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ラッキーの吠える大きな声に、私は涙に濡れた顔を上げた。
いつの間にかラッキーは小山ほどの大きさになっていた。
私は我が目を疑った。まるでゾウのように大きくなったラッキーが、泣いている私を庇うように前に立っているのだ。
鋭い犬歯をあらわにして、露天商に唸り声を上げている。
腰を抜かして後ずさる露天商は、まるで小人だった。牙を剥かれて、明らかに縮んでいるのだ。
「おおお落ち着いてくださいお客様、何も押し売りしようってんじゃないんです、ねえ、お客様だって興味がおありでしょう、ぶぼぁ」
勢いよく吠え立てる声は、まるで衝撃波だった。露天商をひっくりかえしたうえ、敷物を口に咥えてブンブンと振りまくる。
当然、陳列されていたアクセサリーは、田んぼに向かって投げ出された。
「あわわわわ!」
露天商は悲鳴を上げて商品を追いかけて行った。
「こりゃいかん、闇が! 呪文が! 溶けてしまう!」
私は大暴れする飼い犬を前に、一言も声を出せなかった。
弁償、通報、夫に電話、さまざまな現実的なことが頭をよぎる。――が、被害者である露天商がちっとも戻って来ない。
「あっ……あのぉ……?」
背伸びして、田んぼのほうをうかがってみるのだが、そこにはくたびれたカカシが一本立っているきりで、人影らしいものはなにも見えないのだった。
まるで闇に溶けてしまったように、何もないし、誰もいない。
呆然としていると、急に体を思い切り強く引かれて、私は悲鳴を上げた。
ラッキーだ。私の手の中にはリードがあり、足元のちょうど膝の高さにラッキーの頭があり、ふさふさとした箒のような尻尾を左右に振っている。ぴかぴか光る七色の首輪もそのままだ。
ひどくリアルな夢、だったのだろうか。
私は濡れた頬を手で拭い、来た道をラッキーと共に引き返した。とてもではないが、散歩を続ける気分ではない。
ラッキーも何かそわそわした様子で、私の足に体当たりしたり電柱の影に吠えたりしている。
私はすっかり怖くなってしまって、月を見上げることもできなかった。足元の影を見るのも怖いくらいだ。
上を見ずとも、影の角度を見れば月がどこにあるかはわかる。同じように、月のほうも私の所在を正確に把握しているのではないか、目を合わせずともジッとこちらを見ているのではないか、そんな考えが消えないのだ。
帰宅して、夫の顔を見てようやくホッとした。
玄関の上がり框にぐったり座り込む私の横で、ラッキーは夫に汚れた足を雑巾で拭ってもらっていた。
だいたい私の影に隠れて嫌がるのに珍しいことだ。夫にも少しは慣れたのだろうか。
夫が甲斐甲斐しくリードを外してやると、ラッキーはチャカチャカと爪を鳴らして居間へ入って行った。去り際の尻尾を、夫はため息をついて見送る。
本当は体中を撫でまわしたくて仕方ないに違いない。
私は提案してみた。
「明日からは三人で散歩してみる?」
「いいの!?」
仕事で疲れてなかったらだけど、と言うより先に頭突きする勢いで飛びついてきた。そんなに好きか、と私は笑ってしまった。
「いいんじゃない。ラッキーの気分次第だけど」
「うわぁあ、みなぎってきたぁああ」
「いやはしゃぎすぎ。落ち着いてください」
と突っ込みをいれつつ、夫についてきてほしいのは私のほうだった。こんな月夜ばかりではないとしても夜道は危ないし、不審者は恐ろしい。
なんとなく抱き合ったまま顔が近づいた時、居間から「ウォン!」とラッキーが吠えた。夫は首をかしげて言った。
「……ウンチしたのかな」
「いや、窓に虫がいて怖いのかも」
「虫が怖いのか。なんて可愛いんだろ、まるでうちの奥さんみたい」
「ん……」
デレデレと笑う夫に、私は「ただいま」と言って、すばやくキスした。
照れくさいのでさっさと立ち上がる。が、「おかえり」と、夫の声は後から追いかけてきた。頬のゆるみ方が容易に想像できる、やさしい声だった。
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