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夕食の片づけを終えて、前掛けで手を拭いているとラッキーが来た。
黒い三角耳をオドオドと震わせながらこっちを見ている。びびりなムク犬でも夜の散歩は楽しみなようで、箒のような尻尾をかすかに揺らしている。
私が軽くうなずくと、四つ足の爪をチャカチャカ鳴らして玄関へ行った。
「なんて可愛い犬なんだろう」
「うん、まったくだ」
私の独り言にリビングから返事したのは夫だ。
テーブルに頬杖をついて、うっとりとラッキーの尻尾を眺めている。
大の犬好きだが、ラッキーは大人の男を怖がるので、撫でるのをずっと我慢させられているのだ。
「あの毛並みを明るい日の下で見られたら、きっと素晴らしいだろうなあ。野原を思いっきり駆け回ってほしいよ」
「そうねえ」
「ああ、一緒に河原でバーベキューとかしたい……」
夫の口ぶりに私は笑ってしまった。ラッキーが後ろ足で立って肉や野菜を焼くのだろうか。夫は田舎の配管工のくせに、なかなか馬鹿にできないギャグセンスを持っている。
妄想をふくらませている彼に、私はいちおう釘を刺した。
「気持ちはわかるけど、ラッキーにはまだ時間が必要だよ」
ラッキーが前の飼い主からどんなひどい目に遭わされたか、私たちは絶対に忘れるべきではない。
かわいそうなラッキー。死の寸前まで追い詰められ、危ういところをなんとか保護されたものの、彼は本当に臆病な犬になってしまった。
近寄るものすべてに吠えまくり、ストレスが極地に達すると大暴れしてしまう。我が家の床や壁についた傷はその格闘の痕なのだ。
当然、人気のある日中に散歩などできようはずもない。
夜の散歩も、はじめは抱いたまま家の庭をぐるっと一周するところから始まった。中型の雑種であるラッキーは体重が十八キロある。
ちょっとした肉体労働だったが『下ろしたら爆発します』と言わんばかりに心臓をバクバクいわせてしがみつかれては、離すこともできない。
そのうち庭は怖くない場所だとわかったらしい。地面に下りて茂みに鼻先を突っ込んだり、植木鉢を舐めてみたりできるようになったので、少しずつ活動範囲を広げた。
今日は調子も良さそうなので、数百メートル先のコンビニまで足を伸ばしてみるつもりだ。
リードに飲み水、ウンチ袋とスマホを持って玄関へ向かうと、夫はいそいそと見送りに来た。
「いってらっしゃい。ふたりとも無事に戻って来るんだよ」
「大げさな言い方だね。ちょっとコンビニに行くだけなのに」
ラッキーは夫が怖いらしく、私の足の間に頭を突っ込んで身を守っている。
よしよしとラッキーをなだめる私に、夫は不思議なことを言った。
「大げさなんかじゃないさ。今日の月を見ればわかるよ。こんな夜は、いつだって妙なことが起きるんだ」
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