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重なり滲み、増殖した文字は、もとより読むことができない。それが太古の知らない言葉だからだ。
読めない文字に取り囲まれた私は、ぐんにゃりと思考がゆがんでいくのを感じた。眠りに落ちていく時のように、体を動かすことができない。
その時、ふっと闇に濃淡が生まれ、私は顔の前に突き出されたペンダントをもう一度見た。なるほど、目が慣れてくると底のほうに溜まっているのは、群れから切り離された闇のカケラなのだとわかる。
遠くに露天商の声が聞こえた。
「わたくしどもは、今こそ闇の復権を果たしたいと考えております。生意気にも一日の半分を支配する、あの忌々しい光は世から消え去るべきなのです。昼を破壊するには、このように濃縮した太古の文字が、呪文が必要です。どうぞおひとつお買い求めください」
いやちょっと待ってよと子供の私は思った。
難しいことはよくわからないけれど、いくらなんでも昼間をなくすのはまずい気がする。花は枯れてしまうし、洗濯物だって乾かなくなるだろう。それで学校がなくなるなら助かるが、遊びにも行けなくなってしまうではないか。
「うーん……」
「お悩みですか」
「あのね、勝手に変なもの買うなって、お母さんに言われてるんだ」
「大丈夫、お母さんもきっと気に入りますよ」
「そんなことないと思うけど……」
「いいえ、気に入りますとも」
露天商は間を置かずに言った。どうしても買わせたいらしいな、と私は子供心に察した。きっと店を開いたはいいが、思った以上に人が通りがからないので焦っているのだろう。
露天商は私の疑いを察したようだ。両手を広げて「本当ですよ」ともっともらしく言った。
「なぜなら、ほとんどの人間は生きている限りこの呪文を求めてやまないからです。この呪文欲しさに人間は実に様々なことをします。薬を飲んだり、ギャンブルをしたり、あるいは犬をいじめたり……」
「犬を? ひどいなあ、なんでそんなことするんだろう」
「ふふん。買ってみればわかりますよ」
私はすっかり露天商の術中にはまったことに気がついた。犬をいじめてまで手に入れたい人がいるという呪文がなんなのか、知りたくてたまらないのだ。
だってもしかしたら、願いがなんでも叶う呪文なのかもしれない。それだったらお母さんも納得するだろうし、私だってほしい。
というのも、私には誰にも言ったことのない秘密の夢があるからだ。大人になったら、だれか素敵な人のお嫁さんになって、二人か三人か、もっと多くてもいいなら五人くらい、たくさん赤ちゃんがほしい! さらに、その中に超能力を持った双子の赤ちゃんもいたら言うことなしだ!
私は一人っ子なうえお母さんも忙しいので、一緒に学校に通えるような兄弟がいたらいいなあとずっと思っている。いや、この際、自分の兄弟じゃなくてもいい。大人になったら絶対に赤ちゃんがほしい。
いっぱいじゃなくても、一人だけでも、男の子でも女の子でも、どっちでもなくたって気にしないから、赤ちゃんがほしい。
私と、私の好きな人の、大事な大事な赤ちゃんが。
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