図書室の守り人

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図書室の守り人

それから数日経ったが、佳乃子から連絡はない。 シモダは依然として集団パニックの事件を追っているようだ。何かと女を引き合いにしては僕を誘う。だがそんなこと、もうどうでもよかった。そもそも興味のない事件だ。 それにこれからシモダがどんな女を持ってきたとしても、佳乃子よりも素晴らしい女性が出て来るとは思えなかった。 学校での生活も徐々に慣れてきた。 具体的には、教室までの道を迷うことも、クラスメイトの名前を間違えることも無くなってきたのだ。 友人はいない。 くだらない話に付き合わされるくらいなら一人の方がいい。クラスメイトも僕とコミュニケーションを取るくらいなら、植木に話しかけた方がよっぽど生産的だとわかっているので近寄ってこない。 ただ一人だけ例外的に、奇妙な友情を育んでいる男がいた。 きっかけは、三島由紀夫の小説だった。 渉が熱狂的に読みこんでいた作家だ。そののめり込みたるや、食事中はもちろん、風呂に入るにも、気分転換に散歩しようと誘っても持ち出して読み耽っているほどだ。 おかげで僕は一緒にいるというのに相手にされず、タイムスリップできたら三島由紀夫に本を書かすまいと何度も心に誓った。そんな時期にちょうど、彼の本を“図書室の守り人“が読んでいたので、目の敵のように睨んでやったのが始まりだった。 守り人は国語科の教師である。職員室にいるよりも図書室の滞在時間が長いのでそのあだ名がついた。いつも空き時間を見計らっては、その時間帯で一番日の当たる場所を陣取って本を読んでいる。 年齢は若いがフレッシュさはかけらもなく、常に地面を見ながら、ナメクジのように足を引きずって歩く男だ。服装もだらしなく、アイロンをかけていないシャツと、ヨレヨレのスラックスという出立ちなので威厳がない。おかげで生徒からは随分と舐められている。 「成田君は、この本が嫌いですか?」 守り人は、表情筋をピクリとも動かさずに尋ねてきた。 僕も無表情で答える。 「嫌いですね。くれぐれも机の上に置いて帰らないでください。野焼きの中に放り込んでしまうか、お隣さんが飼っている目つきの悪い猫のおもちゃにでもさせてもらいますから」 「負の感情とは悪いものじゃないですよ。決して」 守り人は、ぎこちなく口角をあげた。微笑んでいるのだと分かったのは、唇がいつも通りへの字に戻ってからだ。 それから守り人は、ことあるごとに本の背表紙を見せてくるようになった。守り人が持ってきた本を知っていれば頷き、知らなければ首を横に振る。読書家渉のお陰で、大体の本のタイトルは知っていた。どちらにせよ守り人はぎこちない笑みを見せ、知らなければそっとその本を差し出してくる。挨拶や会話を交わすこともない、不思議な儀式だった。 ある日のことだ。 守り人が向こうから歩いてくるので、僕は反射的に立ち止まる。しかしこの日、守り人の手に本はなかった。代わりに何か筒状の金属を持っている。 思わずまじまじと見つめると、守り人は、剃り残しのある顎をもぞもぞと動かして話しかけてきた。 「これ、差し上げます」 冬の枯れ枝のような手に包まれているのは、スプレー缶だった。制汗剤だろうか。それにしては見たことのないパッケージだ。 不審に思った僕がなかなか受け取らないでいると、守り人は周りに誰もいないことを確認し、半ば強引に僕の手に押しつけた。守り人からは予想に反して清潔な石鹸の香りがした。 「本の集まる場所は、出やすいと言いますから」 「出やすいって、何がですか?」 守り人は静かに首を横に振る。 「私は教師です。一人の生徒を特別扱いするわけには行きません。しかし私は、教師である前に人間です。一個人としての感情はもちろんあります。どうか何も言わずに、受け取って欲しい」 守り人はそれだけ告げると、僕の目を見て頷き、あの独特な歩き方で図書室を去っていった。彼の背中を見送った後、手のひらに収まったスプレー缶を観察する。 それは、なんの変哲もないカラースプレーだった。 色は赤。未開封で、薄いビニールが巻かれたままである。何かメッセージを残しているのかと隅々まで見たが、守り人が何か細工したような後はない。 どうしてカラースプレーなんて寄越したんだろう。 僕はなんとなく気味の悪い思いをしながら、それでも捨てるのには忍びないので鞄に突っ込んだ。中に玉でも入っているのか、カラン、という軽い音が響く。 しかも何か、大切なものを渡すかのような口調だった。 僕がカラースプレーを必要とするような人間に見えたのだろうか。カラースプレーの用途なんて、河川敷に落書きするくらいしか思い浮かばないけれど。 しかしこの日以降、この学校の生徒は必ずカラースプレーを持ち歩くことが義務付けられた。 毎朝学校の門の前で入念に荷物検査が行われ、きちんと色が噴射されるかどうかもチェックされた。忘れた者は、学校の備品が貸し出される。校門に並んだ先生たちの背後には大きく学校名が書かれたカラースプレーが数本積まれていた。年季が入っているのか底の淵が錆び付いているものもある。 「開封してください。いつでも使えるようにしておくことですよ」 僕の荷物チェックを担当した守り人は、無表情で缶を指さした。 そう言われて、おずおずとビニールを剥がす。キャップを外し、先に検問を突破した人の見様見真似でテストを行った。ブワッと赤い粉が舞い、守り人は無表情で頷く。 「それでは、本日も気をつけて」 決まり文句の後、守り人は流れ作業のように次の生徒に視線を向けた。持ってくるのを忘れたであろう女子が、守り人を選んでやってくるのが分かった。きっと、怒られたくないのだろう。 この日から始まった検査であるにもかかわらず、持って来るのを忘れたという生徒は数名しかなかったらしい。それは、職員室の前に置かれた貸し出し用カラースプレーがさほど減っていなかったことからも明白だ。クラスメイトも突然の検問に驚くこともなく、むしろ話題に登ることすらなかった。 “同類“か。 僕は守り人にもらったスプレー缶を、そっと撫でる。冬場の金属は驚くほど冷たい。
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