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「お姫さまは王子さまとさようならをしました。そして、湖に向かってはしりました。湖のほとりで待っていたけものと、手と手をつなぎあうお姫さま。きれいな月の下、二人はいつまでも、いつまでも、ダンスをおどりましたとさ。おしまい」
パタン、と絵本を閉じる。
ベッドに身を任せたばあちゃんは、「ありがとう」と朗らかな笑顔を浮かべる。両手で木彫りのくまを、大切そうに包みこみながら。
誰からもらったのか、僕には分からない。今日こそは聞こうか? そう思いながら顔をあげると、ばあちゃんは心配そうな表情で僕を見ていた。
「翔、悩みでもあるのか?」
ばあちゃんの勘は鋭い。やっぱり、僕よりたくさん生きているだけの事はある。降参した僕は、仕方なく白状する。
「今度さ、体育祭でフォークダンスがあるんだ。そのペアの女の子を誘わないといけないんだ・・・・・・」
「ほう、フォークダンスか。中学生なのに珍しいなぁ。翔は誘いたい子はいないのかい?」
ぼっと頭に浮かぶ二つの顔。
「い、いるけど・・・・・・どっちにしようか悩んでいるんだ」
クラスのマドンナ的存在の吉川さん。
めがねで地味だけど優しい堺さん。
「ほう、翔もそんな事で悩む年ごろになったんだなぁ・・・・・・ははは」
白い歯を出しながら、豪快に笑うばあちゃん。僕は恥ずかしくなって顔を背けた。
「ばあちゃんに相談しなきゃよかったよ・・・・・・」
そんな僕の肩をちょんとつついたばあちゃんは、左手に木のくまをにぎったまま、右手を自分の胸の前にそっと当てた。つい僕もつられて、右手を胸に当てた。
「心で感じるんだ。目に見えるモノじゃなく、心で見るんだよ。そうすれば、おのずと答えは出てくるよ」
僕を見ていた瞳は、すーっと窓辺に向けられる。ばあちゃんはぼんやりと、姿にならないモノを見ていた気がした。それでもしわしわの手はくまを撫でていて、僕はばあちゃんの言った言葉の意味を、しばらく頭の中で探していたのだった。
ばあちゃんの部屋を出て、宿題をやるために自室に戻った僕はベッドに寝転んだ。かわいい吉川さんと、優しい堺さん。二つの顔が頭の中を行ったり来たり。まだ、今の僕にはその答えが出せないなぁと、長いため息が漏れたのだった。
*
「きれいな月の下、二人はいつまでも、いつまでも、ダンスをおどりましたとさ。おしまい」
学校から帰ってきた僕は、いつものようにばあちゃんに絵本を読んでいた。ベッドの中のばあちゃんは、せいいっぱいに目尻にしわ寄せ、「いつも、ありがとう」と笑った。
手の中にはいつものくまの置物。細かく掘られた木彫りのくま。しわしわの手が、そうっと撫でる。今日こそ、その正体を聞こうと僕は口を開くが、その前にばあちゃんの言葉でふさがれてしまった。
「このくまはね、けものにもらったんだよ。毛むくじゃらのけものに」
「えっ? 毛むくじゃらのけもの?」
ばあちゃんは、この絵本の話をしているのか?
一瞬宙をおよいだ視線は、くまに再び向けられたあと、窓辺に吸いよせられた。
「うん、そう。ここから小さな森が見えるだろう?」
僕は目をこらし、身を乗りだす。
「うん、見える。行ったことはないけど」
「あの森の奥に小さな湖があってね。そこのほとりに、けものは棲んでいたんだ」
窓のすきまからやって来た夕風が、ぱらぱらと絵本のページをめくる。その動きにあわせるように、ばあちゃんは静かに静かに語りだした。
「私は20歳になった時、お見合いをすることになっていた。翔、お見合いって何か分かるか?」
「あぁ、分かるよ。決められた人と結婚することだろ?」
「そうだ。その相手が亡くなったおじいさんなんだけどね。まだ若かった私はお見合いがイヤで、家を飛びだしたのさ」
僕は棚の上にある写真立てに目を向ける。切り取られた中で、じいちゃんは幸せそうに笑っていた。肌はいい色に焼けている。
「逃げこんだのが、あの森だった。奥まで走ると小さな湖があった。それはキラキラと輝いてきれいだったよ。もう秋になる頃だったかなぁ。走ってとても喉が渇いていていた私は、湖の近くに座りこんで休憩をしていた。そうしたら、突然、目の前にコップが現れた。その中には液体が入っていて、薄い桃色のような水色のようなそんな色をしていた。喉がたまらなく渇いていた私は、それを受け取って一気に飲んだの。甘くて爽やかでとても美味しかった。一瞬で生き返ったよ。コップを受け取った手はなぜか、毛むくじゃらだった。それが、けものだったのさ」
ばあちゃんは目蓋閉じて、くっと口角をあげた。僕の目の前には、湖のキラキラと、淡い色の液体と、毛むくじゃらの生き物が空想として広がっていた。
*
次の日の朝、僕は立ちこぎで自転車をこいでいた。ばあちゃんの言っていた毛むくじゃらのけものが棲むという森に向かって。
秋といっても照りつける日差しはまだ熱を持っていて、えり足からこぼれ落ちた汗が首筋に張りついていた。ばあちゃんが大切にしていた木彫りのくまは、けものが作ったものだと言っていた。
『彼はとても優しくて、あたたかかったよ』
頬をほんのりピンク色に染めたばあちゃんが、水色の空の中に浮かんだ。けもののことを話しているばあちゃんは、初恋を語る少女のようにかわいくて。すごく愛おしそうに感じた。
――ばあちゃんとけものを会わせたい――
だから、僕は、けものに会いに行く。
はやる気持ちを落ち着かせる為、ふうーっと息を吐きながら自転車を下りた。錆びたそれを森の入り口に停車させる。森を見上げる。深緑の木立がひしめき合うように重なり合い、森を深く静かにさせている。冷たくなった首元の汗をタオルで拭い、少しの不安と好奇心を拳に握りしめながら、僕は森に向かって足を踏みだした。
「はぁ、はぁ・・・・・・まだ、湖に着かないの?」
思ったよりも、森の木々は密集していない。木と木の隙間から、陽光がとぎれとぎれに差してきた。暑い。知らないうちに喉もカラカラに乾いていた。でも、けものに会わなくちゃいけない。
顔を上げ、ザクザク枯れ葉を踏みしめながら進むと、遠い向こうにキラキラと何かが輝いた。踏みだす足をはやめた時、木の皮にすべって派手に転げてしまった。
「いったー!」
背中にしめった感覚が張りついた。冷たい地面とチクチクする小枝と枯れ葉。茶色く汚れていく布地の感触を感じながら、目蓋を閉じてため息を吐く。その瞬間、影が落ち、頬に冷たい液体を感じた。落ちてきた雫を指先でさわると、とろりと纏わりついた。
体を起こすと、大きな影が目の前にあった。逆光で見えないそれが、透明なコップをこちらに差し出している。コップを満たす液体だけが、淡いピンク色を放っている。ずいっと寄せられるコップに手を伸ばし、僕は液体をごくごく飲んだ。
ひからびた管を潤していく水分が、体中にじわじわと染みわたっていく。爽やかで甘く、美味しかった。
「美味しい!」
思わず飛びだした言葉。にゅっと伸びてきた腕のようなものがコップを掴むと、手のひらにファサッと生あたたかな毛並みが触れた。目を細めたが、目の前の影はただの真っ黒な塊だった。視線は感じるが顔は見えない。光の中に帰って行くそれに、僕は声をかけた。
「君が、けもの?」
それは止まると、僕を誘うように手まねきをする。大きな背中を追いかけると、開けた場所にはきらめく水面が現れた。小さな湖だった。
その前に立っていたのは、確かに毛むくじゃらのけものだった。くまのようにも見えた。どこかから飛んできた小鳥が、けものの大きな肩に止まった。チチチッと小鳥がさえずると、けものの薄い唇らしき部分が孤を描いた。
寂しげに帰って行く背中に「ありがとう!」と言うと、僕はけものに近寄ってあるものを取りだした。ばあちゃんのくまの置物だ。
毛むくじゃらの手がそれを包みこんだ。優しく、大事そうに。けもののつぶらな目が一瞬、ゆらいだように見えた。口をもごもご動かしたけものは、くるっと向きを変えて歩きだす。僕は慌てて後をついて行った。
湖の近くにけものの家はあった。体の大きさに似合わない小さな小屋だった。中に入るように促された僕は、遠慮がちにおじぎをしながら入りこんだ。
新しい木の匂いが鼻の奥を通りぬける。光が差しこんだ部屋は明るく、木の温かみを感じる。中はきちんと片付けられていて、キッチンみたいな場所もあり、テーブルや椅子、奥には作業台のようなものもある。その上には作りかけの木の置物らしきものが、ゴロンと転がっている。
椅子に座らせられた僕の前に、カラフルな果物と、コップ、絞り器が置かれる。見たことないふしぎな果物だった。その一つを鷲づかみした毛むくじゃらの手。握りつぶしてしまいそうだったが、それを丁寧に絞り器でしぼったけものは、しぼった汁をコップに注ぐ。あっという間に、淡いピンク色の飲み物が完成する。
また飲むようにと、コップがこっちに寄せられる。僕は遠慮なく飲み物を飲み干した。とろっとした液体は、甘くて爽やかで、やっぱり美味しかった。
空のコップの隣にばあちゃんのくまが差し出されたので、僕はけものの顔を見上げた。けものはしゃべれないみたいだが、こちらの言葉は分かるようだった。毛に覆われた口元から、疑問符のようなものが漏れたのが見えた。
「これは君が作ったものなんだよね? 昔、女の人にあげたものだね」
コクッと頷いたけものの毛並みがゆれる。
「その女の人は僕のおばあちゃんなんだ。会いに来てもいいかな?」
一瞬、揺らいだ瞳。突如、近くにある棚に行ったけものは、あるものを持って帰ってきた。それはガラス製の四角いオルゴールだった。
「あ、これ。ばあちゃんがくまをもらったお礼にあげたっていうオルゴール?」
瞳を細めたけものは、ネジをジージーと回した。透明な部屋の中、金色の円柱がくるくると回る。金属のヒダが弾かれる。奏でられる音色は古びてなんかいないし、華やかで美しい。
オルゴールから目を上げると、けものは部屋の真ん中で踊っていた。大きな体を繊細にくねらせたり、指先を天井にまっすぐ伸ばしたりしながら。愛おしい音色をなぞるように、踊る。
その光景で、けものの答えは出ていたようだった。あの日、二人が出会った日。きっと二人はこうやって踊ったのだろう。美しく踊る二人の光景が、僕の目の前に繰り広げられたのだった。
*
次の日の夜、僕はばあちゃんを連れ出した。
真っ白な月がキレイな夜だった。
「翔? こんな夜に何の用だい?」
やっとこさ森の前までやってきたばあちゃんは、黒い塊を見て驚愕する。けものはばあちゃんをおんぶして、湖のほとりまで運んで行く。
鏡のような湖面はキラキラを纏って美しい。湖畔に降ろされたばあちゃん。二人は再会を望んでいたかのように、数秒見つめ合う。
透明な箱を取りだしたけものは、細やかにネジを回した。静寂の森にすいこまれた音色は、月をゆらすように夜空に響きわたって、美しい音の世界を作った。
二人はゆっくりと手をつないで、音色に合わせてフォークダンスを踊りだす。それは、しなやかに、ゆるやかに。
湖面を照らす月明かり。それが、二人に降りそそぐスポットライトのようだった。
ばあちゃんが好きな絵本の王子と姫を思いだす。あの絵本は二人の物語だったんだ。
僕は木陰から舞台を見守っていた。目蓋を閉じると、美しい王子様と美しいお姫様が浮かびあがるようだ。
“目に見えるモノじゃなく、心で見るんだよ。そうすれば、おのずと答えは出てくるよ”
その意味が分かった気がする。
けものは毛むくじゃら。でも、心をふわっと包み込むようなが優しさが、あたたかさが、愛おしいと感じた。
月夜に届くオルゴールの音色が、重なり合う二つの影を包み込んでいる。
湖面の煌めきが、華麗なる舞台に優しい光を照らす、そんな幻想的な夜だった――。
*
この日から、ばあちゃんは毎夜いなくなった。
両親は心配していたけれど、僕だけはどこに行っているのか知っている。けものが一緒なら心配ないだろう。
体育祭の前日、僕はある女の子を校舎裏に呼び出していた。
優しいめがねのあの子を。
その子の頬はかわいく、薄ピンク色に染まっている。
すうっと大きく息を吸い込んで、僕は心のままに言葉をつむいだ。
「あの、お姫様。ぼ、僕とダンスを踊ってくださいっ!」
「はい、王子様。こんな私でよければ、よろこんで」
✳︎end✳︎
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