う。しかも年々ひどくなっているような感覚は、決して気のせいではない。それこそ映画のダイ・○ードのようだ。  交信の合間で首や肩を揉んでやると、ようやく現実感が戻ってきた。無線のリンク設定は既に解除されており、関係各局にリアルタイムで私語が聞かれる心配はもうない。が、遭難機に移ったならフライトレコーダーが地味に働いている。迂闊な言動はどんな災いを招くか分かったものではない。 「はぁ——」  それでも受信中に、つい盛大な溜息を吐いた。  それから更に約一時間後。  どうにかアンカレッジ国際空港へ着陸させた時には、然しもの真夏のアラスカも日が暮れていた。 「はあ——」  良くも悪くもアンの警護から解放される筈が、全くやれやれな事だ。着陸ついでに誘導路を自走させ、現役のエアバスパイロット並みに正規の到着ゲートまで移動させて機を止めてやると、また勝手に溜息が出た。  夜間着陸のおまけつきだった結末は、日付が変わる直前でようやく幕引きとなった。何時間か前まで東京にいたのが嘘みたいだ。真っ昼間から急に夜がきた、そんな感覚で。  嘘みたいといえば、先にエルメンドルフ空軍基地へ帰っていた筈のテックが、わざわざ出迎えに駆けつけていた事である。エルメンドルフとアンカレッジ国際空港は車で三〇分もかからない距離感であり、確かに遠くはないのだったが。 「おう! ごくろうさん!」 「ホントに来たんスか!?」 「当ったりめぇだろが! あんな美人、そうそう拝めねぇよ」  女絡みになると見境いがなくなるこの男の  ——どんな目ぇしてんだ?  それはちょっとした双眼鏡並み、といったところか。パイロットという人種は、世間の想像以上に目が良いものだ。それはまあよいとして、着陸早々当局者と共に駐機直後の遭難機にわざわざ乗り込んで来るなど。面倒臭がりの俺にはまるで理解出来ない執着振りだ。言い換えれば、  ——狂気、かな。  のような。だからこそ、あんな無茶な作戦を安請け合いするのだろうが。 「で、何処だ? 見当たらんが?」 「え? ファーストクラスで負傷者を診てる筈ですよ?」  と、言いながらも覗いてみるが、 「あれぇ——?」  確かに見当たらない。CAが三人、当局者と共に負傷者の搬送と犯人の移送手順を確認しているだけだった。 「——おっかしいなぁ」 「もう事情聴取で降りたんじゃねぇのか?」 「いや、それなら——」  俺に声をかけるだろう、と思うのは思い上がりだろうか。例えそうでなくとも、紗生子が負傷者や犯人を放置するとは思えない。が、スパイ仕様のコンタクトやイヤホンにも連絡はなく。 「現地本部行ってみるか。じゃあまたな! 楽しかったぜ相棒!」 「ええっ!? ホントにそれだけっスか!?」 「さっきも言ったろうが! 男の趣味はねぇしよ!」 「でも——」  確かに一見すると物凄い美人だが、何せ 「【猿の文吉】かも知れないんだけどなぁ」 「あ? 何?」 「いや、別に」  それを言い出せば切りがない業界の人間である紗生子の事ならば、言ったところでテックの夢を砕くだけだ。只、紗生子に限っては、確かにテックの見立てではないが、何か妙な整形をしているようには見えない。体内から溢れんばかりの英気がもたらす美貌というか、それが至極当然と言わんばかりの不遜さというか。 「お、ついでといっちゃ何だが、お前ホントにエアバスの操縦初めてとは思えんな! 俺も見てたがみんな褒めてたわ!」  天下り先が出来てよかったな! と言う事を言ったテックは、本当にさっさと立ち去ってしまった。本当に紗生子だけが目当てだったようで、全くもってその行動力には頭が下がる。  ——やれやれ。  一人で失笑していると、当局者と打ち合わせを終えたらしいCAの一人が近寄って来た。が、 「中々言ってくれるじゃないか?」  いきなりCAにあるまじき言葉遣いにして態度のデカさだ。 「はあ?」 「誰が【猿の文吉】だ?」 「——げ」  よく見ると、CAに変装した紗生子ではないか。 「誰かさんが妙な事を安請け合いして飛び込んで来たせいで、余計な手間を取らされた上に陰口とは恐れ入る」  伊達眼鏡に、ショートボブの後ろ髪をすっきりお団子にして、端正なCAの制服一式を着ただけの簡単な変装だが、 「いやぁ、よく似合いで」  全く、似合い過ぎだ。俺も目は良い方だが、テック同様すっかり騙されてしまっていた。そのなり切り具合は流石に現役スパイという事か。大体が何を着ても元がいいのだから似合うのは当たり前だが、見間違う程の半端ない着熟し感は元が制服族だからだろう。 「今更遅い」  容赦なく切りつけてくる俄かCAさんによると、只でも尋常ならざる話題性を持つアンの手前もあり、本物CAが着ていた物を借りたらしい。よく見ればアンも同じくCAの制服を着ており、悪戯っぽい笑みを浮かべてはこちらをチラチラ見ているではないか。こちらも武家故実由来の立居振舞の良さが出ていたようだ。元々大人びた娘でもあり、やはりまんまと騙されてしまっていた。 「じゃあ制服を剥ぎ取られたCAさんは——」 「陰口を叩いておきながら、まず気にする事がそれか?」  着陸前に私服に着替えさせ、他の乗客と共に一足先に降機させたとか。 「全く、随分と私もナメられたものだ」 「——すぃません」  遭難機と合流後の俺の声は、指サックのマイクを介して紗生子のイヤホンに筒抜けだった事を忘れていた。それにしても、何とも性能の良い事だ。指サックもそうだが、俺はコンタクトもイヤホンもつけっ放しだったというのに。対流圏程度の気圧変化を諸共しないその性能には恐れ入る。装用を忘れる程の馴染み具合で、それ故の迂闊。となると最早何を言っても言い訳だ。 「私とアンは、これから負傷者につき添う格好で当局者と一緒に降りて簡単な事情聴取を受ける。後から必ず来いよ。ここから先は君の仕事だからな」  何でも特別室を用意されているらしい。まあそうだろう。この分だと、また何処で狙われるか分かったものではないのだ。日本国籍の旅客機から降りてしまえば、そこから先は何をどう解釈しようが完全なる米国の事ならば、本国の手厚い庇護は当然だろう。  ——て、事は。  ここから先は、兼務辞令で未だに米国の役人でもある俺が本来は担うべき警護、という事だ。その委細を当然承知している紗生子の事なら、その重責故にもっと管轄外をアピールしてもよいものを。  ——なのに。  至らない俺は上司を呆れさせるばかりだ。加えてALT(建前の職務)の体たらく振りが際立つというのに。 「俺ってバカだなぁ——」  つい口に出して吐くと、既に移動を開始していた紗生子から "全くだ。まぁ覚悟しておけ"  とメッセージが届いた。  結局、犯人達は何を目的にハイジャックに及んだのか。分からないまま、事件は本国に引き継がれた。その犯人は僅かに二人。そのうちの一人は、直前で本物の副操縦士になりすまして搭乗したというから中々のやり手だ。本物は羽田空港のトイレ内で、猿ぐつわで緊縛の上失神しているのを発見されたらしい。この事実により航空会社側の過失レベルは随分と下がり、まずは一安心した事だろう。それにしても変装は何とかなるとしても、恐るべきは操縦レベルだ。俺がパイロットだから言う訳ではないが、普通それは一朝一夕で養えるものではない。全くもって敵も然る者だ。  何故そこまでしてハイジャックに及んだのか。詳しくはこれからの調べだろうが、単純に考えて「より確実に何処かへ向かうためだった」という事だろう。紗生子の一気呵成の制圧により魔の手がアンに及ばなかっただけで、次のステップに移行していたならば、やはりその身柄を狙っての犯行だったようだ。でなくては成功率の低いハイジャックなど、リスキーにも程がある。それにしてもアンの帰国が何処から漏れたのか。そこは日本政府も頭が痛いところだろう。  何にしても犯人達の誤算は、アンに同行する紗生子の能力を過小評価したその一点に尽きる。逆に言えば、紗生子の働きがなければ犯行を完遂された可能性が高く、日米とも改めてその価値を思い知らされたのではないか。普段その無茶振りに振り回される俺としては、多少なりとも複雑な思いもあるのだが。  その荒武者女が生け捕った犯人達は、今も尚米国身柄だ。事件発生は公海上の日本の旅客機内であり、日本国内という事が出来る。犯罪人引渡し条約を結んでいる日米の事ならば、最終的には日本側が身柄を引き取るだろう。が、その犯人達は、人気絶頂の元米国副大統領の娘を狙った不届き者だ。到底只で引き継がれるとは思えない。日本は出涸らし(・・・・)状態になった身柄を引き渡される事になるだろう。  そんな事件とはかけ離れた遠い彼方(東京の学校)にいた  ——筈が。  図らずも有り得ない格好で飛び入る事になった俺は、あの日アンカレッジ国際空港に旅客機を着陸させたのを最後に事件から離脱。結局アンの護衛がてらそのまま久し振りに本国滞在に突入し、事件の翌週、七月第五週。  なぁにやってんだろーなぁ——  俺は、白亜のプールサイドで相変わらずプール監視員をやっていた。  米国はフロリダ州の最南端の街、キーウェスト。一年を通して温暖な気候と美しいビーチを有し、観光・保養都市として名高いその地は、彼の文豪ヘミングウェイが愛した事でも有名である。  その一角にアンの実家クラーク家の別荘があり、プール監視員とはその広大な敷地の中にあるプライベートな庭の、  ——プールって。  何処へ行っても、普段の俺のやる事などこんなものだ。全く締まらない。  外周は高い塀で囲まれており、周辺には敷地内を望める高所もなければ【死の小りんご】なる物騒な俗称を持つ実をつける高木マンチニールの防風林で囲まれた環境下だ。何せその実や葉についた雨滴に触れただけで皮膚がかぶれる程の強毒を有すその樹林に守られているのであれば  ——監視いらねーだろこれは。  と言いたいところだが、ハイジャック事件からまだ一週間も経っておらず、雑音冷めやらぬとあらば油断ならない。のだが、 「ほら、手が止まってるぞ?」 「す、すぃまっしぇん!」  実際には監視もクソもあったものではなく、プールサイドでうつ伏せになっている紗生子のその背中にしどろもどろさせられている。 「どうした? どうせ【猿の文吉】なんだ。平気だろう? 遠慮なく塗ってくれないとくすぐったくて敵わないんだが」  事件後二日程アンカレッジで事情聴取を受けた俺達は、そのままアンの父(ミスターABC)の配慮により軍機でキーウェスト海軍航空基地まで送ってもらった。愛娘が狙われた事件直後とあらば、流石に民間機で送るつもりにはなれなかったのだろう。そこからクラーク家の別荘までは車でそれこそ三〇分以内だ。  で、以来三日。連日昼下がりから行われる罰ゲームにして拷問は、仏国製の最高級クレイパックだか何だか知らないが、それを紗生子の背中に塗らされるという暴挙だった。 「いい加減慣れたろう?」 「そ、そうですね、少しは」  な、訳がない。  毎日決まってシンプルなセパレートのビキニで現れるその肢体は、実に均整のとれた文句のつけ所がない誘惑的な健康美体だ。 「まぁ文吉だしな」 「うぅ——」  まさに小股の切れ上がったいい女を体現しているその形に、暑さも手伝って明らかに血圧が上がりっ放しの俺は、油断すると常に鼻血が出そうになっているここ何日。頭や鼻が怪しければ、当然下半身も敏感に反応して暴走を抑え込むのが大変で、最早全身がおこりのようなもので震えっ放しだ。そのために筋肉痛の症状が出る程のザマだった。 「何なら直接素手で塗ってくれないか?」 「ご、ご冗談を」  その執念深さは一般的に立派なセクハラというヤツだ。が、ここで紗生子が悲鳴を上げれば大抵の場合、俺こそがわいせつ絡みの犯人である。素手どころか、目で見ているだけで捕まりそうな紗生子の半裸体だ。震える手で持つ刷毛で泥を塗り込むその理性こそが、最終防衛ラインだった。 「随分と上司に泥を塗りたいようだったから希望を叶えてやったというのに、つれないヤツだな」  もうちょっと横も塗ってくれ、という紗生子はビキニトップスの紐まで解いてうつ伏せになっている。迂闊にもその言葉につられて地面に接した只ならぬ膨らみの、  よ、横乳——!  の丸みに目がいってしまい。それだけで、身体の敏感な所がくすぐられて悶えそうだ。当然、この瞬間で鼻の奥が一気に緩む。  ——ヤベ!  冗談ではない。これの何処が文吉なのだ。何処のどれを取っても不審なパーツなどなく、飾り気がない殆ど裸体の、それも女体の造形美をまざまざと見せつけられたものだ。それは殆ど芸術的で抗い難い神々しさではないか。 「ちょっと紗生子、独り占めしないでよぉ」  センセーこっちも、と紗生子がそんな状態なら、張り合うアンも当然はち切れんばかりの若々しい眩しさで、俺を挟んで同じように横たわっている。何百歩か譲って紗生子は同僚の学園職員であり、成人の女だからまだよいとして。片やアンは留学中の生徒にして未成年の少女であり、俺は仮にも先生だ。  それをこの二美女を挟んで川の字とか——  こんなザマが学園に知られでもしたら。想像するまでもない。 「く、首だ。間違いなく」 「首がどうした? 何なら診てやろうか?」 「——って待った待ったぁ! 紐をしてないでしょうが紐を!」 「ん? あぁそうだったな」  などと、わざとらしい紗生子が上半身を起こす振りをしてくれる。お陰様で鼻と股間が爆発寸前だ。人生観さえ変わってしまいそうな、そんな破壊力に目が眩む。  ——そ、そーか。  人生が変わる瞬間とは、何もシビアな状況ばかりとは限らないのだ。今まさに俺は、それを体感させられている。姦声乱色に免疫がない俺としては、それがシビアと言えなくもないが。 「だぁ! もうダメっス!」  暴発寸前の俺は次の瞬間、勢いに任せてプールに飛び込んでやった。 「ぷはぁ——」 「何だ? 子供じゃあるまいしこれぐらいの事で動揺してどうする?」 「折角のご褒美なのにねぇ」  据え膳食わぬは男の恥よセンセー、などと只ならぬ事を抜かすアンは、流石の言語レベルで一々参らされる。  そのアンの帰省先は本来ヒューストン郊外のクラーク本邸だったが、事件のせいで連日マスコミが押しかけ賑わしているとかで出入りすら儘ならないらしい。で、アン共々、俺と紗生子まで格別の配慮を賜った訳だ。  いずれにせよアンの護衛の俺達ならばその行く所へついて行かなくてはならない訳だが、それにしても  随分とまあ——  手放しで信用されたものだ。でなくては二美女の片割れの親が、何処ぞの泡沫のような男にプライベートな別荘までつき従わせた上の放蕩三昧を許す筈がない。それこそテックなら、鼻血をぶち撒ける程の鼻息の荒さで思う存分満喫する事だろう。  いつだったか紗生子に、警護対象から気に入られる事のメリットを説かれた事があるが、これもその一つという事か。そんなメリットは戸惑うばかりで、  ——いらん。  のだが。  紗生子は紗生子でどっぷりバカンスに浸かってしまっており、すっかり上機嫌だ。 「やれやれ、一々手を焼かすヤツだ」  ぶつくさ言いながらもトップスの紐をつけた紗生子が上半身だけを軽く起こし、プールの中に逃げ込んだ俺にその嫋やかな腕を伸ばしてきた。 「早く上がって続きを塗れ」  まさに言動共に上から目線で見下げるその態度と胸元の眩しさのギャップといったらどうなのだ。 「いやその——」  その不遜な物言いに反して表情は麗しく、今度はつい見惚れてしまい目が釘づけになってしまう。 「い、いつまでこんなただれた(・・・・)事をやらすんですか?」 「また随分な言い方をするモンだな君は?」 「お父さんがこっちに来るまでよ」  割り込んで答えたアンも、紗生子に倣って胸を強調してくるその破壊力も大概だ。プールに入っていながらのぼせそうな勢いである。 「君に会いたいそうだぞ。大層お気に召されたらしい」 「私がうんと盛って話しといたからねっ!」  と、いう事らしい。何を盛って話されたものか、気にはなるが何でもいいから 「いい加減、腑抜けになりそうなんですが」  つい本音が出ると、上の二人が同時に噴き出した。 「まあ役得よ役得!」 「護衛なんて、いつ盾になって死ぬとも限らん命なんだ。精々心残りなく腑抜けになっておけ」  護衛とか腑抜けとか。状況と言動のギャップもいい加減出鱈目な周囲である。 「本当の意味でのバカンスは私だけだからな」  と言う紗生子の護衛としての守備範囲は日本国内だけだ。となれば、東京ではあれ程手放さなかった銃も携帯していない。一方で本国滞在中の俺は、やはりこれでも任務中だ。 「何なら死ぬ前に見納めしとく?」  と悪戯っぽい笑みを浮かべたアンが、片手で紗生子がつけ直したばかりのビキニトップスの紐を解いた。悩ましい膨らみを辛うじて支えていたそれがはらりと床に落ち、膨らみの先端に目が釘づけになりそうになった瞬間で 「うわっ!?」  堪らず潜る。すぐに反対を向いて浮かび上がると、 「こら、やり過ぎだ」  いつも通り平然とした紗生子の声と、飛んで逃げるアンのはしゃぐ声が耳に入った。これでも一応任務中ならば対象から目を離すべきではないのだが、 「ここだからいいが、仮にもしこの間隙を敵に突かれたらどうするんだ?」 「それは、そうですが——」  やはりそこを紗生子に突かれる。しかし、だ。俺は先程来、生唾は出まくるし鼻の奥がどうでも血なまぐさくて敵わない。 「ほら、もういいぞ」  言われて向き直ると、紗生子がまた失笑気味に噴き出した。 「また鼻血が出てるぞ?」 「えっ!? あっ!? なっ!?」  慌てて鼻を摘みながらも、子供っぽく笑うその顔がいつになく楽しそうで、またつい見惚れてしまう。 「しょうがないヤツだな。ほら、上がって仰向けにでもなってろ」  と、また伸びて来たその手に捕まると、予想外の力強さで造作もなくプールサイドに引き上げられた。 「わっ」  その勢いで簡単に手足を取られ、 「えっ」  紗生子が寝そべっていたマットにそのまま寝かされてしまう。この辺の速攻は流石だ。 「しかしウブなのはいいが、思いがけない弱点だなこれは」  色仕掛けで攻められたどうするつもりだ、と言う紗生子は、極めつけにさり気なくそのまま膝枕をかましてくれる。 「い、いや、枕はいいですから枕は」  慌てて頭を上げようとすると額を押さえられ、横座りしている張りのある太腿に戻された。 「これも訓練だ。少しは慣らせ」  いい年してこんなんじゃそれこそ任務に障り兼ねん、と言う紗生子は相変わらず泰然たるもので実に堂々としている。その背中は泥を塗っているが、前は塗っていない。そのせいなのか何なのか知らないが、鼻血の匂いを掻い潜って淡く柔らかく、まるで何かの花のような良い芳香が鼻の奥をくすぐってくる。このまま吸い込んでいたら、その甘美に落ちてどうにかなりそうだ。 「しかし——」 「訓練だ訓練!」  そこへプールサイドを一周して走って戻って来たアンが、よりによってその破壊力のある胸を存分に使ってボディーアタックをかまして来た。 「うぐっ!」  紗生子のいい匂いが、途端に恐るべき丸さと柔らかさの化け物に取って変わり、その重量に押し潰されるというか張りのある肌に吸いつかれるというか。とにかく息が出来ない。 「だからお前はやり過ぎだ!」 「そういう紗生子はどうなのよぉ!?」  窒息させられても耳は当然生きており、混乱に陥る俺の脳内で言い争いの羅列が反響し始める。 「私のはゴローのハニートラップ対応訓練だ」 「ウソ! 紗生子、今までそんな事した事ないじゃん!?」 「それはこれまでこんなウブなヤツと組んだ事がなかったからだ」 「そもそも男嫌いで男を近寄らせなかったのは何処のどなたよ!?」 「バカでスケベなヤツらばかりだったから追い払うしかなかったんだよ」 「仕事にかこつけて、上司面してセクハラでパワハラよ!」 「そういうお前がやってる事はモラハラなんじゃないか? 私のはあくまで訓練だからな」 「だからぁ紗生子がそうやって抜け駆けするからだってばぁ!」  マジで——  延々続きそうだ。いい加減、息が持ちそうにない。遠慮なく押し退ければよいのだが、よりによってビキニの水着のアンだ。何処を触っても素肌である事に加え、その悩ましい柔らかさの化け物の何処に触れて押し退けろというのか。しかもその身体は、紗生子に負けず劣らずの美体だ。  こんな事なら紗生子の匂いに遠慮せず、普通に息を  ——吸っとくんだった。  などと、遠退く意識下で不意に思い出した。  色々とへばりつかされた挙句、これでおさらばするのならば、止めはまさかのじゃじゃ馬だ。腹上死ではないが、これはこれで何という軟弱な死に様か。別にそれにカッコ良さは求めていなかったが、それにしても随分と俺らしからぬ色ボケた最期だ。 「おい、ゴロー? 大丈夫か?」 「え? ウソ!? 窒息してる!?」  そこから先は、よく覚えていない。
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