2 ルナシティ

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

2 ルナシティ

 出発前のことだ。  サウス・ポイント開拓ルートの責任者に任命された際、村人たちは口々に〈ルナシティ〉の伝説を語ってくれた。  われわれ道東に住む人間が〈蝦夷地〉を縦断しようとすれば、どうしたって真ん中に屹立する日高山脈や石狩山地を越えねばならない。平原でさえこの有様なのだから、山越えは熾烈を極めるだろう。  放浪惑星(ネメシス)による〈大変動〉以後、〈蝦夷地〉の人間はどうにかして南へ逃げようとしてきたが、この山越えを果たせずに数え切れない人びとが命を落としてきた。  山越えを消耗した身体でやるのは自殺行為だ。そこでいつしか、旅人たちは麓に集落を作るようになった。そこで旅装を整えて山越えを敢行するというわけだ。それがルナシティと呼ばれている伝説の町なのである。  ところがその町にはいわくがある。いまだかつて誰も、ルナシティに辿りついた者はいない。――いや、いたはずだ。山越えはもっとも標高の低い峠を乗り越すのが合理的なのだからおのずから、登山基地は日高峠の麓にしか作られない。見つけられないはずがない。にもかかわらず、村を出発した先遣隊の誰一人として帰ってこない。  日下部真琴(まこと)よ、心してかかれ。  わたしは飽きるほど見た地形図を開いた。ルートは昔国道274号と呼ばれていた舗装路に沿ってきている。現在位置はちょうど日高山脈へ向かって登る直前だ。周辺にルナシティがあってもよいはずだった。  わたしと秋田犬のホープは2時間ほどもあたりを捜索したが、見慣れた光景――すなわち一面に広がる雪原があるばかりだった。どのみち星明りだけでは暗すぎてどうにもならない。  このまま日高山脈を越えるか? 食糧は控えめに見積もっても1週間分残っているかどうかだ。登りはスキーでこなすわけにもいかないし、そうなれば当然、犬ぞりも使えない。相棒には歩いてもらうにしても、スキーとそりと、一週間分の食糧を担いで2~3メートルもの雪をラッセルしながら峠を越えるのは不可能に近い。  進退窮まったと思ったそのとき、雪原が青白い月光を反射していることに気づいた。煌々と輝く満月がいつの間にか昇っていたのだ。  わたしは思わず「あっ」と感嘆の声を上げてしまった。道のはずれに全高4メートルはあろうかという巨大な雪ダルマが置いてあり、身体には〈Welcome to the Luna city〉と彫ってあるではないか。ところがどこにもそれらしい集落は見当たらない。  雪ダルマに近づいてみる。またもやわたしは感嘆の声を上げた。雪ダルマのすぐ横に、金属製のふたが置いてあるのを見つけたのだ。それは満月の光を浴びて目を射るほどのまぶしさで輝いていた。  取っ手を掴み、引いてみる。ふたは難なく持ち上がった。驚くべきことに、その下には雪を切り崩して作った階段が伸びていたのである。  光を遠くまで反射する金属製のふたがその存在を知らせる。ルナシティはまさしく月の町だった。  わたしは相棒と一緒におそるおそる、雪の階段を降りていった。ステップは頑強に固められており、崩れるような心配はなさそうだ。低い天井に頭をぶつけないよう腰を屈めながら、一歩一歩慎重に降りていく。  降りるたび、どんどん暖かくなっていくのが感じられた。壁や天井が白い雪のせいか、月光の届かない地下でも思ったほど暗くはなかった。  階段を降り切ると視界が開けた。雪が大きくくり抜かれていて、目の前には木造の家屋が佇んでいる。凍った雪の地下に家がある。しかも下の雪面がぼんやりと青く光っていて、この世のものとは思われない幻想的な雰囲気を醸している。  呆けたように突っ立っていると、家から人間が出てきた。薄着1枚きりというたいへんな軽装の、若い女性であった。〈蝦夷地〉では誰もが狂ったように厚着をしているはずだ。彼女の格好に度肝を抜かれているうち、すぐに気づいた。ここはひどく暖かい。いや、。この語彙は村の年配者から聞いて知っていたものの、まさか自分で使う機会が訪れるとは……。 「物音がすると思ったら――あなた旅の人?」 「そうですが、ここはいったい……」 「入り口の雪ダルマ、見なかったの?」 「ということは、ここがルナシティなんですね」  若い女性は妖艶な笑みを浮かべた。「ようこそ、ルナシティへ」
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!